2014年8月 6日 (水)

広島原爆の日

今日は8月6日。広島は69回目の原爆の日を迎えた。広島の平和記念公園では雨の中「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われ、被爆者や遺族、安倍首相や米国のキャロライン・ケネディ駐日大使ら約45000人が参列した。

原爆が投下された午前8時15分には、平和の鐘が鳴らされ参列者が黙祷を捧げると共に、日本中の人たちも夫々に万感の想いを籠めて1分間の黙祷を捧げる。松井広島市長の平和宣言、安倍首相の挨拶等があった。

今は戦争のあったことを知らない子供らが増えているという。我々の年代からすると考えられない事実である。300万人もの犠牲者を出した戦争が忘却の彼方に…は情けないことである。

何故あんな戦争を起したのか。前に「統帥権」に就いて書いた。この日に当たってもう一度考えておきたい。前に書いたものを再現する。

統帥権(2011/8/31記を再現)

『文芸春秋八月特別号に「心に灯がつく人生の話」と題して、城山三郎、吉村昭、司馬遼太郎等10人の名講演集を掲載している。

そのうちの司馬遼太郎の講演は「日本の「電池」が切れるとき~組織というものは40年でダメになる」という題で講演している。(1992/06/02、東京よみうりホールでの講演)
その中で、「文章と其の解釈の重要性」に就いての論説がある。
其の中から適宜引用させて頂く。

「明治22年に憲法が出来た。其の憲法の基本に~これが日本の破滅につながるのだが~統帥権というものがあり、いま考えても嘘のような憲法解釈があった。陸軍ないし海軍の一番偉い人間が内閣総理大臣に相談もせず、隠れて天皇に会うことが出来る。これが「統帥権」で、帷幄上奏と称して総理大臣以下を無視して決める権利を持った。これが統帥権の基本で、日本を好きなようにしてしまった。」

「実は憲法が出来たけれどその解釈学が必要と言うことになり、美濃部達吉がイギリスへ、佐々木惣一がドイツへ留学した。
美濃部はイギリスに行って「天皇機関説」を考えたが後にそのために追われることになった。昭和10年のこと。」
「美濃部も佐々木も憲法解釈の本を書いた。二人とも三権分立を熱っぽく書いたが、その三権分立の最後に、小さな活字で「」と書いてあって、
美濃部の場合は「わが国の慣習として統帥権というものがある」と一行あるだけで統帥権は何かとも書いていない。
佐々木もそっくりの文章で「わが国の慣習として統帥権というものがある」と記されているに過ぎない。
イギリスは慣習の国であって、美濃部が、我が国の慣習として統帥権というものがあると書くのは「註」としても重い。ドイツは成分法の国で慣習を認めない。そういう意味では美濃部のほうが重大で、あとで「軍という魔物」をつくり出すもとになった。」

「日露戦争はやっと勝ったというのが実情であと1ケ月続いていたら駄目になったでしょう。しかし、やっと勝ったということを、新聞・雑誌・教育の現場で一度も教えなかった。バカな話で、軍が秘密にして、秘密にして、秘密にして遂にのちの戦争で国を滅ぼした。」

「昭和14年にノモンハン事変が起こった。ノモンハンは大平原で行われ、向こうは完全な機械化部隊だった。ところが日本軍は織田信長の軍隊のようだった。それは当時連隊長ををしていた須見新一郎氏の実体験で、其のことを氏自身が語っている。」

「昭和の始めぐらいの陸軍ではモスクワ駐在武官に何人も行っているが「ソ連の軍隊は日露戦争の時のロシア軍ではない。凄い近代装備に変わっている」などと書いたら「狂ソ病」として出世が止まった。」

「日本という国は恐ろしい国です。日中戦争を昭和12年に始めて、その間にノモンハンで敗戦し、それから僅か2年で太平洋戦争をやる国だ。それは全部、憲法の統帥権が悪かったからだ。」

