2015年12月31日 (木)

一期一会

今日は2015年12月31日 。
今日で2015年も終わる。
201512311031000 写真は、浜松北郵便局の31日10時30分の一風景である。配達用の赤いオートバイがずらりと並んでいた。

今日までの数日を含めて、来年の1月初旬にかけて郵便局の最繁忙期となる。

慌しい年末年始にかけていつも思い出すのは、「一期一会」という言葉である。広辞苑によれば「生涯にただ一度まみえること」「一生に一度限りであること」とある。
私には将にその通りの一期一会の懐かしい人が居る。

或る出会い、 続、或る出会い、 再度、或る出会い美しい文章と挿絵の本等に記した様に、2007年11月28日に小諸の懐古園で出会った太田さんである。
 太田さんと、遇ったのは将にこの一回だけでついにその後お会いすることなく過ぎた。しかしお会いして以後も旅行記を始め、時局に対する的確なご意見をエッセイ集にまとめられたご著書を何冊か頂いた。そしてお互いに意見交換など何回もした懐かしい友である。

年末年始の今、太田さんのことを思い出すと、世の中には色々な出会いがあるが、将に太田さんとの出会いこそは「一期一会」であったと思う。

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2015年1月21日 (水)

忘れ得ぬ人

「これ貴方にあげる」と言われて頂いたのが、一枚の拓本で其処に浮き出ている文字は万葉集の有名な歌、
「信濃なる 千曲の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ」Photo だった。

今も額に入れて我が家の座敷に飾っている(写真上)。
贈り主はKMさんで人格・識見共に衆目の認める人である。

飛鳥に吟行し、確か祝戸荘という宿に一泊した時、其の宿にあった原本で拓本したものと記憶している。

実はこの時点は、私が俳句を始めて間もない時で、或る句会に参加したときに始めてKMさんと知り合った。
KMさんの家と我が家とは距離的には歩いて10分位しか離れていないのに、近所であるのにKMさんを存じ上げていなかった。

Photo_4 或る句会とは近所の知人に誘われて覗いた句会だったが、それは席題句会という形式のもので其の席で指名された人が、適当に当期の季語を出し、其の季語でその場で俳句を作る形式のもの。其の席の主宰から声をかけられた。「今日は見学していて結構です。出来たら一句でも二句でも良いから出してみて下さい」ということだった。

当時の私は俳句に師系があるとか、切字が大切だとかのことは全く知らないずぶ素人だったのでそれこそ盲蛇に怖じずだった。
正直言って大変な句会に来てしまったなと思ったものだ。だから単に575を並べた句を思いつきで二句出してみたらお情けで一句が入選だと言われた。
それがきっかけで俳句に興味を持った。

其の席には10人ほど集まっていたが、其のうちの一人がKMさんだった。後で知ったことだがKMさんは俳句ばかりでなく万葉集にも通じていた人だった。

それから1ケ月か2ケ月経ったとき、KMさんが「これを上げます」と言って下さったのが篆刻(写真下)で朱肉まで添えてあった。篆刻は勿論私の名入で、KMさんが何故こんな手間暇かけてこんな大事なものを作ってくださったのか計りかねたが、なんとなく真意が判るような気がしてご好意に甘えた。
恐縮して頂いたが、これを使う機会は当分はないものと思って大事に仕舞っておいた。
あれから10年以上経過した。それを使わせて頂く機会が来た。
今、KMさんのお人柄を偲びながら感謝の念を抱きつつ篆刻を使わせて頂くことに万感の想いが込み上げてくる。

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2013年8月 8日 (木)

懐かしき同士達

暦の上では昨日(7日)が立秋。しかし、このところ猛暑の毎日が続いていて実感としての秋はまだまだ先にある。

そんな今日、思いがけず昔の同士A氏より一通の手紙が送られてきた。

『この度、高雄山葉の写真をめくっていたら、苦労をともにした仲間全員の写真が目にとまったので、「思い出」として現代風にアレンジして見ました。
写真を見て少しでも当時を懐かしく思って頂ければ幸いに思います。』との書面に添えて一枚の写真が添えられていた。

昭和46年7月7日に撮ったもので、エレクトーン生産に関わった幹部同士が顔を並べている。

当時Y社は台湾の高雄に工場を持ち、エレクトーンの部品である「束線」を作っていた。
何事によらず新たに仕事を始める時には、予想もしなかった困難が付きまとうものである。況して外国で言葉や慣習や価値観を異にする人たちに仕事を教え指導するのは大変なことで、本社から見れば出来て当たり前と言った気分の中で現地に派遣された人達の苦労は大変だっただろう。

