2015年3月30日 (月)

株主総会

去る3月26日にYM社の株主総会が行われた。

YM社は、Y社を母体として戦後10年頃、Y社の浜北工場として出発したが、やがて1955年に正規にYM社が誕生した。

Y社は戦時中は本業の楽器製造から軍需工場として、その木工技術を生かして戦闘機のプロペラや更には落下タンクを造っていたと聞く。
戦後本業に戻ったが、プロペラなどの製造に使われた工作機械は米国への賠償対象になっていたが、やがてその対象から外されたのが終戦後10年近い頃であった。

その機械の使途に就いて、当時のY社のK社長はオートバイ業界に乗り出す決意をしたが、その経緯に就いての一端を、2008年1月22日の弊記事「商品コンセプト」から一部抜粋する。

『同社がオートバイ業界に打って出た1955年代は、T社が断トツのトップ企業で、その後を、HSK各社が追い、更にR社等有望企業が続いていた。

YM社は、元々Y社を母体として誕生した会社である。Y社がオートバイ業界に参入した動機は色々あるが、いずれにしてもその決断をしたのはK社長(当時)であり、Y社の大方の経営者が反対する中での決断だった。

かくして生れたY社の新規事業部門は、やがて分離独立して現在のYM社となった。今や1兆円企業に成長し、この業界のトップ3にまでなっている。経営者の孤独な決断を知る一例として知られている。』
Ya1 Photo

写真左は、YM社立ち上げ当時から名車として親しまれてきたYA1、右は展示室の一部である。
同社コミュニケーションプラザの展示室には所狭しと、二輪車、レーサー、三輪スクーター、スノーモビル、ゴルフカート、各種船舶とエンジン、四輪車、等々が並べられている。

因みに同社前期の売上高は連結で、1兆5200億円、従業員5万2600人を抱える大企業になった。発足当時誰がこれほどの大企業に発展すると予想しただろうか。

経営者の先見性と決断の重要性を再び考えさせられた。

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2013年6月30日 (日)

株主総会

3月期決算企業の株主総会は、6月27日に約1100社とピークを迎えた。各社とも反転攻勢に向けた舵取りを問う場になった。また成長戦略と共にコーポレントガバナンス(企業統治)にも厳しい目がむけられ、社外取締役が増えたのも一特徴である。

そんな中でY社の株主総会は26日に行われ、生憎の風雨の強い日だったが大過なく済んだ。その後出席株主へのサービスとして恒例のミニコンサートが行われた。

浜松は駅前に立派なイベントホールがあり、各種催しが行われ、特に各種コンサートも開催される機会が多いのだが、株主総会が済んだ後のリラックスしたミニコンサートはまた、このような本格的なコンサートとは別な楽しみと雰囲気を味わえる。

今年のミニコンサートは、
  エレクトーン;清水 のりこ
  ソプラノ   :小川 里美
  バリトン   :与那城 敬  130626 の演奏(写真はY社の提供による)で、曲目はコンサートの趣旨も考えて比較的ポピュラーな曲が選ばれた。
  プッチーニ:オペラ「ジャンニ・スキッキ」より ”私のお父さま”
  ビゼー  :オペラ「カルメン」より ”闘牛士の歌”
  プッチーニ:オペラ「トスカ」より ”テ・デウム”
  プッチーニ:オペラ「トスカ」より ”歌に生き 愛に生き”
  ヴェルディ:オペラ「椿姫」より ”乾杯の歌”
で、株主総会の会場が即コンサートホール仕様に作られ、比較的ライブな会場であるので迫力は満点である。

特に見直したのは、エレクトーンが通常のオーケストラに近い迫力で演奏され、トライアングルやシンバルのような音もパーカッションをフルに使いこなして力奏したのが見事だった。
普通のオーケストラと比べると切れという点からしても物足りないのは判るが、たった一台のエレクトーンであれだけの迫力ある演奏は見事で、改めてエレクトーンという楽器を見直した。勿論演奏者の力量によることは言わずもがなのことではあるが。
それにソプラノ、バリトンとも選曲との関係を考えても超迫力で聴衆を魅了した。

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2012年6月30日 (土)

