2016年2月28日 (日)

満蒙開拓民の悲劇

 先に「満蒙開拓平和記念館」に記したように、特に長野県民にとって満蒙開拓団の悲劇は忘却の淵に沈めてはならない。

 2月25日版の「長野市民新聞」の、投書欄「せっておくらい(信州言葉で言って下さいの意)」に、松代の戸谷氏が「開拓民の悲劇後世に伝えたい」と題して以下のご意見を載せている。

 『太平洋戦争中に満蒙開拓に村民を送り出すことを賢明に、そして懸命に拒み通した、大下条村(現阿南町)村長佐々木忠綱氏の話をラジオであらためて聞いた。当時、国策として盛んに開拓移民を募っていた。世界恐慌に続く昭和の大不況の時代でもあった。氏は現地を数週間に渡って視察し、ここは村民を幸せにする所ではないと感知したという。そのお蔭で村民200~300人の命が失われずに済んだ。
 全国27万人のうち、長野県は14%以上の開拓民を送り込んだ。8万人もの人が多くは自決して命を落としている。…その遠くない時代に、誤った国策により子女赤子まで悲劇極まりない状況下で命を落としていった冷厳な事実を後世まで伝え続けなければ。』と、ある。

 一昨日は2月26日。二・二六事件から80年経過した日でもあった。

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2015年6月21日 (日)

満蒙開拓平和記念館

先の戦時中、時の国策に沿い歓呼の声に送られて多くの若者や家族ぐるみ、夢を追って満州へ送り込まれた。
しかし突然のソ連侵攻と共に、本来は王道楽土となる筈であった土地が戦場と化し悲惨な結末を迎えた。
その名も満蒙開拓義勇軍・満蒙開拓団と呼ばれる国策移民団の悲しい歴史がある。

特に長野県からの犠牲は突出していた。それだけ当時の長野県は貧しかったのかも。
今その歴史を風化させてはならじと、2年前に飯田市近くの阿智村駒場に「満蒙開拓平和記念館」が設立された。
Jpg_2  今回、同館紹介の書である「満蒙開拓平和記念館」が発刊された(註、2015年4月25日発行)。写真(記念館提供)は同館。

同書に、館長のご挨拶が記載されている。その一部を記載する。

『満州移民の史実を風化させることなく後世に伝える拠点として当「満蒙開拓平和記念館」が、民間運営ながらも概ね順調に2周年を迎えることができましたこと、これまでの多くの皆様方からのご支援の賜物と厚く御礼申し上げます。
折しも、今年は戦後70年にあたります。元開拓団、中国帰国者の証言、体験談も益々貴重なものとなり、更なる伝承力の向上が問われる中、ここに待望の図録発刊の運びとなりました。
 “20町歩の地主になれる”
 “満州は日本の生命線”
夢を抱いて渉った新天地「満州」でしたが、1945年8月9日、突然のソ連侵攻で戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑い、難民収容所でも飢えと寒さで大勢なくなりました。また、帰還が叶わず残留孤児や残留婦人となった人たちも少なくありません。

日中双方に多くの犠牲を生んだ悲劇、「満蒙開拓」とは一体何だったのか。戦争に導かれていく道筋を学び、人々の体験に耳を傾け、皆様と一緒に考えていきたいと思います。
(以下略)』

私たち「遠州信濃会」の有志が過日、同館を訪問した。ボランティアの方が1時間以上の時間を割いて説明下さった。

未だ戦後の終っていない方達のいるのを忘れてはならない。

見終わって
  ・国家とは一体何か
  ・指導者の資質とは何か
に就いて深く考えさせられ、同館を辞した。

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2014年9月 1日 (月)

足元を見つめ直して

自分たちの住んでいる町や村、又は其の近傍のことは大概知っている心算だが、改めて聞かれると案外知らないことがある。

最近浜松市舞阪町で吟行したが、家から近くの舞阪町であるのに、始めて舞阪町にある史跡等に就いて色々のことを知った。

  舞阪から遠州灘を見はるかすと、今切口には大橋が架けられ海と湖を仕切っている。

 

 

 漁船が活発に出入りする舞阪漁港、そして漁港に張り付いて糶場(せりば)がある。長靴を履いた業者が「せり札」を入れて糶が始まる。

Img_5276 漁港を挟んで反対側の岸を少し北側に行くと史跡「北雁木」がある。『浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築された。雁木とは階段状になっている船着場の事を言う』。

狭い旧街道沿いに舞坂宿脇本陣がある。『脇本陣は大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用され た施設で、普段は一般の旅籠屋として使われた。建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構 成され間口5間・奥行15間あった。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣として貴重な建物である』。

