2013年5月17日 (金)

遠州信濃会と民話

遠州地方の長野県人会を「遠州信濃会」と称して、毎年4,5月頃に「総会」を開催している。最近は総会の名前もくだけた「楽しみ交流会」として開催している。今年は5月19日に開催されるが信州に興味のある方は、覗いてみて下さい。
問い合わせは、053-461-3013の田口重孝氏まで。

今年も語り部の会を招致して、その土地の語りを聞き、併せて信州各地の名産品なども売る(但し今年は予め予約を取った上で)。
その中に豊科の銘菓「あずさ」もある。
Photo 写真はその箱と中身の2種類の菓子で美味しい。

その箱に、同菓子舗「小林」が「泉 小太郎」という民話を添えている。
経済・国際問題等を始めとして多事多端の折、「そんなのんびりとした民話等云々」と言う人が居るかもしれないが、こんな時だからこそ、こんな民話も心に潤いを持たせてくれるものと思って紹介する。以下はその「泉 小太郎(安曇野創生記)」民話である。

『昔むかし、安曇野を含む松本平一帯がまだ湖だった頃の話です。
人々は湖のほとりの小さな村で、貧しく暮らしていました。米はろくに穫れず、飢饉の時には年寄りや子供が飢えて死ぬこともたびたびでした。「この湖の水が海まで流れて豊かな土地になったら苦しまなくてもすむのになあ」それが村人たちのかなわぬ願いだった。
この村に泉 小太郎と言う少年がばあさまと一緒に住んでいました。
そんな或る年、いつに増してひどい飢饉が村を襲いたくさんの人が死んだ。その有様を目の当たりにして小太郎は深く悲しみ、何とかして皆を幸せにしてあげたいと強く思うようになりました。「ばあさま、おら、何とかして広い土地を作りてえ。どうすりゃいいだ。」ばあさまは小太郎に言った。「お前の本当のおっかさんは湖にすむ犀竜だ。小太郎、おっかあに会いに行け。」
小太郎は驚きしばらく思いつめたように考え込んでいたが、やがて決心して湖に行き、岸辺に立って大きな声で叫びました。
「かあさん、かあさん、聞こえるかい、おら小太郎だ。」
すると湖の水が突然盛り上がって大きな竜が現れて言いました。「おお、小太郎、立派になって。お前のことは一日だって忘れたことはなかったよ。」
小太郎は母を見つめて言いました。「かあさん、おらこの湖の水を海へ落として広い豊かな土地を作りてえ。そうすれば村の人たちはもう飢えて死なずに済む。そのためには湖をせき止めているあの大岩を崩さなければならねえけど、こればっかりはおら一人ではどうにもなんねえ。かあさん、おらに力をかしてくれ。みんなを幸せにしてえんだ。そのためなら、おら自分の命なんかどうなってもかまわねえ。」

母は逞しく成長した小太郎を黙ってじっと見詰めていました。我が子を見つめるその目は湖のように深く、少し微笑んでいるようにも見えました。そして静かに言いました。
「小太郎、私の背中に乗りなさい。」
突然の雷鳴とともに我が子を乗せた母犀竜は夕闇せまる大空に、高く高く舞い上がった。
その夜「どーん」「どーん」という大地を揺るがすような大きな音が何度も響きわたり、村人たちは余りの恐ろしさに誰も外へ出ようとはしませんでした。それでも夜が明け始めた頃、おそるおそる音のする方へ行って見た。そしてはっきりと見たのです。小太郎を乗せた大きな竜が、何度も何度もあの湖をふさいでいる大岩に向かって体当たりをしている光景を。
竜の体はもうあちこち裂けて、その流れ出る血で湖は真っ赤に染まっていました。両目もつぶれてしまった母犀竜を助け、小太郎が「かあさん、こっちだ」と必死にかじを取っていました。この母子が今何をしようとしているのか、村人たちにはすぐわかりました。そしてその姿に皆思わずひざまづき、涙を流し手を合わせました
やがて最後の力を振り絞った犀竜と小太郎が、ひときわ高く舞い上がり渾身の一撃を食らわせた時、ついに大岩は轟音と共に砕け散り、湖の水は母子もろとも一気に海に向かって流れ落ちていった。
そして後には広く豊かな土地が生まれました。
私たちの愛するする里はこのようにして出来たのです。小太郎と犀竜がその後どうなったかは誰も知りません。けれど犀竜に乗った小太郎の雄姿はいつまでも人々の心の中に生きつづけました。

