2008年10月22日 (水)

佐鳴湖畔の蘆刈り

浜松市の一角にある佐鳴湖。その湖畔のを22日の9時から地元の佐鳴台小学校5年生140名全員が揃って刈った。
引率の先生に依れば、総合的学習時間の一環として「見つめよう私たちの佐鳴湖」をテーマに、自然環境に親しむ一環として行っているそうである。
佐鳴台小学校は転出入が激しい学校で、児童同士の連帯の一環にもなっているようで、異国の人のお子さんらしい児童も混じっている。
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最初に係りの市の担当者から作業上の注意があってから始まる。刈る人、運ぶ人、束ねる人の役割を決め、途中で休憩を取るたびに役目が代わるように組織だった行動になっている。
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Photo_2      

慣れない手つきながら一所懸命に刈り、受け取り、束ねて行く姿は微笑ましい。足元は水のあるところ、無いところもあり気をつけて刈る。Img_52871_2  

刈り進んで湖辺の柵が見えると眼前に湖が開けてくる。
引率の先生が声をかける。「未来が見えるようでしょう
良い言葉だ、未来が見えてくる。感じ易い年代の児童には特に響く言葉であろう。
先生に依ると、「この年代の児童の頭の中には今日の蘆刈りが確りと焼きついて、生長してもその記憶が鮮明に蘇るようです」と説明してくれた。
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刈られた蘆はトラックで運ばれる。
近所の茶畑に運ばれ、畝間に敷かれたり、或いは動物園の象の餌にも使われるとのことである。

昔のように蘆葺家が殆どなくなったので、刈った蘆の使い方も変ったと、来ていたお年寄りが話していた。

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2008年8月29日 (金)

佐鳴湖

浜松市の西南方に佐鳴湖(さなるこ)がある。
東西600m、南北2.2Km、周囲7Km、面積119ha、水深2m。
三方原台地の水を集め浜名湖に注ぐ谷川が沖積期(約1万年前)に、南端に打ち寄せた砂州によって出口が塞がれて出来た自然湖で、現在は浜名湖と佐鳴川(入野川)で結ばれている。佐鳴湖周辺は風景明媚なので多くの郷土史家、歌人、俳人、画家等が訪れ、賀茂真淵や杉浦国頭等の短歌もある。
   小夜更けて松風高き山寺の
      月はうき代の塵も曇らず    真淵
   入江吹くあき風はやみ浪かけて
      萩のはさわし音そ身にしむ  国頭
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江戸時代末期、入野の文学者・竹村広蔭(ひろかげ)は、その風景に感動し、近江八景にちなんで佐鳴八景と言って愛でた。佐鳴湖の、
 西側:太田の落雁大山の夜雨少林山の秋月
 東側:大良の暮雪三ツ山の晴嵐西湖山の晩鐘
 出口:北浦の帰帆大屋橋の夕照
の八景で、時代と共に周辺の風景も変ったが、当時の竹村の短歌には往時の景が蘇る。(後に昭和時代の歌人・高峰 博も八景を詠んでいるが今回は略。)

太田落雁  かき連ね落ちくる雁の玉づさの
         数も太田のよいのあけぼの
大山夜雨  夜の雨の晴れゆくままに吹く風の
         音にぞひびく大山の松
少林山秋月 影高くうき世はなれて照らすかな
          少林山の秋の夜の月
大良暮雪  払ひあへず重げに見えて見る人は
         大良の山の雪の夕暮
三ツ山晴嵐 山姫の晒せる布と三ツ山の
         あらしに寄する磯の白波
西湖山晩鐘 湖の山もほのかに見えねども
          かすみわけ来る入あいの鐘
北浦帰帆  真帆ひきて舟を並べてきほふなる
         北浦風の吹くにまかせて
大屋橋夕照 ひむがしの浜松の市過ぎ来たる
         夕日にわたるをちこちの人

歌詞は、佐鳴湖の東側台地上の老舗「佐鳴湖ホテル鳥善」の伊達善一郎氏の「佐鳴湖八景(昭和57年10月刊)」から主として引用した。

岸には一部に葦がびっしりと生え、湖を取り囲む台地にかけて坂がかる周囲は鬱蒼と木々が茂り、法師蝉が鳴き、遊歩道に遊んでいる鳥は人が近づいても殆ど逃げない。散策の人も釣をする人も、漕艇の学生もいて、近辺市民憩いの公園になっている。

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2008年6月30日 (月)

別所線

過日上田の別所温泉で会合があり、幹事からの連絡に、「上田駅から別所温泉への足は、地球温暖化・環境浄化に沿ってマイカーではなく、上田駅から田舎の電車別所線に乗って頂きたい。車窓から沿線に広がる田園風景を愛でて心を癒して頂くのも一興かと存じます。」と、あった。

別所線に就いて、Wikipedia に依ると、
別所線(べっしょせん)は、上田市の上田駅から別所温泉駅までを結ぶ上田電鉄の路線である。
2005年10月3日より上田交通から鉄道部門を分社化した子会社の上田電鉄の運営となった。
別所温泉への湯治客輸送のために1921年に開業した。かつて側面に丸窓を持つ「丸窓電車」が走っていたことで知られる。1993年に元東急7200系電車を投入し冷房化を果たした。1973年に別所線廃止の方針が出されたが、地元の運動や軌道整備補助金(欠損補助)の交付が決まったことで危機を免れた。しかし2000年に上田交通の親会社の東京急行電鉄からの設備改修の提言を受け、国土交通省の地方鉄道安全新基準を満たすために上田交通が地元自治体に対し財政支援を求めており、再び存続問題が浮上している。
2005年8月に上田市が分社化後も支援継続することを発表したが、現在も予断を許さない状況が続いている。』と、ある。
その様な事情もあって、今回の会合を受け持つ地元幹事としては少しでも別所線を使って欲しいとの希望に沿った連絡でもあった。
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沿線には塩田平の田園風景が開け、林檎の木が車窓に迫って来る。しみじみ信州に来たなあと感じる。

別所駅に着くと各温泉旅館共通バスが待機していて電車から降りた客を乗せて温泉街を一巡して、客の希望旅館で順次降ろしながら行くという仕組みになっていて便利である。

偶々乗った時刻は下校時とあって結構混んでいたが、途中乗車者より降車する者が多く、終点の別所駅に降りる者は温泉客、観光客それに温泉街の住人。路線の性格から時間帯によっては空いていることが予想され、それが経営成績に反映していると思う。

