2017年6月10日 (土)

椎の花

俳人協会・俳句文学館発行、平成29年6月の俳句カレンダーに星野恒彦氏の句が載せられている。杉浦功一氏の解説がある。

2906_21

抜け来る杜に一礼椎の花  星野恒彦

 『森の中で椎の花は見えない。青白く湿った匂いからそれが咲いていると知る。そして森を出て振り返ったとき、樹冠の上に雲のように白く咲く花を改めて目にするのだ。
 
 「杜」の字は神社の森を表すので、「一礼」はその奥に鎮座する神への挨拶。椎は古代から鎮守の森として守られた自然林を成す樹種の一つだ。
 
 作者によれば、この句は明治神宮での印象に基づくという。明治神宮は実は自然林ではなく、それに近づけて育成された人工林である。確かにこの句の「抜け来る」に古代的信仰は感じない。
 
 古代人は神に深々と祈った後、森から畏まりつつまかり出ただろう。つまりここに詠まれたのは現代の都市生活の習慣である。ただしその「一礼」も今後いつまで残るだろうか。これは失われゆく習慣の記録かもしれない。(杉浦 功一) 』

 私の故郷は長野市に編入された昔の村だった。

 産土神社は犀川神社といって、文字通り犀川を前にした田園地帯であったが今は、長野市の住宅地帯になってしまったので、様相は一変してしまった。
 しかし特に秋の収穫時期が済んだ頃の神社の秋の大祭には、古式床しい神楽が出て、伝統を厳しく踏襲した獅子舞と祭笛、そして芸術的な花火が奉納され大勢の人達がお参りする。

 私たちの年代の人たちは今も産土神社崇拝の念は忘れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月22日 (日)

海坂創刊850号記念号

俳誌「海坂(うなさか)」が創刊850号を迎えた。
Photo_2 本ブログでも過去に、

海坂創刊750号記念号
海坂創刊800号記念号

を紹介したが今回は更に850号の紹介となる。
由来に就いては上記750号、800号に詳しいが、更に850号までの経緯を書き加えている。
本850号に就いては『海坂に帆をー「海坂」850号を祝って』と題して、松平和久氏の一文がある。文中の一部を引用する。

『850号、気の遠くなるような話である。
昭和25年創刊当時の「海坂」を10冊ほど見た。20~28ページの薄い冊子。選者や筆頭同人らの句を除くと、活字は8ポ・7ポ・6ポである。しかしその小さなものは無限のエネルギーを蔵していて、「海坂」は今を迎えた。すぐれた指導者がいて、労を惜しまぬ幹部がいて、なによりも俳句の好きな人々がそれを囲んでいたにせよ、850号、気の遠くなるような話である。ただただ祝意を示すのみ。云々』とある。

当然のことながら、海坂850号を迎えてと題して鈴木裕之主宰・久留米脩二主宰の挨拶があり、加えて
「魅惑の俳人羽公と瓜人(鈴木裕之主宰)」
「遠州の俳人展・加藤雪腸師と百合山羽公師(和田孝子筆頭同人)」
「海坂と藤沢周平(鈴木裕之主宰)」の特集記事があり、加えて800号と同じく
誌友の「随想」欄には前回を上回る多数の誌友から「海坂に寄せる想い」が綴られていて圧巻である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月30日 (金)

原人句碑

浜名湖の最北端に猪鼻湖と呼ばれる、猪鼻瀬戸によって区切られた湖がある。その北岸一帯は三ケ日町と呼ばれる地帯でその中に只木地区と呼ばれる地区がある。

『その只木地区の採石場で、昭和33年秋に赤土の中から多くの獣骨化石が発見されて、専門家の鑑定結果、洪積世のものであると云う判定が為された。
そして又、三ケ日高校に保管されていた人類の腰骨数片なども見つけられた。

以来重なる調査結果、人骨発見は日本の旧石器文化の確認となったばかりでなく、当時の日本人の生活状況等を解明する貴重な資料ともなり学会に与えた影響、貢献は大なるものがあった。(俳誌「海坂」より)』

爾来色々の経緯があって、この場所に、俳誌「海坂」の主宰であり蛇笏賞作家である百合山羽公氏(百合山氏は同じく蛇笏賞作家の相生垣瓜人氏と海坂の共同主宰だった)の句碑が建てられた。「原人句碑」と呼ばれる。

