2013年2月 1日 (金)

青春時代の軌跡

このところ随分本を処分した。しかし処分しきれない本も多数ある。

処分しきれなかった本の中には、頁を折り曲げたり、傍線を引いたり、感想を書き込んだりした本があり、今読んでもあの時代にはこんなことに共鳴していたのか、こんなことに感動していたのかと、読み返して懐かしさを覚える本がある。青春時代の軌跡を省みる感がある。
同じ本は今だって本屋に頼めばいくらも手に入る本があるが、手垢のついたあの書き込んだり、折り曲げたりした本こそ欲しい本だ

そんな本の中に今も心に残りながら手許にない、青春時代の軌跡の一端を感じさせて呉れる本がある。
倉田百三著「愛と認識との出発」、原口統三著「二十歳のエチュード」の2冊。
何時、誰に貸したのか覚えがない。しかし返して頂いた記憶もないし、現に手元にもない。

その中の原口統三著二十歳のエチュード」は、岩波文庫で、本屋に頼んでも絶版になっていて手に入らない。図書館にもないという。手に入らないと思うと無性にもう一度読んでみたいと思った。あの当時の傍線も書き込みも無い本が手に入ったとしても、案外青春時代に感じたことと現在の感じとは違っているかもしれない。兎に角もう一度読んでみたいと思ったが諦めていた。

Wikipediaに拠ると、『原口統三の遺著となった「二十歳のエチュード」は、夭折した詩人の書として人気を集め、30年以上に亘って版を重ねた。文芸評論家で原口の後輩に当たる高橋英夫は「戦後詩は原口統三を発見するところから歩みをはじめた」と高く評価し、彼の自殺については唐木順三の自殺について」(1950年)でも扱われている。また生前親交のあった清岡卓行は「海の瞳」で原口を描いている。

一方で、評論家の中村光夫は「文学が人生におよぼす害悪の一例」として批判している。また原口の周辺にいた学生らを「自殺教唆者達」と非難する声もあったという。』とある。

ところが諦めていたその本が手に入った。勿論書き込みも傍線もないまっさらな本だ。アマゾンの小型タブの中の「本」の欄に載っている。しかも¥0で購入できる。
早速手に入れたが、昔の傍線や書き込みがないから、推測に過ぎないが矢張り昔読んだ時の感想とは大部違っているように思う。

Wikipediaの文中にある、唐木順三著「自殺について」は昭和25年(1950)頃発売された弘文堂刊の「アテネ文庫(絶版)」に収められている。
「きけわだつみのこえ」「藤村操」「芥川龍之介」等々12編の内の一編で、本書の前書きには安楽死論と自殺等に就いての考察が書かれている。

想いの籠もった本は安易に他人へ貸すのは考え物だ。自分が想っていることと他人の想うこととは必ずしも一致しないからだ。
年寄りの本への郷愁の一端である。

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2012年6月 5日 (火)

人と森の物語

かれこれ15,6年前、日経新聞の日曜版に、池内紀おさむの「ドイツ宝探し」という連載記事があった。ドイツの秘境とも言うべき地の紹介を、洒脱な文章で、的を絞った記事は読んでいて楽しかった。日曜版の来るのが待ち遠しかった。
池内氏はドイツ文学者でエッセイスト。

大分前に読んだ本で今も手許にある「ドイツ町から町へ(中公新書)」、「一人旅は楽し(中公新書)」なども楽しい本だ。

今回縁があって、池内紀著「人と森の物語」(集英社新書)を頂いた。
表紙を繰ると池内氏の署名と共に、ご自身が描かれたワンカットの挿絵が入っていて読む前から楽しい雰囲気が伝わってくる。
Photo_2
「あとがき」に拠ると、
『あるとき、北大名誉教授石城謙吉氏に会った。…「1973年4月が始まりだった。苫小牧演習林に新しい林長が赴任してきた」…その人の口から「都市林」という言葉を聞いた。その前から活字では知っていたが、具体的なイメージを抱いて考えてみるようになったのは、それがきっかけだった。あとから著書を読んで、先にもっと勉強しておけばよかったと大いに悔やんだ。あとあとまでも思い出すたびに、身が細る思いがした。後悔をエネルギーにして、少しづつ勉強をはじめた。』とあり、池内氏はそれから全国森行脚をした。

