2008年10月22日 (水)

佐鳴湖畔の蘆刈り

浜松市の一角にある佐鳴湖。その湖畔のを22日の9時から地元の佐鳴台小学校5年生140名全員が揃って刈った。
引率の先生に依れば、総合的学習時間の一環として「見つめよう私たちの佐鳴湖」をテーマに、自然環境に親しむ一環として行っているそうである。
佐鳴台小学校は転出入が激しい学校で、児童同士の連帯の一環にもなっているようで、異国の人のお子さんらしい児童も混じっている。
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最初に係りの市の担当者から作業上の注意があってから始まる。刈る人、運ぶ人、束ねる人の役割を決め、途中で休憩を取るたびに役目が代わるように組織だった行動になっている。
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Photo_2      

慣れない手つきながら一所懸命に刈り、受け取り、束ねて行く姿は微笑ましい。足元は水のあるところ、無いところもあり気をつけて刈る。Img_52871_2  

刈り進んで湖辺の柵が見えると眼前に湖が開けてくる。
引率の先生が声をかける。「未来が見えるようでしょう
良い言葉だ、未来が見えてくる。感じ易い年代の児童には特に響く言葉であろう。
先生に依ると、「この年代の児童の頭の中には今日の蘆刈りが確りと焼きついて、生長してもその記憶が鮮明に蘇るようです」と説明してくれた。
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刈られた蘆はトラックで運ばれる。
近所の茶畑に運ばれ、畝間に敷かれたり、或いは動物園の象の餌にも使われるとのことである。

昔のように蘆葺家が殆どなくなったので、刈った蘆の使い方も変ったと、来ていたお年寄りが話していた。

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2008年8月29日 (金)

佐鳴湖

浜松市の西南方に佐鳴湖(さなるこ)がある。
東西600m、南北2.2Km、周囲7Km、面積119ha、水深2m。
三方原台地の水を集め浜名湖に注ぐ谷川が沖積期(約1万年前)に、南端に打ち寄せた砂州によって出口が塞がれて出来た自然湖で、現在は浜名湖と佐鳴川(入野川)で結ばれている。佐鳴湖周辺は風景明媚なので多くの郷土史家、歌人、俳人、画家等が訪れ、賀茂真淵や杉浦国頭等の短歌もある。
   小夜更けて松風高き山寺の
      月はうき代の塵も曇らず    真淵
   入江吹くあき風はやみ浪かけて
      萩のはさわし音そ身にしむ  国頭
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江戸時代末期、入野の文学者・竹村広蔭(ひろかげ)は、その風景に感動し、近江八景にちなんで佐鳴八景と言って愛でた。佐鳴湖の、
 西側:太田の落雁大山の夜雨少林山の秋月
 東側:大良の暮雪三ツ山の晴嵐西湖山の晩鐘
 出口:北浦の帰帆大屋橋の夕照
の八景で、時代と共に周辺の風景も変ったが、当時の竹村の短歌には往時の景が蘇る。(後に昭和時代の歌人・高峰 博も八景を詠んでいるが今回は略。)

太田落雁  かき連ね落ちくる雁の玉づさの
         数も太田のよいのあけぼの
大山夜雨  夜の雨の晴れゆくままに吹く風の
         音にぞひびく大山の松
少林山秋月 影高くうき世はなれて照らすかな
          少林山の秋の夜の月
大良暮雪  払ひあへず重げに見えて見る人は
         大良の山の雪の夕暮
三ツ山晴嵐 山姫の晒せる布と三ツ山の
         あらしに寄する磯の白波
西湖山晩鐘 湖の山もほのかに見えねども
          かすみわけ来る入あいの鐘
北浦帰帆  真帆ひきて舟を並べてきほふなる
         北浦風の吹くにまかせて
大屋橋夕照 ひむがしの浜松の市過ぎ来たる
         夕日にわたるをちこちの人

歌詞は、佐鳴湖の東側台地上の老舗「佐鳴湖ホテル鳥善」の伊達善一郎氏の「佐鳴湖八景(昭和57年10月刊)」から主として引用した。

岸には一部に葦がびっしりと生え、湖を取り囲む台地にかけて坂がかる周囲は鬱蒼と木々が茂り、法師蝉が鳴き、遊歩道に遊んでいる鳥は人が近づいても殆ど逃げない。散策の人も釣をする人も、漕艇の学生もいて、近辺市民憩いの公園になっている。

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2008年6月30日 (月)

別所線

過日上田の別所温泉で会合があり、幹事からの連絡に、「上田駅から別所温泉への足は、地球温暖化・環境浄化に沿ってマイカーではなく、上田駅から田舎の電車別所線に乗って頂きたい。車窓から沿線に広がる田園風景を愛でて心を癒して頂くのも一興かと存じます。」と、あった。

別所線に就いて、Wikipedia に依ると、
別所線(べっしょせん)は、上田市の上田駅から別所温泉駅までを結ぶ上田電鉄の路線である。
2005年10月3日より上田交通から鉄道部門を分社化した子会社の上田電鉄の運営となった。
別所温泉への湯治客輸送のために1921年に開業した。かつて側面に丸窓を持つ「丸窓電車」が走っていたことで知られる。1993年に元東急7200系電車を投入し冷房化を果たした。1973年に別所線廃止の方針が出されたが、地元の運動や軌道整備補助金(欠損補助)の交付が決まったことで危機を免れた。しかし2000年に上田交通の親会社の東京急行電鉄からの設備改修の提言を受け、国土交通省の地方鉄道安全新基準を満たすために上田交通が地元自治体に対し財政支援を求めており、再び存続問題が浮上している。
2005年8月に上田市が分社化後も支援継続することを発表したが、現在も予断を許さない状況が続いている。』と、ある。
その様な事情もあって、今回の会合を受け持つ地元幹事としては少しでも別所線を使って欲しいとの希望に沿った連絡でもあった。
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沿線には塩田平の田園風景が開け、林檎の木が車窓に迫って来る。しみじみ信州に来たなあと感じる。

別所駅に着くと各温泉旅館共通バスが待機していて電車から降りた客を乗せて温泉街を一巡して、客の希望旅館で順次降ろしながら行くという仕組みになっていて便利である。

偶々乗った時刻は下校時とあって結構混んでいたが、途中乗車者より降車する者が多く、終点の別所駅に降りる者は温泉客、観光客それに温泉街の住人。路線の性格から時間帯によっては空いていることが予想され、それが経営成績に反映していると思う。

別所温泉を含む塩田平は、温泉以外に、北向観音、常楽寺、安楽寺、生島足島神社や附近に大法寺、前山寺、信濃デッサン館、無言館等々があって一名「信州の鎌倉」と呼ばれる観光名所でもある。

帰りも上田駅に出るのに同線を使ったが、別所駅の出札・改札は一人の和服に袴姿の女性が受け持っていて、路線PRの一端を担っていた。今では滅多に見られない姿ではあるが清楚な感じを受けた。一緒に記念撮影をしている風景も印象的だった。

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2008年2月 6日 (水)

蘆刈り

節分前の大寒の中、蘆刈りを見に行くことになった。この寒い中をと辟易したが勇を鼓して出かけた。出てみると何とか行けるもので蘆刈り景を楽しむ事が出来た。

所は琵琶湖畔の北之庄町の一角で、水郷を手漕ぎ舟に乗って蘆の間を廻った後、蘆刈りの景を見る。みな着ぶくれて舟に乗るが半纏を一枚づつ貸してくれるし、風もなかったので予想したより寒くなくて助かった。
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はみな「あし」と読むが「よし」とも読む。地元では「よし」と呼ぶ事が多いのは「悪し」より「好し」の意からであろう。しかし「あし」と「よし」には厳密な意味では差があると言う。しかしその説明を聞いても余りピンとこなかったが矢張り、茎の構造や穂や葉にその差があると言う。学問的な差に就いて、ご存知の方に再度教えを請いたいと思っている。
因みに歳時記では『アシの生え始めを「葭(か)」、まだ若いアシを「蘆(ろ)」、大アシに生長したものを「葦(い)」という』とある。
人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉に使われているのは「葦」である。

昔は葭長者(よしちょうじゃ)等と呼ばれて潤った時期もあったが最近では中国産に押される一方で需要も減少した事もあって、作っても赤字だと葭長者の裔のN氏は語っていた。谷崎潤一郎の名作「蘆刈」で描いたような風景は殆ど見られなくなったのが実情であろう。
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Photo_2 長い柄の独特の鎌で刈り取り束ねて出荷する。中々の重労働のように見受けた。

歳時記では「蘆枯る」は冬の、「蘆刈」は秋の季語になっているのが面白い。
「蘆枯る」に就いて『日本には「葦原の国」という古称があるように古来葦が多かった。水辺に群生する葦も冬になると花穂はほおけ、剣状の葉は枯れて下の方から落ちて行き遂には茎だけとなって寒風に吹かれ水に映っている、蕭条たる光景だが決して暗くはなく閑寂の趣がある』と歳時記には記されている。

こんな寒い時にと引っ込み思案だったが、矢張り出てみると、そこには又別な世界があるものと感慨を深くした。

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2008年1月31日 (木)

祖霊息づく千枚田

1月早々に、冬枯れの千枚田を見たくて、愛知県新城市鳳来地区の北端、鞍掛山麓近くに広がっている千枚田を訪れた。1999年に「日本の棚田百選」に選ばれ、2005年には「第11回棚田サミット」が開催された場所でもある。
事実1971年、休耕施策が施行されるまでは1296枚の田圃が作られていた。其の後、減反施策と高度経済成長に伴って都市への労働力移行から休耕田化が加速した。
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千枚田の歴史は古く、江戸時代には千枚田としての形態が整っていたと言われる。