別所温泉を含む塩田平は、温泉以外に、北向観音、常楽寺、安楽寺、生島足島神社や附近に大法寺、前山寺、信濃デッサン館、無言館等々があって一名「信州の鎌倉」と呼ばれる観光名所でもある。

帰りも上田駅に出るのに同線を使ったが、別所駅の出札・改札は一人の和服に袴姿の女性が受け持っていて、路線PRの一端を担っていた。今では滅多に見られない姿ではあるが清楚な感じを受けた。一緒に記念撮影をしている風景も印象的だった。

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2008年2月 6日 (水)

蘆刈り

節分前の大寒の中、蘆刈りを見に行くことになった。この寒い中をと辟易したが勇を鼓して出かけた。出てみると何とか行けるもので蘆刈り景を楽しむ事が出来た。

所は琵琶湖畔の北之庄町の一角で、水郷を手漕ぎ舟に乗って蘆の間を廻った後、蘆刈りの景を見る。みな着ぶくれて舟に乗るが半纏を一枚づつ貸してくれるし、風もなかったので予想したより寒くなくて助かった。
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はみな「あし」と読むが「よし」とも読む。地元では「よし」と呼ぶ事が多いのは「悪し」より「好し」の意からであろう。しかし「あし」と「よし」には厳密な意味では差があると言う。しかしその説明を聞いても余りピンとこなかったが矢張り、茎の構造や穂や葉にその差があると言う。学問的な差に就いて、ご存知の方に再度教えを請いたいと思っている。
因みに歳時記では『アシの生え始めを「葭(か)」、まだ若いアシを「蘆(ろ)」、大アシに生長したものを「葦(い)」という』とある。
人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉に使われているのは「葦」である。

昔は葭長者(よしちょうじゃ)等と呼ばれて潤った時期もあったが最近では中国産に押される一方で需要も減少した事もあって、作っても赤字だと葭長者の裔のN氏は語っていた。谷崎潤一郎の名作「蘆刈」で描いたような風景は殆ど見られなくなったのが実情であろう。
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Photo_2 長い柄の独特の鎌で刈り取り束ねて出荷する。中々の重労働のように見受けた。

歳時記では「蘆枯る」は冬の、「蘆刈」は秋の季語になっているのが面白い。
「蘆枯る」に就いて『日本には「葦原の国」という古称があるように古来葦が多かった。水辺に群生する葦も冬になると花穂はほおけ、剣状の葉は枯れて下の方から落ちて行き遂には茎だけとなって寒風に吹かれ水に映っている、蕭条たる光景だが決して暗くはなく閑寂の趣がある』と歳時記には記されている。

こんな寒い時にと引っ込み思案だったが、矢張り出てみると、そこには又別な世界があるものと感慨を深くした。

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2008年1月31日 (木)

祖霊息づく千枚田

1月早々に、冬枯れの千枚田を見たくて、愛知県新城市鳳来地区の北端、鞍掛山麓近くに広がっている千枚田を訪れた。1999年に「日本の棚田百選」に選ばれ、2005年には「第11回棚田サミット」が開催された場所でもある。
事実1971年、休耕施策が施行されるまでは1296枚の田圃が作られていた。其の後、減反施策と高度経済成長に伴って都市への労働力移行から休耕田化が加速した。
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千枚田の歴史は古く、江戸時代には千枚田としての形態が整っていたと言われる。

今から百余年前の明治37年(1904)7月10日、梅雨時の長雨と紀伊半島に上陸した雨台風で山崩れが起こり、死者11人を出す大惨事をもたらした。沢沿いの棚田は壊滅したが、先人たちは、この不幸にもめげず約5年掛けて鍬とモッコで棚田復興に全力を注ぎ堅牢な石積みの棚田を蘇らせた。

千枚田は一枚の平均面積が90平方メートルと狭く、小さな機械を入れるのも一苦労。手植えのところも数多く、稲を背板で運ぶ苦労を強いられている。それに追い討ちをかけるように高齢化が進んでいる。 そこで1997年に農家の有志が集まり、「鞍掛山麓千枚田保存会」が発足した。
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山の傾斜地に作られた千枚田は、そのあぜや石垣によって大雨の際の土壌浸食を防ぎ、またその保水機能によって調整池の役割を果たし、水が一気に流水するのを抑える災害防止機能を備えている。
更に常に水をたたえて豊かな緑を育む田は、様々な動植物にも生息空間を提供している。

高齢化、採算性、獣被害・・・の問題が千枚田の維持管理に深刻な影を落としている。休耕田が増えてきたのは前述の通りだが、鞍掛山から流れ出る沢水は複雑な水路網を通して下へと流れていくので、休耕田の位置によってはそこから下の田圃数枚に水が行かなくなり、連鎖的に休耕田になってしまうということもあり得ると言う。かてて加えて最近では、獣被害が深刻な問題になっている。

今、この血と汗の辛苦を地域の人々は風化させることなく、先人の残した偉大な財産を使命感を持って守り続けている姿には頭が下がる。
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野面積みされた石垣は山裾から山頂に向かって延々と築かれ、先人の労苦の跡を垣間見る想いがする。

土地人の自然に対する畏敬と感謝の気持は石垣の中に組み込まれている「田の神」を祀る姿にも表れている。石垣の所々に石神がひっそりと祀られているのは印象的である。

このような石垣を築き棚田を守ってきた先人の苦労を思うと飽食の時代との対比について、割り切れない切なさと、当時はこれだけでも生計を立っていけた慎ましい時代だったのかとの想いも過ぎるが思い過ごしであろうか。
Photo_4 千枚田群の中を今は車の通れる道がある。其処から更に山に向かって畦道を上って行くと、「勅撰歌碑」と書かれた杭がひっそりと立っている。
岩に刻まれたその歌詞は「鞍掛山(くらかけ)の水ひく丘の千枚田云々 山本太一歌」と書かれているのがかすかに読める。

歴史的文化遺産・資源として、また環境保全の場としても残して行きたいところであるが、地元の人のご苦労を思い、政治として何が出来るかを考える時ではないかと切に思った。(文中一部ネット情報引用)。