そして安曇野を流れる犀川としてその名をとどめ、今でも私たちをうるおし続けています。』
これだけの話ですが、なんとも仄々としたものを感じる民話である。特に安曇野や犀川を身近に感じている人たちにとっては。

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2012年12月 2日 (日)

人生は道連れ

毎週日曜日の朝、NHKラジオ第2放送で文化講演会の放送があり、今は塩田丸男氏の「生は道連れ」が13回に渉って放送されている。
塩田氏は、1924(大正13)年、山口県生まれ、88歳。読売新聞の記者を経て、作家として独立、俳句にも親しみ、新聞や雑誌の俳句選者も務める。

『江戸いろはかるたにも登場する「旅は道連れ、世は情」という言葉は古くから伝わることわざです。一人では何かと不安な旅も、同行者がいれば互いに助け合って、心強く過ごすことができるという意味だが、人が生きる「人生」も大きな旅といえるのではないか?そして、この大きな、またかけがえのない重要な旅を無事に過ごすためには、それこそ「道連れ」はなくてはならないものではないでしょうか?
人生の道連れといえば、まず思い浮かべるのが夫婦です。これほど強固な、互いの助けになる道連れはないでしょう。しかしそれ以外にも、両親や友人、恩師など、人生には多くの様々な道連れがあり、それぞれに重い役目を持っています。
今回は88歳を迎えた塩田氏が、戦前から戦後へと生き抜いて来た人生を振り返ります。そして、その長い旅路で見た人間の生と死、そうした多くの道連れとの心の交流を通して、生きる楽しみや心の持ち様を考えたい。』と、ネット上に記されている。

今までの放送の中でも
 ・「夫婦」=人生の最も長い道連れ
 ・「俳句」=自身を物知りにしてくれる道連れ
等々が過去8回に渉って放送されている。

人は一人では生きられない。長い人生の内には色々な出会いがあり、道連れが生まれる。氏の話には笑いがあり、ペーソスがあり、非常に楽しい。
そして今日(12/2)は、その第9回目で「道連れにしたくない人々」が放送された。
「人並み外れた負けん気の強い人」を例にとってユーモアたっぷりに、聞いていて楽しくなる。

その放送を聞いていて思い出したことがある。去年友人のK君から聞いた話である。

K君は売上高、年数千億円の世界企業であるY社の生産技術部門を統括した人。
定年後も技術顧問として同社に残っていたが、その間、Y社とは業種も違い、利害関係もないT社(現S社)のオーナーからの再三に渉るT社経営の要請に応じ、T社の経営を引き受けた。
T社(当時の資本金1億1000万円)は倒産寸前の状態だったが、K君は持ち前の辣腕を振るって同社を再建し、莫大な負債を完済し、優良会社に蘇生させた実績を持っている。

そのK君がある会合に出たら、良く知っているJという男に久しぶりに会った。
JがK君に話しかけてきた。「俺はN日産(註:日産自動車のローカル販売会社)で取締役になった」と30年も前のことを誇らしげに言った。
K君から見たらN日産などは、芥子粒ほどの会社でしかない。それも聞いてみたらJは定年より5,6年前に退社したという。
JはN日産でも人との関係から、塩を撒かれるように退社したということを後から聞いた。

今朝の塩田氏の講演を聞いていて、Jのような男は「道連れにしたくない人々」の内の一人だと思った。

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2012年10月24日 (水)

新聞の見出し

今年のセ・リーグのクライマックス・シリーズ(CS)は面白かった。

長いペナント・リーグで、2位中日に10.5ゲーム差をつけて圧勝した巨人も、中日との直接対決は11勝10敗3分と5分の戦いだった。

そしてCSのファースト・ステージではペナント・リーグ2位の中日と、3位のヤクルトが戦い、あわやヤクルトが勝ち上がるかと思った第3戦の8回裏に思いもよらぬブランコ選手のグランド・スラムが飛び出して、熾烈な戦いを制した中日がファイナル・ステージへと進んだ。

そしてファイナル・ステージでは、熾烈な戦いを勝ち上がった中日が、その勢いをそのままに3連勝し、巨人は崖っぷちに立った。
私は巨人ファンでも、中日ファンでもないから、この戦いのTV放映は見なかった。結果はTVニュースや、翌日の新聞で知った。

そして運命の第4戦は、巨人が3-1で勝ったことをTVニュースで知り、翌日のスポーツ欄で見た。新聞のスポーツ欄では、

まづ、日経新聞の大見出しは「巨人、息吹き返す」であり、
    静岡新聞の大見出しは「巨人、意地の1勝」とあった。
読売新聞ではないから、両新聞とも公平な立場からの報道であることに間違いはない。
私はこの表現を読んで、同じ戦いを報道する見出しにも随分深さが違うものだなと感じたが、これは個人の感じで感じ方は人夫々である。