今から百余年前の明治37年(1904)7月10日、梅雨時の長雨と紀伊半島に上陸した雨台風で山崩れが起こり、死者11人を出す大惨事をもたらした。沢沿いの棚田は壊滅したが、先人たちは、この不幸にもめげず約5年掛けて鍬とモッコで棚田復興に全力を注ぎ堅牢な石積みの棚田を蘇らせた。

千枚田は一枚の平均面積が90平方メートルと狭く、小さな機械を入れるのも一苦労。手植えのところも数多く、稲を背板で運ぶ苦労を強いられている。それに追い討ちをかけるように高齢化が進んでいる。 そこで1997年に農家の有志が集まり、「鞍掛山麓千枚田保存会」が発足した。
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山の傾斜地に作られた千枚田は、そのあぜや石垣によって大雨の際の土壌浸食を防ぎ、またその保水機能によって調整池の役割を果たし、水が一気に流水するのを抑える災害防止機能を備えている。
更に常に水をたたえて豊かな緑を育む田は、様々な動植物にも生息空間を提供している。

高齢化、採算性、獣被害・・・の問題が千枚田の維持管理に深刻な影を落としている。休耕田が増えてきたのは前述の通りだが、鞍掛山から流れ出る沢水は複雑な水路網を通して下へと流れていくので、休耕田の位置によってはそこから下の田圃数枚に水が行かなくなり、連鎖的に休耕田になってしまうということもあり得ると言う。かてて加えて最近では、獣被害が深刻な問題になっている。

今、この血と汗の辛苦を地域の人々は風化させることなく、先人の残した偉大な財産を使命感を持って守り続けている姿には頭が下がる。
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野面積みされた石垣は山裾から山頂に向かって延々と築かれ、先人の労苦の跡を垣間見る想いがする。

土地人の自然に対する畏敬と感謝の気持は石垣の中に組み込まれている「田の神」を祀る姿にも表れている。石垣の所々に石神がひっそりと祀られているのは印象的である。

このような石垣を築き棚田を守ってきた先人の苦労を思うと飽食の時代との対比について、割り切れない切なさと、当時はこれだけでも生計を立っていけた慎ましい時代だったのかとの想いも過ぎるが思い過ごしであろうか。
Photo_4 千枚田群の中を今は車の通れる道がある。其処から更に山に向かって畦道を上って行くと、「勅撰歌碑」と書かれた杭がひっそりと立っている。
岩に刻まれたその歌詞は「鞍掛山(くらかけ)の水ひく丘の千枚田云々 山本太一歌」と書かれているのがかすかに読める。

歴史的文化遺産・資源として、また環境保全の場としても残して行きたいところであるが、地元の人のご苦労を思い、政治として何が出来るかを考える時ではないかと切に思った。(文中一部ネット情報引用)。

(千枚田を訪れて、ふと3年前に訪れた下栗(しもぐり)の里を思い出した。)

1月早々というのに一部には冬耕の跡が見られる。

  ひつじ田にしぐるるときの音もなし 長谷川浪々子

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2007年11月22日 (木)

霜月末

過日、友人達と南知多の先端に近い「山海」を日帰りで訪れた。南知多道路を南下し、山海I.C.を出て海岸通り(国道#247)に出た所の「源氏香(げんじこう)」という聞きなれない名前のホテルで入浴・会食をする。
「源氏香とは、江戸時代中期に成立した5種の組香の事で、組み合わせ数が源氏物語の巻数と重なる事からその名がついた」と、ホテルの説明にはあった。温泉郷とあって入浴や海の幸料理も堪能出来た。

海岸付近を散策する。海に流入する「山海川」に架かる「乃野橋」に隣接して防潮水門がある。扉体には透視画法で海側は「希望の未来」を山側は「広がりの展望」を表現していると説明されている。(写真は山側)
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夏は海水浴場になるこの浜は、今はひっそりと静まり返っている。左の方はるかに伊良湖岬とその先に篠島が見える。
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海浜をご婦人が一人歩いている。声をかけてみたらご主人と泊りに来ていて「主人は今、釣をしています。私は流木を探している所です」とのこと。生花にオブジェとして使うのだそうである。
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防潮水門の横に突堤が海に突き出ている。先端まで歩いてみた。波消しブロックの上で釣を楽しんでいる人が居た。大方先の話の人であろう。何が釣れるかと聞いてみたら「眼張(めばる)」と言う。因みに眼張は春の季語になっている。
名古屋港に近いのでタンカーを始め諸船が頻繁に沖を通る。

私はタンカーを望見して、嘗ての朦艟(もうどう)を想い起していた。戦中派の性(さが)とでも言うべきか。朦艟と言っても判らない人が多いと思うが、簡単に言えば「いくさぶね」の事である。
   十二月八日還らぬ兄二人   民江
は、今月の句会で投句した女流の作であるが、彼女は三人兄妹であったが、「兄二人が先の戦争で戦死し、私の人生も変りました」と涙ぐむ。彼女にとっては今も戦後は引き続いている。
12月8日が近くなった。と言ってもその日を知らぬ子供も増えていると聞く。教科書などでも先の戦争に絡む話が、何度となく問題になるが、語り継ぐべき所は、しっかりと継承して行かなければならない。

山海から少し北に「野間大坊」と「杉本美術館」がある。今回は杉本美術館だけ見学して帰った。

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2007年11月15日 (木)

安曇野の山葵田(わさびだ)

山葵田は各地にあるが、何れも水が清く冷涼で、自然の地形に恵まれているか、自然の地形を生かして栽培地を造成している。中でも安曇野の山葵田は伊豆の山葵田と共によく知られている。

写真は、その安曇野の「大王わさび農場」の景で、清冽な流れと規則正しく植えられている山葵の色が目に沁みる。
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折りしも立冬を過ぎた日が西に傾いてゆく。弱い日差しが山葵田を一層美しく浮かび上がらせている。

水脈は幾つにも別れ、山葵の間を隈なく、絶え間なく流れて行く。

   浅き水喜び流れ山葵沢      細見 綾子
   透き水のさざめき通る山葵沢  桂  信子
   芹の水山葵の水と合ふところ  太田 蛇秋

は、共に安曇野の山葵田の景を詠った句である。

安曇野と言う地名は最近では良く知られているが、その割には地域は、はっきりとしていない。Wikipediaに依ると、

安曇野(あづみの)は、長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、安曇野市を中心とした地域一帯を指す名称。おおむね梓川・犀川の西岸(押野崎以南)から高瀬川流域の最南部にかけて広がる扇状地全体を総括している。 該当する自治体としては安曇野市のほか、池田市池田町や松川村、さらに大町市の南部や、松本市梓川地区(旧・梓川村)まで含まれる。 古くは安曇平(あづみだいら)と呼ばれていたが、臼井吉見の小説「安曇野」によって有名になり、この名称が定着した。

北アルプスの山々から湧き出た清流を堰(せぎ)と呼ばれる用水路によってかんがいし、稲作やワサビ栽培といった農業に利用している。長野県内有数の観光地・別荘地となっており、多くの観光客が県内外から訪れる。』と、ある。 

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2007年11月14日 (水)

近くて遠い存在

中央高速道が出来る前は、浜松から長野へ行くときは専ら国道19号線を使った。この道は木曾谷伝いに塩尻へ抜ける道で、途中に鳥居峠があり此処が分水嶺になっていて、北側は日本海へ、南側は太平洋に流れる。

その鳥居峠の南側に権兵衛茶屋という老舗の茶店があり、8月の盆頃に帰省する時はいつも此処に寄って行くのが常で、その時期はいつも混んでいた。
しかし中央高速道が出来てからは、19号線を乗用車の走る機会がぐんと減った。
権兵衛茶屋の其の後が気になって行って見た事があったが見る影も無くなっていたのには驚いた。人や車の流れがこれほど生活環境を変えてしまうのは予想以上のものだった。

この権兵衛茶屋の近く(木曽町日義)から伊那へ抜ける道がある。飛騨の高山市と伊那市高遠町を結ぶ国道361号線である。然し国道とは名ばかりで木曾谷から伊那谷へ抜けるには、中央アルプスを越える必要があり、其処に姥神峠権兵衛峠の二つの難所があり、急峻で狭く、時間が掛かる上に、冬は雪や凍結で通れない。しかも木曽谷から伊那谷へ抜ける道は、この道以外には、中央道の恵那山トンネルか塩尻を迂回する以外に道は無い。

木曾町の日義から伊那谷の伊那市までは高々20Kmに過ぎないが、将に近くて遠いお隣の地域であり、此処に道を通す事が木曽谷側と伊那谷側の住民の悲願でもあった。その願いが叶って2006年2月4日に全線の開通式が行われた。
Ubagami01_2それに先立って最初、姥神トンネルが2002年に開通した。写真(ネットより引用)は姥神トンネルとその周囲の景で 螺旋状に高度を上げてトンネルへ入ってゆく。(各写真はクリックで拡大)
木曾側と伊那側の高度差や、トンネルの長さや工事の難易を考慮しての事であろうと思われる。
そして2006年遂に全線が開通した。権兵衛トンネルの全長は4467m。
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写真は11月12日の、権兵衛トンネルの伊那側の景で、この工事は予想以上の難工事であったと言われる。地元の喜びが目に見えるようだ。しかも通行料は0というのが良い。
医療、福祉、経済、文化交流、地域交流等その効果は大きいし、19号線への影響にも役立っている事は間違いない。
1 嘗ては山の中にあった場所に、そば屋が出来た(写真左)。旧家を解体してその太い梁などを組んで造ったものだろうか、囲炉裏があり自在鉤が掛けられ五徳や火箸が添えられ炭火が起されていた。全体は新しいが、部材には古色が滲んでいる。全体的に落着いた雰囲気で、周囲の景との調和が何となく融け込んでいて素晴らしい景観を呈している。
その上に蕎麦の味が良い。昼時だったが店内は殆ど満員に近かった。
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伊那側のトンネル出口から遠望する伊那谷の景は南アルプスを背に異国情緒すら感じ、草ロールが点々と転がっていた。

