2015年2月13日 (金)

卒業歌

私の小学校時代は、

上海事件や226事件そして支那事変へ拡大する戦時一色の時代で、日本全体が暗く貧しかった。

私は幼い頃から農家の一戦力として朝から晩まで働いた。小学校に入学してからも学校から帰ると直ぐに畑や田圃に出て働き又、林檎農家の袋掛けに行って小銭を稼いだりもした。

そんな時代であったが、今から考えてみて殊更貧しいとも思わなかったし、心情的には比較的ゆとりのある時代だったように記憶している。

そんな小学校時代の思い出の一つが、私たちの時代に歌った卒業歌である。

一つは、今も歌われているかも知れない仰げば尊しわが師の恩」で、

もう一つが今は歌われていないであろう懐かしい卒業歌である。記憶を辿って歌詞を書いてみる。

在校生

年月めぐりて早ここに 

卒業証書を受くる身と

なりつる君等が嬉しさは

そもそも何にか譬うべき

卒業生

我等はこれよりいや深き

学びの道や生業(なりわい)を

勤め励みてみ恵みに

報いまつらん今日よりは

全校生

朝夕親しく交わりし

嬉しき想いをさながらに

別れて幾年(いくとせ)隔つとも

互いに忘れじ忘るまじ

こんなことを懐かしむのも歳のせいであろう。

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2012年9月 4日 (火)

敬老の日

今年も亦「敬老の日」がやってくる。
昔の祝日には、「父の日」も「母の日」も「敬老の日」もなかった。
ひねくれて考えれば「父の日」がなければ父の恩愛を、母の日がなければ母の慈愛を、敬老の日がなければ敬老の心もなくなってしまったか、薄れてしまったかとも思う。
この分だと、今後も「なんとかの日」が増えそうだ。

嘗ての日本では、二世代または三世代同居が一般的であり幸せな時代であった。
子供たちは年輪を積んだお年寄りから、生の声で昔話を聞いて、心の中に深く刻み込み、豊かな情操を育んでいった。
しかし少子高齢化と共に、核家族化が進む中で育った子は、そのような心の豊かさが次第に希薄になってきたのではないか。価値観も変ってきたのではないか。

昔は尊属殺人などは新聞の一面トップ記事だった。今は所謂三面記事扱いだ。背景には教育制度の改悪も大いに関与しているのは周知の事実である。

人は何れは年をとる。この世に生を享けた者の宿命である。年の取り方に個人差があるのは当然のことながら、肉体の衰えを感じ始めたときに「年齢」を意識する。

此処で、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」を参考に引用する。

『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦却ける勇猛心、

安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年

月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる

事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く

求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。

  人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。

  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。』

U誌に「小説・路傍の石」の一説と、米国の詩人ロングフェローの言葉が引用されているがウルマンの詩と基本的には同様である。

最近の「敬老の日」というと、
 
   来賓の祝辞ながなが敬老日

を思い出す。時は解散風が吹きまくっている。議員さん達は此処を先途と走り回ることが予想される。そんな敬老日は益々「敬老」の実質とかけ離れたものになり兼ねず軽薄な「敬老日」になることが予想され覚めた物を感じる。老人自身の自覚も必要なことは言うまでもない。
思い出したような一日だけの「敬老の日」ではなく常日頃の中にその精神を生かしていってもらいたいものだ。

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2009年5月 5日 (火)

一粒の豆

今から20余年前、Y社に在籍していた頃、元NHKアナウンサーのSさんから聞いた話がある。一緒に聞いた人も何人か居た筈だが今は誰が一緒だったかは記憶にない。
Sさんによれば、この話は実際にあった話でフィクションではないという。その時の話の断片は、今も鮮明に覚えている。当時のメモを元に要約する。

一粒の豆を自分の生きがいにしているお母さんの話

お話に先立って
小学校3年生の兄と1年生の弟を残して、交通事故で父が亡くなった。父は加害者ということで、残された僅かな財産を被害者に没収されてしまった。残された母は他人の好意で、3畳くらいの物置小屋で、親子3人が勉強机と食卓を兼ねたミカン箱一つを置いて、細々と暮らしていた。夜遅くまで働く母も、6ケ月経ち10ケ月経つ内に次第に疲れてくる。そして死のみを考えて暮らすようになる。そんな或る日、母は鍋に豆を一杯入れて、今夜はこれを煮て食べるように兄にメモを残して、いつものように兄弟が寝ている内に働きに出かけた。
兄はそれを煮て弟に食べさせたけれど、しょっぱくて弟は水をかけて食べて寝てしまった。

帰って来たお母さんが見たものは、お兄ちゃんが書いた手紙だった。
「お母さんご免なさい。でも、お母さん僕を信じて下さい。僕は一生懸命に豆を煮たんです。お母さんお願いです、僕の煮た豆を一粒だけ食べて下さい。そして明日の朝、僕にもう一度豆の煮方を教えて下さい。だからお母さん、明日の朝はきっと早く起こして下さい。今夜もご苦労様でした。お休みなさい。」