「兎に角明治40年までは素晴らしい国だった。それがバルチック艦隊の最後の一艦が沈んでから悪くなった。」

8月30日のNHK「さかのぼり日本史~満州事変・暴走の原点」で、軍は遂に昭和天皇の意志も無視して暴走した実態を報道していた。それがのちに、何百万もの犠牲者を出した太平洋戦争につながった。
今、憲法第9条の解釈を巡って、自分に都合の良い様に、勝手に解釈をしているのが気になる。』

今日は2014年8月6日、広島原爆の日である。

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2012年7月31日 (火)

栗林・今井顕彰碑

敗戦日が近づいてきた。先の戦争を知らぬ世代が増えてくる中で、生命を賭して平和のために戦った武人の居たことを顕彰することは意義深い。

先に記した妖しき運命(さだめに述べた人間・栗林忠道と今井武夫を顕彰する碑が2012/04/16竣工した。
二人の母校である旧制長野中学校の「顕彰する会」が主体的に活動した結果で、写真はその竣工記念誌である。
Photo 碑の右半分は栗林忠道、左半分は今井武夫の略歴と事績を記している。

栗林忠道、1891年7月7日現長野市松代町西条に生まれ、長野中学(現長野高校)を経て、騎兵科を選び陸士・陸大に進み、米国、カナダ等での留学・勤務を経て。1943年東京師団長に任じられる(中将)。これより先、中国戦線泥沼化からの脱却の道として、軍の中枢が対米開戦に動きだしていた頃、栗林は巨大な軍事力をもつ米国との不戦を軍内部で進言し続けたが容れられず、44年6月国土防衛最前線の小笠原兵団長を命じられ、軍中枢は本土決戦体制を視野に、極秘に松代大本営地下造営工事に着手した
栗林は、同年7月サイパン島が攻略されるや、直ちに対米講和を上申したが握りつぶされる中で、自ら食事の階級差をなくすなど陣頭に立って戦闘を指揮し(註:硫黄島)、3ケ月余に亘る圧倒的物量攻撃の下で、味方を上回る人的損害を敵に与えつつ、「不戦の主張むなしく、多くの将兵と家族を犠牲にせざるを得ない悲しみ」を詠んだ、下記訣別辞世を打電し、1945年3月26日、2万余の将兵と死力を尽くし果てた(大将)。享年54歳。御霊よ、故山に帰りて安かれと祈る。

  国の為 重き努めを果たし得で
     矢弾盡き果て 散るぞ悲しき

                   栗林 忠道

左半分には、今井武夫の記事が刻まれている。

今井武夫、1898年2月23日現長野市北長池に生まれ、長野中学(現長野高校)を経て、歩兵科を選び陸士・陸大に進み、その間、朝鮮での訓練、朝満国境の警備、シベリア出兵、参謀本部員として満州事変を体験し、その後中国留学によって軍内きっての中国通となる。
1937年7月7日、盧溝橋事件が起こるや、北京大使館付武官補佐官(少佐)として、強硬派から刺されるのも覚悟して、中国要人との信頼関係を基に、即刻、現地停戦協定を締結したが、軍中央の拡大方針転換によって、その協定は即時に破棄され、中国戦線は泥沼化した。その後も、榮職参謀本部支那課長を自ら辞しての対中和平工作等も軍中枢に阻まれた。この句(註:下記)は戦後、戦争反省の著作に専念した今井が、あの「妖しき運命とは何だったのか」、万感の想いを込めて詠んだものである。
太平洋戦争ではフィリピン戦線「パターン死の行進」で理不尽な命令に抗して米比の捕虜約千名を釈放(大佐)、敗戦後は中国将軍との信頼関係で、邦人・軍人の早期安全引揚げに尽力した(少将)。1982年6月12日没、享年84歳、御霊よ、安らかにと祈る。

 銃音の妖しき運命(さだめ)合歓(ねむ)の花
                     
今井武夫

八月六日、九日は原爆投下、そして十五日は敗戦日。過ぎたこととして忘却の彼方へ埋没してはならない。
今、改めて顕彰碑の意義を考える。

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2012年5月 3日 (木)