また前書きに言う。
『花の都パリは西にブーローニュの森、東にヴァンセンヌの森を持っている。古都ウィーンには西から北にかけて広大な「ウィーンの森」が控えている。ロンドンニューヨークミラノマドリード…。世界都市はどこも、直ぐ脇に大きな都市林をそなえている。都市生活者は建物のひしめき合った都市に生活するからこそ、より切実に広い緑のエリアが欠かせない。』

春ともなると、我が家の狭庭にも一面に緑が広がってくる。その色を見ているだけで心が和む感じがする。以前、PCを立て続けに4時間以上さわっていたら、急に目の中に稲妻が走って物が二重に見えるようになって慌てたことがあったが、その時は部屋を移って30分ほど庭の緑を見ていたら自然に治ってしまった(以降は2時間を限度にしている)。
だから、池内氏の前書きが頷ける。

本書は、
第1章・甦りの森(北海道苫小牧)、 第2章・クロマツの森(山形県庄内)、 第3章・匠の森(岩手県気仙)、 第4章・鮭をよぶ森(新潟県村上)、 第5章・華族の森(栃木県那須野が原)、 第6章・王国の森(埼玉県深谷)、 第7章・カミの森(東京都明治神宮)、 第8章・博物館の森(富山県宮崎)、 第9章・祈りの森(静岡県沼津)、 第10章・青春の森(長野県松本)、 第11章・クマグスの森(和歌山県田辺)、 第12章・庭先の森(島根県広瀬)、 第13章・銅の森(愛媛県新居浜)、 第14章・綾の森(宮崎県綾町)、 第15章・やんばるの森(沖縄県北部)
からなっている。北から南に掛けて、主だったところを紹介している。

私の身近な所では、
第9章 祈りの森 で沼津の千本松原の紹介がある。千本浜・片浜・原・田子の裏の海岸がゆるやかな湾曲を描いた所。距離にして約19km。これだけ長大な松原が続く地形も珍しい。
僧、長円が静岡巡錫の途中、この地に立ち寄り、風と波に苦しめられている人々を見て植松をすすめ、その指導によって防風林が広がり、緑豊かな土地に変わった。
若山牧水がこよなく愛し、住みつくまでになった。牧水のいう「二抱え三抱え」の古木も戦争中に松根油採取のために切られた。大正末年の伐採計画は市民の反対で立ち消えになったが、昭和の大戦争が千本松原を根こそぎにした。

もう一つは私の故郷である信州の森、
第10章 青春の森 で、岳都と称せられる松本の松本駅は、標高の点に目をつぶればヨーロッパの岳都インスブルックの駅頭に立ったときとそっくりである。
私も海外出張時インスブルックには約1週間滞在したが、今もその時の自然の美しさが目に焼きついている。
此処に旧制松本高校がある。大正10年(1921)第2代校長として大渡忠太郎が赴任してきた。当時の校長はおおかた文部省のお眼鏡にかなった能吏型の教師が選ばれたが、大渡校長は明らかに当局の意向に反していた。当時はだだっ広い空地に校舎があるだけ。校長は赴任するやいなや校長の職務の傍ら、ヒマラヤスギを植え、県の宮の跡地を丸く取り囲んだケヤキ群と結びつける。グラウンド沿いにサクラの若木を植え学園環境を整えた。植物学者でもあった大渡校長のヒマラヤスギは青春の森として今も親しまれている。

本書は、自然環境の中の森の持つ役割と、その重要性を改めて考えさせてくれる。

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2012年3月 4日 (日)

「遠州のしなの」に想う

 

遠州地方には信州を始め各県人会があるが、その中で我々の遠州信濃会は毎年、「遠州のしなの」を発行して会員相互の親睦と交流をはかってきたのは特筆すべきことである。
31_3 時の流れとはいえ第三十二号を以って廃刊するのは、真に淋しいことである。今、改めて歴代の役員各位のご努力と会員各位のご協力に感謝致したい。


廃刊にあたり一、二の話題を提供し有形無形の立場から、ふるさと信州を偲んでみたい。

  
  第一話 歴史的遺構に寄せる想い

地名や景観には、歴史やその影を負っている所が多い。平成の大合併や、目先の便利さのみで、それらをいとも簡単に払拭し、忘却の淵に沈めるのは耐え難い。過去は時さえ経てば風化し、やがて消え行くなどとはもっての他。

