2011年7月18日 (月)

山の男たち

信州の山中に暮らす知人の根岸利夫氏の家には、ホールドと呼ばれる部品を組み合わして作った登攀練習用の壁がある。Img_1769 彼は欧州三大北壁のうち、アイガーを除く、マッターホルンとグランド・ジョラス北壁を登攀した日登(日本登攀者クラブ)の猛者である。今はもう登らないがそれでも普段時間があると訓練を欠かさない。此処へは良く嘗てラインホルトメスナーと並び世界最強クライマーと呼ばれた山野井夫妻や、日登の猛者たちがやってくる。
最近も山野井氏がやってきてこの壁で遊んで帰ったという。写真はその時の模様である。
1 彼が楽しんでいるのを二階から猫が見ているのが面白い。この猫はこの家のご主人に似て、登攀者宜しく垂直の階段を自由に上ったり下りたりする特技の持ち主である。
彼らは何時も体を鍛えている。8000m級の山に登る前には各地の岩場で練習し、且つ現場でも途中の高所でビバークして体を高所に慣れさせてから一挙に登る。
そのような陰の努力を知らない人が多いのではないか。

私は嘗て1960年代に海外出張の途中、モンブランへロープウェーで行こうと思いシャモニーで一泊したが翌日は風が強くロープウェーは運行中止となってしまった。その話を根岸氏にしたらあのロープウェーで標高1030mのシャモニーから一挙に3800mも上った時に高山病にやられる人が多かったと言う。若しあの時に上っていたら私は大丈夫だったかと聞かれたら自信がない。それでも今でも運行中止は残念だったと思っている。

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2010年1月13日 (水)

或る年賀状

信州の在に私の従兄弟で篤農家と誰もが認めるK.H.さんが居る。彼からの今年の年賀状は、日頃の心情が綿々と綴られていて心を打たれた。
(K.H.さんに就いては、死生観生きる忘れないにも既に書いた) 

『「それでもまだ信じていた。戦いが終わったあとも。

役所を 公団を 銀行を 私たちの国を。

あくどい家主でも 高利貸でも 詐欺師でも ない。

おおやけ というひとつの人格を。

「信じていました」 とひとこといって 立ちあがる。

もういいいのです、私がおろかだったのですから。」

昨年暮の信濃毎日新聞にのった詩人・石垣りんさんの1970年作「女」という作品です。この詩が2010年の現在も現実味をもって社説に述べられる日本の今日が悲しい。

自分でも不思議に思っている程愚直に生きて88年。振り返ると凡そ100年前の昭和大恐慌の中で生まれ育ち、そして今、出口の分からない平成不況の中で生涯の終りも近い日を暮らしている。果して88年の人生は生き甲斐があったのか! 社会的に価値観をもって評価できるのか? 先世代の人々から歴史を引き継いで、次世代の人々に平和と幸せを引き渡すことが出来たのか? 迷悟の中での毎日を暮らしている。

嘗て青春の日々の中で生意気にも「人間は環境の所産である」「環境は人間が創出するものである」等、難解極まるヘーゲルやカントの哲学を論じたり、或いは「葦折れぬ」という反戦の手記を残して自殺した女子高生の是非を論じあったり…然し結果的には「大東亜戦争」の兵役3年半の戦陣生活の末、敗戦の挫折を味わってから、多くの若者の生命を失い大勢の日本人の殺戮の犠牲の惨禍を体験して「生き残った者の責任」を強く感じて、自己の人生観を大きく変えて今日まで愚直を貫いて生きてきた。

こんなことを書いたのは始めてだと思う。最近つくづく日本人というのは人間として生きる信念をいとも簡単に変えて世渡りする集団だなあと思うようになりました。1945815日を「終戦記念日」として割り切って過去と将来を器用に判断して生活出来たのですから…。そして60余年、今日の日本がどの様な国柄になっているのか、物質の豊富さの中で何を失いつつあるのか殆ど自覚が無く、今日と明日を振子の様に考えて安定して幸せになれると思っているらしい?。
 家庭崩壊を「核家族」と名付けて我慢したり、地域社会の堕落を「自由主義」が定着したからだと言訳したり、日本人一人の借金が1000万近くなっている不況を子や孫が生活する将来社会に遺産として残してやったり、親たちが苦労しながら子弟を高校、大学を卒業させても就職率が50%しかない国内産業の衰退…。