株主総会

Y社の第188期株主総会が済んだ。今年は各社の業績低迷の中での株主総会が多かった。Y社の総会の詳細は専門経済紙または地方紙に詳述されている。

総会終了後、例年のようにミニ・コンサートが開かれた。須藤千春さんのピアノ、寺下真理子さんのヴァイオリンで聴き応えがあった。

特に今年の注目点はピアノとヴァイオリンそのもので、

ピアノはY社が買収したオーストリアの名門であるベーゼンドルファー社製のフルコンで大屋根の内部にグスタフ・クリムトの名画「接吻」が金箔を施した職人芸で装飾されている。
1 Fcjpg_2 世界限定25台の内の1台で、譜面台と脚部分にはクリムト絵画の有機的曲線をモチーフした金箔の描画がある。

2012年はオーストリアを代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の生誕150年にあたる。

男女の愛の形を象徴的に表現した、クリムトの最高傑作「接吻」。黄金のオーナメントで美しく装飾されたこの絵画は当時の美術界を席巻し一世を風靡した。また現代美術という新たな世界の到来を告げた革新的な作品であると言われている。写真はそのフルコンとクリムトの作品を示す(写真は何れもクリックで拡大します)。

ヴァイオリンはY社独自に開発されたもので、商品名はアルティーダ。豊富な音量と丸みを帯びたエレガントな音色はさすがと思わせた。

ベーゼンドルファー社製のピアノとY社製のヴァイオリンを駆使した、二人の演奏家による共演も見事で、短時間の演奏ながら聴き応えがあった。

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2011年6月24日 (金)

株主総会

東日本大震災後の株主総会、その影響は各企業にも暗い影を落としている。
Y社の株主総会もそんな中で6月24日に行われた。総会自体は順調に終わり、前回前々回のように株主へのサービスとして、ミニ・コンサートが行われた。

工藤重典氏のフルート、彩愛玲氏のハープの合奏で、
  メンデルスゾーン作曲「歌の翼による変奏曲」
  イベール作曲「間奏曲」
が演奏された。普段は、ピアノ曲を聴く機会が多いので、この組み合わせは音色と言い、雰囲気と言い、一味違った温もりがある。
特にハープの演奏を聴く機会が少ないだけに、7本のペダル、47本の弦を自在に弾きこなすのには一驚する。
イベールの間奏曲はフラメンコ調で軽快だ。
ハープの最高音部の弦が一本切れたが間奏曲の演奏終了直前だったので問題にはならなかった。ハープはY社の吹奏楽団所有の楽器で、その場で瞬の間に張り替えられた。

Y社の吹奏楽団は、全国吹奏楽コンクールで金賞29回の実績を誇る楽団で定期演奏も行っている。
その吹奏楽団と上記二者の合奏が続いて行われた。
  モーツァルト作曲「フルートとハープの為の協奏曲 第二楽章」
で、普通は当然オーケストラとの共演になる。今回は吹奏楽団との共演ながら、弦楽器を持たない吹奏楽団が見事に弦楽器に近い音色を奏でたのは見事で聴き甲斐のある協奏曲だった。

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2010年11月23日 (火)

トヨタ博物館

11月18日、Y社のG会の秋季旅行でトヨタ博物館ほか2ケ所の秋を楽しんだ。

トヨタ博物館は、名古屋市近郊の愛知県愛知郡長久手町にある自動車に関する博物館で1989年(H1年)に、トヨタ自動車(株)創立50周年記念事業の一環として建設された。

資料に拠ると、『本博物館は、トヨタ自動車の運営であるが、ガソリン自動車誕生から約100年間の自動車の歴史をテーマに、トヨタ車だけでなく19世紀末から20世紀にかけて製造された各国、各メーカーの自動車が体系的に展示されている。第二次世界大戦後に製造された外国車は、スペースの関係で原則として常設展示されていないが、特別展の場合は展示されることもある。』