郷土史研究家のM氏から、近くて遠い存在だった木曽谷と伊那谷を結ぶ権兵衛トンネルが出来たから是非通ってみて下さいと薦められていたが、今度その機会を得て、この道の素晴らしさを実感出来た。

何より地元の喜びと期待感の強い事をひしひしと感じた。

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2007年7月17日 (火)

土井晩翠像

過日仙台の青葉城址を訪れた。
折りしも良く晴れた土曜の午後とあって、旅行者も含めて訪れる人が多かった。しかしその多くの人は政宗の騎馬像の周辺に群がっていた。矢張り仙台は伊達の城下町だなあとの想いを深くした。
Photo_49  双眼の(隻眼ではない)凛々しい姿の騎馬像は人目をひき、絵にも句にもなり易い要素がある。

しかし其処から少し離れた所に立っている、(騎馬像より)かなり小さな土井晩翠像の周辺は寂として静まり返り人影もなかった。

土井晩翠と言えば、「荒城の月の作詞者として有名なばかりでなく、男性的な漢詩調詩風で多くの読者を惹きつけた。第一詩集『天地有情』が発表されるや、島崎藤村と並び称される代表的詩人となり、作品には「星落秋風五丈原」や、「荒城の月」などのほか、校歌・寮歌にも大きな足績を残した。
詩集には天地有情(1899年4月)、暁鐘(1901年5月)等をはじめ数編があり何れも男性的漢詩的抒情に溢れる。

不朽の名作「荒城の月」を作詞したのは明治31年(1898)。晩翠27歳の頃である。
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「荒城の月」は、作曲者・滝廉太郎が著名になった為、作詞者である土井晩翠の名を知らない人が或いは居るやとも思うが、それにしてもあれだけ大勢の人が政宗像を囲みながら、晩翠像の前に一人も居ないのは、位置的関係もあるかも知れないが少々寂しかった。

晩翠の代表的作品である「星落秋風五丈原」は、諸葛孔明の晩年を描いた詩で良く知られるように、
  祁山(きざん)悲秋の 風更けて 陣雲暗し 五丈原
  零露の文は 繁くして 草枯れ馬は 肥ゆれども
  蜀軍の旗 光無く 鼓角(こかく)の音も 今しづか
  丞相(じょうしょう)病 あつかりき
に始まって延々と続く詩で、晩翠の詩風を端的に表現している。
尚、本詩は或る宗教団体にも取り上げられたと聞くが、それと私とは全く関係ない。私はこの詩が好きなだけである。

私は人影のない晩翠像の前にしばし佇んだ。
憂愁を含んだ晩翠像に魅せられ、若き頃の晩翠に想いを馳せた。

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2007年7月12日 (木)

松島や

7月7日始めて松島を訪れた。
松島は誰もが知る日本三景のひとつ。五大堂を載せた島、人家のある島、無人の島等々、島数は200余とも、何れも松を載せ、この一湾全体の景の美しさが三景のひとつと言われる所以であろう。(写真は俯瞰写真)。
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司馬遼太郎の「街道をゆく26(朝日新聞社刊)」に松島が紹介されている。それに依ると、芭蕉は曾遊の松島の景観を激賞して冒頭、

『「抑(そもそも)ことふりにたれど」と書き始め、「松嶋は扶桑第一の好風にして凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の湖をたたふ。…造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽む。」』

『塩竈から舟を漕ぎ出したときは、古人を思い、古歌を思い、心のふるえるような気分だったに違いない。そういう芭蕉が、
  「松島や ああ松島や 松島や」
などとノンキなトウサンのような句をつくるだろうか』

『奥のほそ道 のくだりを訳してみる。
「島々の形の妙はすべてここにある。頂を聳かすものは天をゆびさし、伏せたる形のものは波に腹這っているようである。……」。松の姿や、その緑の濃さにも感動する。「松の緑が濃密で、その枝葉は潮風に吹きたわめられて、自然のままなのに人の手でわざと曲げたような姿をとっている。見とれるうちに、美女の顔さえ思ってしまう。」』

『芭蕉はこうも言う。「予は口を閉ぢて眠らんとして寝ねられず。」あまりの心の昂ぶりのために、句も出来ねば、眠られもしなかった、という。』
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以上は、司馬遼太郎の「松島」に関する記述からの抜粋であるが、文中にもあるように、芭蕉は松島では遂に一句も作らず、同行の曽良が只一句、
    松島や鶴に身をかれほととぎす
と詠っている。恐らく曾良はその時啼いていたほととぎすより、この美しい景には鶴が相応しいと考えたのであろう。(写真は五大堂)。

司馬遼太郎は、仙台の落着いた陸奥の雄都 ぶりに感動し、更に芭蕉が心を打たれた多賀城址碑(壺の碑)を万感の思いを込めて読んだあと、訪れた松島の方々の看板や説明用の掲示板に
  「松島や ……」
の句を芭蕉の句として書かれているのを見て、当の芭蕉も嘆くであろうと(司馬遼太郎は)嘆息している。ただその記述が有ってか否か、私の今回の訪問時には、そのような看板や掲示板がなかった事は救いだった。
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松島湾クルーズは50分の 観光であるが、島巡りと言ってもほんの一部の島の間を通り抜けるだけのことで、説明にある島の名前などは左から右へ通り抜けてしまう(写真は島のうちのひとつ)。
 自然の造った景とは言うものの見事な景であるが、何処が三景の一つかと言われても、全体を見はるかした全景としか言いようがない。

芭蕉や曽良が訪れた時の松島と、更には司馬遼太郎の時とも、今の松島の景そのものも多少変っているだろうし、それ以上に周囲の雰囲気が俗化している事は想像に難くない。しかしこの景を見て、句作するにしても、如何に心を動かされたかがなければ芭蕉や曽良の感動の万分の一にも至らないし、司馬遼太郎の賛嘆や嘆きも判らないのではないか。
     島々を浮かべ一湾明易し   仙花

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2007年6月 9日 (土)

恋路ケ浜

6月6日伊良湖方面へ。
田原市博物館、崋山の足跡、古窯跡そして岬端散策。始めて通る道だった。
博物館では崋山特別展が開催されていて、崋山の業績紹介や書簡、また彼の良くした絵画その他の貴重な展示品があり感銘を深くした。
博物館に程近い池ノ原公園内に、渡辺崋山幽居跡と隣接して自刃の間がある。
資料に依ると、渡辺崋山は、天保8年(1837)、米国船籍のモリソン号が日本に通商を求めるために来航し、幕府が「外国船打払い令」により砲撃して退去させる「モリソン号事件」が発生した。幕府の強硬論に対し、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆し、慎重論をとった。蘭学者らと交友し、影響力をもっていた崋山の存在を警戒していた幕府は、これを理由に崋山と長英を処罰した。
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写真は池ノ原公園内にある崋山幽居跡である。
この時代は先覚者が世を乱すものとして幕府から迫害を受けた時代で崋山もまたその例に漏れなかった。
田原藩家老職にあった崋山はこの件で、主君に迷惑の及ぶのを恐れて自害して果てた。

古窯跡は資料に依ると、平安から鎌倉時代に活発に生産活動が展開された渥美古窯の一つで、3基の窖窯が保存されている。奈良東大寺鎌倉再建時の瓦を焼いた窯跡で、「東大寺大佛殿瓦」と刻印された軒丸瓦や軒平瓦、平瓦などの瓦や瓦経、瓦塔などの宗教用具が出土している。

古窯館の横からは、風力発電の風車が見える。
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太平洋に向かってゆっくりと廻っている風景は絵になる風景だ。

2000年現在の日本の発電量の比率は(電気事業者のデータに依れば)、火力56%、原子力34%、水力10%で後は、地熱・太陽光・風力発電等を入れても1%にも満たない。
これは日本の場合であるが欧州や米国では、夫々の国情・国民性・思想・地理的条件等色々考えられるが、地球温暖化の見地から、風力発電の比率を上げていると聞く。
風力発電の長短所やコストパフォーマンスは別として、短所の一つに落雷頻度と鳥が被害にあうこと(バードストライク)が挙げられている。

ところで此処渥美半島の先端、伊良湖岬は島崎藤村の「椰子の実」の歌で有名であるが、一方、秋ともなると数千羽の鷹の渡る中継地点として知られ、多くの俳人やカメラマンが訪れる。聞き洩らしたが鷹渡る名所に、鳥にとって危険な存在である風力発電の風車が並んでいるのも皮肉な取り合わせと言えなくもない。

岬の先端には燈台があり、灯台から太平洋岸に面して日出の石門(ひいのせきもん)までの約1kmを恋路ケ浜と言い、太平洋の荒波をうけて湾曲する美 しい砂浜である。また、ここは数々の「日本の百選」(道・渚・白砂青松・音風景)に選ば れている。
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恋路ケ浜とは口当たりの良い地名だが偶々訪れた時は、波が荒かった。  

  鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉
  夢よりも現の鷹のたのもしき     芭蕉
  紅暗し崋山の遺物落椿        羽公
  発電の風車ゆるりと梨の花       

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2007年5月26日 (土)