因みに、
野手部門の個人成績の欄では、
日経新聞は、打・得・安・点・振・球・犠・盗・失
静岡新聞は、打・安・点・本・打率
とある。静岡新聞の打率とは、このファイナル・シリーズに入ってからの打率にすぎない。それよりはどの選手が有効な活躍をしたかを(数字の上でも)知りたいと思うのが普通だが、それは人夫々である。

投手部門の個人成績の欄では、
日経新聞は、回・打・投・安・振・球・失・責
静岡新聞は、回・打・安・責・防御率
とある。防御率もファイナル・シリーズに入ってからの率で、1イニング投げて自責点1ならば、防御率9.00ということになる。つまらない表示と考えるかどうかは人夫々である。

日経新聞は、ペナント・リーグの報道は紙面の片隅にちまちまと書かれていたが、CSになってからは紙面1ページの40%程度を割いている。静岡新聞も同様に40%強の紙面を割いているのは同じである。

何れにしても大した話題ではないが、なんとなく新聞社の体質がそこはかとなく表れていて野球も面白かったが紙面も面白かった。出来れば他の新聞の報道も比較して読んだらもっと面白いだろう。紙面からどのように感じるか受け取るかは人夫々である。   

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2012年10月16日 (火)

藷掘り

我が家の東横の路を挟んで100坪ほどの畑がある。と言っても家々の間に挟まれた畑で、隣家の家族が季節のものを楽しみながら作っている。

今日は隣家関係の保育園児が来て、賑やかに藷を掘っていた。
Photo 割合、大きな藷が採れて園児らの楽しげな声が秋空に飛び交っていた。このような場での子供らの声を聞くのは楽しい。
我が家もおこぼれを頂いた。

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2012年8月21日 (火)

無言館、第二展示館

今年の夏も又猛暑だった。未だ残暑は続いている。
八月十五日も暑かった。そのなかを子供たちと再々度、無言館を訪れた。親には親の、子には子の想いが有ってよい。
Photo 外観は何も変わっていない。ただ周囲の木々が一層大きくなったことぐらい。
Photo_4 Photo_5

迂闊だったが2005年6月、無言館前の戦没画学生慰霊碑「記憶のパレット」(写真左)の真ん中のほぼ三分の一に当たる部分に、何者かが大量の赤ペンキをぶちまけるという事件があった。
色々の経緯があったが、2008年開館した第二展示館「傷ついた画布のドーム」前の「絵筆の碑」(写真右)の碑面に復元されている。(写真はクリックで拡大します)

Photo_7写真は第二展示館「傷ついた画布のドーム」である。
Jpg_2 ドームの館内は本館とほぼ同面積、そこに開館以後収集された画学生60余名の遺作が並ぶ。

天井には約360点におよぶ画学生の美校時代の習作、下絵、デッサン が貼り込まれ、館のリピーター達は「戦没画学生のプラネタリウム」と呼ぶ。

天井から降り注ぐ画学生たちの「生きること」、「描くこと」への執着の眩しさ。

戦後67年を経て、今も少しも色褪せぬ彼らの生命の星座を振り仰いで、ただ心揺さぶられる。

一つの歴史を忘却の淵に沈めるのは耐え難い。

過去は時さえ経てば、風化しやがて消えてゆくなどとはもっての他。これほど鮮明に刻み込まれ生きているものかと改めて思い知らされもしたが、そこには若い身空で散っていった者たちの叫び声だけでなく、其れを人夫々に受け止め、自らの心のつかえを吐き出す吐息と、過去への鎮魂の祈りが館内一杯に渦を巻いているような、そんな幻想にいっとき酔いしれた。

8月14,15,16日の3日間、「記憶のパレット」の前に「千本の絵筆」の供養台を設け、画学生の冥福を祈っている。私たちも絵筆をささげ、戦没画学生への鎮魂の意を表してきた。

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2012年4月29日 (日)

医師の一言

医学の進歩に伴って、予知困難な病気も最近では比較的容易に予知されるようになり、治療方法も飛躍的に向上した。そのような背景もあって、最近は病名の告知が当たり前のようになった。

然し、吉行淳之介の例に見るように、患者によってはそれを望まない場合がある。
又、私の知人のKさんは、医師から「貴方の余命は、まるケ月です」と直接言われた後、急に体力が衰えて亡くなった。付き添っていた奥様は、今でもその時の医師のことを「本人に直接あんなことを言うとは思っていなかった」と、今でも悔しそうに言う。