展示されている車は100余台、何れの車にも興味は尽きないが以下、数例を挙げる。(写真は何れもクリックで拡大します)
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上の写真左から、
・1886年、ベンツ パテント モトールヴァーゲンのレプリカ。ガソリン自動車第1号と言われる三輪車。棒ハンドルで前輪を操向し、時速15Kmが可能だった。
・1897年、オールズモビル カーブドダッシュ。
・1902年、キャデラック モデルA。精密技術の権威ヘンリー・M・リーランドが設立したキャデラック社の最初の製品。部品の精度が高く互換性があり当時としては画期的だった。
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上の写真左から、
・1936年、トヨダAA型のレプリカ。1936年に発表されたトヨタ初の乗用車。写真の車は、トヨタ自動車(株)の創立50周年を機に当時の図面をもとに、エンジンまで含めて当時の姿に復元されたもの。
・1964年、トヨペット コロナ RT40型。技術レベルを一気に国際水準まで高めた意欲作。開通直後の名神高速で10万キロ連続走行を行うなどハイウェイ時代をイメージする販売戦略を展開して成功した。
・1963年、ダットサン ブルーバードP312型。ダットサンの堅牢さに加えて、多くの新技術とエレガントなスタイルを採用。世界初の女性仕様車など充実したラインナップで小型市場を席巻した。
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上の写真左から、
・1968年、トヨタ2000GT MF10型。当時の技術の粋を集め、ヤマハ発動機(株)の協力を得て開発された高性能スポーツカー。発表に先駆けて行われた連続高速耐久走行で、3つの世界記録と13の国際記録を樹立した。
・1963年、ダットサン フェアレディーSP310型。ブルーバードのシャシーにセドリック1500ccエンジンを搭載した国産初の量産スポーツカー。第1回日本グランプリでは欧州製スポーツカーを下して優勝した。
・1969年、マツダ コスモスポーツL10B型。日本発のロータリエンジン車。世界では本家のNSUに次ぐ2番目。未来的なスタイル。レシプロエンジンの2リッタークラスを凌ぐ高出力で注目された。

展示車を見ていると各社の歴史が髣髴と浮かんでくる。
BC戦争などといわれたブルーバードとコロナの熾烈な企業競争。
世界で始めてロータリーエンジン技術を確立したマツダの生産技術力。
オートバイ メーカーながら、トヨタ2000GTによって、4輪自動車への進出がいつでも可能であることを示した、ヤマハ発動機の技術力。
未来自動車の姿を先取りした予想自動車模型。
今では全く姿を消した観音開きドアー車、 等々。

リーマン ショック以来、自動車業界も過去の実績だけを誇示する状態ではなくなってきた上に、電気自動車の出現等々の技術革新が進行してきて予断の許されない状況下にあるが、それにしても、これほどの博物館を持つトヨタ自動車(株)の力を改めて垣間見る思いがする。

技術者にとって興味は尽きないが、再度訪問する機会を持ちたい。

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2010年1月30日 (土)

フォルクスワーゲンの思い出

新年早々、スズキ自動車フォルクスワーゲン(以下VW)が包括的・業務提携したと発表され自動車業界に大きな波紋を投げかけている。
両者の長所を補完し合って、効率的な企業運営と企業基盤の確保を図るのが狙いといわれる。

最近の自動車業界の大変動からすると、今までの地盤や企業業績をそのまま鵜呑みにする訳には行かないが、取り敢えず、VWに就いてウィキペディアより一部引用すると、
フォルクスワーゲンVolkswagen )とは、ドイツ最大手の自動車メーカーである。傘下の企業を合わせてフォルクスワーゲングループを構成する。……
フォルクスワーゲンは、8つの自動車ブランド、19ヶ国に44工場を所有する多国籍企業である。 ……
2002年から、グループの乗用車ビジネスは、フォルクスワーゲンブランドおよびアウディブランドの2系列となっている。……
近年では、大衆車メーカーから、高級車も手がけるブランドへと変貌を図っている。……
2008年8月現在、フォルクスワーゲンは日本において最も新車販売台数の多い輸入車ブランドとなっている。』と、ある。

私は1969年1月から2月にかけて、1ケ月間の技術視察出張中に、VWを見学する機会があった。2月下旬の雪の降った翌日の寒い日だった。
写真はその時のVW社の外観写真である。大分セピア色にはなっているが。
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出張に先立って、事前勉強としてトヨタ自動車を訪問した。予 めY社のK社長から連絡して頂いていたので I常務が対応してくださって、「カンバン・システム」について担当課長から詳しく説明を聞いた後見学したが、勉強不足もあってそのシステムに就いての理解が不十分なままVWを訪問することになった。

訪問当時のVWは、所謂「ビートル」の愛称で親しまれたモデルからの脱皮をしようとしている時期だった。
ビートルは、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっていて、おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろうといわれたモデルであった。

ビートルの余りに大きすぎた成功は、後継モデル開発の妨げともなり、「フォルクスワーゲンすなわちビートル」というイメージの強さ、空冷リアエンジン方式というレイアウトが1960年代に陳腐化したにも関わらず、根本的変更が遅れていた。

こんな時期での訪問であっただけに、「会社経営という観点から、あの膨大な設備を新たなモデルチェンジに備えての更新を考えると、その負担の重さが想像され、これからの経営に大きな負荷となることが想像され大変だな」との想いを深くした。それが現実となったのはそれから間もなくのことだった。
かくしてVWの低迷期は1960年代後半以降長く続くことになる。