そんな想いに駆られて「北国街道海野宿」を訪ねた。宿場に平行して千曲川が流ている。

「日本の道百選」の一つに選ばれた北国街道は、北陸地方へ向かう街道の総称で、江戸時代は参勤交代や佐渡の金の輸送路として賑わう一方、善光寺詣の道としても栄えた。         

北国街道を挟み、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている海野宿は、小諸と上田の中間に位置し、寛永二年(一六二五)頃に成立されたと伝えられる。宿場東端に白鳥神社があり、其の前を流れる千曲川の白鳥河原は、治承五年(一一八一)木曽義仲の挙兵地として知られる。

街道のほぼ中央には用水が流れている。宿場の東西には桝形が置かれ、その間約六町(六五〇m)の長さになる。宿場時代の建物は多くが旅籠屋で出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が今も景観を添えている。明治期以降は養蚕業で榮え、その富により建築された建物は宿場の風格を受け継ぎ江戸時代のものと調和して現在の町並みを形成している。海野格子に加うるに、卯建・気抜き屋根・戸毎の屋号、六文銭の真田紋を配した藍暖簾・立行灯、用水路に影を落とす並木は美しい。歴史民俗資料館に見る箱膳や養蚕具には子供時代の記憶が蘇り、街道から望見する浅間の煙と共に胸が熱くなる。

 第二話「水車小屋のウィル」の話(出会いに就いて)

 

 旧友から感動的なメールが送られてきた。

「今までに経験したことの無い、始めての形の出会いが有りました。現実にはお目にかかっていない方との心の出会いの話です。

ことの発端は、ある日週刊誌を眺めていて『明治人の教養(竹田篤司著)』と言う文庫本の書評を目にした事です。一寸気になる話がある様なので購入して読みました。その中に、西田幾多郎博士がスティーブンソンの短編小説『水車小屋のウィル』を読んで大層感動し、たった一日でこれを読み上げ、ウィルの生き方を『余が理想の人なり』と言ったという話がありました。
「水車小屋のウィル」は、平原と星・牧師の娘マージョリー・死の三部からなっている。
本書は、無限への憧憬を抱いた少年の一代記で、私も学生時代に読んで感動しました。そんな経緯もあって再読することにしたが、今頃読み返したら恐らく馬鹿馬鹿しいと幻滅を感ずるのではないかと心配したが、やはり深い感銘を覚え、心和む思いにひたることが出来たのは幸せだった。」と記されていた。

私も早速、「明治人の教養」と、有吉新吾氏の訳になる「水車小屋のウィル」があるのを知って手当てし、数日で読み上げ、訳者の「あとがき」にも感銘を受けたと言って、そのコピーを旧友へ送った。

それに応えて彼から「私は有吉氏の訳本の存在を始めて知りました。更に訳者の『あとがき』を読んで西田博士の他にも同様な感動を持った方の存在を知って大層嬉しく思いました。」と返信されてきた。

人は夫々に生きてきた時代、生きてきた環境等から夫々に、ふるさとを思う。
「水車小屋のウィル」という短編小説にからむ、この様な時空を超えた感動的な出会いは、旧友との学生時代の信州を髣髴と思い出させてくれる。

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2011年10月10日 (月)

「天下の三長中」こぼれ話

この間、さる会場でM氏と会った時、こんな小文がありますよと披露されたのがタイトルの文章である。

著者は戸谷邦弘氏でその中から抜粋すると、

『クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」、「琉黄島からの手紙」で琉黄島の名前が広まり、栗林忠道中将(後、大将)の名が多くの人に知られるようになった。映画公開中、読売新聞(平成19年1月14日付)の編集手帳に次のような記事が掲載されていた。
「(前略)栗林中将は旧制長野中学の出身だ。連合艦隊司令長官を務めた山本五十六海軍大将は、旧制長岡中学を出た。そんなことから、昭和10年代の一時期の、狭い関係者の間でのことだろうが、「天下の三長中」と言われたりもしたという。「長」のつくもう一つの旧制中学の名前に就いては未確認だが、当時はどこの学校でも軍人として栄達した卒業生を誉れとし、現役生にも後に続くよう鼓舞するような空気があったのかもしれない。(後略)」』とあり、