原人の歯牙凍蝶となりにけり 羽公

A_2原人の歯牙が凍蝶となったという幻想がここに案内された時の荒涼とした印象から生まれた。(俳人協会刊 百合山羽公集より)』

と句碑の傍らの説明書に記されている。

又、句碑に就いて浜松市の説明書きには、
『この碑は平成5年3月に三ヶ日町教育委員会(当時)により只木遺跡内に設置されたものです。
只木遺跡で発見された「三ケ日人骨」は、調査当時(昭和34~36年)の分析技術では洪積世(更新世)と判断されましたが、後年、分析技術・機器の進歩により、縄文時代早期のものであると結論付けられました。
三ケ日人骨の時代観は変りましたが、私たちの祖先の記録がこの地に刻まれていたことに変りはありません。
発掘調査や遺跡の保存・活用のために尽力されてきた地元を始め、多くのかたがたに感謝すると共に、郷土の歴史・誇りとして、後世に語り継いでいきます。平成26年12月 浜松市』と記されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月 2日 (火)

花火

俳人協会・俳句文学館発行、平成28年8月のカレンダーに、俳誌「馬醉木」名誉主宰である水原春郎氏の俳句が掲載されている。清水節子氏の解説文がある。

 天上に君あり地には大花火  水原春郎

2808_11_2   『「自註 ・水原春郎集」に所収。平成16年作。

「伊豆高原の花火大会。榮之君が元気の時はいつも一緒で楽しかった。天上から見ているに違いない」と作者の言葉が添えられている。「天上の君」は「馬醉木」德田千鶴子主宰のご夫君である。

 「天上に君あり」と言い切った勁い措辞には、作者の「天上の君」への深い思いが溢れている。
 「天上から見ているに違いない」と述べておられる作者は、花火の打ち揚がる瞬間、天上へ呼び掛けておられるのかもしれない。

 大空に開く花火を見上げておられる作者の胸臆には、「天上の君」と一緒に過ごした遠い日が去来しているのであろう。

 「天上に君あり」の心情的な表情に対し、「地には大花火」の大胆な結びが印象的で、心を惹かれる一句である。(清水 節子) 』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月29日 (水)

俳句に託して

 俳人協会・俳句文学館発行、平成28年6月号の俳句カレンダーに千田一路氏の俳句が掲載されている。野上智惠子氏の解説文がある。

一呼吸しての返事や柚子の花  千田一路

 『平成20年の作。
 この句と出合ったとき、「あゝ、事に当たるときは、このような心掛けが肝要なのだ」と今さらにして思ったことであった。

 句の主眼は「一呼吸」。何事においてもおろそかにしない作者の誠実さと責任感。冷静、沈着な一面が計らずも表現されたといえよう。
 大切な取引も、電話やメール1本で片付ける昨今、一呼吸置いての返答は千金の重みがある。 秒単位の僅かな時間、思考を纏めて結論を下す微妙な間の取り方を衒いなく詠み上げ、瞠目させられる。

 掲句、膝を正し、返答を待つ人物の緊張した面持ちが浮かぶ。折しも庭先の柚子の花の清々しい香が、開け放した座敷まで流れ込み、対峙する2人を和ませるかのよう。
 清楚で地味な柚子の小花に、快諾の兆しが窺われる。第5句集『自在』に所収。(野上智恵子) 』

今年も半年が過ぎようとしている。折しも参議院議員選挙戦が熱を帯びてきつつある。
責任を伴わない権利主張ばかりが目に付く昨今の風潮の中において、このような一呼吸してからの返事をするくらいの責任感のある政治家が出てくることを望んでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月29日 (金)

唐寺

俳人協会・俳句文学館発行、平成28年1月号の俳句カレンダーに有馬朗人氏の俳句が掲載されている。宮田カイ子氏の解説文がある。

     唐寺の紅を濃くして初茜  有馬朗人
  
28011_2 『長崎で有名な出島や唐人屋敷が出来るまでは交流が盛んで、6人に1人が中国人だったという。
 興福寺は元和6(1620)年に創建された我が国最古の黄檗禅寺で、隠元豆で有名な隠元禅師は同寺の三代目。山門は朱色に塗られ、扁額は隠元禅師の手によるもの。
 私たちが子供の頃は、「アカデラ」と呼んで遊んでいた。境内には媽祖堂や鐘鼓楼などがあり、重要文化財としての威容を見せている。また斎藤茂吉の歌碑、有馬朗人、森澄雄の句碑が建っている。
 掲句は元日の朝の茜色に染まった朱の山門が、より紅を濃くして威厳を保ちつつ淑気を醸しているというものである。
 中国では慶びの色は朱色である。元宵祭では街全体がランタンで埋まり中華街も賑わう。
 朗人師も何回か来崎され、あちこちご案内させて頂いたが、その度に観照の深さと詩的直観に富む根源的な瑞々しい句を詠まれた。
 この句も、かつて中国にお住まいになったことのある、師ならではの唐寺を詠まれている。
 因みに興福寺の句碑は〈長崎の坂動き出す三日かな〉(平成11年)である。(宮田カイ子) 』

このような歴史的建造物やその歴史、そして有馬朗人氏の俳句もはじめて知った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年4月 9日 (木)