原発問題に絡む或る交信

原発問題に絡む、友人からの所信に対する交信記録の一部から。

 『指摘されて始めて気づくのは感度の問題。最近感じるのは、政治の貧困とマスコミの堕落、そして我々国民全体の意識レベルの低さである。

今から800年ほど前、鴨長明は「方丈記」の中で元暦の大地震に付いて触れ「おびただしく大地震ふること侍りき、土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷にまろび入る。なれど月日かさなり年経し後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」と、既にしてこの時代に災禍の教訓が生かされないことを嘆いている。

昔の小学校の教科書に「稻むらの火」という記事があった。今のような通信手段や警報やその伝達手段の発達していなかった時代、津波の来襲を村人に緊急に知らせる為に高台にあった庄屋さんが自分の稲むらに火をつけ、それを見た村人が庄屋さんの家が火事だと駆けつけたために村人の命を救ったという話である。その教訓は以後今日までどのように生かされてきたのだろうか。』

と、書いたがこれは、原発問題などない時代のこと。

今は原発問題が更に加わる。お恥ずかしいことながら、以前は私は根拠もなく原発の危険性をそれほど感じていなかった。

例えば日本の原発技術は世界でも最高水準にあると思っていた。それこそ根拠もなく。それが3.11があって他愛のない妄想だと知った。79年のスリーマイル島、86年のチェルノブイリ事故、特にチェルノブイリ事故があったとき、ソ連(ロシア)という国の体質を先の戦争を通して知った我々世代は、その体質と関連してあの国の原発技術はそんなものかと思った。日本では考えられないとも思った。それが間違っていた。

それにフランスなど地震や津波の起こる可能性の極めて少ない地方と同じ基盤に立って、日本の原発問題を論ずる愚かしさを知った。日本列島を取り巻く地形を考え、その上に建てられた原発を思うとフランスなどとは別の対策を建てなければならない。

北の、ならずもの国家が意図して一発打ってきたらなどと想うと、自然災害、人的・技術的事故それに破壊活動によるものも想定に入れると更に問題は深刻さを増す。

関与する機構やそれに人脈にも問題がある。

本質論を置き去りにして小手先の議論や、それに加わる御用学者等、先の戦争の主導者や大政翼賛会も思い出す。

傾きかけた会社の再建には根本的な解決方法は別としてまづ「出づるを制し、入るを計る」が原則。

一例だが、路傍の自販機など全廃すれば発電所の一つや二つ減らすことが出来ると私は以前から提唱しているが所詮は犬の遠吠え。関連企業の反対、それに利益代表議員が動く。車の性能が昔に比べ格段に向上しても、依然として2年に1回の車検。これも見直そうとすると同じく業者・議員の反対。

 自然エネルギーの取り込みによる発電など法整備も進まず、奨励策もお寒いもの。この道の先進国に学べばよいものを。

原発問題からは多少横道に逸れるが、議員定数の削減、鉄道フリーパスの全廃等自らの痛みに関係する所は知らぬ顔。今は選良などとは程遠い。業界や地域の利益代表だけで国家の為にとか、国民の皆様は言葉だけのもの。

  政治・財界・マスコミ等を含めて、今ほど本質的な改革を望まれる時はない。強烈なリーダーを望む時はない。日本には今、嘗ての中野正剛、イギリスのサッチャーのような鉄の意志を持った人材が何故出ないのだろう。これは国民全体の意識レベルの低さにもあることを認識しなければならない。

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2012年3月10日 (土)

共産党最後の日

「忘却とは忘れ去ること」という台詞があった。人間の記憶力には限界もあるし、薄れることも忘れることもある。「共産党最後の日」は強烈な印象があるが、その時の記憶には案外朧な部分が多い。

日経新聞に「私の履歴書」という欄があり、その記事の中で、嘗て元米国防長官であったウィリアム・J・ペリー氏が、「共産党最後の日」を記録している。記憶の補完として記述する。