『この記事に大変興味を持った私(戸谷氏)はいろいろと調べてみた。「天下の三長中」のうち二つは長野中学と長岡中学だが、もう一つがどこの中学かわからなかった。その後、この記事の筆者が長野高校の卒業生で、「天下の三長中」は在学時の国語教師の発言だったと記憶していたことが判明した。この事実を確認したい好奇心から今次大戦の名立たる人物をさがしてみたが、該当する人物は見当たらなかった。やむを得ず「長」の字のつく旧制中学を調べていると、旧制長崎中学の前身校で修学した日露戦役の軍神、橘周太中佐を発見した。戦歴はもとより人格者としても傑出しており、郷里の長崎県千々石町に銅像が建立され、昭和15年には橘中佐を祀る橘神社が創建されている。
以上のように、全国的に「三長中」と称されたかどうかは確認できなかったが、それぞれの地域では後進鼓舞の意もあり、話題にされたのでしょう。』と、書かれている。

当時の時代や世相を考えると、戦意高揚の意味からも、そのような表現や働き掛けのあったであろうことは、我々戦中派には容易に想像できるが、いずれにしても忘却の彼方へ消え去ろうとしている歴史の一齣を垣間見た想いがした。

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2011年9月15日 (木)

妖しき運命(さだめ)

手許に『対米中開戦に反対した二人と「妖しき運命(さだめ)」』と傍題のついた、原山茂夫著『栗林忠道と今井武夫物語』(ほおずき書籍)がある。Photo 栗林忠道は、梯久美子著「散るぞ悲しき 琉黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社)で広く知られるようになった陸軍中将(後、大将)であり、今井武夫は陸軍少将で中国通として知られ徹頭徹尾不拡大方針を貫き通しながら、妖しき運命に翻弄されながら自己主張を貫き通した気骨ある軍人だった。

本書の目次によると、
   プロローグ
   第1章 二人の生い立ち
   第2章 二人が軍人になった時代ーそして「妖しき運命」
   第3章 運命の満州事変ー「今井は、中から見ていた」
   第4章 日中戦争と今井武夫
   第5章 太平洋戦争と中国での停戦・復員と今井
   第6章 日中戦争・太平洋戦争と栗林忠道
   第7章 硫黄島戦の栗林忠道と戦後の今井
   エピローグ
の各章からなっている。
特に努力型の栗林、秀才型の今井の、生い立ちから軍人として自己の信念を貫いてゆく過程には心打たれる。

運命の満州事変から太平洋戦争に突入してゆく過程に就いて、強硬派から目の敵にされ生命の危険を感じながら、今井の果した役割に就いての記述は特に詳しい。「統帥権」を楯にした一部軍の暴走。出先機関である関東軍の動きをコントロール出来なかった国家としての機能喪失過程、不拡大方針のために、今井が懸命に中国要人と政策的組織を築いてゆく努力を片端から崩してゆく統制派強硬派との抗争過程等々。

栗林は陸士入学前、佐久間象山の「せいけん録」を学び、象山の言葉に感動し「自分も陸士に合格し一国に繋がってきているではないか」との自覚を深めたという。
東条最後の懲罰人事も従容として受けながら、「大本営には一刻も早い和戦を要請し、できれば米軍に大損害を与え、米国の世論を和戦の方向に誘導したいものだ」と考え、事実そのように行動した。このことに就いては「散るぞ悲しき」に詳しいが、米軍が「5日で陥落させる」と言った硫黄島での組織的戦闘は米軍上陸後36日間も続き、戦死傷者の数では日本軍20933人、米軍28686人で太平洋戦争の島々の戦いで、米軍の損害が日本軍より大きかったのは唯一、硫黄島の戦いだった。「国の為重きつとめを果たし得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」の辞世の短歌の冒頭の句の末尾「散るぞ悲しき」の部分は、大本営によって「散るぞ口惜し」と改ざんされて新聞発表された。

栗林と陸士同期で、同じ時期に豪州に近い小島十五のメレヨン島守備隊長となった北村勝三少将は、兵士と島民を大事にして兵の士気を鼓舞したが、補給路の途絶と非衛生的な環境下での1年余の砲爆撃下で栄養失調死約五千を失い、上陸作戦なしで終戦を迎えた。昭和22年(1947)8月15日に、母校長野中学を足下に見下ろす旭山で割腹自決して責任を取ったことを本書では小さく伝えている。

三人とも旧制長野中学の出身だった。そして太平洋戦争に至るまでの過程を本書で具体的に知るにつけ、改めて「国家とは何か」に就いて考えさせられた。

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2010年8月15日 (日)

マンガ

久しぶりにNHKの朝ドラで、見応えのある番組「ゲゲゲの女房」が放映されている。「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である「水木しげる」と「その妻」の奮戦記である。個性的な、しげるを支える妻の奮戦と運命を切り開いてゆく過程が判って楽しい。
書店には心なしかマンガ本が多く並べられている。