葱坊主

俳人協会・俳句文学館発行、平成27年4月のカレンダーに大石悦子氏のユニークな一句が掲載されている。

 先生の名を言うてみよ葱坊主  大石悦子

河野美保子氏の解説がある。
『作者は高校入学後に俳句を始められた、と聞いている。そして石田波郷を師と仰ぎ、その「鶴」一筋に励んでこられた。
 昨年上梓の自註にも、「波郷門を名乗る誇らしさ。師系を尊ぶ俳句の世界ならではのことだが、そこに意義づけをしなくてはと思う」と記している。この最後の一節こそ著者の一番告げたい思いではないだろうか。
 この句に葱坊主の季語を選ばれたことに感銘した。葱坊主は何方もご存知の通り、晩春、畑の隅などでよく見かけるが、特に目を引くものでもない。それでも葱坊主は真すぐ立っている。この句の葱坊主は、ご自分の分身かと思う。
 常に波郷門というプライドを胸に、努力し励んでこられた姿勢こそ尊いと思う。謙虚な、そして力強いのが大石悦子さんなのだ。(河野美保子) 』

因みに、平成26年4月の同カレンダーに、今瀬氏の

 先生の話を聞けよ葱坊主  今瀬一博

がある。俳句はたった17文字での表現であるから類想の出るのは良くあることだが、これは愉快な句である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月14日 (火)

句集「橡並木」

俳誌・白魚火(しらをび)副主宰である青木華都子さんから、句集「橡並木」を頂いた。

Photo 著者の「あとがき」に、『句集「橡並木」は私の第三句集です。平成十八年から平成二十五年までの句をまとめたものです。奇しくも今年(註:平成二十六年)は俳誌「白魚火」通巻七百号記念の年で、……自分で自分を励ます意味も兼ねて、第三句集を上梓する決心をしたのです。余談になりますが、NPO法人栃木県日韓女性親善協会の会長として、俳句と同時進行で今日まで近くて近い国韓国の女性の皆さんと互いに両国の歴史や文化、教育等の面で交流を深めて来ました。これからも女性の力で民間外交として更なる親善の絆を深めて参りたいと思っています。……』と、ある。

「白魚火」副主宰という重責を負いながら、且つ年に2度は韓国を訪問し、日韓親善の役目を果たし、時には日韓の通訳まで果すという活動家である。句にもさりげなくその状況が詠われている。

句集は、涼新た(H18~19)、神橋(H20~21)、橡茂る(H22~23)、チマチョゴリ(H24~25)の各章から成っている。



日常のありふれた景の中に常に新鮮な視点や発見がある

 春雷や鞄の底で鳴る電話

 沙羅の花寺に名入りの竹箒

 落ち鮎の泳ぐ姿に串打たる

 石畳継ぎ目つぎ目の草もみぢ

 座る位置変へて扇子の風貰ふ

 窓際に移して咲かす冬薔薇

 ホテルにも有る坪庭や芽水仙

 城垣をあみだ走りに青蜥蝪

判読の出来ぬ表札凌霄花 

 天気晴朗なれども梅を散らす風

 ポストまで歩いて二分梅雨晴れ間

 色変へぬ松や味噌屋の門構へ

 辻褄の合はぬ会話や秋暑し

 酔芙蓉明日咲く蕾数へをり

一読判り易いのに深みを感じる

 防火用桶にも家紋水温む

 宍道湖を狭むる程に蜆舟

 束のまま根付いてをりし余り苗

 涼新た塔に重ねし塔の影

 午後五時で点く門灯や虫すだく

 天気図は西高東低梅固し

 五稜郭五稜をめぐる水の秋

 霜柱踏んで朝刊取りに出る

 二代目の女将は二十歳蕗のたう

非凡な表現力と感性によって平凡な景が息づいてくる

 水底に戻る明るさ萩の花

 麦秋や杭一本の県境

 酒蔵の開かずの窓や日脚伸ぶ

 いつときといふ刻のあり虫しぐれ

 雲切れてより山紅葉谿紅葉

 水の輪に水輪重ねて水馬

日韓女性親善の桟として

 ニイハオの国の消印寒見舞

 片脚は韓半島に秋の虹

 温突に座せば会話の弾みけり

 初蝶を見しと韓国よりメール

心の揺らぎ

 何も彼も忘れたき夜の遠蛙

 ものの芽の疼き出したる雨の午後

 この峠越ゆれば他郷曼珠沙華

 冬蝶のかすかに動く気配して

 寝羅漢に春雪容赦なく積る

 散るさくらこれからといふ山桜

遠霞知覧に少年兵の遺書

 花は葉に知覧に朽つる特攻機

 茂りにも濃淡のあり橡並木

 歳月や今も母校に冬ざくら

 散り際の桜もつともさくら色

 三月の風あたたかき桜島

身だしなみの一端

 流行の色は桃色春ショール

 身だしなみほどの香水耳朶に

 探梅や口紅の色変へもして

俳句と日韓女性親善の二兎を追って二兎を得た女史の面目躍如たるものがある。

勇気と仄々とした読後感を頂いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月 4日 (金)