(千枚田を訪れて、ふと3年前に訪れた下栗(しもぐり)の里を思い出した。)

1月早々というのに一部には冬耕の跡が見られる。

  ひつじ田にしぐるるときの音もなし 長谷川浪々子

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2007年11月22日 (木)

霜月末

過日、友人達と南知多の先端に近い「山海」を日帰りで訪れた。南知多道路を南下し、山海I.C.を出て海岸通り(国道#247)に出た所の「源氏香(げんじこう)」という聞きなれない名前のホテルで入浴・会食をする。
「源氏香とは、江戸時代中期に成立した5種の組香の事で、組み合わせ数が源氏物語の巻数と重なる事からその名がついた」と、ホテルの説明にはあった。温泉郷とあって入浴や海の幸料理も堪能出来た。

海岸付近を散策する。海に流入する「山海川」に架かる「乃野橋」に隣接して防潮水門がある。扉体には透視画法で海側は「希望の未来」を山側は「広がりの展望」を表現していると説明されている。(写真は山側)
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夏は海水浴場になるこの浜は、今はひっそりと静まり返っている。左の方はるかに伊良湖岬とその先に篠島が見える。
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海浜をご婦人が一人歩いている。声をかけてみたらご主人と泊りに来ていて「主人は今、釣をしています。私は流木を探している所です」とのこと。生花にオブジェとして使うのだそうである。
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防潮水門の横に突堤が海に突き出ている。先端まで歩いてみた。波消しブロックの上で釣を楽しんでいる人が居た。大方先の話の人であろう。何が釣れるかと聞いてみたら「眼張(めばる)」と言う。因みに眼張は春の季語になっている。
名古屋港に近いのでタンカーを始め諸船が頻繁に沖を通る。

私はタンカーを望見して、嘗ての朦艟(もうどう)を想い起していた。戦中派の性(さが)とでも言うべきか。朦艟と言っても判らない人が多いと思うが、簡単に言えば「いくさぶね」の事である。
   十二月八日還らぬ兄二人   民江
は、今月の句会で投句した女流の作であるが、彼女は三人兄妹であったが、「兄二人が先の戦争で戦死し、私の人生も変りました」と涙ぐむ。彼女にとっては今も戦後は引き続いている。
12月8日が近くなった。と言ってもその日を知らぬ子供も増えていると聞く。教科書などでも先の戦争に絡む話が、何度となく問題になるが、語り継ぐべき所は、しっかりと継承して行かなければならない。

山海から少し北に「野間大坊」と「杉本美術館」がある。今回は杉本美術館だけ見学して帰った。

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2007年11月15日 (木)

安曇野の山葵田(わさびだ)

山葵田は各地にあるが、何れも水が清く冷涼で、自然の地形に恵まれているか、自然の地形を生かして栽培地を造成している。中でも安曇野の山葵田は伊豆の山葵田と共によく知られている。

写真は、その安曇野の「大王わさび農場」の景で、清冽な流れと規則正しく植えられている山葵の色が目に沁みる。
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折りしも立冬を過ぎた日が西に傾いてゆく。弱い日差しが山葵田を一層美しく浮かび上がらせている。

水脈は幾つにも別れ、山葵の間を隈なく、絶え間なく流れて行く。

   浅き水喜び流れ山葵沢      細見 綾子
   透き水のさざめき通る山葵沢  桂  信子
   芹の水山葵の水と合ふところ  太田 蛇秋

は、共に安曇野の山葵田の景を詠った句である。

安曇野と言う地名は最近では良く知られているが、その割には地域は、はっきりとしていない。Wikipediaに依ると、

安曇野(あづみの)は、長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、安曇野市を中心とした地域一帯を指す名称。おおむね梓川・犀川の西岸(押野崎以南)から高瀬川流域の最南部にかけて広がる扇状地全体を総括している。 該当する自治体としては安曇野市のほか、池田市池田町や松川村、さらに大町市の南部や、松本市梓川地区(旧・梓川村)まで含まれる。 古くは安曇平(あづみだいら)と呼ばれていたが、臼井吉見の小説「安曇野」によって有名になり、この名称が定着した。

北アルプスの山々から湧き出た清流を堰(せぎ)と呼ばれる用水路によってかんがいし、稲作やワサビ栽培といった農業に利用している。長野県内有数の観光地・別荘地となっており、多くの観光客が県内外から訪れる。』と、ある。 

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2007年11月14日 (水)

近くて遠い存在

中央高速道が出来る前は、浜松から長野へ行くときは専ら国道19号線を使った。この道は木曾谷伝いに塩尻へ抜ける道で、途中に鳥居峠があり此処が分水嶺になっていて、北側は日本海へ、南側は太平洋に流れる。

その鳥居峠の南側に権兵衛茶屋という老舗の茶店があり、8月の盆頃に帰省する時はいつも此処に寄って行くのが常で、その時期はいつも混んでいた。
しかし中央高速道が出来てからは、19号線を乗用車の走る機会がぐんと減った。
権兵衛茶屋の其の後が気になって行って見た事があったが見る影も無くなっていたのには驚いた。人や車の流れがこれほど生活環境を変えてしまうのは予想以上のものだった。

この権兵衛茶屋の近く(木曽町日義)から伊那へ抜ける道がある。飛騨の高山市と伊那市高遠町を結ぶ国道361号線である。然し国道とは名ばかりで木曾谷から伊那谷へ抜けるには、中央アルプスを越える必要があり、其処に姥神峠権兵衛峠の二つの難所があり、急峻で狭く、時間が掛かる上に、冬は雪や凍結で通れない。しかも木曽谷から伊那谷へ抜ける道は、この道以外には、中央道の恵那山トンネルか塩尻を迂回する以外に道は無い。