明治維新改革や敗戦から立ち直ろうと一億の人々が頑張りぬいた戦後復興の時と比して、今日一番欠けているのは人々の意志と根性。

地球と人類の破滅から救う道は?論文を書く心算は無いが弱い人間はどこかに悲鳴をぶつけたくなるものだと思います。

人々が生きるために一番大切な農産物の自給率も、施政者の不明から落下速度を早め今や40%以下に。そして今日本に現れている農業の統一無き珍現象、曰く、農業法人(但し利益を求め輸出食品を心がけ)、企業百商(土建業者の転業主体)、農業遊人(定年退職して都会疲れした年金豊かな人達)、農業協同(グループを組んで地域自立に)、道の駅地産(地産地消を中心に)。国の農業政策に基いて行われている農業集団ではない。自立して農産物を作り加工、販売を目的として試行錯誤しながら踏み出している全国的に散発している。国の農政は何をしている?。

炬燵にしがみついている毎日なので、訪れる若い連中が来ない暇を利用して書きました。

今年からもう年賀状を書くことを止めましたので…読み返す事も面倒なので走り書きのまま。気に入らない所や間違っている所は赤線を引いて送り返して下さい。』

声を出して読んでいると、何かがこみ上げてきて声にならなくなった。

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2008年12月31日 (水)

ノーベル賞・益川敏英氏

今年も間もなく除夜の鐘。

アメリカを震源地とする金融危機の齎す100年に一度ともいう経済危機の暗い世相の中にあって、日本人4人のノーベル賞同時受賞は、来る年に繋がる明るいニュースである。
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写真は受賞式出席の3氏。左から小林誠氏益川敏英氏下村脩氏(静岡新聞より)。南部陽一郎氏は奥様の健康状態からシカゴ大で受賞。

特に印象深いのは益川氏。
氏の言う「I speak Japanese only.」は、もちろんそのまま受け取る訳にはゆかないが、事実、受賞記念講演は本当に日本語でされたという。
氏は嫌いなのか苦手なのか英語がいやで海外の学会には行かないという。そう言えば初めてパスポートをとったのが今回の受賞式に行くためと聞いて驚いた。
氏は又「英語がしゃべれなくても物理は出来る」と言うが「英語を覚えなくてもよいということではない」とも言っている。

日経夕刊の「人間発見」という記事に、益川氏と一緒に研究した物理学者の坂東昌子氏の話が載っている。その記事の一部を引用すると、

『益川敏英さんと一緒に論文を書いたのは、小林・益川理論が世に出て10年ぐらい後でしょうか。「超対称性が自発的に破れたときどんな不変量があるか」と議論を持ちかけたら、「それは新しい鉱脈かも」と益川さんが乗り気に。彼は出張から戻るたびに「新幹線の中で考えた」と言って数式がぎっしり書かれた紙を、はいっと渡す。こちらはその式を解読するのに四苦八苦。益川さんの数学の「腕」のすごさを思い知らされました。』

素粒子論の分野では1960年代後半から70年代にかけて新しい流れが起きた。それをいち早くつかんだのが今年のノーベル賞を取った益川、小林の両氏。私は流れを見極めることが出来なかった。だからでしょうか今なお物理への思いが尽きない。日本が得意とするクォークの世代の起源は自分の手で解明したかった、という無念さもほんのすこし残っている。』と、書き記している。益川氏とそのグループの在り方の一端を知ることが出来る。

来年は丑年。牛歩でも良い、一歩一歩を大切に明るい年にしたいものだ。

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2008年1月13日 (日)