1991年8月19日、ソ連国営のタス通信はゴルバチョフ・ソ連大統領が「健康上の理由」で辞任したと報じた。同日付で大統領代行にはヤナーエフ副大統領が就任。ヤナーエフはソ連国内の一部地域に非常事態宣言を発令すると共に、この後の国家運営方針を定める「国家非常事態委員会」も創設した。

同じ日、英BBC放送はゴルバチョフが同日、夏季保養先の黒海・クリミアの別荘から軍のヘリコプターで近くの軍事施設に移送されたと速報。ゴルバチョフと同じく、改革派の代表格だったロシア共和国のボリス・エリツイン大統領も同日の記者会見でゴルバチョフの消息について「滞在中の別荘で拘束されている可能性がある」と述べ、政変がクーデターであるとの見方を強調していた。

3日後、ゴルバチョフは国営テレビを通じて、国家非常事態委員会に代って再び全権を掌握したことを宣言した。同日、ヤナーエフを中心とする国家非常事態委員会は機能を停止。クーデターを首謀したクリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長、ヤゾフ国防相らは何れも失脚した。こうして世界を驚かせたソ連の政変劇は、わずか3日でその幕を下ろした。………復権から3日後の24日、ゴルバチョフは共産党書記長からの辞任を表明。これにより、ソ連共産党はロシア革命以来、70年余に及ぶ支配の歴史を終えたのである

モスクワで続けざまに起こる劇的な展開を、私は米ソ民間交流を予定していたハンガリー・ブタペストで見守っていた。(以下略)』と、ペリー氏は記録している。

因みに、以下は3月4日プーチン「返り咲」に関する毎日新聞の社説の一部。

『ロシアの次期大統領に、00~08年の2期8年にわたり大統領を務めたプーチン首相(59)の「返り咲き」が決まった。5月に就任し、「第2次プーチン政権」がスタートする。

 前途は楽観を許さない。昨年12月の下院選で不正の疑いが生じ、政権への抗議行動がロシア全土に広がった。4日の大統領選では反対勢力を結集できる候補者がおらず、約64%の票を得て当選したが、「第1次プーチン政権」の全盛期と比べれば政権基盤は盤石とは言えない。』 

今日は、我々年代にとっても忘れがちである、日露戦争の陸軍記念日である。

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2012年1月29日 (日)

わりのあわない世代

1976年1月3日付けの朝日新聞のコラムに、むのたけじ 今も残る民族の病」 が掲載されたが、その翌日(1976/1/4)、同紙・同欄に、中村武志 「わりのあわない世代」が掲載されていた。

中村 武志は、長野県東筑摩郡片丘村(現・塩尻市)出身。
旧制松本中学校(現・松本深志高校)卒業後、国鉄(当時は鉄道省)に就職。以降、1964年に定年退職するまで国鉄に勤務する。在職しながら法政大学高等師範科を卒業している。
1933年頃、中村はすでに内田百閒をまねた随筆を国鉄の社内報に書き始めていた。戦後の1951年、「埋草随筆」を自費出版した折には百閒に頼み込んで序文を書いてもらっている。1954年に出版した「小説サラリーマン目白三平」がヒットし、以後シリーズ化し、1955年には映画化もされた(wikipedia)。』

その中村武志は、
『信州のいなかで、おやじはいばっていた。おかずの魚でもおやじはお頭つき。子どもはその半分だった。だから早く自分もおやじになろうと思った。戦中も戦後も妻子のためにひたすら働いた。耐えた。それがどうだ。いま父親の権威はない。家庭はばらばらになっている。国鉄時代に「死にたい」ともらした同僚がいた。思えば今老いていく私たちは割りのあわない世代である。』と、書いている。

あれから30余年経つ。記事はマイナーな面を殊更強調している面もあるが、時代が変わり世相が変わっても、現代世相の一端を表している記事と言えないだろうか。
今も記憶に残っている記事の一つである。