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『舞阪には往還道路沿いに三つの西町常夜灯がある。文化6年西町は大火に遇い宿の大半が焼けた。当時火伏せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによって文化10(1813)にこの常夜灯が建立された。其の世話は現在も西町の人たちに引き継がれている』。


往還から少し入った所に水産・漁業の守り神である岐佐神社がある。其の神垣には多くの船主が船の安全操業を願って持船の船名が刻み込まれている。

     

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またその神域には赤猪石(あかいし)が祀られ『大国主命が兄たちの企みによって焼けた大石で大火傷したが、岐佐神社の御祭神に依って一命をとりとめ雄々しい姿に蘇った。出雲神話と岐佐神社はこのようなかかわりがあり此処に赤猪石が祀られている』。

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少し離れて一里塚跡がある。『天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より6716町に位置しており、この一里塚は左右の木立共松と書かれている』。現在は「一里塚跡」の碑を石で囲み、付近には松その他が植えられていて往時を偲ばせている。

その他、見付石垣宝珠院養泉寺や少し離れて舞阪灯台がある。

舞阪町を例に足元を見つめ直してみたが、意外に町中に歴史が渦巻いているのを感じ、今まで知らずに通っていた往還も息づいているのを感じる。(文中『』内は、市または町の由緒書より引用した)

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2009年6月 8日 (月)

松平郷

歴史はいつも一点から始まる。但しその点は才覚・環境・出会い・判断力・決断力等々の要素を保有する点であろう。松平郷を訪れてそんな気がした。

松平郷は現豊田市松平郷にあり、後に天下をとる徳川家康の祖の発祥の地である。
松平郷には、松平氏を偲ぶ歴史的な資料や史跡が多く残されている。その代表的な松平東照宮高月院にかけて2ヘクタールが、「松平郷園地」として整備されている。

松平郷園地の入口に松平郷館がある。入ってみる。
『松平氏は室町時代に時宗の僧である徳阿弥(とくあみ)が東国から遊行の途中、松平郷の在原家の婿に入り松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)を名乗ったことに始まる。親氏は稀に見る才覚の持ち主で松平城と居宅を根拠地とし、領地を広げ、道を開き、田畑を開墾し、領民の窮乏を救った。乱世を憂い、天下和順、統一を宿願として、天下峰で天下泰平を祈願、松平城に八幡神社を勧請したといわれる。親氏に始まった松平氏は三代の信光と信広の時、後の将軍となる松平宗家松平太郎左衛門家に分かれた。つとに知られるように宗家は戦国大名に成長し、ついには徳川幕府を開くに至った。太郎左衛門家は松平城と郷内9ケ村を譲られ、常に宗家に仕え戦功をあげた。家康没後元和5年、東照宮を松平郷に勧請、以後明治維新まで将軍家先祖の地を守った。松平郷は江戸時代将軍家御代替りの幕府巡検使の巡検地だった。産湯の井戸は信光、家康の産湯に用いられ祝泉として有名である。』と、松平家家伝に記されている。

園地の中には「笠掛けのかえで」や「見初めの井戸」と名づけられたところがあり、
『親氏(徳阿弥)が高月院(寂静寺)を訪ねる道すがら、この「かえで」に笠を掛け咲き誇る「あやめ」に見とれて一息入れていたところ、そこに「あやめ」を摘んでいた水姫が井戸の水に一輪の「あやめ」を添えて差し出したことが二人の出会いだった。』と、由緒書きにある。

付近には松平東照宮がある。水堀に囲まれた東照宮は、立身出世の神・政治の守り神・安産の神・厄除けの神として崇敬されている。
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又、高月院は貞治6年(1367)の創建で徳川氏の始祖、松平家の菩提寺となっている。慶長7年(1602)寺領100石を徳川家より下賜され以後幕末に至るまで厚遇された。境内は国指定史跡「松平家遺跡」になっていて、初代親氏、二代泰親、四代親忠夫人の墓がある。
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付近一帯は、自然美に溢れ山法師・蛍袋・花水木・花空木・花菖蒲・あじさい・花水木等々の花が咲き乱れていた。
それらを眺めながら歩く遊歩道には室町塀がありその一部は冠木門となっていてそれをくぐると武家屋敷風の休憩所の天下茶屋になっている。

そこを出ると松平家の始祖である親氏の像が建っている。
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当時から天下を取ると言う気概に溢れ 天下取に相応しい名前が各所につけられているが、恐らくはそれは後の世の人がつけたものに違いない。