マンガと言っても中身は様々である。前に一寸読んだことのある「マンガ経営学」(日本経営センター刊)等はマンガとはいうもののいっぱしの解説書である。
Photo_2 経営学、経営分析、会社法、手形・小切手、財務管理、会計学、生産管理、労務常識 等に分かれていて、中身は大雑把に内容の把握が出来る程度であるが、経営数値の把握まで含めて、経営という内容をを概観するには面白い。

細かくは夫々の専門書で勉強すればよい。

もう処分してしまって手元には無いが、「ランチェスターの法則」を書いた10冊シリーズのマンガ本がある。これなどはマンガといっても殆どそのまま専門書であって、シリーズごとに纏められ、その各章ごとに漫画風に書いた後、夫々数ページに渉って専門書同様に理論的にまとめ書かれているので、ランチェスターの法則を勉強するのにはもってこいの書物である。

面白いことに最近、「般若心経」解説のマンガ本が出ている。買うと部屋が狭くなるので、近くの書店へ出かける都度立ち読み継いで一冊読んでしまった。その程度の本だが、般若心経の内容を砕けた表現ながら素人にわかりやすく、つい引き込まれて読んでしまった。偶々同書店の会長と、或る会合で一緒になるので、立ち読みのお礼を言っておいた。

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2007年1月13日 (土)

遠州のしなの

信州の出身者又は信州に深い係わり合いを持つ方で現在、遠州地方在住の人々が集まって作った親睦団体に信濃会がある。年に一回総会を開き会員相互の親睦と友情と連帯感を深めている。今年も3月に第28回総会が開催される。
その際、機関紙(文集)「遠州のしなの」が発行される。しかし御多分に漏れず会員の高齢化と会員数の自然減により文集の発行が段々困難になってきている。対策の第一は、口で言うほど容易ではないが、新規会員募集と特に若い人達の入会だが、取り敢えず「遠州のしなの」の現状を概観してみる。

毎年一回発行される信濃会の文集「遠州のしなの」も数えて第27号になる。遠州地方にも幾つかの県人会があるが、このような纏まった機関紙を発行している例を知らない。

昭和56(1981)年3月1日創刊号を発行してから今日まで、会員夫々の想いを綴ってきたこの文集は又、信濃会の歩みそのものとも言える。
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創刊当時から今日までの27年間に時代は、20世紀から21世紀へ、昭和から平成へと大きく変った。僥倖な巡り合わせで世紀の変わり目を見ることが出来た私たちの感慨も文集の紙面を多く飾った。忌まわしい戦争に身を挺し、戦後の復興に尽力し、現在の繁栄の礎を築いてきた人たちにとっては、身に沁みて戦争の悲惨さと平和の有難さを後世に語り継ぐ使命感にも似た想いがある。

しかし最近は戦争を知らない人も増えた。2006年に放映されたNHKの「純情きらり」という朝ドラが、あの暗く悲惨な戦争中の生活を浮き彫りにし、はしなくも歴史の語り部の代役を果たしているようにも思えた。あのドラマに当時の事を回顧し今を生きている幸せを感じている人も大勢居るはずだ。あの時代は今の生活レベルから見ると、確かに貧しい時代だったが、当時はそれ程貧しいと言う実感はなかったし半面、助け合い分かち合うといった心は今の世に比べて遥かに豊かだったように思う。今は、「ものが心を食う時代(金子きみ)」に思える。20世紀後半に、それ以前の優れた教育制度を改悪した影響が根底的に大きく影を落としている事は否定出来ない。

人生は出会いである」と言う。出会いとは、鉄道のポイントの様なもので出会いによって人生の進行方向がすっかり変ってしまう事も少なくない。文集も亦、文章を通じて筆者の経歴や人格と出会い、お互いの理解と連帯感を深める。例えば、文集4号に「信州から遠州に出てきた理由」に就いてのアンケート調査があった。私は「Y社に就職するのが単純理由。当時Y社は今ほど世に知られていなかったが偶々恩師が浜北の出身だったこともあり、Y社を薦めて頂いたのがきっかけだった。浜松は気候が良い所とか、言葉が多少荒い所とか、他所者でも気楽に受け入れてくれる所等々の予備知識は皆無だった。勿論浜松に一生住みつくとは考えたこともなく、思えば出会いとは不思議なものである」と述べている。また「一番印象に残っている故郷の思い出は何か」の問いに「信州のあの厳しい自然環境の中で小作人の悲哀を一身に負った形で早朝から深夜まで一所懸命に働き続けた母の生き方を抜きにして信州の思い出はない。母の思い出は即、信州の思い出であり、心の拠り所でもある」と述べているがそれは今も変らない。