あれから42年。あっというまに経過した。あの当時の写真が今、目の前にある。懐旧の念一入である。
当時は高度成長の真只中にあった。外地各地に工場が建設された。企業戦士たちにとっては腕の振るい場であったと共に苦労が付きまとった。海外出張が多かったことも頷ける。

今、当時の写真を目の前にすると、当時の光景が髣髴と眼前に浮かび上がる。
人生は出会い」である。写真の人々も私にとっては大切な同士達であり、その出会いをこれからも大切にして行きたい。

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2013年1月10日 (木)

この人が居て

1月7日、一人の車椅子の選手が、サッカー女子の澤穂希選手らと共に、スイス・ローザンヌ国際オリンピック委員会本部で、2020年夏季五輪開催を目指す東京の招致委員会の立候補ファイルを提出した。
車椅子の人は、ロンドン・パラリンピックで日本競泳陣の主将を務め、2個の銅メダルを獲得した鈴木孝幸選手(浜松市北区出身)で、先天性四肢欠損障害を負った選手であるが幼い頃から周囲に障害を感じさせなかった。

澤さんや孝幸君らの活躍が大震災や景気低迷に苦しむ人々にどれほど感動と勇気を与えてくれたことか。

彼に就いては以前にも書いたように小松洋さんとの出会いが彼の運命を決定付けた。

孝幸君が生まれた時、何らかの理由で、実母夫婦は養育を放棄したと言われる。それを救ったのが小松洋さんである。
それまで小松洋さんと孝幸君とは何の関係もなかった。ただ孝幸君の生まれたのが聖隷三方原病院で、その当時聖隷関係の若葉保育園の園長をしていたのが小松さんだった。
そんな事から小松さんの知るところとなり、引き取って養育する決心をしたのは孝幸君にとっては僥倖だった

小松さんは、孝幸君を育てる為に保育園長を辞めた。普通の子並みに育てた。やがて小学校へ入学する時のことを考えて、自動車の免許を取得した。
入学期が迫った時に、市教委から養護学校への話が出たが、小松さんは今までも普通の子として育ててきたから、普通の子並みに三方原小学校(浜松市)へ入れたいと希望しそのようになった。

学校への送迎は小松さんが車で行ったが、学校も受け入れのために、トイレや階段、机や椅子その他一切設備の変更はしなかった。
トイレなどへ行くのも他人の手を一切煩わせなかった。階段なども家でやっているように車椅子からひょいと降りて両手を使って、すいすいと上ったり下りたりした。
運動会があっても孝幸君は普通の子と同様に走った、走ると言っても転がったと言った方が良い。それでも走った。サッカーなども普通の子と同様にやった。将来の希望を聞かれた時「僕はサッカー選手になりたい」と言ったほどだ。
それでいて、何も周囲に阿ることもなく、器用に動き回り勝気ながら、素直な態度で当時からリーダー的な性格を備えていた。

小松洋さんの献身的な養育によって、現在の孝幸君がある。孝幸君は小松さんをいつも「おばあちゃん」と呼んでいる。

今、学校でのいじめや体罰などの問題が多い。
孝之君のことを考えると、彼の資質が優れていることもさりながら、三方原小学校の先生を含め、級友たちが言葉でも行動でも一切差別なく、学んだり遊んだりした態度は立派だったと思う。

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2011年2月 4日 (金)

美しい文章と挿絵の本

偶然の出会いが、素晴らしい出会いに発展した一例を或る出会い続、或る出会い再度、或る出会いに既に書いた。

その太田さんから「歳を重ね体力が弱ったら晩年は汽車の旅でもしようかと言っていたのが現実になりました」との一文が添えられて「稚内・津軽・木曽路に枕崎」と題する感動的な一冊の本を送って頂いた。

B5版の本は開くと、左側に文章、右側に(文章に書かれた)絵がワンセットになっていて見ても読んでも楽しい本だ。

日本各地のローカル線を主体に列車の旅物語だが、これだけの旅の出来るということは添えられた一文とは裏腹に活動的な旅を続けているということを感じる。その文章は単なる客観写生だけではなく、それを通して切々とした想いを綴っているのが素晴らしい。その写生の絵が又美しい。写真はその本の表紙である。Img_1141  信州出身の私は、まづこの表紙が中央線須原駅とあることに親近感を覚え、又自分でも乗った経験のある鉄道や懐かしい駅も幾つかあり、当時の記憶が蘇り懐かしさが蘇って来る。