しかしその苦難期を見事乗り切って世界自動車業界の雄にのし上がった実績は見事である。そのVWとスズキが提携した。これからの展開が期待される。

「未来は過去と決別する時に始まる」そんなことを思いながら40年前に訪問したVWを懐かしく思う。

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2009年7月25日 (土)

数字処理と現実対応

二人のピアニストさんの「日本の非理系風土」のブログ記事に触発されて1,2感じたことを述べる。

企業にとって、生産している商品にクレームが発生することは、大小の問題があるにせよ経営的には重要事項である。
例えば其の商品の生産時における不良発生率が10万分の1であったにしても、その10万分の1の不良商品を買った人からすると100%の不良である。たがが10万分の1ではないかと言うのは評論家のいう言葉である。

クレームは最大のセールス・チャンスと言った経営者が居た。良いことの報告は勿論だが悪いことの報告こそ大事であり、そのお客に真摯に対応することによって逆に、信頼を得、商機につなげることが経営につながると考える。

私もある時に、E商品にクレームが発生した時に、担当営業者と品質管理課長と共にお宅へ伺ったことがある。状況から予想される不良内容を考え、予想されるユニット部品を携行していたので、その場で交換をして正常に機能することが出来た。このお客さまは最高級のE商品を2台お持ちだったが、更に新しいモデルを買い足して頂いた経験がある。こちらの対応の速さと誠意を認めて頂いた結果で、クレーム発生を逆に商機に結びつけた例と考えている。

全く別な話であるが、今年の1月ごろ、NHK「ためして合点」という番組で入浴時の危険性を取り上げそれに就いて医学的解析をして推薦する湯温度や状況設定に就いて説明をしたことがある。数字に就いてはうろ覚えであり、間違っていたらエクスキューズであるが、これから述べようとする本旨は間違っていない積りである。

それらの医学的解析をした上で、事故人員数と入浴温度との関係に就いて数字を挙げて説明した。それを見ていておかしいと思ったことがある。
38度くらいの温度から47度くらいの温度までを横軸にし、縦軸に事故人員を記録した棒グラフである。
今まで入浴温度は42度くらいが適温とずっと聞いていたので、その番組に出演していたゲストも、当然その温度での事故は少ないものと考えていた。しかしグラフは42度の人員が圧倒的に多く47度の人員が一番少ないことを示していたので、ゲストも一様に驚いていた。
大体47度などと言う高温に入る人がいるのかと耳を疑ったがグラフで見る限りではそのような人がいるのは確かのように思えた。

「それだけ見たら47度で入浴する方が42度で入浴するより安全であるかのごとき錯覚に陥ってしまう」と言ったら、そんな馬鹿なことはない。ただ42度で入浴しているのが一番安全だと妄信しないように喚起を促すためにそのような表現をしたまでの事と言われるかも知れない。
しかし、この説明で決定的に欠けていたのは、42度で入浴する人員数と、47度などと言う高温で入浴する人員数が夫々何人いて、其の夫々の人員で温度別夫々の事故人員を割ってみたら全く違う結果が出ることは前記のように42度が最適と考えている人が圧倒的に多いことから容易に予想される。
何故こんな説明をしたのか、数字の扱いを間違えたら全く違う結果が出るし、それを不審と思わない人が多ければ多いほど、間違った対応をする危険性がある。「非理系風土」と言われると極めて不安を感じる。

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2009年6月28日 (日)

株主総会

世界的景気後退の中で、今年の株主総会は波乱含みのところが多い。
そんな中でY社の株主総会も6月25日に開催され、結果的には順調に終った後、平部やよいさんのエレクトーンのミニコンサートがあった。
090625 彼女は今もプロのエレクトーン奏者として活躍中である。
写真は当日の演奏風景(静岡新聞)。

使用したエレクトーンは2台で、1台は初期のエレクトーンで品番はD-7、そしてもう1台は2009年モデルである。
曲目はアンニローリーなどを加えて彼女のオリジナル曲を主体にした演奏だった。
2007年の株主総会の後ではピアノ演奏が行われたが、今年はエレクトーンの演奏で、このような企画は嬉しい。

実は、今年はエレクトーが誕生した1959年から数えて50周年に当たる。
社内報などでも紹介があったはずだが、余り目を通していなかったこともあり、今度の株主総会に出るまでそのことに気付かなかった。
下の写真は初期のエレクトーンD-2Bで当時名器と言われロングセラーとなった商品である。
Img_4945
当時のエレクトーンは写真のように木材もふんだんに使い、スピーカー内蔵型の重厚なもので今から見ても懐かしい。
嫁ぐ前の子らとピアノ・ギター、そしてこのエレクトーンでファミリーアンサンブルを楽しんだ事もあり、今となっては遠い懐かしい思い出である。