いつも的確な分析と自己主張を書き送ってくれるAさんから便りがあった。
いつものように長い論説の最後に、自分の現在の健康上の問題に触れて、概要次のような意見が付加されていた。

『敗戦の3月10日、東京大空襲の際「避難せず自分の住んでいる家にどんどん水をかけて燃えないようにせよ、防火に努めよ」という命令に従い、みんな自分の家から逃げず焼け死んだ。

戦時中の大本営発表は嘘で固められた。嘘で固めるには真実を隠さなければならない。全滅しても”我が方の損害は軽微なり”と。

昔大本営、いま原子力保安院、時を越えて似たものを感じる。……

今の私は病んでいる、医師は「あなたの手術後の3年以上の余命は30%です」とか、よくもずけずけ人の気持も知らないで口にするものだと呆れている。ここでは「あなたの気力や精神力でもってすればまだまだ生きられるものと確信し、私もそのお手伝いをするのに吝かではない」くらいの嘘?をつくのも時には必要ではなかろうか、嘘も方便という言葉があるではないか。本論とは関係ないことだが。』と、あった。

医師は医術によって人を助けるのが職業だが、言葉によっても人を勇気付けたり、助けたりする者だと思う。
「総て告知するのが進歩的な医師だ」などと思うのは、余程の思い上がりか、思いやりのない医師だと思ってよい。
医師に限らず、根底に人間愛がなければ浅薄な人間か、冷酷非情な人間でしかない。
Aさんの手紙を読んで胸を打たれた。

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2012年4月 3日 (火)

高台へ

東日本大震災から1年経過した。

内閣府の有識者検討会は、3月31日、東海、東南海、南海地震を起す「南海トラフ」で、これらの想定震源域が連動し、最大級の地震が起きた場合の津波高と震度分布の最大値を公表した。
浜岡原発に近い御前崎の津波高は21mとある。

先の東日本大震災の恐怖が脳裏に深く刻み付けられている時だけにショックは大きい。

最近、浜松市の海に近い地方のマンション等の住民の一部が三方原台地へ移転する動きが出ているそうである。それらの全部とは言わないまでも東日本大震災を踏まえての行動である事が予想される。
三方原台地は将に今、建築ラッシュだ。因みに同台地の海抜は53m前後である。

写真下左は、我が家に近い三方原台地の一角で、2009年5月に撮ったもので一面の茶畑だった。同右はそれ以後のもので広い茶畑が更地になっている(写真はいづれもクリックで拡大します)。
Img_7047 Img_7465

 

更地になってからの動きは殆ど無かったが、この1年であっという間にその広い土地が住宅で埋まってしまった。下の写真はその模様である。Img_2811更にこの土地の近傍には10棟を越すマンションが建った。この地の小学校は満杯だそうである。

戦時中はこの辺り一帯は高射砲部隊があったと聞く。戦後は荒涼とした開拓村だったようだ。時代の趨勢とは言え大きな町に変貌した。

我が家の付近にあった大きな椎の木もマンション建設のために切られた。最近はめっきり雀が少なくなった。三方原台地の状況は急速に変わりつつある。

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2011年8月23日 (火)

人生の岐路

長い人生のうちには何回かの岐路があり、その都度選択と決断の時がある。

2、3週間ほど前だが、朝ドラの「おひさま」の中にもそんな情景があって感動的だった。

陽子が、校長先生に呼ばれ、「丸山先生(陽子)と高橋先生のどちらかに職を離れて欲しい」と言われた。
陽子は悩む。自分は先生になりたくてその道を選んだ。戦後、今まで教えてきた内容がどんでん返しになって悩みながら漸く進む方向が見えてきて、気持ちの上でも何とか落ち着きが戻ってきた矢先の事だった。

彼女は一人で悩む。しかしそれは何時しか夫の和成にも判るようになる。其処から夫婦の会話が始まる。会話の詳細は忘れたが凡そ次のようなものだったと記憶する。

「陽子は高橋先生のことをどう思っているんだい」
「高橋先生は優れた先生だと思っています」
「若しそうなら、陽子が残ろうと思うと、高橋先生に対しては失礼になるんじゃないかなあ。
だから高橋先生のことを考えるのは止めて、自分のことを考えよう。
陽子は先生になるのが夢で、これからも先生を続けたいのなら断固拒否したらいい」