木曾町の日義から伊那谷の伊那市までは高々20Kmに過ぎないが、将に近くて遠いお隣の地域であり、此処に道を通す事が木曽谷側と伊那谷側の住民の悲願でもあった。その願いが叶って2006年2月4日に全線の開通式が行われた。
Ubagami01_2それに先立って最初、姥神トンネルが2002年に開通した。写真(ネットより引用)は姥神トンネルとその周囲の景で 螺旋状に高度を上げてトンネルへ入ってゆく。(各写真はクリックで拡大)
木曾側と伊那側の高度差や、トンネルの長さや工事の難易を考慮しての事であろうと思われる。
そして2006年遂に全線が開通した。権兵衛トンネルの全長は4467m。
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写真は11月12日の、権兵衛トンネルの伊那側の景で、この工事は予想以上の難工事であったと言われる。地元の喜びが目に見えるようだ。しかも通行料は0というのが良い。
医療、福祉、経済、文化交流、地域交流等その効果は大きいし、19号線への影響にも役立っている事は間違いない。
1 嘗ては山の中にあった場所に、そば屋が出来た(写真左)。旧家を解体してその太い梁などを組んで造ったものだろうか、囲炉裏があり自在鉤が掛けられ五徳や火箸が添えられ炭火が起されていた。全体は新しいが、部材には古色が滲んでいる。全体的に落着いた雰囲気で、周囲の景との調和が何となく融け込んでいて素晴らしい景観を呈している。
その上に蕎麦の味が良い。昼時だったが店内は殆ど満員に近かった。
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伊那側のトンネル出口から遠望する伊那谷の景は南アルプスを背に異国情緒すら感じ、草ロールが点々と転がっていた。

郷土史研究家のM氏から、近くて遠い存在だった木曽谷と伊那谷を結ぶ権兵衛トンネルが出来たから是非通ってみて下さいと薦められていたが、今度その機会を得て、この道の素晴らしさを実感出来た。

何より地元の喜びと期待感の強い事をひしひしと感じた。

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2007年7月17日 (火)

土井晩翠像

過日仙台の青葉城址を訪れた。
折りしも良く晴れた土曜の午後とあって、旅行者も含めて訪れる人が多かった。しかしその多くの人は政宗の騎馬像の周辺に群がっていた。矢張り仙台は伊達の城下町だなあとの想いを深くした。
Photo_49  双眼の(隻眼ではない)凛々しい姿の騎馬像は人目をひき、絵にも句にもなり易い要素がある。

しかし其処から少し離れた所に立っている、(騎馬像より)かなり小さな土井晩翠像の周辺は寂として静まり返り人影もなかった。

土井晩翠と言えば、「荒城の月の作詞者として有名なばかりでなく、男性的な漢詩調詩風で多くの読者を惹きつけた。第一詩集『天地有情』が発表されるや、島崎藤村と並び称される代表的詩人となり、作品には「星落秋風五丈原」や、「荒城の月」などのほか、校歌・寮歌にも大きな足績を残した。
詩集には天地有情(1899年4月)、暁鐘(1901年5月)等をはじめ数編があり何れも男性的漢詩的抒情に溢れる。

不朽の名作「荒城の月」を作詞したのは明治31年(1898)。晩翠27歳の頃である。
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「荒城の月」は、作曲者・滝廉太郎が著名になった為、作詞者である土井晩翠の名を知らない人が或いは居るやとも思うが、それにしてもあれだけ大勢の人が政宗像を囲みながら、晩翠像の前に一人も居ないのは、位置的関係もあるかも知れないが少々寂しかった。

晩翠の代表的作品である「星落秋風五丈原」は、諸葛孔明の晩年を描いた詩で良く知られるように、
  祁山(きざん)悲秋の 風更けて 陣雲暗し 五丈原
  零露の文は 繁くして 草枯れ馬は 肥ゆれども
  蜀軍の旗 光無く 鼓角(こかく)の音も 今しづか
  丞相(じょうしょう)病 あつかりき
に始まって延々と続く詩で、晩翠の詩風を端的に表現している。
尚、本詩は或る宗教団体にも取り上げられたと聞くが、それと私とは全く関係ない。私はこの詩が好きなだけである。

私は人影のない晩翠像の前にしばし佇んだ。
憂愁を含んだ晩翠像に魅せられ、若き頃の晩翠に想いを馳せた。

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2007年7月12日 (木)

松島や

7月7日始めて松島を訪れた。
松島は誰もが知る日本三景のひとつ。五大堂を載せた島、人家のある島、無人の島等々、島数は200余とも、何れも松を載せ、この一湾全体の景の美しさが三景のひとつと言われる所以であろう。(写真は俯瞰写真)。
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司馬遼太郎の「街道をゆく26(朝日新聞社刊)」に松島が紹介されている。それに依ると、芭蕉は曾遊の松島の景観を激賞して冒頭、

『「抑(そもそも)ことふりにたれど」と書き始め、「松嶋は扶桑第一の好風にして凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の湖をたたふ。…造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽む。」』

『塩竈から舟を漕ぎ出したときは、古人を思い、古歌を思い、心のふるえるような気分だったに違いない。そういう芭蕉が、
  「松島や ああ松島や 松島や」
などとノンキなトウサンのような句をつくるだろうか』

『奥のほそ道 のくだりを訳してみる。
「島々の形の妙はすべてここにある。頂を聳かすものは天をゆびさし、伏せたる形のものは波に腹這っているようである。……」。松の姿や、その緑の濃さにも感動する。「松の緑が濃密で、その枝葉は潮風に吹きたわめられて、自然のままなのに人の手でわざと曲げたような姿をとっている。見とれるうちに、美女の顔さえ思ってしまう。」』

『芭蕉はこうも言う。「予は口を閉ぢて眠らんとして寝ねられず。」あまりの心の昂ぶりのために、句も出来ねば、眠られもしなかった、という。』
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以上は、司馬遼太郎の「松島」に関する記述からの抜粋であるが、文中にもあるように、芭蕉は松島では遂に一句も作らず、同行の曽良が只一句、
    松島や鶴に身をかれほととぎす
と詠っている。恐らく曾良はその時啼いていたほととぎすより、この美しい景には鶴が相応しいと考えたのであろう。(写真は五大堂)。

司馬遼太郎は、仙台の落着いた陸奥の雄都 ぶりに感動し、更に芭蕉が心を打たれた多賀城址碑(壺の碑)を万感の思いを込めて読んだあと、訪れた松島の方々の看板や説明用の掲示板に
  「松島や ……」
の句を芭蕉の句として書かれているのを見て、当の芭蕉も嘆くであろうと(司馬遼太郎は)嘆息している。ただその記述が有ってか否か、私の今回の訪問時には、そのような看板や掲示板がなかった事は救いだった。
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松島湾クルーズは50分の 観光であるが、島巡りと言ってもほんの一部の島の間を通り抜けるだけのことで、説明にある島の名前などは左から右へ通り抜けてしまう(写真は島のうちのひとつ)。
 自然の造った景とは言うものの見事な景であるが、何処が三景の一つかと言われても、全体を見はるかした全景としか言いようがない。