 それにしても太田さんの文章は「物が心を食う時代」に対しての警告を率直に表現されていることに共感を持てる。何でこんなに心を打つ文章なのだろうか。矢張り私にも共鳴する弦が心の中にあるからだろう。ただ私が訴えたいことが見事に表現されているのが嬉しい。

 

内容は北は北海道最北端の稚内から、南は本州最南端の指宿枕崎線の西大山駅を始め各地のローカル線を紹介している。

例えば北海道の留萌線。私のおぼろげな記憶を辿ってみると、昭和54年(1979)の夏、当時私は遣る瀬無い気持ちを抱いて一人北海道の旅に出たことがある。その途次、稚内に行った時のこと、羽幌から船で焼尻島で一泊して翌日天売島を船で外からオロロン鳥を見て羽幌に戻り、其処から羽幌線で宗谷本線の幌延に出て其処から稚内に出たように記憶している。しかし今はその羽幌線も廃線になってしまった。8月の夏真最中だったのに早くも秋の気配を感じたことを覚えている。

「残っているから尚寂しい旧炭鉱平岸」と題する旧炭鉱平岸駅の描写には世の中の栄枯盛衰の一端を現している。荒涼とした廃駅の冬を想像するとうら悲しい。

     廃線の朽ちし駅舎や冬銀河  

 

本州最南端の西大山駅の絵と文は、私が平成15年(2003)11月、その地を訪れた時の風景と想いを髣髴と感じさせてくれる。

      最果ての無人の駅や返り花  

 

 本書にある私の知らなかったり乗ったこともない鉄道は、平凡社大百科事典の日本地図を片手に首っ引きで追ってみたが結構楽しい。スイッチバックの駅、1ケ所に3種の異なった軌道ゲージが集まっている所があると聞いて吃驚した。

 

 岩村駅の近くには、岩村城や「女城主」と名のつく地酒もあり、古い町並みと共に懐かしい。

 

 近代化の波が、古きよきものを次第に破壊してゆくのは、西欧の世界遺産を見るにつけ、日本の文化遺産をもっと考える時期ではないかと切に思う。

  

太田さんの旅の記録を読んで感じるのは、矢張り尽きない好奇心・相応の体力・それに行動力といった要素が兼ね備わっていることが基本で且つ、確とした思想の上に積み重ねられた文章であることを確信する。

今日は立春、これから又旅の季節になる。益々お元気で旅されんことを

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2010年10月20日 (水)

ご縁

人との出会いについては、ある出会い何かのご縁にも書いたが、偶然と言えば偶然、ご縁といえばご縁だが、その意義は大きい。

S誌の全国大会(於、浜松)で、遠方から参会され、偶然隣り合わせた本来、縁もゆかりも無いKさん何故か会話が弾み、彼女の起伏に富んだ生き方に感銘した。
たった一度の偶然の出会いが、時空を越えて心に響きあう会話になるとは思いもよらぬ事だった。

いつも思うのだが「出会い」とは不思議なもの。特に或る人との出会いによって、恰も鉄道のポイントを切り替えるように、自分の人生が変わった例を、見たり聞いたりしたことがある。
ノーベル賞受賞者の履歴を見ても、或る師や先輩・同僚等との出会いがその後の人生を決定付け、それがノーベル賞に繋がったという例を聞いている。

今度の出会いも考えて見れば、懇親会で偶々席順を決める籤をひいたら偶々Kさんと隣り合わせになっただけのこと。若しあの時、別な籤をひいていたら、お互い全く知らぬ同士のまま、声を交わすこともなく分かれていたに違いない。改めてご縁と云うものを感じる。

人には自分の力で切り開いて行けるものと、自分の力ではどうにもならない、宿命と言うか運命と言うか、兎に角目に見えない大きな力が働いているのを改めて感じる。

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2009年7月11日 (土)

或る絵画展

7月7日は七夕の日。偶々何年振りかに、上田市郊外は青木村の大法寺を訪れた。此処には国宝の三重の塔(見返りの塔と呼ばれる)がある。
090707
写真のように上品で美しい輪郭を持った塔で、鎌倉時代末期の創建と言われる。同じ様式の塔は奈良興福寺の三重の塔がある。

三重の塔の美しさに見とれた後、其の寺の入口にある青木村郷土美術館に寄った。
実は此処に美術館のある事を今まで知らなかった。それほどこじんまりとしていて、訪れる人も少ないのであろう。この日も其処の入口に立ったら、係員が灯を点してくれたので始めて開館していることを知った。