古書店

4月1日から浜松市も政令指定都市になった。それに先立って市庁舎も耐震性を加えて新しくなった。市庁舎を囲むように公園があり、浜松城や美術館がある。
その市庁舎の傍に何故か、骨董店、畳店、それに古書店等が並んでいるのも面白い取り合わせだ。
Img_08452jpg
写真は新市庁舎。美術館ではピカソ展を開催していた。
Img_08442_1(ピカソの絵も想像していたイメージと現物を観た感想とは著しく違うのに驚いた。)

今は昔ほど畳を使わなくなった。だから畳屋も珍しい存在になった。それがこの市庁舎の傍に固まって2軒もある。偶然かどうかは聞いてみた事がないから判らないが、新旧の対象が面白い。

その傍に又骨董店があるのも面白い。骨董店といえば古書店もある。嘗て浜松の旧市街には私の知っているだけでも10軒以上の古書店があった。しかし今はこの市庁舎の傍に2軒ある以外は知らない。

古書店は懐かしい。それに絶版になった本や、探していても中々手に入らない本が思いがけなく手に入る楽しみもある。手も出なかった全集物なども一括して予想外の安価で手に入る楽しみもある。嘗て神田の古書店街をうろついた記憶も蘇ってくる。
Img_08462_1 写真は市庁舎の傍の古書店だが、狭い入口の割には足を踏み入れてみると中は思っていた以上に広い。
立読みも楽しいし、探していた句集なども手に入れる僥倖に恵まれる機会もあってこのような店を覗いて見るのも古き良き時代を思い出させてくれて有り難い。しかし、なるべく必要最小限にしないとまたぞろ家の中が狭くなってしまうので色々計算をして買う事になる。

1960年頃、ある国家試験を受けた時にY社の図書室から借りた技術的専門書がある。その本は今は恐らくY社でも廃却してしまっているだろうし、今となっては時代も隔たっているし、技術的にも、用途的にも恐らく必要がなくなっているので、古書店を探してもよほどの事が無い限りは見つけることの出来ない書だと思う。それでも見つけたら懐かしくなって買ってしまうかも。古書店は青春懐古の場所も提供してくれる。神田も変っただろうが一度ぶらついて見たい。

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2007年5月 9日 (水)

真田氏本城址

長野道の上田・菅平ICで降りて菅平方面へ、車で走ると間もなく真田町に出る。
ここは真田氏発祥の地として知られている。町には真田氏歴史館があり真田氏の歴史を物語るものが数多く展示されている。
其処から車で10分も菅平方面に向かって走ると右手に真田氏本城址へ行く道がある。その道を暫く行くと城址の駐車場に出る。其処から歩いて5分くらいで頂上に登る事が出来る。其処から真田町、更にはその前方遥かに上田市街が望見出来る(写真)。A
丁度5月の節句時でもあり、鯉幟が頂上から山麓に掛けて長く連なり風をはらんで見事だ。

城の由緒書に依ると、
「この城址は天白城とともに、馬蹄形につくられ、南西面に広がる緩やかな斜面は、真田氏館跡や原の郷へと続き、さらに指呼の間に砥石城・矢沢城を望むことが出来る。
本郭は、東西9m、南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へニの郭三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。
規模は大きく、水利もあり、周辺城址群の位置的関係等から見て上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。」
と、ある。
A_1 山城と言うより丘城といった方がよいこの砦を築いた頃の真田氏は、恐らく東信濃の一小豪族に過ぎなかったであろう。
真田幸隆時代になって頭角を現し始めた。坂城の豪族村上義清に真田の地を追われていた幸隆は、川中島の合戦で武田方として大活躍し、更に義清の居城である砥石城を攻略して、東信濃一の豪族となった。
幸隆のあと真田家を継いだのは昌幸。二人の兄が長篠合戦(天正3年・1575年)で討死したため家督を継ぐことになった。天正10年武田氏が滅亡後は苦心惨憺して真田家の維持発展に努め、天正12年頃上田城を築いて真田の地位を不動のものとした。以降昌幸、信之、幸村の数奇な運命は世に広く知られている。

今この城址は夏草に覆われ、家族連れで賑わっている。戦国時代の苛酷な真田氏の話は、物語風に伝えられているに過ぎない。
時恰もNHK大河ドラマの影響もあって、六文銭の旗印と共に、風林火山の幟も到る所に翻っている。そんな中でボランティアの人々が城址の手入れをしているのが目に付いた。

   戦なき世をしみじみと菖蒲風呂
   城跡に礎石もあらず若葉風

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2007年2月 9日 (金)

どんど祭

信州には温泉が多いがその中であまり知られていない、鹿教湯(かけゆ)と言う温泉がある。此処は正月から節分にかけての氷燈籠(写真:クリックで大きくなります)でも知る人ぞ知る温泉で、静かに温泉を楽しむ人には持って来いの所である。
Photo_13

此処では1月末のある日に地元で「どんど祭」と呼ばれる子供たちの行事がある。
温泉街の宿を廻ってその玄関先で、面をつけた子供たちが、
風邪の神たたき出せ、福の神まつり込め
と太鼓と獅子頭の舞いに合わせ、囃しながら宿に入り込み、再び太鼓・獅子頭に合わせて囃しながら、ロビーに座っている人達の肩を叩いてまわるという極く素朴な行事である。
私達が今年訪れた時に丁度その行事に出くわして可愛いいこぶしで、肩を叩いて貰った。子供たちは小学低学年生を主体にした構成で見るほうも楽しい。終ると予め用意した物を子供たちにお礼としてあげる。この間、子供たちと宿の人達との雰囲気は実に良い。
Photo_14
Photo_15
写真上は玄関口でのお囃子、下はロビーでの風景である。

素朴な行事で、子供たちが大きくなっても忘れられないものとなるであろうし、地元の人達との一体感にも繋がって、冬の温泉街を明るくさせてくれる。こんな行事は大切に何時までも保存したいものだ。

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2007年2月 5日 (月)

知多吟行

過日、句友と知多半島へ吟行した。

名鉄、美浜緑苑駅で下車し歩いて10分程の所に杉本健吉美術館がある。Photo_7
同館の紹介記事には概略次のように述べられている。

「両界曼陀羅」、「新・平家絵物語」屏風をはじめ、油彩・水彩・素描着色など、初期から現在までの芸術作品のすべてを収蔵。
当館は二つの常設展示室、企画展示室、和室「杉庵」からなる本館とともに、三つの展示室からなる新館が平成6年4月に完成し胎蔵界・金剛界からなる「両界曼陀羅」、「空海像」を中心に展示をしています。

とあり、丁度訪問した時は「文楽」などの特別展示もなされ、淡路人形の絵なども展示されていた。浄瑠璃三味線の師匠を父に持った画伯にとっては文楽は子供の頃から親しんできた世界であろう。
宗教的な背景を負った絵は見応えがあり、じっくりと時間を掛けて見たいところ。
その館内に志賀直哉が同画伯に贈った言葉が掲げられていて印象的だった。

「杉本健吉君は日展で続けて賞を貰い、急に世間的に認められ、挿絵に装幀に今は流行児になっている。杉本君の家族の多いことを知る私は物質的な意味でそれは大変いいことだと思っているが、画家としての杉本君の為、別に喜ばしい事とは思っていない。何故なら杉本君はいわゆる本流の絵を描く人で、今までの絵は世間的に認められるに丁度いいうまさに達したというに過ぎないからである。杉本君の絵のうまさは分かり易いうまさだ。感じをよく掴んで、それを要領よく画面に現はす技量は却々鮮やかなものである。それ故、杉本君は現在の技量だけでも、日本で才人といふ事が出来るが、然し、私の杉本君に望むところはもっと大きい。今のところで止まってゐては通俗的作家に終る危険がなしとしない。この危険区域を杉本君が早く出抜ける努力をされる事を望んでゐる。」

画伯の才を見抜いた上で、温情溢れる激励をされた志賀直哉の心根にも感動した。

美浜緑苑駅から野間駅までは近い。何れも無人駅で民間企業の経営努力を垣間見る思いもある。
駅から歩いて近くに、源義朝を謀殺した長田忠致・景致父子を後に頼朝が処刑した「はりつけ松」がある。今は朽ちて根元しか残っていない。
其処から田圃中を歩いて野間大坊に行く。その人家の少ない田圃中にイタリア料理レストラン”NAGA”があった。昼食を摂ったが、値段が安い上にスパゲッティを始め美味しかった。
野間大坊は天武天皇の時、役(えん)の行者が草創、聖武天皇の時行基菩薩が再び開基し弥陀三尊を守置し阿弥陀寺ととなえた。この寺領に源義朝の廟がある。入浴中に長田父子に謀殺された時、「せめて我に木太刀一本なりともあれば」と悲痛な一言を残したと伝えられ、慰霊の為に木太刀を献じる慣わしが出来て山のように積まれている。
Photo_10
木太刀を献じた人は全ての願いが叶うと言われている。
   寒つばき木太刀嵩なす義朝忌
野間大坊を含め、寺領の中にある歴史的遺産などをボランティアガイドしてくれた地元の野間小学校6年生の好意に感謝しつつ帰途につく。
途中、臨時句会を開き感想や意見を交した後、帰宅した。

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2006年11月30日 (木)

草笛

随分前の事になるが、小諸の懐古園を数度訪れた事がある。盆に墓参りに行く途中だったと思う。その都度古老が草笛を吹いていたことだけが記憶に残っている。お名前は伺ってはいなかったが懐かしさが込み上げる。