歴史は真実を伝えがたいもの。
勝てば官軍式の歴史が作られて行くのは良く見るところで、松平郷の各所の 名前もそのようなロマンを思わせる節がある。
産湯井戸なども各所に見られるがここでも二の井戸、三の井戸等々幾つもの井戸があり産湯井戸もその一角を占めている。

何れにしても歴史とロマンを感じさせてくれる郷である。

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2009年2月26日 (木)

穂の国

井の国」「毛の国」等、地名には獏としていながら、歴史の匂いのするものがある。

過日、Wさんから 「穂の国という地名があるがその由来を知りませんか」 と聞かれたが、そんな呼び名の地名のあることは漠と承知していたが、改まってその由来はと聞かれたら答える資料を持ち合わせていない。
調べて何か判ればお答えすることにした。

ネットで調べたところでは 『日本列島の丁度真ん中。奥三河の山々に抱かれ、豊川の流れを中心に平野から半島まで1719平方キロに76万人が暮らす東三河地域』 という位しか判らない。これでは答えにならない。

平凡社の「百科事典」で調べてみたら 『東海道に属する上国(延喜式)。大化以前、東三河に穂国(ほのくに)があり、穂国造の本拠は宝飯(ほい)郡にあった。郡名は穂国に由来する宝飫(ほお)の転化したものである。云々』 とある。

これまで判るとその本拠のある豊橋中央図書館で調べれば更に詳しく判る筈だと思い、問い合わせたところ同図書館のHさんから電話があり、「その関係の書を集めておくからいらっしゃる前日にご連絡下されば、わかるようにしておきます」 とのこと。

しかし、所要の為10日間図書館に行けなかったので、取り敢えず、先の資料をWさんへ送ったところ、「古代和名抄あたりに起因しているものと判りました。実は当地の壬生の里、壬生ホールが丹生がなまったものとこじつけていることが気になっていたのでお尋ねした次第です」との返事だった。

その後、豊橋中央図書館を訪ねたところ、Hさんが適当に資料を用意して下さっていた。

豊橋市編「豊橋百科事典」から 「穂国(ほのくに)」 を引くと 『穂国は、現在の東三河地域に大化以前に存在していた国造(くにのみやつこ)支配下の国名である。「国造本紀(こくぞうほんぎ)」によれば、現在の三河国に三河国造と穂国造があった。穂国は、三河各郡の位置関係から見て、奈良期の三河国7郡のうち宝飫(ほお)・八名・渥美の3郡がその範囲と考えられている。穂国の地名は、東三河地域の各所から見ることのできる山、本宮山(ほんぐうさん)~秀(ほ)の山より生じたるものとされ、その地域は、東三河にあたる。大化の改新(645)のとき、西三河の参河と東三河の穂国が合併して三河国となり、国府や国分寺は豊川市の白鳥・八幡付近に設置された。』 と詳しい。

また豊橋市編「豊橋市史(第一巻)」から 「地名の変遷」 を読んで見ると 『現在の豊橋市は、以前の宝飯(ほい)・渥美・八名の3郡にまたがっているが、その3郡すなわち東三河の地域は、古くは穂の国と呼ばれた。国語の「ほ」は、「日本古語辞典」に、「ホ(穂)(秀)-と(芽胚)の分化、穂の意は専らホと表現するが、ヒ(秀)、ヒデ(秀出)をもホと称へ、修飾的には通例連繋助詞ツと結合してホツエ(上枝)、ホツテ(最手)、ホッタカ(秀鷹)の如く用いるが、尚ホコ(矛)(秀子)、ホト(秀処)のように直接これを冠することがあり、実態語としては国のホ、又はマホラなどという用例もある。」 とある。……穂国は、東三河各方面より望まれる印象的な山、今の本宮山より生じた名称であろう。本宮山は、ほの宮の山の意であり、本野が原は、ほの山麓の原の意であり、本坂峠は、ほの境峠の義で、穂の国へ入る峠である。また穂の山より流れ出る川は、ほの川であり、宝(ほ)川、豊(ほ)川と表記したものを誤ってたから川、とよ川と読むに至ったのであろう。』 と記されている。

最近の合併で歴史的地名がいとも簡単に失われている事実は寂しいことである。

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2008年12月 4日 (木)