我が家秘蔵の、私が愛する絵画展」と横書きした紙が張られていた。
入ってみて何故こんな田舎に、こんな書があるのか驚いた。と言うのは、歴史上でも知られている、尾崎行雄と犬養毅の書が飾られていたからである。Photo_2 
尾崎咢堂行雄の書
Photo_3
犬養木堂毅の書

両者とも広く知られた政治家で多言を要しないが、尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれ、犬養毅はご存知「5・15事件」の凶弾に倒れた時の総理大臣。
この大物の書が何故この地の人が秘蔵していたのだろうか、又両者がこの地を訪れたことがあったのかどうか。詳細を聞く時間の無かったのが惜しまれる。
遥か昔の歴史が蘇ってきて、軍閥跋扈の時代の歴史と果敢に立ち向かった政治家の姿が脳裏をかすめた。

Photo_5 ついでながら此の村には、S氏という画家が住んでいる。写真は其の絵の一つである。

(尚、写真の絵の背後に幽かに残っている影は、この絵の陳列場所の反対側の壁面に飾られていた絵が、この絵の額のガラスに幽かに反映しているためである。)

他にもシャガールの絵を始め、感動的な絵画が出品されていて、この郷土美術館を訪問して良かった。限られた日数の展示であって訪れた7日がその初日であったことは真に僥倖であった。

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2009年4月 8日 (水)

再度、或る出会い

旅先の懐古園で偶然太田さんと出会ったのは2007年11月。

その後太田さんと直接お会いしたことはないが、その時の旅行の記録を送って頂いたのが活字上での再度の出会いだった。

そして今度、改めて「エッセイ集」が送られてきた。内容は省略するが、「木曽観光のあり方に就いて」がメインで、「木曽よもっとやさしく」のタイトルでこれからの木曽観光に就いての意見が述べられている。

他に「歴史は水に流して済むものではない」「生活者の言葉が聞こえてこなくなった」等のタイトルで想いを述べている。

私も返信を兼ねて想いを送った。

「木曽よ もっとやさしく:どうするか、これからの木曽観光」を読んで思い出すことがあります。

昨年11月に岐阜県白川郷へ、会社のOB会旅行で行って来ました。白川郷と言えば御地と同じ岐阜県ですが、その北端で富山県に近い処。浜松からそんな遠方まで出掛け現地でも結構楽しむ時間が取られた上での日帰りのバス旅行など考えられなかったのですが、東海環状自動車道や東海北陸自動車道が開通された為に、思いもよらぬ日帰り旅行となりました。

しかし行って見て観光バスが連なって走り、どっと吐き出される観光客が波を打つように郷に入り、白川郷は白川銀座の感があり、昔日のひっそりとした佇まいがその影を失っていたのには正直なところがっかりしました。かなり前に行った時の記憶の中の白川郷は、もっと閑静で素朴な景であったし、それを期待して行った者には、余りにも想像の埒外の景に接して言葉を失った。

飯田市に大平宿(おおだいらしゅく)という場所があるのはご存知と思いますが、一夜にして全村民が離村し、無住の村となりました。そこへ中京の資本が入ると聞いた飯田市がその地を確保し管理して、旧宿場町の景を温存したために、今は学校の教材ともなり歴史を尋ね、自然の中に昔の姿そのままの宿場の景を求める人たちは時々訪れては感懐に浸っていたのを思い出します。恐らく中京の資本が入ったら又、現在の白川郷と同じ運命を辿ったであろうことは容易に想像が出来ます。ただその維持に関係者が努力していることも忘れてはならない事だと思います。

こんな経験をしてみると、貴著のご意見を至極当然と思います。

信州人にとって木曽は心のふるさとのようなところ。信州出身の私はちょくちょく長野へ行きますが、名古屋から長野まで中央西線のL特急に乗る。
木曾谷を行く電車の旅は心を和ませる。中津川を過ぎると木曽路。高い山に深い谷。白い川原と清冽な流れ。寝覚めの床や木曽の桟。寄り添う中仙道。古刹や宮居の森。素朴な民家やなりわい。厳しい冬には冬の、春秋には春秋の、夏には夏の風情がある。信州人にとってはなんとなく心やすまる風景。
信州からの帰路は新幹線を使う。新幹線は味気ない。トンネルと衝立の中に閉じ込められた世界。ただ時間の早いのが取り柄。自然を見つめようとする人にとっては馴染めない。