芭蕉や曽良が訪れた時の松島と、更には司馬遼太郎の時とも、今の松島の景そのものも多少変っているだろうし、それ以上に周囲の雰囲気が俗化している事は想像に難くない。しかしこの景を見て、句作するにしても、如何に心を動かされたかがなければ芭蕉や曽良の感動の万分の一にも至らないし、司馬遼太郎の賛嘆や嘆きも判らないのではないか。
     島々を浮かべ一湾明易し   仙花

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2007年6月 9日 (土)

恋路ケ浜

6月6日伊良湖方面へ。
田原市博物館、崋山の足跡、古窯跡そして岬端散策。始めて通る道だった。
博物館では崋山特別展が開催されていて、崋山の業績紹介や書簡、また彼の良くした絵画その他の貴重な展示品があり感銘を深くした。
博物館に程近い池ノ原公園内に、渡辺崋山幽居跡と隣接して自刃の間がある。
資料に依ると、渡辺崋山は、天保8年(1837)、米国船籍のモリソン号が日本に通商を求めるために来航し、幕府が「外国船打払い令」により砲撃して退去させる「モリソン号事件」が発生した。幕府の強硬論に対し、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆し、慎重論をとった。蘭学者らと交友し、影響力をもっていた崋山の存在を警戒していた幕府は、これを理由に崋山と長英を処罰した。
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写真は池ノ原公園内にある崋山幽居跡である。
この時代は先覚者が世を乱すものとして幕府から迫害を受けた時代で崋山もまたその例に漏れなかった。
田原藩家老職にあった崋山はこの件で、主君に迷惑の及ぶのを恐れて自害して果てた。

古窯跡は資料に依ると、平安から鎌倉時代に活発に生産活動が展開された渥美古窯の一つで、3基の窖窯が保存されている。奈良東大寺鎌倉再建時の瓦を焼いた窯跡で、「東大寺大佛殿瓦」と刻印された軒丸瓦や軒平瓦、平瓦などの瓦や瓦経、瓦塔などの宗教用具が出土している。

古窯館の横からは、風力発電の風車が見える。
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太平洋に向かってゆっくりと廻っている風景は絵になる風景だ。

2000年現在の日本の発電量の比率は(電気事業者のデータに依れば)、火力56%、原子力34%、水力10%で後は、地熱・太陽光・風力発電等を入れても1%にも満たない。
これは日本の場合であるが欧州や米国では、夫々の国情・国民性・思想・地理的条件等色々考えられるが、地球温暖化の見地から、風力発電の比率を上げていると聞く。
風力発電の長短所やコストパフォーマンスは別として、短所の一つに落雷頻度と鳥が被害にあうこと(バードストライク)が挙げられている。

ところで此処渥美半島の先端、伊良湖岬は島崎藤村の「椰子の実」の歌で有名であるが、一方、秋ともなると数千羽の鷹の渡る中継地点として知られ、多くの俳人やカメラマンが訪れる。聞き洩らしたが鷹渡る名所に、鳥にとって危険な存在である風力発電の風車が並んでいるのも皮肉な取り合わせと言えなくもない。

岬の先端には燈台があり、灯台から太平洋岸に面して日出の石門(ひいのせきもん)までの約1kmを恋路ケ浜と言い、太平洋の荒波をうけて湾曲する美 しい砂浜である。また、ここは数々の「日本の百選」(道・渚・白砂青松・音風景)に選ば れている。
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恋路ケ浜とは口当たりの良い地名だが偶々訪れた時は、波が荒かった。  

  鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉
  夢よりも現の鷹のたのもしき     芭蕉
  紅暗し崋山の遺物落椿        羽公
  発電の風車ゆるりと梨の花       

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2007年5月26日 (土)

古書店

4月1日から浜松市も政令指定都市になった。それに先立って市庁舎も耐震性を加えて新しくなった。市庁舎を囲むように公園があり、浜松城や美術館がある。
その市庁舎の傍に何故か、骨董店、畳店、それに古書店等が並んでいるのも面白い取り合わせだ。
Img_08452jpg
写真は新市庁舎。美術館ではピカソ展を開催していた。
Img_08442_1(ピカソの絵も想像していたイメージと現物を観た感想とは著しく違うのに驚いた。)

今は昔ほど畳を使わなくなった。だから畳屋も珍しい存在になった。それがこの市庁舎の傍に固まって2軒もある。偶然かどうかは聞いてみた事がないから判らないが、新旧の対象が面白い。

その傍に又骨董店があるのも面白い。骨董店といえば古書店もある。嘗て浜松の旧市街には私の知っているだけでも10軒以上の古書店があった。しかし今はこの市庁舎の傍に2軒ある以外は知らない。

古書店は懐かしい。それに絶版になった本や、探していても中々手に入らない本が思いがけなく手に入る楽しみもある。手も出なかった全集物なども一括して予想外の安価で手に入る楽しみもある。嘗て神田の古書店街をうろついた記憶も蘇ってくる。
Img_08462_1 写真は市庁舎の傍の古書店だが、狭い入口の割には足を踏み入れてみると中は思っていた以上に広い。
立読みも楽しいし、探していた句集なども手に入れる僥倖に恵まれる機会もあってこのような店を覗いて見るのも古き良き時代を思い出させてくれて有り難い。しかし、なるべく必要最小限にしないとまたぞろ家の中が狭くなってしまうので色々計算をして買う事になる。

1960年頃、ある国家試験を受けた時にY社の図書室から借りた技術的専門書がある。その本は今は恐らくY社でも廃却してしまっているだろうし、今となっては時代も隔たっているし、技術的にも、用途的にも恐らく必要がなくなっているので、古書店を探してもよほどの事が無い限りは見つけることの出来ない書だと思う。それでも見つけたら懐かしくなって買ってしまうかも。古書店は青春懐古の場所も提供してくれる。神田も変っただろうが一度ぶらついて見たい。

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2007年5月 9日 (水)