1959年に誕生したエレクトーンであるが、開発までの経緯に就いては別途紹介したこともあり、本欄では省略するが、経営的にはエレクトロニクス化への方向転換をする重要な位置づけにあった商品で、以後大きく全体の商品内容が変わってゆくきっかけとなった。

当初の商品は写真(D-2B)のようなものだったが、1960年代後半に入って、Bシリーズが開発されて急速に普及し、1980年代後半にはMEシリーズが出て、スピーカーと本体と切り離され、コンパクトな外観となり、より機能本位となり現在に至っている。

平部さんの演奏を聞きながら、生産開始当時のことが走馬灯のように思い出され感無量だった。

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2008年12月31日 (水)

トヨタ・ショック

書店へ行くと「トヨタ」と言う字のつく本がやたらに目につく。
「トヨタ」を冠とする、生産方式、カイゼン、仕事術、、最強企業の哲学、人づくり……で、その中の生産技術をとっても、大野耐一著「トヨタ生産方式」は別として、いわゆる「カンバン方式」に代表される生産技術関連書も当然多いが、中でこれはと思う専門書は、私の読んだ範囲では只1冊だけだった。他はトヨタを題材とする商魂を垣間見る書が多いように見受けた。

峠路は上りきったら下りになる。
かねがね疑問に思っていたものの一つは、これほど売れている自動車の売れ行きの峠は一体どこにあるのだろうかと言う疑問だった。商品コンセプトが消費者に受け入れられていたのも事実だが、まさに天井知らずに見えたが、それが今回の金融危機を契機に露呈した感がある。
年間2兆円を越す営業利益が、2009年3月期の予想では想像も出来ない1500億円の赤字になると言う。まさにトヨタ・ショックである。予測不可能に近い需要の減退と為替差損と言えるかもしれないが、それ以上に重要な何かがあるように思う。

固定費の高い企業は比例費を少なく抑えられることが多い。自動車工業はロボット等の導入で設備費に金をかけた分、人件費を少なく抑えることが出来るはずだ。当然下請け企業も親企業の合理化に対応するために生産技術力を高めるための投資をしてきた。そのような面からすると自動車工業は装置工業に近い性格を持っているとも言える。
従って操業度が問題になる。損益分岐点を越すと急速に業績は向上するが、逆に分岐点を下回ると急速に悪化する。
トヨタの「カンバン方式」は世界に誇れる生産技術であるが、生産技術であるだけに、その思想や手法が果たして完成車の在庫まで及んでいたかどうか疑問視される。それだけに生産能力をどこまで持つかは大きな経営判断になる。

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2008年9月29日 (月)

懐かしきもの

楽器メーカーである日本楽器現ヤマハ)は、その商品構成がピアノオルガンそれにハーモニカという時代があった。
しかし、やがてハーモニカは脱落し、その売り上げの大半をピアノやオルガン、特にピアノに頼っていた。
そんな中で当時の川上源一社長は会社の将来を見据え、大多数の役員の反対を押し切ってエレクトーンの生産に踏み切った。これは当時としては大きなリスクを負う決断であっただけに、多くの反対意見のあったことも頷ける。
しかし数年後には社長の予見どおり、オルガンの売り上げを抜き去り、主力商品の一角を築き上げた。将にエレクトロニクス化の魁となった商品がエレクトーンであった。
以後のヤマハは、エレクトロニクス化を更に進め、楽器事業を核とする多角経営の道を辿り、世界のヤマハに成長した。

因みに、このような経緯を経て生れたエレクトーンの中でも、割合初期に属する段階で作られ、名器と言われたエレクトーンD-2Bがある。デザインも外装も音質も機能も一際すぐれていた。
D2b
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写真はそのエレクトーンで、背面に品番等の詳細が記されている。当時のエレクトーン生産に関与した者にとっては懐かしくも忘れ難い商品である。

これを契機に楽器業界もエレクトロニクス化が進むことになった。1960年前後のことである。

エレクトーンに絡む話は、経営者の先見性と決断の重要性を語る実例として関係者の間では良く知られた話である。
川上社長は更にヤマハ発動機を興し世界企業まで発展させた。その動機は先のヤマハのそれとは異なるものの、その決断に就いてはヤマハの時と同様な経緯であった事も関係者の間では知られている。 

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