2017年6月30日 (金)

茅の輪くぐり

今年も井伊谷宮の茅の輪を潜ってきた。

歳時記に拠ると「名越(なごし)の祓に用いる呪具で茅萱を束ねて大きな輪としたもの」とある。
20170630 「これを鳥居や社殿の前に立て、参詣の人々はこれを潜って、無病息災、厄除けの祓いとする。中世以降は宮中でも行った記録がある。小さく作ったものを首や手にかけることもあり、神社の茅の輪の一筋を抜いて来て、厄除けとするところもある」とも書かれている。

今年は生憎の小雨だったが傘をさすほどでもなかった。
茅の輪を潜る前に、形代(かたしろ)と呼ばれる薄い白紙を人の形に切ったものに、自分の名前を書き、息を吹きかけたり、体を撫でたりして、身の罪や穢れを移し、茅の輪を潜った後それを水に流す。

なんでもない行動だが、なにかそんな意味を噛みしめながらやると本当にすっきりするから不思議だ。
   あきらかに茅の輪くぐりし前と後  斉藤美規

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2016年6月30日 (木)

茅の輪(ちのわ)

今年も我が家から程近い井伊谷宮へ行き、茅の輪をくぐり、形代(かたしろ:薄い白紙を人の形に切ってそれに自分の名前を書いたもの)に息をふきかけるなどして、身の罪や穢れを移し、水へ流して穢れを祓って来た。
Photo 毎年の行事であり、記述の茅の輪の通りの行事であるが、潜って形代流しをした後は何となくすっきりした気分になる。
   息災にありあれ茅の輪潜りつつ  石塚友二

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2014年7月 1日 (火)

茅の輪(ちのわ)

6月30日の午後、娘から今日は茅の輪くぐりの日ですよと知らせてくれた。すっかり忘れていたので家から程近い井伊谷宮にお参りし、茅の輪くぐりを行ってきた。

Img_5241茅の輪くぐりについては、2010年7月に書いた通り 名越の祓いの呪法の一つである。
『陰暦六月晦日に行われる。神社の鳥居の下、拝殿、神橋の橋づめなどに茅を紙でつつみたばねて大きな輪に作ったものをおき、宮司がまずくぐり、一般にくぐらせてけがれをはらう』と、平井照敏編の新歳時記には記載されている。

紙で作った形代に自分の氏名を書き、それで身体を撫でて災いを移し、息を吹きかけ、作法どうりに茅の輪をくぐった後、所定の水の中に流して災いから身を守るというやりかたが井伊谷宮の茅の輪くぐりの作法で、
  あきらかに茅の輪くぐりし前と後  斉藤美規
という句もある。
くぐり方はほぼ決まっているが、それに付随するやり方は夫々のやりかたでなされているようである。

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2011年8月 6日 (土)

虫送り

虫送りとは、晩夏から初秋、農作、特に稲作の害虫を追いやる行事。イナゴ・ウンカ・ズイムシなど稲の害虫を駆除する願いを込め、害虫の悪霊を村から追い出すために行う。村人や子供たちが集まり、松明を点し人形を押したて、鳴り物を鳴らし「稲虫、送らんか」などと囃しながら木の枝で地面を叩くなどして、村境の山、川、海へ虫を追い立てる』と、歳時記には載っている。

Mさんから、8月5日の夜8時から、浜松市金折町で虫送りの神事が行われるから良かったら見に来ませんかとお誘いを受けた。
このような素朴な行事が今も続いているのは珍しい。
神事は女禰宜さまの祝詞から始まり、終わると杉と竹と藁から出来た舟形に津島神社の神札が載せられ(写真)それを先頭に、大松明約60本が次々と1km先の磧まで続く。
Photo 大松明は麦殻を束ねて作られ、その先を大篝から点火したものを、一人一本づつ抱え、束ねた所まで火が燃えてくると束ねた藁を解き、火勢をそのまま保ちながら安間川の磧まで運ぶ。
Img_2055 最近は麦を作ることが少なくなったので、麦殻を集めるのに苦労しているとは祭役員の話で、それでも約60本の大松明は写真のように抱えられて続く。磧までの道筋には消防団も満を持して待機している。