十二月八日

今年もまた12月8日が近づいて来た。1941年(昭和16年)12月8日は我々の年代にとっても特別な日である。

   十二月八日青春欠け初めし    森  洋子
   骰子の一の目赤し開戦日     吉田 ひろし 
   十二月八日靴音消ゆる壁     寺井 治
   十二月八日徴兵なき平和     香川美代子
   十二月八日の航の潮つぶて   友岡 子郷
   十二月八日の記憶無しとせず  相生垣瓜人
   十二月八日一生狂はせり     奥   てるを
   十二月八日よ母が寒がりぬ   榎本 好宏
   十二月八日米研ぐ水の音    白川 宗道
   開戦日くるぞと布団かむりけり  木田 千女

歳時記には十二月八日の季語があって傍題が開戦日となっている。その故か、開戦日で詠った句が少ない。
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写真は当時の新聞の一部を示す(クリックで拡大)。

当時私は旧制中学の2年生だった。以後は戦争一色となった。
しかし戦争はこの時に始まったわけではない。それ以前から始まっていた。満州事変、5・15事件、2・26事件、支那事変、ノモンハン事変等々戦時色の濃くなった末の大戦突入だった。
失われた青春と言えばそれまでのこと。しかし失われたものだけではなく得たものも確かにあった。失った青春だけでは余りにも辛い。得たものは心の中に今もある。それは敢えて言うまい。

今は戦争のあった事をすら知らぬ世代が増えていると聞く。まして5・15事件、2・26事件と言っても判らないだろう。歴史認識の薄さ甘さが再びの愚を繰り返さないとも限らない。

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2008年7月30日 (水)

山寺常山(2)

幕末時代、信州松代藩にあって、第八代藩主「真田幸貫」は、夙に名君として知られ後に老中職まで勤めた。その陰で幸貫を支えた、鎌原桐山佐久間象山山寺常山は、松代の三山と言われた傑物である。

過日信州へ行った時、久しぶりに川中島古戦場址(八幡原)を訪ねたが、「八幡社」や「三太刀七太刀之跡の碑」周辺は勿論、其処以南も広範囲にわたって見事に整備され、その一角に佐久間象山の銅像が新に建てられていた。

山寺常山に就いては既に記した様に、特に佐久間象山とは親友関係にあった。

私の生家は、山寺常山と姻戚だった関係からその肖像画が、座敷に他の写真と並べて飾られている。
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当時の世情に就いて、前沢英雄著「佐久間象山の生涯」から要約すると、『米国はハリスを総領事として下田に駐留させ、安政5年(1858年)更に通商条約を幕府に迫った。この条約は片務協約といって所謂不平等条約であった。
幕府の老中堀田正睦も苦心の末勅許を願い出たが得られなかった。もはやハリスとの約束期限も過ぎていた。
これを知った象山は蟄居中の身も忘れ、長文の上申書を認め、藩主幸教の名を以って幕府に献策するよう藩老の同意を得て4月16日使者を江戸に送った。
上申書は4月21日、幸教の許に到着したが、意見する者があって結果的には幕府に上達されなかった。
やがて幕府は井伊直弼を大老に任じ6月19日、直弼は勅許を待たず日米通商条約に調印してしまった。
この条約で、象山の主張してきた横浜は開港されることになったが、象山は釈然としなかった。』とある。
この時、常山は好意を以って象山援護の書を幕府要人に送り届けたが何故か象山は喜ばず、却ってこれが原因となって両人は袂を分かつ事になった。最後まで両雄の友情の保てなかった事は至極残念の極みである。

山寺常山の生涯に就いては、前記「山寺常山」に詳しいが、一方象山の最後も人のよく知る所である。

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2008年6月 4日 (水)

石舞台古墳

お寺さんの西国巡拝の旅の途中に石舞台古墳に寄った。お寺さんの旅であるから巡拝が主体だし又参加者もそのような人の集まりだから、歴史上のこのような古墳は一寸見だけになってしまうのは止むを得ない。併し何年ぶりかで石舞台古墳を見ることが出来た。写真は上から石舞台の遠景と玄室の入口と中の状態を撮ったもの。
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1_3  Wikipediaに依ると,

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952)3月27日、国特別史跡に指定される。

古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた。

封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。1_4

外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている。

『日本書紀』の推古天皇三十四年(626)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。大臣は、馬子のこと。 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったとする説が有力である。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。
水野正好奈良大学名誉教授は石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。