大岩壁へ挑戦するクライマー夫婦

1月7日の夜10時から1時間、NHK総合TVで「NHKスペシャル:白夜の北極圏・高さ1300mの大岩壁に挑む伝説のクライマー夫婦」と題する放映があった。

その夫婦とは、世界最強のクライマーと言われる、山野井泰史・妙子夫妻である。白夜の北極圏グリーンランドの高さ1300mの大岩壁に挑む夫妻の姿と夫婦愛を映した感動のシーンである。

山野井泰史・妙子夫妻のことに就いては、既に「活字上での再会」、「そこに夢があるから」、「続、そこに夢があるから」に紹介した事がある。
山野井夫妻の属する日登(日本登攀クラブ)の先輩に当る、根岸利夫氏の山小屋へは今も時々岳人達が訪れるが、その中に山野井夫妻も時々顔を見せる。写真は数年前、根岸山小屋に集まった岳人達で後列中央が根岸、その両側が山野井夫妻である。(クリックで拡大)
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一般に知られているクライマーは殆どスポンサーがついて居るが、山野井夫妻の場合は自分で働いて得た金でしか登らない。今回も費用は自分の貯金を取り崩してまかなったという。

彼らは、自分が登る目標は常に前人未踏の岩壁を自分で選ぶ。それが山野井流の方式である。今回も登攀目標は、2007年5月、夫婦でヘリから見て、また降りてその岩壁の下から確かめて選んだ。厳しい目標を選びながら、嬉々としている姿が印象的だった。登攀は8月の北極圏の白夜期と決めた。
場所は北極圏グリーンランドのミルネ島。海に流れ込む氷河の両側にそそり立つ高さ1300mの、未踏の大岩壁で、その岩壁を海の王者鯱に因んで「オルカ」と命名した。
ギャチュンカンで大雪崩に遭遇して以来、2人で登攀するのは5年ぶりという。当時は彼らのクライマーとしての活躍は終ったと誰もが思った。しかし彼らの山への想いは終ってはいなかった。今回は木本哲(さとし)氏が二人の手伝いとして加わった。

登攀は7月29日から始め、8月16日に登頂に成功した。19日を要した事になる。階段状の岩壁を600m登ってヘッド・ウォールへ、其処から400m攀じてコルへ、そして最後の300mの大難関を攀じ登ってオルカ頂上へ。

登攀時、トップ、セカンド(確保)、ユマーリング等の役割があるが、トップは先頭に立ってルートを切り開く役目で、1日目のトップはは妙子だった。妙子に先ずその先頭を担当させ、そして最後の16日はトップを泰史、木本と交代し最後の30mを妙子に任せた。妙子に最初にオルカ頂上に立たせようとの泰史の妙子への愛情を感じさせてくれる。

彼らの登攀の模様を同行のカメラマンが的確に捉えていた。カメラマンも大変だったと思うが、よくその実景を捉えていた。山野井夫妻の今までに登った山の中でカメラマンが同行したのは初めてだと思う。と言う事は、それまではカメラマンが同行できる山ではなかったし、単独登攀(ソロ)が主体だった。

彼らの生活拠点は奥多摩にあり、働きながらその合間に自宅の登攀訓練用の壁で訓練を怠らない。
今度の登攀に当って、泰史は妙子の為に、カム(ギアー)や、ハーケンを打つためのハンマーの柄を妙子の指に合う様に改造したりして周到な準備をしていた事がわかる。

彼らの山への情熱をひしひしと感じるし、これほどの岩壁を登攀しながら飄々として、山が好きで登る事が楽しいと語るのを見ていると、見ているものにも生きる勇気を与えてくれる。

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2006年12月10日 (日)

死生観

信州の或る篤農家の話として、2005年8月に「忘れない」を、2006年5月に「生きる」を書いた。
篤農家の名前はK.H.さん。夫婦二人で精励し、親から受け継いだ田畑を守り、清貧に甘んじて昔のままの家に住み、地域に貢献して今日に到っている。
親からの田畑を手放してその金で家を新築する趨勢を横目に見ながら、頑なに農に徹し、自分を見つめ自分に誠実に生きてきた人である。