Photo_2 当時の御歳から推測して今、懐古園を訪れても、その草笛を聞く事は出来ないにしても、何かの痕跡が残っていれば嬉しいなとの思いに駆られて過日懐古園を訪れた。
藤村記念館の受付嬢に聞いてみた。「その方なら1980年に亡くなられましたが、昔何時も草笛を吹いていた場所に写真と録音したものがあるので行って御覧下さい」との案内があった。(写真をクリックすると拡大します)。

その場所は直ぐ判った。横山祖道さんと仰る方で、その説明書きによれば、「昭和33年より22年間に渉り雨の日も風の日もこの場所で説教代わりに草笛の優しい音色で旅人を慰めた」と、ある。説教とあるからには僧職でいらっしゃったのだろう。その写真の下にボタンがあって、それを押すと懐かしいあの草笛の音が聞えてくる。藤村の「小諸なる古城のほとり」も老師が歌われたのだろうか、それも聴く事が出来る。私たちも遊子として往時を偲んだ。

Photo_5
附近は一面の紅葉で美しかった。ふと仰ぐと、大木の梢に珠となった寄生木(やどりぎ)が冬空に輝いていた。
Photo_4

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2006年10月23日 (月)

栗おこわ

旅へ出かける時、駅弁を食べる機会は割合多い。駅弁には地方色も出ていて味も色々だから、自分の好みに合わせて買えば良いが、食べてみて予想していた味と一致しているときは嬉しいが、そうでないものもあってがっかりする時もある。

私は駅弁は嫌いではないが、時間が許せば、降りてからか、乗車する前に食事を摂る事が多い。
過日長野へ出かけた時、時間的理由で列車内で食事を摂ることになったが、T駅の駅弁を買おうと思っていたらそれがなくて、時間的に1時間も食事刻がずれてS駅で駅弁を買った。釜飯だったが嘗てのような素焼きの釜ではなくプラスチック製の釜で味ももう一つだった。

その帰途も偶々時間的にみて車内で食事する事になって、出発前に長野駅のホームで駅弁を買った。色々あったがその中に「栗おこわ」と言うのがあったのでそれを選んだ。
Photo_1
ところがこれが旨かった。それに入れ物が気に入ったし値段も手ごろだ。包み紙には、
「特撰餅米に信州小布施栗、奥信濃の山菜を入れて炊き上げた五目味付けの栗おこわです。旅路と共に信州の素朴さ、おふくろの味をごゆっくりとご賞味ください。また、この手編みのかごはおにぎり入れなどいろいろにご利用いただけます。」と、あった。

昔、横川の釜飯の旨かった事を覚えているが、今度の栗おこわも旨かった。
矢張り食べ物は味が勝負だが、こんな入れ物に入っていると尚嬉しい。今度また出かける機会があったらこの駅弁にしたいと思った。

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2006年10月 9日 (月)

花沢の里

過日、友人ご夫妻と、或るご縁で焼津(やいづ)の知人を訪ねた。

焼津と聞いて先ず思い浮かべるのは遠洋漁業の基地としての焼津であるが、多少歴史に興味のある人は、日本武尊(やまとたけるのみこと)や天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)に思い到る人もいる筈である。

その焼津の北部に万葉集にも詠まれ、東海道最古の「やきつべの小径」がある。奈良・平安時代に栄えたこの街道筋には、長屋門造りの美しい家並みを今に残している「花沢の里」集落がある。
2006923_019 
傍には小流れがあり、嘗ての水車小屋は今は動いていないが、ぼっとりはそのままの姿で残されている。
Yaidu_7
長屋門は美しい均整のとれた風情を醸し出している。燕の去った門の天井には幾つもの巣がそのままの姿で残されている。来年は又今年巣作りをした燕が戻ってくるのであろう。
Yaidu_9家人も来年を楽しみにしているYaidu_8 感がある。
家の入口には魔よけの護符を貼っている家が多い。この風習もこの集落独特のものであろう。
長屋門の脇には、この土地で採れた農産物を無人で売っている。買いたい人は勝手にそこにおいてある箱の中へ決められたお金を放り込んで品物を持っていくという仕組みである。
小径に沿って、一部に建仁寺垣が美しい調和を見せている。
Yaidu_1_1
この小径を上ってゆくと、高草山法華寺がある。その周囲を含めて彼岸花が咲き乱れている。丁度日本武尊が敵の火攻めから草を薙ぎ倒して難を逃れた故事を連想させる。
    やきつべの戎の火とも曼珠沙華  堀井瓜紅
Yaidu_10
焼津港では丁度、港祭りで賑わっていた。
Yaidu12
このような農耕作業用道具が無造作に置かれているのもこの地の風物詩だ。
    里人の言葉飾らずこぼれ萩
         花沢の里いづ方も秋のこゑ  

焼津市の一角に、このような美しい家並みが残っている事を俳人たちはよく知っていて、吟行に訪れる人が多いと聞く。
10人来れば10人、100人来れば100人夫々に切り取る景も違うし、同じ景を切り取っても表現や深味も違うし、吟行後の句会は又一つの楽しみでもある。
彼らもまた土地の雰囲気を壊さないように気を使っているのがよく判る。

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2006年10月 3日 (火)

戸隠

毎年、盆月(8月)には墓参に信州へ行く。

今年は、都合で7月から外泊の旅が出来なかったので、彼岸月(9月)の内にはどうしても行きたいと思っていた。丁度9月30日の午後、長野市で会合があり、その前に墓参を済ます事が出来た。翌1日は早めに帰る予定だったが旧友H君からの薦めもあり、久しぶりに戸隠へ行ってきた。戸隠と言っても今は長野駅から車で30分あれば行ける。H君が自分の車で案内してくれた。

H君の奥さんとは6年近く会っていないので、非常に懐かしく嬉しい再会だった。

戸隠の入口に「だいざほうす池」がある。そこは「浮島」が点々としていて日々様相を異にする。
今は車やバスで一気に行ける距離にある池だが、私たちの学生時代は、通称七曲りという坂道をテクテク上り、やっとその池にたどり着き、更にその池から飯綱山の山麓へと狭い道を上り校有林へ辿りつく。終日そこで作業をした後、重い槇を背負子で背負って学校まで帰ってきた。そんな記憶が彷彿として浮かびあがる。
Ukisima
その池を通り過ぎると大久保の茶屋がある。茶屋へは元気だった頃の母を連れて何度か行った事がある。其処を過ぎてから間もなく道の僅か左に入ったところにH君の山荘がある。
山荘を左手に見ながら進むと、戸隠の三社である宝光社、中社、奥社がある。中社と奥社の間で道の左手へ入ったところに「鏡池」がある。
Kagamiike
文字通り湖面は鏡のように周囲の景を映している。実はH君も今度始めて来たと言う。勿論私も始めて。天候は曇りがちで流石に此処へ来るとひんやりとする。もう秋の声が充満している。木々は色づきはじめている。本格的な紅葉は中旬以降だろう。
          戸隠に雲わきつげり蕎麦の花
奥社の入口には、白膠木(ぬるで)が早くも真っ赤に紅葉していた。
Momiji
戻ってH君の山荘で、奥様ご自慢の稲荷鮨を始め手作りの心の籠もったお料理を頂く。山荘の入口には栗も落ちていて帰宅したら栗ご飯にしようとポケットを膨らませた。

30分あればと言うが中々こんな機会がなければ行かれない。1960年代に出張で訪欧した時、山の中まで舗装されているのに一驚したものだが、今では日本も山の中まで舗装され今昔の感がある。
仲秋の戸隠には信州の空気が充満している。曇天とは言いながら爽やかで下界とは全く違う世界がある。戸隠は神話の世界でもあり、伝説も多い。浜松へ帰る時間を数時間遅らせたが、思い出の多い戸隠に懐かしい記憶を蘇らせた。

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2006年4月12日 (水)

奥の細道むすびの地、大垣

4月7日同好の士と共に、芭蕉翁「奥の細道むすびの地」大垣を訪問した。「奥の細道」序文は、

「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯 をうかべ、馬の口とらえて老をむ かふる物は日〃旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海濱にさすらへ去年の秋江上の
破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の
物につきて心をくるはせ、道祖神のまね きにあひて、取もの手につかず、云々」という名文から始まる。

「奥の細道Wikipedia」ではその旅立ちと、むすびの地大垣に就いて、

旅立ち

元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う:

  • 草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ ひなの家

3月27日 明け方舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む:

  • 矢立の初め
    • 行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

大垣

8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する:

  • 結びの句
    • 蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ

と、述べている。

大垣には、「ミニ奥の細道」として、奥の細道全行程約2400Kmを、愛宕神社(錦町)からむすびの地(船町)までの約2.2Kmを、奥の細道に見立てて「奥の細道」で芭蕉が詠んだ句から代表的な20句を選んで、水門川に沿って句碑が建てられている。写真はそのむすびの地である船町港跡に建てられている句碑で、手前は「蛤のふたみに別行秋そ(芭蕉)」で左奥は「惜ひひげ剃たり窓に夏木立(木因)」。

Kuhi_1

付近には川燈台があり往時、大垣・桑名間には蒸気船が周航していた。川燈台はその夜間の目印として建てられたもの。

Kawatoudai_1

Taraibune_2   水門川の両岸は今、桜の真っ最中で名物の盥舟を浮かべて旅情を楽しんでいる風景も散見される。

川底には水草が生い茂り、川の流れに従って緑の帯をなびかせていた。

Hasisakura

川には多くの橋が架けられていて、それが皆異なった形と色彩で美しい。

橋の欄干に擬宝珠が取り付けられているのも特徴の一つ。

Denwa 玉子屋本店で昼食を摂る。朝食が早かったのも手伝って美味しい昼食だった。

階段の途中に昔懐かしい電話機があった。手にとってハンドルを回してみたら手応えがあったから、ひょっとしたらまだ使えるものかも。

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2006年4月 2日 (日)