花吹雪

俳人協会・俳句文学館発行、平成26年4月の俳句カレンダーに鷹羽狩行氏の一句が掲載されている。
仲村 青彦氏の解説文がある。

   しばらくは青空のもの花吹雪  鷹羽狩行

『空へ吹き上がる花吹雪は向こうの丘からだろうか、公園が放ったものだろうか。「青空のもの」と詠まれた「花吹雪」は、其の量感・質とともに「しばらくは」と滞空時間の恍惚を伝えてくる。それは「花吹雪」と一体化した作者の恍惚にほかならない。絶妙で、なんとも楽しいかぎりである。

26041 句を読むとは句に浸ること。
だが、そのとき読み手は半ば無意識に、例えば、(青空にしばらく花の吹雪かな)などの句と並べ読みしている。と、(しばらくは青空のもの)に重なって、遊び歌「花いちもんめ」の世界が髣髴してこよう。「勝ってうれしい花いちもんめ/負けてくやしい花いちもんめ/あの子が欲しい/あの子じゃ分からん/この子が欲しい…」。
手をつないだ二組が掛け合ってジャンケンし、好きな子を取り合う遊びは、まさに「しばらくは青空のもの」の世界である。どちらが勝っても(空のものでも地上のものでも)「花吹雪」に楽しくないわけがない。(仲村 青彦)』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月19日 (水)

おくのほそ道

俳句で芭蕉と言えば直ぐに「おくのほそ道(奥の細道)」を思い出す。
Photo_4
『「おくのほそ道」は、元禄文化に活動した俳人松尾芭蕉による紀行文集。元禄15年(1702)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして…」という序文により始まる。

作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。読み易い文庫判は、岩波文庫、角川ソフィア文庫、講談社学芸文庫がある。

芭蕉が、ほとんどの旅程で弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年㋄16日)に江戸深川の採荼庵(さいとあん)を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている(蛤のふたみにわかれ行秋ぞ)。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。(wikipedia)』

俳誌「俳句」2012年7月号にも『はじめての「おくのほそ道」』と題する特集記事が出ていて、其の別冊に『書いて覚える「おくのほそ道」』がある。その中の俳句を取り上げてみる。

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家   人生は旅

行く春や鳥啼き魚の目は涙     旅立ち

あらたふと青葉若葉の日の光    日光
しばらくは滝にこもるや夏の初め 黒髪山
夏山に足駄を拝む首途かな     黒羽

木啄も庵は破らず夏木立      雲巌寺
野を横に馬引き向けよほととぎす 殺生石
田一枚植ゑて立ち去る柳かな    蘆野の柳
風流の初めや奥の田植ゑ歌     須賀川
世の人の見つけぬ花や軒の栗    栗の花

早苗とる手もとや昔しのぶ摺り   信夫の里
笈も太刀も五月に飾れ紙幟     飯塚の里
笠島はいづこ五月のぬかり道    笠島
桜より松は二木を三月越し     武隈の松
あやめ草足に結ばん草鞋の緒    宮城野

蚤虱馬の尿する枕もと       尿前の関
涼しさをわが宿にしてねまるかな 尾花沢
這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声
眉掃きを俤にして紅粉の花
閑かさや岩にしみ入る蝉の声    立石寺

五月雨をあつめて早し最上川    最上川
ありがたや雪をかをらす南谷    出羽三山
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰いくつ崩れて月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな

あつみ山や吹浦かけて夕涼み    酒田
暑き日を海に入れたり最上川
象潟や雨に西施がねぶの花     象潟
汐越や鶴脛ぬれて海涼し
文月や六日も常の夜には似ず    越後路
荒海や佐渡に横たふ天の河

一つ家に遊女も寝たり萩と月    市振
早稲の香や分け入る右は荒磯海   越中路
塚も動けわが泣く声は秋の風    金沢
秋涼し手ごとにむけや瓜茄子
あかあかと日はつれなくも秋の風
しをらしき名や小松吹く萩薄

むざんやな甲の下のきりぎりす   多太神社
石山の石より白し秋の風      那谷
山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ    山中
今日よりや書付消さん笠の露 
庭掃きて出でばや寺に散る柳    全昌寺

物書きて扇引きさくなごりかな 天竜寺・永平寺
月清し遊行の持てる砂の上      敦賀
名月や北国日和定めなき
寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋  種の浜
波の間や小貝にまじる萩の塵
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ    大垣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