夜遅く仕事に疲れて帰って来た母は、その手紙を見て泣いた。
お兄ちゃんはあんなに小さいのに、こんなに一生懸命に生きてくれたんだ。申し訳なかった。母はお兄ちゃんの枕元に座り、お兄ちゃんの煮てくれた、そのしょっぱい豆を一粒一粒おしいただいた。周囲にたまたま煮てない豆が一粒残っていた。お母さんはそれを、お兄ちゃんが書いてくれた手紙に包んで、四六時中肌身離さず持って働いた。

10数年が経った。その間お兄ちゃんは塾へも行かず、夜は電気代節約のために、暗くなると電気を消してすぐ寝る毎日だった。
そして昭和50年、お兄ちゃんは大学を卒業して就職した。
「もしあの晩、お兄ちゃんが、この手紙を書いてくれなかったら私たちは、あの晩死んでいたでしょう。」と、後にお母さんはしみじみと語った。

今日は「こどもの日」。こんな話を聞いた事を思い出した。

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2006年1月10日 (火)

母から頂いた一枚の額

我が家の座敷に一枚の額が掛かっている。母が書道家の旭山(きょくざん)氏に依頼して書いて頂いた、長野県歌「信濃の國」の歌詞である(写真)。長野県を離れて異郷に居ても、常に故郷を忘れず、真摯に矜持を以って暮らすようにとの想いを籠めて贈ってくれたものと思う。

sinano_no_kuni 

この長野県歌には歴史的経緯があって、この歌が長野県の政争を救ったということもあり、長野県人は誰でも知っているし、集まる機会があると、この歌から始まるのが常である。

この歌の歴史的経緯に就いて、1998年8月の小林美津代氏の一文をご紹介する。

「信濃の国」は、1899(明治32年)漢文学者浅井洌により作詞され、1900年(明治33年)に北村季晴により作曲され、師範学校(現信州大学教育学部)の運動会のときに舞踏遊戯用の曲として発表された。その後、師範学校の卒業生により全県の小学校にひろめられ、校歌のように歌われた。また、これが名曲であったため、広く一般に普及し、1968年(昭和43年)県歌と定められた。

明治、大正、昭和にわたって、長野県における最大の政治問題は移庁、分県問題であった。北の長野県と南の筑摩県の二つの県が統合された長野県は,南北での地域の対立がことあるごとに、繰り返され、そのつど移庁、分県の論議が繰り返されてきた。

その中で、本歌の持つ役割は大きく地域住民の融和、統合の気分を盛り上げるのに大きな役割を果たした。1961年(昭和36年)の移庁問題のときも、「信濃の国」の大合唱が議場におこり移庁運動の幕がおろされるという、他県人には想像のつかないものを持っている 。

(歌詞にある、当時の景と現在の景とでは、時代の推移による一部の相違点もあるが、本意を考えると問題にはならない。)

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2006年1月 5日 (木)

「自分の人生だもの」

10年ほど前、ある詩から勇気を貰った。

「自分の人生だもの」

一所懸命走ってきた 迷いながらも臆さずに 不器用ながらも真剣に 嬉しいときも辛い時も ひたすら走ってきた 自分の人生だもの

時には悩みながら 時には一人ぼっちで 時には涙をこらえ 時には静かに燃えて 今も走り続ける 自分の人生だもの

なくした過去を思うより 明るい明日を見つめよう つまづいたって構わない 転んだって構わない ベストを尽くして走って行こう 自分の人生だもの

   励ましは一言で足る初電話  Alps 

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2005年10月20日 (木)

老師の一喝

2,3年前、NHKプロジェクトXで、「高柳健次郎氏とTVの開発」の話があった。其の時、私と私の友人との間で意見交換をした事があったが、それに似たような話が、去る10月16日の新聞に「老師の一喝」として橋本五郎氏の話が載っていた。

「30年前、大阪の高麗橋吉兆で『名月茶会』なるものが開かれた。正客(しょうきゃく)は今年8月、105歳で大往生した臨済宗大徳寺派の立花大亀老師、次客は松下電器産業の創業者、松下幸之助。国税庁長官から広告業界に転じた現博報堂最高顧問、近藤道生(みちたか)(85)をお祝いする茶会だった。

ところが正客が突然、次客にこう言い放ち、その場は一瞬凍り付いてしまった。

『君のお陰で、こんなに心がなく、物ばかりのいやな日本になってしまった。君の責任で直してもらわなければならん』

電化製品で便利になることは、精神的に退化することではないのか。老師はそう言おうとしたのだ。近藤さんら4人は、息をのみ、一斉に松下さんに目を向けた。しかし、松下さんは身じろぎもせず沈黙、その温容が崩れることはなかった。 云々」

と述べ、以下本論の政治の話になって行くのだが、老師の此の強烈な発言の裏に潜んでいる本音と温情を感じ、友人との会話を想起した次第。

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2005年10月 6日 (木)

良寛さんのうた

「こころよからぬものは…」

      ことばの多き、口のはやき、さしで口

      もの知り顔のはなし

      この事すまぬうちにかの事いふ

      唐ことばを好みてつかふ

      にくき心をもちて人を叱る

これは、「良寛さんのうた」に載っている「自戒のことば」と聞いた。今の時代に当てはめてみても、そのまま通用すると思うが如何なものだろうか。

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