美しくも懐かしく

5ヶ月ぶりに山へ行って来た。春は名のみで木々の芽吹きにはまだ多少間がありそうだが、息吹は確実に足元にやってきていた。庭には蕗の薹が小さく顔を覗かせていた。Yama_4

渓側の木々は老木が多いが、矢張り春を迎える喜びを何となく感じさせてくれる。

Yama_1

着いた翌々日、朝起きてみたら一面の雪だった。淡雪で間もなく日が当たったら消えてしまった。

Yama_2

前の道を歩いてみると足跡がくっきりと春の雪景色を描く。

Yama_3

雪国に生まれた私が雪の降っている姿と、雪景色を眺めるのは久しぶりだ。雪を見ていると子供の頃の事が髣髴とまな裏に浮かんでくる。父が、けだしの雪をかいている姿、畑の桑の木々が朝日に煌いている姿、一面銀世界の裏山の景色等々。過去は辛かった事を昇華し、美しくも懐かしい景を蘇らせてくれる。ただ今年の豪雪ではご苦労のあった地方の事も脳裏を掠める。

冬の豪雪とは違って、春の雪は、淡雪、沫雪、牡丹雪などとも呼ばれ、降り積もった雪がまばらに見えるさまを斑(はだれ)雪、はだら雪、はだら、はだれ野とも言い、雪の降り終いを雪の果、名残の雪、雪の別れ、忘れ雪などとも呼んで其の情緒を表現している。

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2006年2月13日 (月)

ラッキョウの道

Y社に入社した当時、先輩と一緒に毎朝会社まで歩いて通った道がある。その道の途中に軽便鉄道ラッキョウと呼ばれていた)のトンネルがあった。l-railway

そのトンネルは通勤時、少し急ぐ時にはショートカット用として良く使った。勿論ラッキョウの通る時間を知っていての事。何処まで信用して良いか判らないが、偶々遠くからやってくるラッキョウを見つけても、通勤・通学の時間帯なら、当時のラッキョウでは走れば追いつかれることはなかったと言う。

トンネル近辺は勾配が割合きつく、通学時間帯は、満員の生徒でラッキョウの力では精一杯。時々車輪が空転すると、車掌が降りて、線路に砂を撒いて居た事もある。そんな状態だから走っても追いつかれなかったのだろう。全線のうち、そんな箇所が2ヶ所あった。ラッキョウは甲高い汽笛をあげて走っていた。愛嬌があって利用者からは結構有り難がられた存在だった。tunnnel

マイカー時代になって、それまでの蒸気機関車を廃止して電車になったが、軌道はそのままの軽便電車になった。速度も増して昔のようなことはなくなったが、矢張り時代の波に押されて廃線になってしまった。私は廃線直前に思い出の為に始点から終点まで乗ってみた。三方原台地を走って行くときに、富士山がくっきり見えたことが印象に残っている。その三方原に将来住むことになろうとは、その時は夢にも思っていなかった。やはり因縁というものを感じる。

曲がりなりにもれっきとした電車なので、今残っていたら、常時渋滞の道でいらいらする状態を、横目に正確な時間をキープして走っていただろう。恐らく利用者も大幅に増えたと思う。採算性も良くなったはずだ。

その思い出のトンネルを数十年ぶりに歩いてみた。昔の面影を僅かに残して、綺麗に舗装された遊歩道になっている。上の2枚のモノクロ写真はトンネル入口の壁に、蒸気機関車当時のラッキョウの写真が貼ってあったものを撮ったものである。

犀ヶ崖という古戦場址(犀ヶ崖はこちら)から、浜松城の近くにある、Kホテルまでの姫街道を往復歩いてみた。往路はトンネルを通らずに町の中を歩いた。1.6㎞位あって、ゆっくり歩いて25分位。復路(それが今日の目的)は、懐かしのトンネルの中を歩いた。1.8㎞位で、景を楽しみながらゆっくり歩いても30分あれば充分。

トンネル内を通る道には、情緒があり素晴らしいし、何より安全だ。全部煉瓦模様の舗装路で車は勿論通れない。自転車に乗った人が時たま通るが、散歩している人が圧倒的に多い。写真は其のトンネル付近の模様で、往時を懐古しながら歩いた。tunnel

トンネルを出ても、樹木に覆われた素晴らしい道が、犀ヶ崖の直近まで続く。哲学の道といっても良いくらいの雰囲気のある遊歩道だ。気持ちの良い道だ。この道をあのラッキョウが通っていたのが夢のようだ。

tunnel_2

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2006年2月10日 (金)

再度、姫街道(本坂峠)

姫街道こちら)には、引佐峠こちら)と本坂峠の難所がある。その本坂峠には椿の原生林がある。説明文に依ると、「この本坂峠沿い百数十㍍にわたって椿の原生林が見られる。樹齢200年以上のものもあり1~3月にかけて美しい花が見られ、椿の花の隧道を踏みしめながら通行した昔が偲ばれる。」と、記されている。下の写真はその原生林の風景の一部で、石畳を挟んで密生しているが、2月8日に訪れた時には全く花がなく、2,3輪石畳の上に落ちているだけだった。

honzakapass_1

地元、三ケ日町関係者から2月10日に頂いたお知らせに依ると、「今年は前年の11月から低降水量、低温で開花が遅れているようです。里の椿が満開の頃に原生林の椿は5分位になりますので、まだまだ暫く先になりそうです。」との事である。御覧(下の写真)のように一部、古木が目に付く。

honzakapass_3

石畳が尽きる辺りから道は急に狭くなり(下の写真)、険しくなる。往時此処を通った人たちはどんな思いで通ったのだろうか。訪れた日は下界は晴れていたが、峠は風花が舞っていた。

honzaka_pass4

(参考記事はこちら)

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2006年2月 1日 (水)

氷燈籠

松本と上田の中間に鹿教湯(かけゆ)という温泉町がある。

毎年1月中旬から2月の節分前後まで、氷燈籠(写真上)と呼ぶ明りが、薬師堂や文殊堂(写真下)へ上る石段の各段の両端に点されるだけでなく、両堂を繋ぐ径やそこへ到る径にも灯が入る。氷燈籠は円筒形の氷の中をくり抜いて、夕方になると中に灯を入れる。堂に到る径は、深い谷に掛けられた屋根付きの橋を渡るがその橋の上にも点される。

koori-tourou

monjyudou

tourou-yakei 幻想的な光の芸術とも呼べる光景(写真左はその一部)は、訪れる人に深い感動を与え、多くの俳人も訪れ芭蕉句碑も建っている。

鹿教湯は、傷ついた鹿が湯に入ったら傷が治ってしまったという伝説めいた話から付けられた名前と聞く。

湯量が豊富で透き通っており、湯から出ると体全体がほかほかと暖かくなる。四季を通じてこの温泉を訪れる人は多いが特に、冬のこの季節には、温泉と氷燈籠の景を楽しみに来る人も多い。しかし一般的な温泉町の賑わいとは違って、この温泉をよく知っている客筋の多いのも特徴の一つだろう。それだけに、しっとりとした落着いた雰囲気を感じさせてくれる。

又付近には寺社や簡保の保養所もあり、無言館や別所温泉・信州の鎌倉と呼ばれる塩田平も近い。

私達は、老夫婦が経営する鄙びた旅館によく出かける。

節分には文殊堂で豆撒が行われるが、この堂では昔から一貫して「福は内、鬼も内」と言って豆を撒く。

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2006年1月29日 (日)

続、姫街道(引佐峠)

公営国民宿舎「奥浜名湖」から西進すると程なく、浜名湖畔から上ってくる姫街道と出会う。石畳や水切りも往時の姿そのままだ。

昔は、取締りの厳しい新居の関所などを避け、多くの人が通った東海道の脇街道だった。見遥かす浜名湖等の景勝地も、昔は万感の想いを抱いて眺めた景だったかもしれない (浜名湖舘山寺とその周辺は、こちら)。

街道を上ると間もなく海抜200㍍の引佐峠にかかる。姫街道では本坂峠に次ぐ難所で、最近新しい道標が建てられている(写真)。峠には昔、茶屋場もあったらしい。

hime-kaidou1

鬱蒼と茂った木々の間の狭い石畳の街道を歩くと、暫くは往時に想いを馳せることが出来る。

hime-kaidou3   

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2006年1月17日 (火)

姫街道

奥浜名湖北側の山上に公営国民宿舎「奥浜名湖」がある。ここから見下ろすと浜名湖へ注ぐ都田川が足下に流れ、更に目を凝らすと、浜名湖が外海とつながる今切口と、遠州灘を遠望出来る。

hime-kaidou 国民宿舎から道を下ると、通称「姫街道」に出る。東海道の見付又は浜松から気賀、三ケ日の浜名湖北岸を通り、三河の御油までの東海道の脇街道で、途中には今も残る松並木が見事である。        

只、車の排気ガスなどで年々弱ってきているのが現状で、松並木保存の為に尽力している人たちもいる。

上の写真は最近建てられた「姫街道」の道標。下の写真は松並木。

matu-namiki

国民宿舎からこの姫街道に出るとその真近に「獄門畷」の跡がある。気をつけて見ないと見落としてしまうほどで、道の南側に石碑と由緒書が建てられている。

「永禄3年(1560)桶狭間の戦後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏の為に堀川城を造り、最後まで戦った。堀川城址は此処から南へ600㍍程にある。