毎年丹精を込めた手作りのものを送ってくれたが、この年末にも立派な林檎を送って頂いた。ご夫婦の御歳からして、予想もしていなかっただけに驚くと共に感動した。見事な出来栄えと素晴らしい味には心が籠もっていた。
何時も達筆な書面が添付されている。今度も多少不自由になった手であろうのに、矢張り達筆な手紙が便箋4枚にびっしりと書かれていた。
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「矢張り小生も老齢には勝てないようです。長い間続けてきた百姓生活も終着駅に着いた感じを覚えた今年の1年になりました。
加えて若い頃から苦労をかけ続けて来た女房が昨年末、膝を痛めて杖を頼りの日常になってしまいましたので、若い連中が百姓を止めさせない様に、色々手伝ってくれていましたが年毎に気持の負担が重く感じられるようになりましたので、今年を以って一区切りをつけようと、皆に死生観の迷論を語っています。(註:ご夫婦には、お子さんがいらっしゃらないので、此処に言う若い人とは、応援に来て下さる近所の若い人達を指す)。

級友、戦友そして国鉄時代や百姓時代の友人たちと、自分には過ぎた多くの人々との恵まれた人生の渦の中で今日まで楽しく過ごして来ましたが、近年頓に多くの訃報が届くようになりました。人間一般的には長生きを希望もし、幸せだと言われていますが、多くの親しい友に先立たれ、何かしら取り残された様に生き残っている淋しさとも悲しみとも言い表せない愛惜の念を覚えるのは、矢張り人間の一つの大きな試練の宿命の様に感じている昨今です。
  朝露を踏むこと少なき地下足袋を 
        散歩に履きて畑田をまはる
振り返ると小生の一生も、百姓という自然の中で生きる環境でなかったなら、八十余歳の今日までは生きられなかっただろうと思いますが、多くのことが中途半端のままに過ぎてきてしまった自責の念を覚えています。(註:これだけ農に徹しきって生きてきた人は、私が直接会った人の中では、他に例を知らない)。

我々世代の人間が時代の流れの対応の中で、色々苦労しながら世の中を支えてきたが、現在の世相を思う時、果たして恵まれた地球環境の中で、人の心の幸せと生活の豊かさを生み出す努力をしてきたかという、最も人間の生きると言う原点を思う時、小生は大きなを感じていますが今更ながら為すべき自分の力の小ささを恥じ入るばかりです。それはともかく若い者に手伝って貰いながら実らせた林檎を一荷送ります。食味は温暖化現象の為、一味足りない事(註:そんなことはない、素晴らしい色と、信州の篤農家の丹精込めた味は最高だった)を前以て言い訳しておきます。   K.H生より」
と、書かれていた。                                     

折りしも太平洋戦争の開戦日。戦争に3年間従軍した経験のある、K.H.さんには亡くなった戦友も含めて、想い一入のものがあったであろう。

長い間苦楽を共にしてきた夫婦にとって、人間の生死という問題は、極めて身近な問題であり、特に苦労をかけた伴侶を労わり合う気持は、私には骨身に応えて身に沁みる問題である。
人間の生き方に就いてまたまた考えさせられた。

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2006年5月24日 (水)

生きる

2005年8月、或る篤農家の話として「忘れない」を書いた。

そのK.H.さんから先日アスパラが送られてきた。その包みの中に例によって手紙が入っていた。今までのような筆書きではなく、ボールペン書きだったが矢張り達筆である事に変りはない。 「リウマチ性の神経痛が年毎にひどくなり腰痛のみならず、手のふるえで文字を書くことが嫌になり殆どペンを手にしなくなりました」 と、言いながら便箋5枚に、懸命に書いたであろう文字が並んでいた。その一部には次のようなことが書かれていた。文中( )内は私の注釈を示す。