真田氏本城址

長野道の上田・菅平ICで降りて菅平方面へ、車で走ると間もなく真田町に出る。
ここは真田氏発祥の地として知られている。町には真田氏歴史館があり真田氏の歴史を物語るものが数多く展示されている。
其処から車で10分も菅平方面に向かって走ると右手に真田氏本城址へ行く道がある。その道を暫く行くと城址の駐車場に出る。其処から歩いて5分くらいで頂上に登る事が出来る。其処から真田町、更にはその前方遥かに上田市街が望見出来る(写真)。A
丁度5月の節句時でもあり、鯉幟が頂上から山麓に掛けて長く連なり風をはらんで見事だ。

城の由緒書に依ると、
「この城址は天白城とともに、馬蹄形につくられ、南西面に広がる緩やかな斜面は、真田氏館跡や原の郷へと続き、さらに指呼の間に砥石城・矢沢城を望むことが出来る。
本郭は、東西9m、南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へニの郭三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。
規模は大きく、水利もあり、周辺城址群の位置的関係等から見て上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。」
と、ある。
A_1 山城と言うより丘城といった方がよいこの砦を築いた頃の真田氏は、恐らく東信濃の一小豪族に過ぎなかったであろう。
真田幸隆時代になって頭角を現し始めた。坂城の豪族村上義清に真田の地を追われていた幸隆は、川中島の合戦で武田方として大活躍し、更に義清の居城である砥石城を攻略して、東信濃一の豪族となった。
幸隆のあと真田家を継いだのは昌幸。二人の兄が長篠合戦(天正3年・1575年)で討死したため家督を継ぐことになった。天正10年武田氏が滅亡後は苦心惨憺して真田家の維持発展に努め、天正12年頃上田城を築いて真田の地位を不動のものとした。以降昌幸、信之、幸村の数奇な運命は世に広く知られている。

今この城址は夏草に覆われ、家族連れで賑わっている。戦国時代の苛酷な真田氏の話は、物語風に伝えられているに過ぎない。
時恰もNHK大河ドラマの影響もあって、六文銭の旗印と共に、風林火山の幟も到る所に翻っている。そんな中でボランティアの人々が城址の手入れをしているのが目に付いた。

   戦なき世をしみじみと菖蒲風呂
   城跡に礎石もあらず若葉風

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2007年2月 9日 (金)

どんど祭

信州には温泉が多いがその中であまり知られていない、鹿教湯(かけゆ)と言う温泉がある。此処は正月から節分にかけての氷燈籠(写真:クリックで大きくなります)でも知る人ぞ知る温泉で、静かに温泉を楽しむ人には持って来いの所である。
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此処では1月末のある日に地元で「どんど祭」と呼ばれる子供たちの行事がある。
温泉街の宿を廻ってその玄関先で、面をつけた子供たちが、
風邪の神たたき出せ、福の神まつり込め
と太鼓と獅子頭の舞いに合わせ、囃しながら宿に入り込み、再び太鼓・獅子頭に合わせて囃しながら、ロビーに座っている人達の肩を叩いてまわるという極く素朴な行事である。
私達が今年訪れた時に丁度その行事に出くわして可愛いいこぶしで、肩を叩いて貰った。子供たちは小学低学年生を主体にした構成で見るほうも楽しい。終ると予め用意した物を子供たちにお礼としてあげる。この間、子供たちと宿の人達との雰囲気は実に良い。
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写真上は玄関口でのお囃子、下はロビーでの風景である。

素朴な行事で、子供たちが大きくなっても忘れられないものとなるであろうし、地元の人達との一体感にも繋がって、冬の温泉街を明るくさせてくれる。こんな行事は大切に何時までも保存したいものだ。

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2007年2月 5日 (月)

知多吟行

過日、句友と知多半島へ吟行した。

名鉄、美浜緑苑駅で下車し歩いて10分程の所に杉本健吉美術館がある。Photo_7
同館の紹介記事には概略次のように述べられている。

「両界曼陀羅」、「新・平家絵物語」屏風をはじめ、油彩・水彩・素描着色など、初期から現在までの芸術作品のすべてを収蔵。
当館は二つの常設展示室、企画展示室、和室「杉庵」からなる本館とともに、三つの展示室からなる新館が平成6年4月に完成し胎蔵界・金剛界からなる「両界曼陀羅」、「空海像」を中心に展示をしています。

とあり、丁度訪問した時は「文楽」などの特別展示もなされ、淡路人形の絵なども展示されていた。浄瑠璃三味線の師匠を父に持った画伯にとっては文楽は子供の頃から親しんできた世界であろう。
宗教的な背景を負った絵は見応えがあり、じっくりと時間を掛けて見たいところ。
その館内に志賀直哉が同画伯に贈った言葉が掲げられていて印象的だった。

「杉本健吉君は日展で続けて賞を貰い、急に世間的に認められ、挿絵に装幀に今は流行児になっている。杉本君の家族の多いことを知る私は物質的な意味でそれは大変いいことだと思っているが、画家としての杉本君の為、別に喜ばしい事とは思っていない。何故なら杉本君はいわゆる本流の絵を描く人で、今までの絵は世間的に認められるに丁度いいうまさに達したというに過ぎないからである。杉本君の絵のうまさは分かり易いうまさだ。感じをよく掴んで、それを要領よく画面に現はす技量は却々鮮やかなものである。それ故、杉本君は現在の技量だけでも、日本で才人といふ事が出来るが、然し、私の杉本君に望むところはもっと大きい。今のところで止まってゐては通俗的作家に終る危険がなしとしない。この危険区域を杉本君が早く出抜ける努力をされる事を望んでゐる。」

