2017年3月30日 (木)

今年もまた白木蓮

毎年、卒業式が近付くと木蓮通りに白木蓮が咲く。
今年も咲いた。毎年の花だが想いは段々深くなる。Photo_2

今まで何度か木蓮に寄せる想いを書いてきた。
   2006/02/17 木蓮通り
       2006/03/08 続、木蓮通り
       2007/02/28 歳々年々
       2009/02/25 続、歳々年々
       2011/03/16 再度、木蓮通り
       2012/03/19 年々歳々
       2013/03/27 続、年々歳々
       2014/03/30 今年も咲いた
   2015/04/30 次々に花が咲いた
       2016/03/11 或る葉書に託して
のように年々歳々、白木蓮を見る度に想いは深化してきた。

  来年の桜を思ふ齢かな  野坂民子

想いは同じである。

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2016年8月31日 (水)

消えゆく平和の調べ

八月は六日九日十五日

などと言われて、太平洋戦争を経験した人にとって又、言い伝えられている戦禍に就いて聞いている人にとっても、あの六日、九日、十五日の各サイレンに合わせ黙祷する時は粛然と襟を正す。

8月終戦記念日の直前の8月13日に、中日新聞に「消えゆく平和の調べ」という記事が載った。内容は、ヤマハが開発した「ミュージックサイレン」に就いてである。

一部記事を引用すると『戦争直後、ヤマハ(浜松市)は人々の心を和ませようと名曲の優しいメロディーで時を告げる「ミュージックサイレン」を独自に開発した。平和な時代が訪れた事を伝える戦後復興の調べだったが、生産は18年前に終了し、今も残るのは全国でわずかに9台。修理の対応も今月末で終り、機械が故障すれば聴けなくなってしまう可能性が高い。戦争の記憶を刻む音色は、消滅の危機にある。』
とあって、ミュージックサイレン開発の由来とその役割に就いて詳細に記録されている。

浜松市は戦時中は、爆撃や艦砲射撃にあって壊滅状態に近かった。
それだけに戦後になっても、工場の始業や終業を知らせる戦時中と同じサイレン音は、(あの戦時中の米軍機の空襲、艦砲射撃の都度鳴らされた)、不気味な「警戒警報」や「空襲警報」のサイレンの音を思い出させた。

あの不気味な音を、サイレンの特質を生かして、美しい音曲を奏でるサイレンに出来ないかと「ヤマハ」の前身である「日本楽器製造」の当時の会長であった、故川上嘉市氏の発案で開発されたのが、このミュージックサイレンである。

名曲を奏でるミュージックサイレンの大きな音量は、ただに時を告げるに止まらずPR効果も抜群とあって、一市に1台という方針で販売されて北は北海道から南は沖縄までも据えられたと聞く。
今、時の移ろいと共に前述の中日新聞の記事のような経過を辿っているが、同記事の中に三重県伊賀市のサイレンの継続に就いての感動的な記事があり、ミュージックサイレン開発当時の関係者に多大な感動を齎している。

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2016年5月31日 (火)

三方原開拓防風林

我が家から程近くにテクノロードと言われる道がある。中央分離帯のある片側2車線の長い直線道路である。

その脇に押しやられるように昔の道があり、通称満州街道と呼ばれている。その名前は満州の街道のように真直ぐに三方原大地を貫いているからだろう。

その満州街道沿いに三方原開拓防風林と呼ばれる防風林がある。
Img_6406ajpg_2  上州と並んで遠州地方は風が強い。特に冬の空っ風は強い。
この強い風が木材などの乾燥には適していてそれが浜松地方に、ヤマハを始めとする楽器産業を育てた一因とも言われているがそれが一因であることは諾える。

写真は、いつも時期を違えず咲く桜を保護するように桜に添っている防風林の状況であり、防風林の中にはこのような散歩道もあって、今は遊歩道となっている満州街道とともに、住民の散歩や憩いの場にもなっている。