「(ペンを手にしなくなった現状に就いて) 行過ぎた文明は地球と生物が育ててきた文化をも蝕むものと、生まれながらの天邪鬼の生き方で、最近の便利主義のあり方に抗って、パソコン等も習得しなかったので、不便に耐えています。
いずれにしても3年余の戦争経験が、人生観を大きく変化させた事は事実ですが、農業が充実感に満ちた人生を産んでくれました
     節くれてふるえ止らぬ掌に
       生きとし生きし稼ぎを思ふ
……定期健診の医者に『今年も病状に余り変化が見られないので自家用農業は出来ますよ』と言われ、老農の遲い春の仕事が始まりましたが、アスパラがどうやら芽を出し始めたので少々お送りします。
作物は人間より素直で正直ですので手抜きをすると、そのまま答を出しますので、やはり今までより食味が劣るようになりましたが(そんなことはない)、安全第一の有機栽培ですので安心してお召し上がり下さい(写真は頂いたアスパラの一部)。

Asparagus

(奥さんの膝痛のことや、重作業の出来なくなったことなどが述べられた後) 80歳を越えると色々と身辺にも問題がありますが、歳歳の取り組みにそれなりの挑戦する課題を考えますと、年齢の衰えは忘れて楽しい生活を味わえる事が判りました。
随分乱暴な文章になり(そんなことはない)、失礼な手紙になりましたが、書き直しは面倒なので、唯ただそれなりに元気で今年も生きている事が判って貰えればと思います。
アスパラの食味に関係させないで下さい。
信州は良い所ですのでお子さん達にも見せてやって下さい。
     花舞いてさ緑の葉に覆れて
        生命をつなぐ実が育ちつつ 
     平成18年5月連休明け   K.H.生より皆様へ」

と、あった。送られてきたアスパラは、根元まで柔らかく、久々に本当のアスパラを賞味出来た。心を込めて作ったアスパラの味は格別だった。
篤農家の誉れ高いK.H.さんが、信州の小字で懸命に生きている姿を眼の辺りにする感じがする。       

       

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2006年3月20日 (月)

続、そこに夢があるから

沢木耕太郎著「」の読後興奮覚めやらぬ内に、雑誌「選択3月号」が送られてきた。この雑誌は完全予約制で店頭販売はされていない。その3月号の中に山野井妙子の記事が掲載されていた。

sentakuこの雑誌に、この種の記事 が掲載されるのは珍しい。内容は 「登山家・山野井妙子の『驚異の不屈』・指18本失ってもなお岩壁に挑む」 がタイトルである。其の記事の一部を、「そこに夢があるから」 の補足として抜粋記述する。

「何度も生死の境を潜り抜けてきた二人は、壮絶な状況の中でも決して生きることを諦めない」

「二人はどの山に登ってもゴミ一つ残さない事を自らに課してきた」(註:事実、帰国後体力の回復を待って、其の時のロープの切れ端を回収に行って、それは探し得ず結果的に、他人が捨てていった缶1個を回収して帰った)

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「二人の登り方は自らの身体を鍛え上げて、シェルパや固定ロープ、酸素ボンベなどの補助道具に頼らずに、少人数で困難な岩壁や高峰を登ろうとするスタイルである」

「TV局からエヴェレスト登山を打診され、高収入になると判っていても、自分の山ではないと拒否している。自分の金で自分の望む山へ自分たちの思うスタイルで登る。それが二人のこだわりなのだ」

「94年には、登山界をあっと言わせる記録を打ち立てる。世界第6位のチョー・オユー南西壁を、遠藤由香と二人で登ったのだ。超一流のクライマーが日本にいて、それが女性である事を世界に知らせる快挙となった。泰史も同行し、単独で南西壁新ルートから登頂している。三人の隊は装備・食料総重量250Kg、8000m峰の登山隊としては驚くほどシンプルな隊だった」

妙子はギャチュンカンに挑む時には既に両手指に傷害を持っていた。91年8463mのマカルーを無酸素で登頂した帰路、厳しい洗礼をうけ両手足の指18本を失いそのほとんどは第2関節の上からの切断である。ギャチュウカンでは更に第2関節の下となったが…。泰史は、ギャチュンカン登頂の凍傷で、右足の指全部と両手の指5本を失った」