静岡県では他に岡部町あたりでも続けられているようだが、維持が段々難かしくなってきているようだ。
自然に対する畏敬の念を忘れない為にもこれからも存続させたい行事の一つでもある。

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2010年7月 1日 (木)

茅の輪

1年の折り返し点に当たる6月30日には、各地の神社で名越(なごし)の祓いが行われ、茅の輪が鳥居や社殿の前につくられる。

6月30日午前中に浜松市北区引佐町の井伊谷宮に行った時に、直径約2.5mの茅の輪がつくられていて、そう言えば今日は夏越の祓いの日だったなと気がついた。、午後は「名越の大祓い」が営まれることになっているという。Photo 井伊谷宮(いいのやぐう)は、旧官幣中社で建武中興十五社の一社である。
後醐醍天皇の第四皇子である宗良親王を祀る。鎮座地は、建武中興(建武新政)の際に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王が、元中2年に73歳で歿した地と伝えられている(終焉の地については、諸説あり)。社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。

茅の輪は、茅萱(ちがや)を束ねて大きな輪としたもので、その輪を潜ることを茅の輪潜りという。
神社に向かって、まづ左回りに輪を潜り、更に右回りに潜って8の字を描き、更にまた左回りに潜って、最後に真直ぐ潜って神前に参る。潜ることによって、身についた罪や穢れを洗い清め、無病息災・厄除けを祈る。

諸事終了後、茅の輪の一筋を抜いてきて、厄除けとする習慣もあり、私も茅の輪つくりのための余り茅萱を頂いて帰った。

   あきらかに茅の輪くぐりし前と後   斉藤美規
   茅の輪とれ神の月日も亦迅し    伊藤柏翠
   対岸の灯り初めたる茅の輪かな  渡部元子
   息災にありあれ茅の輪潜りつつ   石塚知二

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2007年5月 6日 (日)

もう一つの祭

五月に入ると、「浜松まつり」が始まる。全国的にも知られた凧合戦である。勇壮な進軍ラッパと激しい凧糸の切りあいは凄まじい迫力がある。嘗ては本当の喧嘩となり、血を見る例が多かったので今は厳しく規制されていて、犯した町は出場出来なくなるので今はその心配はなくなった。夜は豪華な御殿屋台の引き回しが行われ、3日から5日までは祭一色になる。祭の起源には戦国時代背景がある。

その影に隠れて、それ程は目立たないが、もう一つの祭がある。浜松とは程近い(我が家からは約30Km北)、歴史上でも有名な長篠城の本丸跡を中心に行われる、「長篠合戦のぼりまつり」で、イベントは1,3,5日に行われるが、なんと言ってもハイライトは5日に行われる火縄銃の実演である。
以前、岩村城の火縄銃の実演を見たことを思い出して、急に思い立ってあたふたと一人で出かけた。
実演は、米沢藩稲富流砲術隊、日本前装銃射撃連盟、長篠・設楽原鉄砲隊の3隊により、夫々の流儀で行う。
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写真は長篠・設楽原鉄砲隊の実演風景である。
長篠の合戦に於いて、信長によって考案されたという火縄銃の攻撃方法は武田勢の意表をつき、武田家の滅亡に繋がる事は知られていることであるが、それにしてもこの火縄銃の轟音は凄まじいしその風圧は強烈に感じる。思わず耳を押さえ、急造の耳栓をした。
馬の防護柵の前で立ちすくむ武田騎馬軍団に向かって3段構えの火縄銃が火を噴いた光景は想像できる。実効果もさることながら、その音響は武田軍の戦意までも奪った事は想像に難くない。
Photo_27 前述のように火縄銃の実演では、数年前に見学した、美濃の国・岩村城の火縄銃斉射実演(写真左)も有名である。日本三大山城の一つとして知られ、又女城主の逸話からも語られているこの城での実演は城の石垣をそのまま利用しての射撃で見学者との距離は多少離れるので轟音も風圧もそれなりに薄められる。
しかし今回の長篠城本丸跡で行われたこの実演は、見学者と同じ高さで、比較的距離感も近いのでその轟音と風圧はは予想以上だった。