テクノロード沿いに、三方原防風林の歴史を刻んだ碑が2012年付で作られた。それによると、
『三方原開拓地は太平洋戦争後1945年から旧陸軍軍用地の払い下げを受け、食糧増産のため復員軍人、戦災者、近隣農家の二三男などが入植し開拓した。
 遠州の「空っ風」を防ぐ為防風林を植えました。以来60余年500戸の農家が防風林の維持管理下草刈りを無償で行ってきたものであります。
 今回その一部の浜松環状線沿いの防風林を浜松市に寄付することになり2012年度からは浜松市が林の保全を引き継ぐことになりました。
 ここに以上の歴史を記して市民の皆様のご覧に供するものであります。』
と記されている。

このような歴史を持つ防風林だが、戦後71年の歴史を刻んだ防風林の松も、老化と松食虫等の被害もあって一部には枯れた所もあり、その枯れの繁殖を防ぐ為に部分的には集団的に伐採され昔の影も残さないところもある(写真)。Img_6427ajpg当時とは自然環境も、社会的環境も変り、今となっては色々議論もあるだろうが、出来れば 何とか昔の姿に戻すことが出来ればと望んでいる市民も多いと思う。

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2016年4月30日 (土)

花の陰で

今年も桜が例年のように咲いた。何時もの年のように何時もの場所に咲いた。

この季節、人はみな上を見ながら歩いている。朝も昼も夕も夜も。
Photo_3 Photo_4

今は一面の葉桜になっている。
冬の寒さに耐え、春に立派な花を咲かせるには、桜にもそれなりの陰の努力があっただろう。
そう思って桜の根元を見ると石畳が荒れて補修の後が見える。桜の懸命さの跡が垣間見える。

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2016年3月31日 (木)

時期が来ると

娘が庭の桜が咲いたと言って一枝持って来てくれた。

Photo                                壺にして洋間華やぐ山ざくら

又、我が家の玄関脇の常盤金縷梅(ときわまんさく)が今年も咲き始めた。
160331                                歳々の花にしあれど今日の花

                         今日で3月も過ぎる。これから花頃になる。
                                    年々歳々花相似
                                   歳々年々人不同

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2016年3月11日 (金)

或る葉書に託して

旧友Bさんから過日思いがけず電話を頂いた。その返礼も兼ねて返信。

過日はお電話を頂き有難う御座います。Y社OB会員の「趣味の作品展」、今年は初日にお伺いして拝見しました。いつも其の力作ぶりに感心しています。会社生活の時には、そんな才能の片鱗も見せなかった人たちの何処にこんな素晴らしい才能があったのかと感心し尊敬し羨ましく思っています。

 Bさんとは会社生活を離れて、今までお会いする機会も無かったのに、あの場所であの絵(Bさんも絵画部門に出品)でお会いするとは夢にも思っていませんでした。絵の描ける人は心も優しい人でしょうね。私のように絵も描けない者からしたら羨ましい限りです。これからも良い絵をお描き下さい。

 

 別件ですが、我が家の近傍に、通称木蓮通りと称する白木蓮が道路の両側に約8kmに渉って続く道があります。そろそろ学校の卒業時期になると立派に花を咲かせてくれます。今年も今、満開です。

年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず

Photo

いつもこの詩を思い出しながら、散歩しています。

 空に哨戒機が飛んでいました。

 今日は東日本大震災から5周年。

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2015年11月13日 (金)

返り花

今年の春咲き誇った、の花が時期外れの今また咲いている。返り花である。十月桜などとも呼ばれている。

Img_6276_2 鷹羽狩行氏は返り花のことを、
  人の世に花を絶やさず返り花   と詠っている。

「花がほとんどない季節だけに自然からの授かり物のように思える」と片山由美子氏は述べているが、所詮寂しい花であることに変りはない。

今年は例年より温かいのだろう。今までこんなに揃って咲いたのは始めてである。

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2015年4月30日 (木)