「ギャチュンカンでの苦闘の描写に、沢木(「凍」の著者)のこんな一文がある。『なにより、妙子の強さを支えているのはその強靭な精神力にあるように思える。自分はクライミングが好きだという一点から揺らぐことがない。妙子は、好きなクライミングをしている限り、どんなことでも耐えられるのだ』と。泰史と共通した強さである」

私的補足:①選択に記されているギャチュンカンの高度は7952mとなっているが、諸説がある。さきに書いた「そこに夢があるから」の7985mは、チベットからの正式入山許可証に記載されているチベット山岳協会公認の高度である。  ②山野井が登るコースは、前人が未だ実績のない新ルートを常に目指す。登れるということと、登れたという事はとてつもない大きな情報である。たとえ登られたルートの詳細がわからなくとも、誰かが登ったというだけで、その山の難しさの何割かは減ることになる。

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2006年3月18日 (土)

そこに夢があるから

山の友人に根岸利夫(文中敬称略、以下同じ)が居る。彼はヨーロッパ三大北壁(アイガー、マッターホルン、グランドジョラス)の内の二つまでを登攀登頂した猛者で、彼が常住する山小屋には三連休以上になるとクライマー(登攀者)達が時々集まって来る。其の中に、鉄人登山家と言われるラインホルト・メスナー等と並び、現時点で世界最強クライマーと呼ばれる山野井泰史と其の妻妙子も時々やってくる。

ある時、根岸から「今、山野井君等が来ているから来ないか」と声が掛かった。日登(日本登攀クラブ)のメンバー6人が来て居てその中に山野井夫妻も居た。写真後列の真ん中は根岸、その両側は山野井夫妻である。

2002年秋、泰史はヒマラヤの難峰ギャチュンカンに単独登頂後、下降中嵐におそわれ妻・妙子と共に決死の脱出を試み、高所ビバーク、雪崩の襲来、視力低下、食料も登攀具も尽きた中で奇跡的な生還を果たした。こうしたこれまでの果敢な挑戦を認められて、2002年度の朝日スポーツ賞、第7回植村直巳冒険賞を受賞した。

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丸山直樹著「ソロ(単独登攀者 山野井泰史)」によると、「妙子solo はマッキンリー、エベレストなど多くの高所登山を経験し、男より強い事で知られている。グランドジョラス北壁ウォーカー側稜を女性では初めて冬季登頂を成功する等クライマーとしても一級の実力を持ち……」と記されている。勿論現在日本に於いて女性最強のクライマーであると共に世界有数の女性クライマーである。

一般の登山家は、スポンサーをつけて費用を賄うのが普通であるが、山野井は自分で稼いだ金でしか登らない。其の上、夫妻はTVやマスコミに出る事を好まない。

彼らのクライミングのスタイルは、「アルパイン・スタイル」と言う。古典的な「極地法」或いは「包囲法」とよばれる大規模な登山方式は、第一キャンプ、第二キャンプを設営し、最終キャンプから選ばれた人が山頂を目指す、総力戦であるのに対し、アルパイン・スタイルは酸素ボンベも持たず出来るだけ軽装で、ベースキャンプから一挙に単独で山頂をめざす。従ってスピードが要求される。vertical_wall

ギャチュンカン登攀は厳しかった。5900mから6700mまでは5時間弱で登れたがそれからの300mを登るのに、実に11時間を要した。その間、全く飲まず食わずだった。頂上を直前にして妙子は体調から登頂を諦め、泰史は単独で登頂する。8000m級の山は居るだけで体力が消耗する。従って単独登頂したら寸刻を待たずに下降する。事実泰史がギャチュンカン登頂を果たした時も頂上で泰史は亀が首を動かして辺りを見回すぐらいのことしかしなかった。登ってきたルートを降りるには傾斜がきつすぎる。遠回りになるが少しでも傾斜のゆるいところを選んでクライムダウン(後ろ向きになったまま降りて行く方法)してゆこうと泰史は決心した。

山野井泰史著「垂直の記憶」には死の恐怖と戦いながらの記録が克明に記述されているが恐らく文字で表現する事が不能なことの起こっているのが実態であろうと思う。その本の中に、ギャチュンカン登攀の事も記されているが、凄惨な戦いであった事が判る。tou