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2012年1月27日 (金)

今も残る民族の病

佐久間象川氏が、「武野・武治氏の生き方」を捉えて記事を書いている。
その記事を読んで思い出すことがある。

1976年1月3日付けの朝日新聞のコラムに、むのたけじ 今も残る民族の病」 が掲載されていた。内容をスクラップから書き出してみる。

『50年間未解決のままひきずってきた「日本民族の病」がある。
或る中国人ジャーナリストが戦時中指摘した。「都合の良いときは本質を考えず、都合の悪い時は考える余裕がない」と。その通りだった。
戦争中に全身を汚した人物がいま胸を張って大手を振って生きている。
判断力をなくして戦争に加わった民族はいま又、判断力を欠く。戦争に罪を感じ人生を変えた純粋な人は多い。
だが個人的な完結に終わって大きな力にはならなかった。
「民族の病」は今も深々と食い込んでいる。』 と書かれていた。

この記事は今から30余年前に書かれたものだが、今、読み直してみても矛盾を感じない。
過日、太田秀興氏より東北大震災に絡む問題まで含めて貴重なご意見を頂いたが、そのご意見も、象川氏のご意見と相通じるものがあり、上記、むのたけじ氏の論を彷彿とさせる。

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2011年8月31日 (水)

統帥権

文芸春秋八月特別号に「心に灯がつく人生の話」と題して、城山三郎、吉村昭、司馬遼太郎等10人の名講演集を掲載している。

そのうちの司馬遼太郎の講演は『日本の「電池」が切れるとき~組織というものは40年でダメになる』という題で講演している。(1992/06/02、東京よみうりホールでの講演)
その中で、「文章と其の解釈の重要性」に就いての論説がある。
其の中から適宜引用させて頂く。

『明治22年に憲法が出来た。其の憲法の基本に~これが日本の破滅につながるのだが~統帥権というものがあり、いま考えても嘘のような憲法解釈があった。陸軍ないし海軍の一番偉い人間が内閣総理大臣に相談もせず、隠れて天皇に会うことが出来る。これが「統帥権」で、帷幄上奏と称して総理大臣以下を無視して決める権利を持った。これが統帥権の基本で、日本を好きなようにしてしまった。』

『実は憲法が出来たけれどその解釈学が必要と言うことになり、美濃部達吉がイギリスへ、佐々木惣一がドイツへ留学した。
美濃部はイギリスに行って「天皇機関説」を考えたが後にそのために追われることになった。昭和10年のこと。』
『美濃部も佐々木も憲法解釈の本を書いた。二人とも三権分立を熱っぽく書いたが、その三権分立の最後に、小さな活字で「」と書いてあって、
美濃部の場合は「わが国の慣習として統帥権というものがある」と一行あるだけで統帥権は何かとも書いていない。
佐々木もそっくりの文章で「わが国の慣習として統帥権というものがある」と記されているに過ぎない。
イギリスは慣習の国であって、美濃部が、我が国の慣習として統帥権というものがあると書くのは「註」としても重い。ドイツは成分法の国で慣習を認めない。そういう意味では美濃部のほうが重大で、あとで「軍という魔物」をつくり出すもとになった。』

『日露戦争はやっと勝ったというのが実情であと1ケ月続いていたら駄目になったでしょう。しかし、やっと勝ったということを、新聞・雑誌・教育の現場で一度も教えなかった。バカな話で、軍が秘密にして、秘密にして、秘密にして遂にのちの戦争で国を滅ぼした。』

『昭和14年にノモンハン事変が起こった。ノモンハンは大平原で行われ、向こうは完全な機械化部隊だった。ところが日本軍は織田信長の軍隊のようだった。それは当時連隊長ををしていた須見新一郎氏の実体験で、其のことを氏自身が語っている。』

『昭和の始めぐらいの陸軍ではモスクワ駐在武官に何人も行っているが「ソ連の軍隊は日露戦争の時のロシア軍ではない。凄い近代装備に変わっている」などと書いたら「狂ソ病」として出世が止まった。』