「でも先生でない生活を考えたこともなかったよね。ゼロから考えてみよう。まだ私達には十分時間がある」
「私もなんとなくそう思っていました」
「なんだそれなら陽子は答えを決めていたんじゃないか」
「いえ、和成さんの言葉が引き金になっただけです」
「身の丈に合った世界を築いてゆこう。太陽の陽子として」

「一クラスは48人でも、その何組も持ってきた事を考えたら、小さい世界といっても凄い数だよね。その生徒が卒業しても陽子は、何時までもその子たちの先生なんだ」

ドラマの世界とは言え、自分史と重ね合わせて感動の選択の場面だった。

愈々卒業式を迎えた陽子の気持ちは痛いほど伝わってきて、万感胸に迫るものがあった。
今では聞かれなくなった「仰げば尊し我が師の恩」を生徒が立ち上がって一斉に歌うシーンを見て何かがこみ上げてきた。

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2011年7月25日 (月)

TV地上アナログ放送終了

7月24日正午を以って、TV地上アナログ放送が終了し、地上デジタル放送に完全移行した(除、東日本大震災被災地、岩手・宮城・福島3県)。

1953年、日本で初めて、TVの本放送が始まった。
しかしTVブームを起こし、今まで高嶺の花だったTV受像機が一般に普及したのは、1959年今上陛下(当時の皇太子殿下)と正田美智子さんとのご成婚の儀のあの美々しい行列を放映したのが大きな引き金になった。勿論当時はモノクロTVだった。

当時は新幹線もなく、浜松から東京へ出張した時は18時を過ぎたら一泊するのが社内の慣例だった。18時を過ぎて特急つばめで帰ったら、文句を言われた人のいたことを思い出す。今から考えると古き良き時代だった。

そんな時代に出張し、通りかかった新橋駅前の街頭TVの前は何時も黒山の人だかりだった。TVのあるレストランは何時も何処も満員だった。
それがいつの間にかTVの無い家はなく、何時しかカラーTVが当たり前の時代になった。
社会評論家の大宅壮一が一億総白痴化と言ったのは1957年頃で、その言葉を最近は殊に強く実感するようになった。放送する側の視聴率優先の経営にも問題があるが、視聴者の側にも問題がある。地上デジタル放送完全移行を契機として一考する時でもあろう。

かくして戦後60年近く続いた地上アナログ放送が24日の正午を以って終了した。終了直前のNHK総合TVは全国気象情報、続いて各地の気象情報だった。

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2011年6月26日 (日)

おひさま

NHKの朝ドラ「おひさま」は、先の太平洋戦争が次第に敗色濃厚となってゆく場面に差し掛かっている。
ヒロインの陽子(井上真央)を中心に、親友の真知子(マイコ)、育子(満島ひかり)との関わり合いを通じてドラマは進行してゆく。

昭和20年3月10日の東京大空襲直後の場面。陽子と真知子は、東京で戦災に遭った育子を探し求め、力づけ、安曇野に連れ戻すシーンも感動的だった。
その時の彼女らの友情を示す演技は、我々の学生時代に良く口にした「友の憂いに吾は泣き、吾が喜びに友は舞う」の歌詞ぴったりで、思わず涙ぐんだ。
思えば彼女らの演じている時代は我々の青春時代そのままで、彼女らの演技が真に迫ってくるのは、我々老人の生きてきた時代とラップして映るからで、当時を思い起こして時に泪目になる。

今のような子供手当てなども無いどころか貧しい中、折角苦労して育てた我が子を、赤紙一枚で召集され、明日の命の保証も無い戦地に、送り出さねばならなかった親御さんはどんなに辛かったであろうか。

私の兄も赤紙一枚で招集された。赤紙が届けられた時は取り入れ作業の最中だった。村役場から使いの人がやってきて、「おめでとう御座います」と言いながら赤紙を父に渡して行った。父は無言だった。母の顔色が変わったのを覚えている。

「おひさま」の中で息子の戦死公報が届くのではないかとオロオロする母親の姿が描かれるシーンは頷ける。

「あなたは勝つものと思ってゐましたか」と
         老いたる妻のさびしげにいふ
は敗戦時、歌人・土岐善麿の歌であるが、戦争は非情であり、召集される若者には突如としてやってくる赤紙だった。

東日本大震災も突如やってきた。あれから3ケ月半。原発問題も考えると、戦時中の東京大空襲等を彷彿とさせる過酷な現実を思う。それを思うと犠牲者には慰める言葉が無い。ただ一日も早く立ち直れるように國を上げて援助して行かねばならない。

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