ギャチュンカン(7985m)登攀の凄惨な戦いは、沢木耕太郎著「凍(とう)」に詳しい。

突然の雪崩、それも何回も襲ってくる。電車やバス程の氷のような雪の塊が、突然轟音と共にくる。妙子は50mも吹っ飛ばされ、巌から垂れ下がったロープによって宙ぶらりん状態で留まった。泰史が打ったハーケンが効いていた。巌の角でロープは黄色の外皮が切れ、中の白い芯も切れ掛かっている。妙子は、いちかばちかで 、2mほど右にある固そうな雪の壁に振り子のように体を振って飛び移ることを試みる。或いはロープが切れてしまうかも判らないがやるしかなかった。何回か敢行して壁に張り付く事が出来た。体だけは確保したものの衰弱が激しく視力がなくなってくる。

ベースでは物凄い雪崩と、下山時間が過ぎても下山しないので遭難したものと考えていた矢先、衰弱し視力を殆ど失いかけた泰史が、夢遊病者のようにたどり着いた。ベースを引き払う寸前だった。それから妙子の救出行が始まる。かくして奇跡的に九死に一生を得て二人は帰還するが、手足の指を凍傷で失う等代償も大きかった。

何故これほどまでして山に登るのか。嘗てマロリーは「そこに山があるから」と答えているが、識者によれば「そこに対象があるから」が本意と言う。

山野井には「山は征服するもの」という不遜な考えはない。あくまで山に対する畏怖と謙虚さを持ち続ける。丸山に依れば、泰史の「ソロ」への固執は「山登りは夢なんだ。それこそ世界中に夢がある。だから自分は一生夢を見続けられる」であり「其の先に本当の自分が見えるから」である。そうした高みを目指す人間の生き方そのものに他ならない。

異次元の世界と言えばそれまでのこと。私はこれほどまでに打ち込めるものを持っている山野井の生き方に、一種の羨望と敬意を覚える。(文中、「ソロ」「垂直の記憶」「凍」より、本意を一部引用した)。

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2005年8月 2日 (火)

忘れない

長野の在に、私の従兄で篤農家の誉れの高いK.H.さんがいる。今年83歳になる。彼からは毎年、今頃の時期になると丹精を込めた桃が送られてくる。

彼は小学校しか出ていないが、終始首席で通した頭脳の持ち主でもあり、高等小学校卒業後、最初は旧国鉄時代の長野工機部(当時は入るのが難関だった)に勤めたが、家業の農業に専心する為に中途退職して現在に至っている。この間ありきたりの農業に飽き足らず、品種改良や収量増加に工夫と改善をすると共に、其れを無償で他の農家にも提供したりして、篤農家として地元だけでなく東京まで行って表彰された事が何回かある。

彼から今年も桃が送られてきた。何時も筆書きの達筆な書面が入っている。今年も入っていた。

「(前略)小生も百姓として働き続けて半世紀。定年の無い百姓の人生にも老齢という限界がある事を八十路を歩み始めて知りました。桃作りも本年をもって卒業したいと思います。長年未熟な味を御賞味いただき有難う御座いました。今年の桃の味をどうぞ覚えておいて下さい。

    老いの身の生きとし生きし農の味を桃の香りに想いをこめて

平成十七年盛夏  K.H.生より皆様へ」

とあった。味も忘れまい、それ以上に心は決して忘れない。

このように真摯に生きている人たちを思うと、国民の血税を無駄使いしている輩の存在を見逃すわけには行かない。昨日(8/1)の夕刊読売新聞には、国費を使って海外留学後、早期退職する若手キャリア官僚が増えている問題を取り上げている。さすがに人事院も放っておくわけに行かず、留学費用の返還を義務付ける新たな法制度を導入する方針を固めたとあるが、此れなども国費を使って、個人的なキャリアアップに使われている一例で税金無駄使いの氷山の一角とも言えるのではないか。

(添えられた手紙と共に送られてきた桃の一部~テーブルの上で撮る)

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(送られてきた桃の一部~芝生の上で撮る)

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