『日本という国は恐ろしい国です。日中戦争を昭和12年に始めて、その間にノモンハンで敗戦し、それから僅か2年で太平洋戦争をやる国だ。それは全部、憲法の統帥権が悪かったからだ。』

『兎に角明治40年までは素晴らしい国だった。それがバルチック艦隊の最後の一艦が沈んでから悪くなった。』

8月30日のNHK「さかのぼり日本史~満州事変・暴走の原点」で、軍は遂に昭和天皇の意志も無視して暴走した実態を報道していた。それがのちに、何百万もの犠牲者を出した太平洋戦争につながった。
今、憲法第9条の解釈を巡って、自分に都合の良い様に、勝手に解釈をしているのが気になる。

今日で敗戦月の8月が終わる。

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2010年12月30日 (木)

年末雑感

あと一日で2010年も暮れる。

思えば昨年は、大方の期待を担って新政権が誕生した。マニフェストに期待する向きもあったがそれ以上に、今までの政治に嫌気を差した国民が新たな政権に期待し改革を望んだからだ。
しかし、正体見たり枯れ尾花。国家観も、理念もなく、財源もないのに、小手先人気取りのばら撒き政策。税収を上回る国債発行。付けはみな我々の子や孫に廻る。
こんな政治家を選んだ国民にも責任の一端がある。

例を引くまでもないが、例えば、今年の6月から児童手当が支給された。貰った人に、街頭でインタビューしているのを聞いて腹が立った。曰く、「旅行に行きます」「お食事に行きます」「貯金します」等々。
我々の血税(敢えて血税という)を、そんなことに使われる筋合はない。その一方で託児所の不足や、保育士の不足で悲鳴を上げている現実。
児童手当などのばら撒きを止めて、こんな方面に集中的に使ったほうが余程少子化対策に貢献すると思うのだが。因みに一軒で子供二人、中学までマニフェスト通りに実施されたら、1000数百万円が支給されることになる。
国家百年の計に少子化対策の必要なことは承知しているものの、基本的理念や具現化の道筋が全く見えない。
その上、義務教育でもないのに高校無償化。それも日本人の高校以外までも。

このような政策は、「乏しきを憂えず、等しからざるを憂える」と言う観点からしても、不公平感はれっきとしている。
仕分け作業を懸命にやっているのは好感が持てるが、それで、ばら撒き政策をまかなえると考えた甘さにはあきれる。

沖縄問題に見るように、出来もしないことで期待だけ持たせ、挙句の果ては日米関係まで損ね、外交手腕を見透かされたように、尖閣問題や、メドベージェフが大面で北方四島の一つ国後島に堂々と出かけただけでなく、北方四島はロシアの領土などと、ほざいているのに今の政府は為す術がない。

Photo_4 我々が学生時代に、学生間でひそかに「昭和維新の歌」が歌われた。多分に危険思想が入っているのでお奨めできないが、その中の一節は今の世の中にも通用するものがあるのは皮肉なことだ。

そんな中で、小惑星イトカワから探査機「はやぶさ」を、懸命な努力によって帰還させた快挙。
ノーベル化学賞を、根岸英一、鈴木章両氏が受賞したことは朗報である。

来る2011年は「卯年」。この快挙・朗報の延長線上にあることを期待したい。

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2010年5月31日 (月)

乏しきを

自らは鍬を手に専業農婦として働きながら、偉大な夫を支えその力を存分に発揮させ、一方で立派に子を育て、且つ一流の歌人として足跡を残した、金子きみはその歌集「草の分際」の中で「物は心を食う」と題して次のような一文を残している。

『「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」こうした嘆息は日本人の普遍的なものだった。私たちもそういう生活を当たり前として生きてきた。……しかし戦後の経済成長はこの感慨を遠くした。便利、敏速、繁盛、斬新、溢れる物量に押しまくられて心は縮む。私にはそれが、ものが心を食べている姿に見えて仕方がない。』