画伯の才を見抜いた上で、温情溢れる激励をされた志賀直哉の心根にも感動した。

美浜緑苑駅から野間駅までは近い。何れも無人駅で民間企業の経営努力を垣間見る思いもある。
駅から歩いて近くに、源義朝を謀殺した長田忠致・景致父子を後に頼朝が処刑した「はりつけ松」がある。今は朽ちて根元しか残っていない。
其処から田圃中を歩いて野間大坊に行く。その人家の少ない田圃中にイタリア料理レストラン”NAGA”があった。昼食を摂ったが、値段が安い上にスパゲッティを始め美味しかった。
野間大坊は天武天皇の時、役(えん)の行者が草創、聖武天皇の時行基菩薩が再び開基し弥陀三尊を守置し阿弥陀寺ととなえた。この寺領に源義朝の廟がある。入浴中に長田父子に謀殺された時、「せめて我に木太刀一本なりともあれば」と悲痛な一言を残したと伝えられ、慰霊の為に木太刀を献じる慣わしが出来て山のように積まれている。
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木太刀を献じた人は全ての願いが叶うと言われている。
   寒つばき木太刀嵩なす義朝忌
野間大坊を含め、寺領の中にある歴史的遺産などをボランティアガイドしてくれた地元の野間小学校6年生の好意に感謝しつつ帰途につく。
途中、臨時句会を開き感想や意見を交した後、帰宅した。

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2006年11月30日 (木)

草笛

随分前の事になるが、小諸の懐古園を数度訪れた事がある。盆に墓参りに行く途中だったと思う。その都度古老が草笛を吹いていたことだけが記憶に残っている。お名前は伺ってはいなかったが懐かしさが込み上げる。

Photo_2 当時の御歳から推測して今、懐古園を訪れても、その草笛を聞く事は出来ないにしても、何かの痕跡が残っていれば嬉しいなとの思いに駆られて過日懐古園を訪れた。
藤村記念館の受付嬢に聞いてみた。「その方なら1980年に亡くなられましたが、昔何時も草笛を吹いていた場所に写真と録音したものがあるので行って御覧下さい」との案内があった。(写真をクリックすると拡大します)。

その場所は直ぐ判った。横山祖道さんと仰る方で、その説明書きによれば、「昭和33年より22年間に渉り雨の日も風の日もこの場所で説教代わりに草笛の優しい音色で旅人を慰めた」と、ある。説教とあるからには僧職でいらっしゃったのだろう。その写真の下にボタンがあって、それを押すと懐かしいあの草笛の音が聞えてくる。藤村の「小諸なる古城のほとり」も老師が歌われたのだろうか、それも聴く事が出来る。私たちも遊子として往時を偲んだ。

Photo_5
附近は一面の紅葉で美しかった。ふと仰ぐと、大木の梢に珠となった寄生木(やどりぎ)が冬空に輝いていた。
Photo_4

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2006年10月23日 (月)

栗おこわ

旅へ出かける時、駅弁を食べる機会は割合多い。駅弁には地方色も出ていて味も色々だから、自分の好みに合わせて買えば良いが、食べてみて予想していた味と一致しているときは嬉しいが、そうでないものもあってがっかりする時もある。

私は駅弁は嫌いではないが、時間が許せば、降りてからか、乗車する前に食事を摂る事が多い。
過日長野へ出かけた時、時間的理由で列車内で食事を摂ることになったが、T駅の駅弁を買おうと思っていたらそれがなくて、時間的に1時間も食事刻がずれてS駅で駅弁を買った。釜飯だったが嘗てのような素焼きの釜ではなくプラスチック製の釜で味ももう一つだった。

その帰途も偶々時間的にみて車内で食事する事になって、出発前に長野駅のホームで駅弁を買った。色々あったがその中に「栗おこわ」と言うのがあったのでそれを選んだ。
Photo_1
ところがこれが旨かった。それに入れ物が気に入ったし値段も手ごろだ。包み紙には、
「特撰餅米に信州小布施栗、奥信濃の山菜を入れて炊き上げた五目味付けの栗おこわです。旅路と共に信州の素朴さ、おふくろの味をごゆっくりとご賞味ください。また、この手編みのかごはおにぎり入れなどいろいろにご利用いただけます。」と、あった。

昔、横川の釜飯の旨かった事を覚えているが、今度の栗おこわも旨かった。
矢張り食べ物は味が勝負だが、こんな入れ物に入っていると尚嬉しい。今度また出かける機会があったらこの駅弁にしたいと思った。

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2006年10月 9日 (月)

花沢の里

過日、友人ご夫妻と、或るご縁で焼津(やいづ)の知人を訪ねた。

焼津と聞いて先ず思い浮かべるのは遠洋漁業の基地としての焼津であるが、多少歴史に興味のある人は、日本武尊(やまとたけるのみこと)や天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)に思い到る人もいる筈である。

その焼津の北部に万葉集にも詠まれ、東海道最古の「やきつべの小径」がある。奈良・平安時代に栄えたこの街道筋には、長屋門造りの美しい家並みを今に残している「花沢の里」集落がある。
2006923_019 
傍には小流れがあり、嘗ての水車小屋は今は動いていないが、ぼっとりはそのままの姿で残されている。
Yaidu_7
長屋門は美しい均整のとれた風情を醸し出している。燕の去った門の天井には幾つもの巣がそのままの姿で残されている。来年は又今年巣作りをした燕が戻ってくるのであろう。
Yaidu_9家人も来年を楽しみにしているYaidu_8 感がある。
家の入口には魔よけの護符を貼っている家が多い。この風習もこの集落独特のものであろう。
長屋門の脇には、この土地で採れた農産物を無人で売っている。買いたい人は勝手にそこにおいてある箱の中へ決められたお金を放り込んで品物を持っていくという仕組みである。
小径に沿って、一部に建仁寺垣が美しい調和を見せている。
Yaidu_1_1
この小径を上ってゆくと、高草山法華寺がある。その周囲を含めて彼岸花が咲き乱れている。丁度日本武尊が敵の火攻めから草を薙ぎ倒して難を逃れた故事を連想させる。
    やきつべの戎の火とも曼珠沙華  堀井瓜紅
Yaidu_10
焼津港では丁度、港祭りで賑わっていた。
Yaidu12
このような農耕作業用道具が無造作に置かれているのもこの地の風物詩だ。
    里人の言葉飾らずこぼれ萩
         花沢の里いづ方も秋のこゑ  

焼津市の一角に、このような美しい家並みが残っている事を俳人たちはよく知っていて、吟行に訪れる人が多いと聞く。
10人来れば10人、100人来れば100人夫々に切り取る景も違うし、同じ景を切り取っても表現や深味も違うし、吟行後の句会は又一つの楽しみでもある。
彼らもまた土地の雰囲気を壊さないように気を使っているのがよく判る。

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2006年10月 3日 (火)