永禄 12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の男女が立てこもり、3000人の家康軍に攻められて落城した。大久保彦左衛門の記録に『男女ともになで切りにした』とある。其の後捕らえられた700人も,この付近で処刑され、この小川に沿った土手にさらしたので『ごくもんなわて』と言われるようになった」と、書かれた由緒書と並んで、「堀川城将士最期之地」と書かれた石碑(写真)が小川の傍に建っている。誰が供えるのかお花の絶えたことがない。

   獄門の跡の畷の草青む   (N) 

   落城史今に伝へて春寒し (H)

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下の写真は、都田川が左方から右方に流れ浜名湖に注ぐ所で、川の前方の山の形が「寝釈迦」に似ているところから、寝釈迦山とも呼ばれている。舘山寺はその足の部分に当たる.。冬の都田川には鴨が群れている。(舘山寺はこちら

   うららかや湖のむかうに海みえて (A)

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2006年1月 8日 (日)

サトウキビ列車

1月8日の読売新聞の特集「駅」に、ハワイ・マウイ島のラハイナ駅が紹介されていた。三角屋根の可愛いい小さな駅舎が印象的だった。私どもは友人と過去3回、この地を訪れている。写真は懐かしい、サトウキビ列車が白煙を上げて木組みの橋を渡っている所(新聞紙上の写真)と、私たちが2002年に乗車した時の乗車記念証。   sugar_cane_train

sugar_cane_train2 「かつてサトウキビは、マウイ島の主要産業だった。キビや人を運ぶ為に農園を小さな機関車が走っていた。それを1969年に観光用に再現したのが『サトウキビ列車』だ。雄大な山々、青い海が車窓に広がる。……時折鳴る汽笛は、線路から1Kmほど離れたラハイナ浄土院にも届く。日系人の集まる浄土宗の寺だ。……浄土院の住職に当たる開教使、原源照さん(69)が『ホレホレ節』を口ずさんだ。1世たちは炎天下に12時間立ちづめで、キビの葉を手作業でかきおとした。其の時の歌だ。 ”ゆこかメリケン帰ろか日本 ここが思案のハワイ島”。 浄土宗から派遣された原さんは、3年で帰国するはずだった。が、預かった寺が火事になる。責任を感じて再建に奔走。何時しか42年が過ぎていた。『帰ろか日本』と思いつつ。……列車は9.5Kmを往復し再びラハイナ駅へ……かつて涙を乗せた列車に今、笑顔が乗り込んで行く。」と、特集「駅」には紹介されていた。 

lahaina_temple1 写真左は、ラハイナ浄土院内の三重の塔と露座の大仏。

原源照氏ご夫妻はすっかり現地に馴染み、苦労の末に現地に骨を埋めた邦人の墓を守り、日本の盆に当たる時は、盆供養と流灯会を催している。

異国の夕日を見つめていると、現地に移民して苦労した上に、異国の地で果てていった人たちの事を思い、胸が熱くなる。

そんな夕日を、lahaina_temple_2 原さんご夫妻は1万回以上も見つめつつ、望郷の念に駆られたことが幾度もあった事であろう。2004年にお訪ねした時もお元気で案内して下さった。これからもお元気でご活躍される事を祈っている。

余談だが原さんは、長野市から現地に赴任された。私の友人の奥さんが善光寺の、お上人様を学友に持っているご縁から2004年に訪問した時に、お上人様御染筆の色紙を差し上げた所、大変喜ばれた。

サトウキビ列車は、可愛いい姿で、今日も過去の歴史を乗せて、カアナパリ と ラハイナ間を走っている。白煙を吐き汽笛を鳴らしながら。

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2006年1月 6日 (金)

ワヤン人形

旧歳晩、一冊の歌集を頂いた。インドネシア最高勲章を受章し、戦後のユースホステル運動、ウォーキングを通じた心身の健康と国際交流を訴えて、地球を2周半歩いた偉大な夫を支え、自らは家を守り農事に励む傍ら優れた歌人・小説家・エッセイストとして数々の賞に輝いた人の歌集である。その巻末に最近の世相を「ものが心を食べている姿に見えて仕方がない」とあった。

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インドネシア と言えば、私も1989年ビジネス出張で訪れたことがあるが、その時にはこのご夫妻の話を知らなかった。改めてその足跡を思うと、出張時に買って今も壁に飾ってあるワヤン人形を彫りこんだ壁掛けと、同じくブック・エンドを懐かしく改めて見直した。 

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厚さ2cmの紫檀の板に、銅板を曲げて作った人形を彫りこんだ精巧な作品である。ブック・エンドに彫りこまれた人力車の名前を現地で何と呼んでいたかは忘れた。

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2005年12月17日 (土)

龍潭寺と井伊谷宮

浜松市近郊の旧引佐郡引佐町(現、浜松市引佐町井伊谷)に、南朝縁の宗良親王と徳川時代の井伊家に関する歴史を秘めた龍潭寺と井伊谷宮が隣接している。

龍潭寺は、天平7年(733)行基菩薩により開創され、現在は臨済宗妙心寺派の古刹で本尊は虚空蔵菩薩である。宗良親王・井伊家の菩提寺としても知られ、池泉観賞式の庭園は、小堀遠州作と伝えられる。堂塔六棟はいずれも江戸時代の建造物として県の文化財に指定されており、本堂内には丈六の釈迦如来像も仮安置されている。鴬張りの廊下と共に左甚五郎作といわれる龍の彫刻や龍潭寺屏風等の寺宝は本堂内に保存され、本堂の左手に朱塗りの楼閣造りの開山堂があり、塔上に井伊家の家紋がある。御霊屋には幕末の大老井伊直弼の位牌が安置されている。

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龍潭寺本堂

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龍潭寺、開山堂

龍潭寺に隣接して旧官幣中社井伊谷宮がある。後醍醐天皇の第四皇子宗良親王を祭神として明治5年に創建された。学問・開運の神として尊崇されている。大鳥居をくぐると左手に絵馬史料館がある。妻入り本殿の横には、ご神木と史料館があり、周囲には宗良親王歌碑や水原秋桜子の句碑、慈母観音石が建っている。本殿背後に宮内庁所管の宗良親王ご陵墓が京に向かってたてられており、普段は石の柵と扉に閉ざされている。

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偶々訪れた日は折りよく、ご陵墓清掃係りの女性に会い、許可を得て宗良親王のご陵墓真近まで進んで拝観が出来た。全くの僥倖である。

上の写真は、ご陵墓を取り巻く環境で、写真手前鳥居のある石の柵に到るまでに参道がありその入口に、もう一つの石の柵があり鉄の扉で仕切られている。従って入り口から三っの扉を経て、ご陵墓に達する事が出来る。

下の写真は、その一番奥に鎮もる宗良親王のご陵墓である。全て宮内庁所管となっている。

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2005年12月11日 (日)

方廣寺

浜松市近郊の旧引佐郡引佐町(現、浜松市引佐町)に、臨済宗大本山方廣寺がある。歴史の重みを感じさせる寺で常に参詣人が絶えない。

臨済宗大本山方廣寺は、建徳2年(1372)後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開創された禅寺で、遠州地方中心に末寺170寺を持つ臨済宗方廣寺派の拠点である。俗に黒門と呼ばれる総門をくぐると、前方に朱塗りの鮮やかな二層の楼門が見える。正面の「護國」と揮毫された大扁額は高松宮殿下の御染筆によるもの。この楼門が方廣寺の正式な山門にあたる。

山門を過ぎると道は二手に分かれ、右は通称「らかん坂」で本堂・半僧坊へ、左は通称「哲学の道」と呼ばれ、半僧坊・七尊堂・三重の塔方面へ連絡する。本堂の近くに、半僧坊大権現が鎮守として祀られている。

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楼門(山門)~「護國」の大扁額は高松宮殿下の御染筆

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本堂~正面の「深奥山」の大扁額は山岡鉄舟の筆

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朱も鮮やかな三重の塔

    らかん坂

 参道の両側には奇岩が露呈し、その上に五百羅漢の石像が此処かしこに安置されている。羅漢の表情は豊かで見る人の心を和ませてくれる。

    哲学の道(半僧坊表参道)

 道に沿って小流れがあり、その傍らに椎河龍王の祠がある。渓を跨いだ朱色の亀背橋と呼ばれる木橋は安全の為、一度に10人しか渡れない。橋を渡らずそのまま進むと七尊堂の前に出る。    

本堂

 明治38年(1905)から大正7年(1918)にかけて竣工されたもので、東海屈指の建造物である。中央に「深奥山」の山岡鉄舟の筆になる大扁額が掲げられている。本堂中央に釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が祀られている。

    「らかんの庭」と舎利殿

 本堂裏の「らかんの庭」は江戸時代宝歴年間(1751~1764)に造られ、斜面を利用して幾多の羅漢が安置されている。更にその高所には京都銀閣寺風二層式の舎利殿がある。

    半僧坊真殿

 鎮守半僧坊大権現を祀る。明治14年(1881)の大火直後に、再建された。

    七尊菩薩堂(重要文化財)と三重の塔

 七尊菩薩を合祀した鎮守堂で応永8年(1401)建立。杮葺造りで県下最古の建物。其処から左へ進むと朱塗りの三重の塔がある。大正12年(1923)建立、寄進された。

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2005年12月 9日 (金)

続、舘山寺とその周辺

正直に言って近くに住みながら、舘山寺へ長らく行っていなかった事は前に述べた。況やロープウェイに乗った事は勿論無い。前述のように、

舘山寺の麓に広がる舘山寺温泉地と、対岸の大草山(標高113㍍)を結んで、ロープウェイが湖上を走る(所要時間は約4分、往復800円)。降りた大草山山頂には浜名湖オルゴールミュージアムがあり、エレベーターで屋上に上ると浜名湖全景が展望出来る。