このような嘆息は「或る年賀状」にも記されているし、 「母の世は」にも同じ趣旨の事を述べている。

時代が違うと言えばそれまでのこと。生活レベルが違って何十年も前のことを今更言っても始まらないと、したり顔する連中も居ることを、せんこく承知で敢えて一言を。

私たちの子供時代は、義務教育は尋常高等小学校の、尋常科だけでそれ以上の進学は、それなりの才能とそれなりの資力に恵まれたものだけに限られていた。
それだけではない。義務教育といっても、教科書は自費で買った。教科書を買うお金がなくて苦労した親御さんも沢山居た。だから教科書を開く時は押し頂いて開いた。馬鹿げた事をしたものだと言いたい奴は言うが良い。自分が金を出したものは大事に扱うのは自然の成り行きだし、当時の親はそのように子供を教育したものだ。
勿論義務教育を終えて更に進学した人は定められた負担を負うのは論を俟たない。

それがどうだ。今は教科書の無償配布。義務教育でも無い高校教育まで無償とは。

しかも子ども手当まで出す。将来のことを考えれば子供は国家にとって宝物であることは論を俟たない。少子化対策が緊急に必要なのは当然のことだ。
しかし子ども手当を満額支給したら子供が二人居る家庭では、子供が中学卒業までに1000余万円の支給を受けることになる。しかも年収とは関係なく支給される。「乏しきを憂えず等しからざるを憂える」と言う観点からしても、子供をつくれない家庭は、子供の居る家庭に対してそれだけ税金を負担しなければならない。これは一種の不平等である。

しかも子ども手当の内容を仔細に見ると驚くような内容であることに気がつく。すべて日本国民の血税であることを、何故かマスコミは報じない。
その内容は敢えて省略する。事務手続きをする各自治体の届け出内容の事実確認にも問題がある。しかも少子化対策として得られる効果の予測値が出されていない

少子化担当大臣は今まで何人代ったか知らないが、この程度のことしか対策として考えられないとすれば、金子きみが心配していたことが将に現実味を帯びてくる。

明日から6月

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2009年6月 7日 (日)

富士山静岡空港

6月4日、富士山静岡空港が開港した。

紆余曲折して今回の開港となったが、当初2000年開港予定が、2003、2006年と延期され漸く2009年3月開港の運びとなったところで信じられない事態が判明した。
滑走路延長上に立木があって計画通りの運行は航空法上不可ということになった。今頃になってのこの事態に唖然とし、その杜撰さにあきれ果てた。その結果は当の責任者である石川知事の辞職と引き換えに、地権者が立木を除去することで、暫定滑走路によって今回の開港となった。
0906041
写真は1番機のJALが福岡へ飛び立つところ(静岡新聞より)であるが、その華々しさとは裏腹に多くの問題を抱えての開港となった。

静岡県は県内に6駅を抱える新幹線が走り、東名高速路が走り、更には第2東名工事が急速に進められている。西へ行くにも東へ行くにも便利は良い。
しかし静岡空港へのアクセスは、浜松駅と静岡駅からの直通バスか、在来線の最寄の駅からのバスかタクシー以外には、直接車で行く方法しかなく、必ずしも便利とはいえない。

東には羽田空港があり、沼津以東は静岡空港より羽田空港の方が便利であり、西にはセントレア(中部国際空港)があって豊橋以西はその方が便利である。
そんな時、なぜこの地に空港が必要なのかとの意見が多く、立木の問題などもその現れの一端である。

静岡県西部には、ヤマハ・ヤマハ発動機・鈴木自動車・本田技研等世界的な企業がある。当然それにまつわる関連企業もあるが、それらを考慮しても、開港前からこの空港の経済的な問題が取り沙汰されているし、地理的問題としても、気象的な影響を受けやすいところにあることも問題視されている。

計画時点での需要予測や空港の運営状況などの現実問題を考えると、県民にとっては諸手を挙げて開港を祝福する感じでないことは確かである。

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