文集はこのように活字を通して、会員相互の理解と親睦を深めてきた。飽食の時代と言われ、心の荒ぶ時代と言われる現在の風潮の中で、文集に寄せられる会員の率直な声には心を打たれるものが数多くあった。素朴な表現の中に本質を捉えた文章は胸に迫る。文集にはその人の生きてきた証しの様なものを感じ取ることが出来る。このような文集を永続させたいとの願いは会員の等しく感じているところであろう。

しかし高齢化現象は、信濃会会員にもその影を落とし、会員の高齢化と会員数の減少にもつながって現在に到っている。文集への投稿も年を追って少なくなってきているのは事実である。もっと会員の声を聞きたい、聞かせて欲しいと思う一方、時代の推移と文集発行の困難さを感じないわけにはいかない。

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2006年4月 4日 (火)

夜もひるのように輝く

浜松の生んだ偉人の中で、今は知る人ぞ知る人に、長谷川 保さんが居る。私とは或る出会いを通じて何回かお会いしている。その著「夜もひるのように輝く」は今も影響を与えてくれる書だ。この書の読後感を通じてS.氏との往復書簡は今も新鮮なものがある。

「夜もひるのように輝く(講談社)」の読後感と往復書簡

 

S.氏へ

考えてみれば長谷川さんと私とは、私が前に住んでいた町では隣保で、今の、S.住吉病院を拡張する時に、その場所に住んでいた私の家を含めて4軒を買い取りたいと長谷川さんが何回か自分自身で交渉に見え、最後には私が代表として纏めたのは昭和43年だった。(中略)

 本書を読んで、改めて長谷川さんという人の偉大さを認識しました。現、Y社の労働争議やK.さんの話も懐かしく、私の知らない秘話も沢山含まれていて興味深く読ませてもらいました。(中略)

 自叙伝は、ともすると都合の良い所を抜粋して書かれる場合が多いように聞いていますが、それを割引して読んでみても凄い人だと思いました。時代の流れの中にあって、周囲がご都合主義的に左右に振れる中で自分を貫いた長谷川さんの毅然とした信念と行動力には圧倒され、これが現在の繁栄を招いた根源でしょう。

 浜松の生んだ偉人の一人として誇れる人ですね。(後略)

   

S.氏より

 多くの方に読まれ、今もS.病院の歴史と言うか「S.病院の聖書」として取り扱われています。只、私はアウトサイダーなのでしょうか。これを小説風自伝と見るより自伝風小説と見る思いが強いのです。

 それが先日差し上げた文章になるのですが、書いたものを読みつつ伝えるというのはどういう事なのか。考えてみると聖書でも、昔は歴史の事実と信じられていましたが、今は歴史の事実ではなく、マルコなりルカを書いた記者の信仰告白の文だと言われています。夫々の記者が、そのおかれた場、それには年代もありましょうし、農民層なのか小市民層なのかによって、イエスをどうとらえ、どう伝えようとしたのかによって書かれたものであって、今となっては歴史の事実を書かれたものを通して知ることは難しいと言われています。その点「夜もひるのように輝く」は、聖書と違い、ご本人が書かれていますから、聖書よりは歴史の事実を反映しているかと思います。ご興味がありましたらゲッセネマの祈りの箇所を比較してみて下さいますと 、(マタイ伝26章36節~、マルコ14章32節~、ルカ22章39節~、ヨハネ18章1節~、園とは有るが苦悩の記事なし)伝えるとは何かを考えさせられます。

 しかし文章を書くにしても何を訴えようとしているのかを持っていないのは、心を打ちませんね。遠藤周作でしたか、聖書の記事に就いて、事実でなくとも真実だと言うような事を言っていましたが、これが事実だと言っても、それは何だったのか、其処には何も行動を起させるものが起きて来なかったのではないか。その点、長谷川さんの文には人を揺り動かすものがあります。それはT.さんの文にも有ります。長谷川さんの人間生きたようにしか老い得ない」という言葉を思い出します。

 心を打つ俳句 は、それまでの生き方の反映なんでしょうかね。T女さんの句集を読みつつ、句集を通して彼女の人柄と言うか生き方が感じられます。

Hasegawat

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