Img_6466 Img_5572
写真左は3月末に高山を訪問した時のもの。右は昨年11月に白川郷を訪問した時のもので、高山も御多分にもれず観光化されて(私自身もその観光客の一員)人で溢れていた。

観光と自然との共存という面を経済面から見ると、それなりの問題が存在することは当然ながら、何も手を打たなければ何の解決にもならないのは自明の理。貴「これからの木曽観光の試案」はその解決の一端となるものと思います。

生活者の言葉が聞こえてこなくなった
私がかつて旧友に、高柳健次郎氏は技術者としても立派だが、国に働きかけて研究費を出させた政治的手腕の持ち主でもあったと書いたら、彼からの返信に「これから100年もしたら全く違う評価になるだろう」と言ってきた。
瞬間的に私は吃驚したが、かつて大宅壮一氏が「一億総白痴化」と言った言葉を思い出した。今のチャンネルを廻して見ると彼の言葉が思い起こされる。

貴「一般教養はすぐに役立たないと軽んぜられ、一般教養の上に専門知識が積み上げられることによって豊かな人間形成が為されるといった人づくりはどこへやら、本を読まない専門馬鹿を大量に生み出しているのが現状である。一般教養とは、物事の本質を捉える知識、他者を理解する能力・度量、不正不条理と戦う勇気の3つからなっていると小宮山東大学長は述べている。」とありますが、今のTV、携帯・PC等の書き込み等を知ると将に生活者の言葉が聞こえなくなったと言わざるを得ないと思います。

歴史は水に流して済むものではない」には、明治人の教養と国家感を想起し、現代人のそれとを比較して戦後教育のあり方を、戦略がらみの問題として捉えても、取り戻すには戦後の経過時間の倍以上の時間を要するものと思います。

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2008年11月11日 (火)

愛情を背にパラリンピック金メダル

11月10日7時PMから約50分間に渉って、あさひTVから「ドキュメンタリ宣言、浜松市出身のスイマー、目指せパラリンピック、身長116cm”祖母”に金メダルを」と題する放映があった。

そのスイマーとは鈴木孝幸君、祖母とは里親として孝幸君を育て上げてきた小松洋さん

先日一通の封書が届いた。中味は「パラリンピック出場選手 鈴木孝幸君を後援してくださった皆様にお礼申し上げます」という、パラリンピック出場鈴木孝幸君後援会からのもの。(写真は同後援会からの挨拶状に掲載されていたもので上が小松洋さん、下が鈴木孝幸君)

今年9月の北京パラリンピックに競泳選手の主将として出場した孝幸君は、50m平泳ぎで金メダル(予選は世界新記録で通過)、150m個人メドレーで銅メダルを、その他の競泳では200m自由形で8位入賞、100m自由形で7位入賞という成績を挙げた。
11 TV放送では北京で金メダルをとった孝幸君が、小松さんの首へそのメダルを掛けてやるシーンが胸を打った。

孝幸君は「小松のお母さん」と呼んで小松さんに育てられた。
保育園長だった小松さんは、孝幸君が赤子の時から育て、やがて里親として自分の家で普通の児童同様に育て、普通の児童同様に小学校へ通わせた。
その為に小松さんは自動車の運転免許を取得して小学校へ送り迎えした。
決定的な身体的ハンディがあるのに普通の子同然Photo_3 に育ててきた経過を今度の放送は見せてくれ視聴者の感動を誘った。

小松さんは上記後援会からの挨拶状の中で「重度の障害を負って生を受け、今その身体が力いっぱい泳ぎ、世界の頂点に立っている事を考えると感慨無量です。これも今日まで実に多くの暖かい支援を賜ったおかげであり、心より厚くお礼申し上げます。」とご挨拶されている。

孝幸君は小松洋さんという素晴らしい献身的な人との出会いによってこれまで普通の子と同様に育てられ、高校から早稲田大学の教育学部に進学し、今は一人で東京で学生生活をしており、今年は4年生として、これからの進路を決める段階に差し掛かっている。

これからも生来の負けん気と素直な性格で社会で羽ばたいていってくれる事を望むや切なるものがある。

パラリンピックに就いて一言。
パラリンピックに対する各国の対応もまちまちで日本の強化態勢は世界に遅れをとっている。
日本ではオリンピックは文部科学省が担当しており、パラリンピックは厚生労働省が担当しているが、「パラリンピック出場の選手は個人負担が200万円を越し、個人としては限界を超している」という。
孝幸君を北京へ送り出すために組織された後援会では255万円の浄財が集められ、今度の出場とな った。