次々に花が咲いた

今年も花は咲いた。
Img_5705Photo

今年も咲いた

白木蓮も桜も立派に咲いた。
しかし晴天が少なく雨に祟られた期間が多くそれだけ花を観賞する時間が少なかった。でも少ない時間ながら例年通り咲いてくれた。

我が家の庭の常盤まんさくも躑躅も咲いた。
Photo_2 Photo_3

疲れた時に庭の花を見ていると気持も安らぐ。
最近では日本の四季の区別も前のように明確ではなくなって来ているがそれでも日本の四季の眺めは嬉しい。安らぎを与えてくれる。

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2014年5月 1日 (木)

環境という壁

環境という壁

NHKの朝ドラ「花子とアン」が放映されている。

「赤毛のアン」などの英米児童文学の日本語訳版などの著者として知られる村岡花子の半生を描いた伝記作品である。

1893年、山梨県甲府の貧しい家に生まれた、はな(吉高由里子)は幼い時から家の手伝いに明け暮れていたが彼女が7歳の頃、父吉平(伊原剛志)から貰った絵本に興味を持ち、父に導かれて尋常小学校に通い始める。彼女の聡明さを感じた父は、彼女を東京のミッションスクール・修和女学校へ編入学させようと動き出すが、家族や周囲の反対にあって諦めざるを得なかった。しかし、はなの本を愛する気持が3年の年月を経て母ふじ(室井滋)や祖父周造(石橋蓮司)を動かし編入学を果たす。話はそんな所から始まる。

 此処で「環境という壁」に就いて思う。

 はなの時代の就学状況は随分厳しかったであろうが、昭和も戦前までは所謂旧制教育制度の時代で、義務教育は尋常小学校まで。一村から中学校(旧制)へ行ける人はせいぜい3,4人くらい、それもそれなりの才能があり且つ、ある程度の財力のある人に限られていた。

                    

しかしそれ以上に感じるのは「環境という厚い壁」であった。

因みに兄二人が(旧制)高校から大学へ進んだ家庭に育った私の友人がいる。彼の家庭環境からすると、彼が中学へ進むのは当前であり何の壁もなかったであろう。

しかしそのような恵まれた家庭とは違って貧しい家にあっては、子供に優れた才能があっても親に其の気がなければ「進学」は考えられなかった。つまり環境の壁は厚かった。子供もそれが判っているだけに敢えて言い出せなかった。

 

それを思うと、ドラマの中の話とは言え、はなの父は偉かった。子供の才能を見出しただけでなく、其の才能を伸ばすべく、自から行動を起し進学させたたことは当時としては画期的な出来事であった筈だ。

 

 昔の先生の中には所謂聖職と言う名に相応しい先生がいた。教え子の才能を伸ばすために親や家族を熱心に説き伏せた先生、そのような先生との出会いによって進学への道が開け人生までも変った人の実例を私は知っている。その熱意を思うと昔の先生は偉かったと思う。

 今の先生は昔とは違った状況下で、大変な重圧の中でのお仕事と聞いているが、目的は昔も今も変らないであろう。

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2014年3月30日 (日)

今年も咲いた

今年も通称木蓮通りの白木蓮が咲いた。Img_4925 今時分の気候は3日の晴れ間なしと言われて、雨や強風の日が多い。ご多分に漏れず今年も例外ではなかった。写真は3/15に撮ったものだが其の後、所用で信州へ2日ばかり行ってきたら雨、雨後は強風で殆ど散っていしまった。

木蓮通りの桜の花は今満開だ。最近は白木蓮と桜の間が縮まったように思う。
最晩生の白木蓮の花が一本何とか花をつけていた(写真の桜の左の一本、下に花びらが散っている)。Img_4949 古木の桜もこの一瞬の為に厳しい冬を越してきたのだと思うといとおしく思う。

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