なお、昼間は公開されており、石の下に入ることが出来る。』
と、記されている。

「石舞台」の名の由来に就いては、上記の他に、古墳拝観券裏面の説明に依ると『一般には石の形状からとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人がこの大石を舞台に演じたと言う説もある。勿論今は石の上に上ることは禁止されている。』と、ある。
附近には、橘寺や岡寺、飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、甘樫丘、酒船石、亀石、高松塚古墳、天武・持統天皇稜等々があり、一帯は国営飛鳥歴史公園になっている。そのうち此処は石舞台地区公園となっていて、今の季節には大勢の人が此処を訪れる。
此処に来ると、そのかみ蘇我氏が権勢を誇った時代、そして其の後の時代の推移をしみじみと感じさせてくれる。   

     玄室に夏の日矢さす石舞台

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2008年5月14日 (水)

国盗り綱引き合戦

長野県南信濃村(現飯田市)と静岡県水窪町(現浜松市)との境に兵越峠(ひょうごしとうげ)という信州と遠州の国境がある。
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此処にはこのような国境を示す看板が建っている。この国境は行政上の区分ではなく領土をかけて戦う「峠の国盗り綱引き合戦」によって、勝った方が負けたほうの領土に1mだけ領土を広げるというルールである。
1987年から始まって水窪側の10勝11敗という成績になっている。数字上は好勝負だが遠州軍側から見ると一度も信州領内に食い入ったことがない。

綱取合戦の発端は商工会青年部同士のレクリエーション。アドバイザーに迎えた加藤伸幸さんという人が領地を奪い合うというアイデアを提供してくれたことによる。
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上記綱引きの写真は、靜岡新聞記事から引用したもので、綱引き合戦は毎年10月の第4日曜日に行われる。昔武田軍がこの峠を越して信州に攻め入った所であり歴史の息づいている峠でもあるが兎に角狭い。それだけに当日は交通整理が大変のようだ。

兎角乾いた話しかない現代にこのようなロマンのある話があるのも楽しいし、地域の活性化と歴史を学ぶ機会にもなる。

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2007年11月 9日 (金)

科野(しなの)のクニ

長野市と上田市の中間に屋代(やしろ)という所があり、近くには鞭声粛々で有名な川中島古戦場や妻女山、雨宮渡しがある。

此処に「科野(しなの)のクニ・森将軍塚古墳」がある。「信濃の国」となる以前の「科野(しなの)のクニ」を治めた王の墓と考えられている。所在地の正確な地名は「千曲市(ちくまし)大字森字大穴山」で、有明山の北側尾根上、標高490mのところに構築されている。森将軍塚とは「森」という地区にあることから名づけられた。

この古墳は、今から凡そ1600年前に作られた全長約100mの前方後円墳である。1960年代から発掘調査が行われ、昭和56年(1981)から平成4年(1992)まで11年の歳月を掛けて復元された。

復元するに当たっては、発掘調査結果に基づいて、同じ材料、同じ工法で築造当時の姿に正確に復元された。(写真はクリックで拡大出来ます)
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表面には約8万個の大小の石が積まれ、古墳の上には千曲川の玉砂利を敷き詰め、27種・157個の円筒形埴輪や朝顔形埴輪が古墳を飾っている。
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後円部には、竪穴式石室が納められていて、その大きさは日本最大のもので、室内は平石を積んで壁面は赤いベンガラで彩色されている。

麓には森将軍塚古墳館がある。古墳館では、現地では見ることの出来ない竪穴式石室や、出土した副葬品・埴輪などを、実物や模型・映像によって展示している。
其処から130m上にある古墳までは、古墳館専用バスが案内してくれる。
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訪れた日は秋の好天に恵まれ、古墳から北側を見下ろすと善光寺平が一望され、左に長野新幹線、右に長野高速道が見え、その前方遥かに長野市が望見出来る。
ボランティア・ガイドさんが詳しく説明してくれたので助かった。ガイドさんに依ると、子供たちが遠足に来た時には、時たま古墳上の石を埴輪に向かって投げることがあるので注意しているとの事。
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世界の巨大遺跡と言えば、エジプト・ギザの三大ピラミッド、メキシコ・テオティワカンの太陽ピラミッド、イギリスのストーン・ヘンジ、中国の秦始皇帝稜、日本奈良県の箸墓古墳等が挙げられる。

上記遺跡の歴史や規模と比すべきもないが、
森将軍塚古墳は周囲に13基の円墳もあり、又近辺には川柳・土口・倉科の三将軍塚古墳もあり、それ等を含めると大きさから言っても日本でも有数の古墳群になると思われる。

私が故郷の長野市を離れたのは、この古墳発掘調査が始まるより前ではあったが、故郷の近くでこのような古墳の研究と復元工事がなされていた事を知ったのは、世界遺産研究家のYさんから助言を頂いてからである。

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