戸隠

毎年、盆月(8月)には墓参に信州へ行く。

今年は、都合で7月から外泊の旅が出来なかったので、彼岸月(9月)の内にはどうしても行きたいと思っていた。丁度9月30日の午後、長野市で会合があり、その前に墓参を済ます事が出来た。翌1日は早めに帰る予定だったが旧友H君からの薦めもあり、久しぶりに戸隠へ行ってきた。戸隠と言っても今は長野駅から車で30分あれば行ける。H君が自分の車で案内してくれた。

H君の奥さんとは6年近く会っていないので、非常に懐かしく嬉しい再会だった。

戸隠の入口に「だいざほうす池」がある。そこは「浮島」が点々としていて日々様相を異にする。
今は車やバスで一気に行ける距離にある池だが、私たちの学生時代は、通称七曲りという坂道をテクテク上り、やっとその池にたどり着き、更にその池から飯綱山の山麓へと狭い道を上り校有林へ辿りつく。終日そこで作業をした後、重い槇を背負子で背負って学校まで帰ってきた。そんな記憶が彷彿として浮かびあがる。
Ukisima
その池を通り過ぎると大久保の茶屋がある。茶屋へは元気だった頃の母を連れて何度か行った事がある。其処を過ぎてから間もなく道の僅か左に入ったところにH君の山荘がある。
山荘を左手に見ながら進むと、戸隠の三社である宝光社、中社、奥社がある。中社と奥社の間で道の左手へ入ったところに「鏡池」がある。
Kagamiike
文字通り湖面は鏡のように周囲の景を映している。実はH君も今度始めて来たと言う。勿論私も始めて。天候は曇りがちで流石に此処へ来るとひんやりとする。もう秋の声が充満している。木々は色づきはじめている。本格的な紅葉は中旬以降だろう。
          戸隠に雲わきつげり蕎麦の花
奥社の入口には、白膠木(ぬるで)が早くも真っ赤に紅葉していた。
Momiji
戻ってH君の山荘で、奥様ご自慢の稲荷鮨を始め手作りの心の籠もったお料理を頂く。山荘の入口には栗も落ちていて帰宅したら栗ご飯にしようとポケットを膨らませた。

30分あればと言うが中々こんな機会がなければ行かれない。1960年代に出張で訪欧した時、山の中まで舗装されているのに一驚したものだが、今では日本も山の中まで舗装され今昔の感がある。
仲秋の戸隠には信州の空気が充満している。曇天とは言いながら爽やかで下界とは全く違う世界がある。戸隠は神話の世界でもあり、伝説も多い。浜松へ帰る時間を数時間遅らせたが、思い出の多い戸隠に懐かしい記憶を蘇らせた。

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2006年4月12日 (水)

奥の細道むすびの地、大垣

4月7日同好の士と共に、芭蕉翁「奥の細道むすびの地」大垣を訪問した。「奥の細道」序文は、

「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯 をうかべ、馬の口とらえて老をむ かふる物は日〃旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海濱にさすらへ去年の秋江上の
破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の
物につきて心をくるはせ、道祖神のまね きにあひて、取もの手につかず、云々」という名文から始まる。

「奥の細道Wikipedia」ではその旅立ちと、むすびの地大垣に就いて、

旅立ち

元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う:

  • 草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ ひなの家

3月27日 明け方舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む:

  • 矢立の初め
    • 行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

大垣

8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する:

  • 結びの句
    • 蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ

と、述べている。

大垣には、「ミニ奥の細道」として、奥の細道全行程約2400Kmを、愛宕神社(錦町)からむすびの地(船町)までの約2.2Kmを、奥の細道に見立てて「奥の細道」で芭蕉が詠んだ句から代表的な20句を選んで、水門川に沿って句碑が建てられている。写真はそのむすびの地である船町港跡に建てられている句碑で、手前は「蛤のふたみに別行秋そ(芭蕉)」で左奥は「惜ひひげ剃たり窓に夏木立(木因)」。

Kuhi_1

付近には川燈台があり往時、大垣・桑名間には蒸気船が周航していた。川燈台はその夜間の目印として建てられたもの。

Kawatoudai_1

Taraibune_2   水門川の両岸は今、桜の真っ最中で名物の盥舟を浮かべて旅情を楽しんでいる風景も散見される。

川底には水草が生い茂り、川の流れに従って緑の帯をなびかせていた。

Hasisakura

川には多くの橋が架けられていて、それが皆異なった形と色彩で美しい。

橋の欄干に擬宝珠が取り付けられているのも特徴の一つ。

Denwa 玉子屋本店で昼食を摂る。朝食が早かったのも手伝って美味しい昼食だった。

階段の途中に昔懐かしい電話機があった。手にとってハンドルを回してみたら手応えがあったから、ひょっとしたらまだ使えるものかも。

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2006年4月 2日 (日)

美しくも懐かしく

5ヶ月ぶりに山へ行って来た。春は名のみで木々の芽吹きにはまだ多少間がありそうだが、息吹は確実に足元にやってきていた。庭には蕗の薹が小さく顔を覗かせていた。Yama_4

渓側の木々は老木が多いが、矢張り春を迎える喜びを何となく感じさせてくれる。

Yama_1

着いた翌々日、朝起きてみたら一面の雪だった。淡雪で間もなく日が当たったら消えてしまった。

Yama_2

前の道を歩いてみると足跡がくっきりと春の雪景色を描く。

Yama_3

雪国に生まれた私が雪の降っている姿と、雪景色を眺めるのは久しぶりだ。雪を見ていると子供の頃の事が髣髴とまな裏に浮かんでくる。父が、けだしの雪をかいている姿、畑の桑の木々が朝日に煌いている姿、一面銀世界の裏山の景色等々。過去は辛かった事を昇華し、美しくも懐かしい景を蘇らせてくれる。ただ今年の豪雪ではご苦労のあった地方の事も脳裏を掠める。

冬の豪雪とは違って、春の雪は、淡雪、沫雪、牡丹雪などとも呼ばれ、降り積もった雪がまばらに見えるさまを斑(はだれ)雪、はだら雪、はだら、はだれ野とも言い、雪の降り終いを雪の果、名残の雪、雪の別れ、忘れ雪などとも呼んで其の情緒を表現している。

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2006年2月13日 (月)

ラッキョウの道

Y社に入社した