ハードとソフト。戦略と戦術。そして同時に太平洋戦争等に就いても色々考えさせられた。

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2006年5月 7日 (日)

浜松祭

今年は、浜松祭りの開催期間(5月3日~5日)中、好天に恵まれ延べ188万人が凧揚げ、御殿屋台の引き回しに繰り出した。

浜松で初の男子が生まれると其の成長を祝って、其の子の名前を入れた凧(初子凧と呼ぶ)を揚げるのが恒例となっている。最近では少子化の影響もあって初の女子でも揚げるようになった。浜松に嫁いだ娘に男の子が生まれた20年前、私も駆けつけて一緒に祝ってやった。それ以来凧揚げ会場に行く事も なかったが、今年は或る事情もあって20年ぶりに凧揚げを見てきた。

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会場は日本三大砂丘の一つに挙げられている中田島砂丘の一角で、遠州灘の風をまともに受ける好位置とあって、今年は170町の参加となった。去年の7月に新に合併した市町村からの初参加はなかったと言う。

Iwaitaiko 祝い太鼓の鳴り響く中を各町から繰り出してくる。

浜松まつり会館の説明に依ると、 「浜松まつりの代名詞ともなっている「凧合戦」は、大空を勇壮に乱舞する浜松市内各町自慢の大凧を使って、糸の摩擦で相手の凧糸を切り、勝敗を競う。空中で凧糸が絡みあうと、合戦が始まる。相手凧に勝つためには、糸先(組長)の合図によって行われる転機(滑車)の操作や、この時の強いチームワークがポイントとなり、各町組員の団結力が勝敗のいかんを左右する。そして、凧合戦の熱気あふれるムードをさらに盛りあげるのが、高らかに鳴る進軍ラッパだ。この音によって、若衆たちの血は一層たぎり、合戦はますます白熱化する。凧合戦の勝敗を握る凧糸は、摩擦に強く、しかも丈夫な物が要求される。浜松の凧糸は、撚が強く、激しい合戦にも耐えられる強度を誇っているが、切れた場合に継ぎやすいように工夫がこらされている。」  とあるが、最近ではこの合戦は最後の日に限って行われるようになった。以前この種の行事に、つき物の喧嘩が多かったが、最近では厳しく規制が敷かれてこの種の行為は全くなくなった。凧糸は各町が同条件になるように、祭り会館から支給される正式の糸しか使えない。

写真は凧揚げ会場風景と、切り結ぶ凧糸の状況。

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「夕暮れとともに、祭りの舞台は市内中心部へと移り、御殿屋台の引きまわしが始まる。御殿屋台は、明治後期、凧揚げ会場へ弁当や湯茶を運んだ大八車に、凧を積んだのが始まりといわれている。やがて大正期になると、造花や提灯を飾りつけお囃子連中が中に入って歩きながら演奏をした”底抜け屋台”が作られ、昭和3年に初めて唐破風様式を取り入れ彫刻も随所に施した”御殿屋台”が登場した。年々屋台は豪華なものとなり、道中を一段と賑やかにし、伝統の祭りは一層華やかさを増して市民や観光客の目を楽しませている。大正中期には昼は凧あげ、夜は屋台引きまわしとそれぞれ独立した。」Yatai  因みに今年新調の和田町の屋台は1億円かかったという。

今年、久しぶりに凧揚げ風景を見て、従来「やる方は楽しいが、見るほうはそれほどでもない」と思っていた事は、どうやら違っていたようだと思った。町中が楽しんでいるし、整然と統制の取れた行動、役割分担は見事だ。年配者が若いものを指導し、若者はよく其の指示に従っているのを見ると、気持ちがよい。それにこの祭りは矢張り絵になる。凧揚げも御殿屋台も。ただ豪華さの行き過ぎにならないことを願う。

伝統的な行事には必ず歴史が絡む。それだけに大切にしなければならないとの想いもあった。

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