パラリンピック出場に就いて国は、今後どう考えるのだろうか。

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2008年6月25日 (水)

会社が誕生する時

6月25日はヤマハの株主総会である。総会は無事に済んでその後、ミニコンサートで「手嶌葵」のしっとりとした歌を楽しんだ。

総会に先立つ事半月前の10日に信州飯田高校の歴史的ピアノを拝見した。
「信州の飯田高校に初期のヤマハ・ピアノがあるが良かったら見に行きませんか」と、作家の松田不秋さんからお誘いのあったのが発端である。

清水越郎飯田高校々長先生のお話によれば、

『旧制飯田中学が独立したのは、今から100年前の明治33年(1900年)で、その3年後の明治36年(1903年)に購入したピアノを、飯田高校独立100周年に当る平成12年(2000年)に、同じく竪型ピアノ製造100周年を迎えたヤマハの協力によって、演奏可能な状態にまで復元した。当初修復予算は70万円だったが、ヤマハが更に200万円を後援して完全修復して頂いた。』とのことである。
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因みに、ヤマハがピアノの製造に着手したのは明治32年(1899年)で、その頃の試作品と思われるピアノが浜松市の楽器博物館にある。ヤマハが純国産ピアノとして竪型ピアノの製造を開始したのは翌、明治33年(1900年)からで1台目の製造番号が「1001」である。その2年後の明治35年(1902年)に造られた純国産ピアノ10台目の歴史的ピアノが、奇しくも眼の前にあるピアノである。正式名称は「山葉洋琴竪型2号」と言い、日本のピアノ史上でも貴重なもので、先の千葉県佐倉市立美術館で開催された「音のアンティーク展、造形と音が織りなすピアノの世界」にも招待出品された。

ピアノを拝見する時の参考にもと思って、ヤマハや、ヤマハ・ピアノの歴史的経過の一端を知って頂く為に、「日本楽器製造(現ヤマハ)社史」の内、関係箇所を予め抜粋コピーしたものを持参した。

ところでその社史のコピーを、飯田線の中で松田さんにも見てもらったところ、松田さんが驚きの声を上げた。その社史の中に記されている重要人物である伊沢修二は実は、信州は高遠出身だという。私はそれを指摘されるまで知らなかった。信州出身者として迂闊と言えば迂闊であった。

該社史に依ると概要次のように記されている。
ヤマハの初代社長・山葉寅楠がある所から依頼されて修理したオルガンからヒントを得て、自ら企業化しようと計画し試作した
1号機を、協力者の河合喜三郎と共に天秤棒で担いで箱根の峠を越え、東京の音楽取調所(現東京芸大)の所長・伊沢修二を訪ね、今までの経過と抱負を語って審査を願い出た。「オルガンの形はよいが、調律が不正確で、使用に堪えない」、これが伊沢の第一声であった。だが伊沢は語を継いだ。「音楽の理論と調律を研究しないで、オルガンを造ろうとするのは無謀である。若し君たちに、それらを学ぶ希望があるなら特別に聴講生として、取り計らってやろう」、この一言で山葉寅楠は救われ、そのまま残って学び、やがて浜松に戻って、2台目のオルガン製造に着手し、二人は再び伊沢所長の審査を受けた。「前回の欠点はことごとく除かれて、舶来品に代わり得るオルガン」との認定を受けた。明治20年(1887年)のことである。』

このような経緯を辿って「山葉風琴製造所」の看板を上げたのが、明治21年(1888年)で現ヤマハの誕生である。そして明治30年(1897年)、「日本楽器製造株式会社」と社名変更し、更に昭和62年(1987年)「ヤマハ株式会社」と社名変更して現在に到っている。


このような経過を知ると、伊沢修二の一言ヤマハの誕生とは深く関係していた事を感じる。
若しあの時、伊沢修二の一言が無かったら果して、現在のヤマハという会社が存在していたかどうかと思うと、全く関係ないと思っていた信州とヤマハとの関係が急に息づいてくる。出会いとは不思議なもの、考え方によっては恐ろしいもの。会社が誕生する時は案外こんな時かも知れない。山葉寅楠のような傑物ならば或いはその時の一言が無くても会社を起したかも知れないが、今のようなヤマハとは違ったものになっていた可能性が高い。

一言の重み、その一言との出会いを今日、ヤマハの株主総会を終えるに当って、しみじみと想った。

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