特にオルゴールミュージアムに興味があって行って見た。

先ずは屋上に上ってみると、右手に舘山が眼下に見え、正面に舘山寺温泉郷が湾を抱いて見える。又、北側には東名高速の浜名湖大橋が見える。

その屋上に ミュージカル・カリヨン がある。オルゴールの原点とも言われる。毎時時刻に合わせてメロディを流す。2,3Fには19世紀半ばからのオルゴールから、フェアグラウンドオルガンまで約700点の貴重なコレクションが一堂に展示されている。1Fはオルゴールショップとなっている。

浜松駅のすぐ近くにある、楽器博物館とは比較にならないが、兎に角興味のあるミュージアムである。

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屋上より東名浜名湖大橋を望む

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屋上より舘山(右方)と舘山寺温泉郷(正面)を望む

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屋上のミュージカル・カリヨン(毎時時刻に合わせてメロディーを流す)

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楽しいオルゴール・ショップ(お手ごろのお値段で買えます)

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2005年12月 8日 (木)

舘山寺とその周辺

浜松市の浜名湖に面した小さな半島の一角に舘山寺温泉がある。この名はその半島の先端にある舘山の麓にある舘山寺から来た名前である。

12月8日が近づいた6日に、その舘山寺にお参りに行ってきた。と言っても、この寺へお参りするのは、3~40年ぶりのこと。街で昼食をして、そこで色々聞いてから小半日その遊歩道を歩き回り、岩によじ登ったりして来た。

舘山寺とその周辺に就いてご紹介する。

 浜名湖に突き出した庄内半島の先端に標高50㍍の舘山があり、この麓の舘山寺は、曹洞宗の禅寺で、弘仁元年(約1200年前)弘法大師により開創されたと伝えられている。本尊は虚空蔵菩薩で、秋葉三尺坊大権現が鎮守として祀られている。隣接して縁結地蔵尊があり、更にその横に愛宕神社がある。

 半島先端一円は良く整備された遊歩道が巡らされ、浜名湖の内浦(舘山寺温泉方面)と湾外の景観を楽しむ事が出来る。

 舘山山頂には景勝地の象徴として、高さ約16㍍の大観世音菩薩像が昭和12年(1937)建立された。

舘山の中腹の東側には穴大師がある。弘法大師が舘山寺開創の折、籠もった霊窟で、窟の奥に自作の石仏が祀られ、眼病平癒を願って多くの絵馬が掲げられている。

半島の北端に近い場所に展望台があり、奥浜名湖一帯を望見出来、近くの富士見岩は天気が良ければ二つの岩の間から富士山が見える。更に半島の最東端に西行岩があり、西行法師はここでよく瞑想に耽った。「館山の巌の松の苔むしろ都なりせば君もきてみむ」と、この岩上で詠んだ。

舘山寺の麓に広がる舘山寺温泉地と、対岸の大草山(標高113㍍)を結んで、ロープウェイが湖上を走る。大草山山頂には浜名湖オルゴールミュージアムがあり、直ぐ近くに国民宿舎「浜名湖舘山寺」がある。

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舘山山頂に立つ大観世音菩薩像。

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展望台から奥浜名湖方面を望む。東名浜名湖大橋が見える。

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2005年12月 4日 (日)

浜松城

浜松市役所に隣接して浜松城とそれを囲む公園があり、散歩している人、親子連れで遊んでいる人、ジョッギングしている人、天守閣に登っている人等々、市民の憩いの場でもある。

私のように浜松市といっても外れに住んでいる者にとっては、その気が無ければ中々行く機会が無いが、久しぶりに行って見た。偶々豊後竹田市の岡城址と続・岡城址を書いたので、浜松城に就いてもご紹介する。ただ私は、再現された建造物より、遺されているものの方に関心がある。

浜松城

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、長子信康に岡崎城を譲り、元亀元年(1570)6月にこの城に移って来た。元来、平山城であったが、次第に壊され、城域が狭まり、現在は、東西600㍍、南北650㍍の規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。家康は駿府城に入るまで約17年間、この城を本拠として徳川三百年の基礎を築いた。

家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在職中に老中にまで栄進した人が多い。このことから世に出世城と言われる。

現在の建物は昭和33年(1958)に再現されたものだが、野面積みの石垣は往時のままで、独特の雰囲気の中にも歴史の重みを感じさせ、浜松市の史跡に指定されている。

    石垣

 石垣は荒々しく、粗雑で一見崩れやすいように見えますが、400年余の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している。この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせ積む方法で、慶長以前はこの方法が多く用いられた。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を積め、さらに砂利を入れ、石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑だが、堅固に造られている。特に天守台と天守門跡付近の石組が堅く石も大きなものが使われており、突角には算木積み法が使われている。

    天守曲輪

 ここは丘陵の西の端の最も高い所にあり北東と南東に張り出した菱型(東西56㍍、南北68㍍)に近い形をしている。周囲は低い土塁があり、その下に石垣をめぐらしている。東に天守門、西に埋門があり、内部は広場となっていた。

    井戸

 この井戸は銀明水と呼ばれていたという。浜松城には天守台に1、天守曲輪の埋門の傍に1、本丸に1、二の丸に3、作左曲輪に4、計10本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。

    浜松城公園日本庭園

 この庭は浜松城の足元に位置する庭園として、また郷土の自然風土に溶け込み市街地の中で植物による四季の変化や日本庭園の良さを味わえることを主題として作庭されている。

 自然地形の高低差と、水との関連も考慮して広葉樹が多く植えられている。谷間に上、中、下の三段池と夫々に大滝、小滝、滑滝が設けられ、これらを観賞するため回遊式の園路が巡らされ、上池に石橋、下池に木橋が架けられ庭園の添景となっている。庭園の各所には石灯籠が配置され、敷石には切石敷・寄石敷・玉石敷が配置されている。

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     浜松城

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2005年12月 1日 (木)

続、岡城址

岡城址の石垣は美しい。高石垣の上から下を見下ろすと眼も眩むばかりで高所恐怖症の

isigaki_nozura_tumi 人など、とても耐えられない。日本三険城と言われる事が良く判る。

資料に依れば、城郭の石垣には野面積み、打ち込みはぎ積み(又は割石積みともいう)、切り込みはぎ積みの代表的三種類が ある。

上の写真は、野面積み(のづらづみ)石垣と呼ばれ、慶長以前に使われた方法で、自然の石を加工しないでそのまま積み重ねる方法で、(城に限らず一部には古い棚田の石垣などにも使われている)、石の大きい面を内側に長く押し込んで積むので外観はあまり良くないが意外に堅固である。

打ち込みはぎ積み(又は割石積み)石垣は、石の角を叩いて平らにして積む。安土城に始めて使われ近世城郭の大部分がこの方法という。

切り込みはぎ積み石垣は、石を削り、綺麗に整形して積む。美観に優れている。

下の岡城址の高石垣の写真は、角の部分に、切り込みはぎ積み石垣を用い、その他の部分に、打ち込みはぎ積み石垣を併用している。角部の曲線の美しさは素晴らしい。

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下の同じく岡城址の写真は、切り込みはぎ積み石垣で、外観の美しさは折からの紅葉とあいまって、息をのむほどである。

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岡城址には、この三種類の石垣が、その場所を得て、見事な調和を保っている。

私は、昔の姿をそのままに残している松本城、姫路城等々には魅力が在るが、消失後再建した、近代材料を使った城よりは、かえって城の石垣だけが往時を止めている城址に魅力を感じる。

「荒城の月」の名曲と共に岡城址は感動的な城址である。

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2005年11月26日 (土)

岡城址

豊後竹田市に今も残る、岡城址は日本三険城の最たるものとして知られ、別名を臥牛城と呼ばれる。典型的な梯郭式山城で太鼓櫓門から本丸に到る高石垣は思わず息をのむ程美しい。城址には空井戸が遺されていて往時を偲ばせる。今、紅葉は終曲を奏でているようだ。

此処は「荒城の月」で有名な城址。土井晩翠直筆を刻んだ詩碑が建ち、滝廉太郎の銅像が建っている。城址を下った街中には滝廉太郎の旧宅とそれに通じる廉太郎トンネルがある。廉太郎は少年時代を此処で過ごした。「荒城の月」が発表されたのは1901(明治34)年。

街には又、武家屋敷跡や歴史資料館がある。今は珍しい畳屋が畳を作っているのも風情を添える。

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   紅葉に彩られた、岡城址(11月23日)

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2005年10月19日 (水)

戸隠から姨捨へ

戸隠から飯綱高原を過ぎり、通称七曲を下ると善光寺の裏手へ出る。スケジュールの関係で善光寺にお参りする時間がなく、右に往生寺、左に善光寺を見ながら下る道の両側は一面の林檎畑。長野県庁を右に見て直進すると、やがて川中島古戦場址に出る。そこから右に曲がって善光寺平西端の姨捨へ出る。

姨捨は棚田、田毎の月と共に有名な俳人の多数の句碑が並び、秋には観月会と俳句会が長楽寺で開かれる。

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          姨捨の棚田風景

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左:月見堂と桂の木                                 

右:芭蕉翁面影塚                                                                                                                                                                                  

長楽寺の境内には句碑多数が並んでいる。桂の大木の横にある月見堂へ上る石段のところには有名な芭蕉翁面影塚があり、

  おもかげや姨ひとりなく月の友

の句が刻まれている。

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               観音堂と姨岩

姨岩の伝説は楢山節考と共に今も伝えられ、其の由来が細かく書かれている。

多数の句碑はこの岩を囲むように立ち並び、芭蕉句碑と共に長楽寺の境内を賑わせている。

 信濃では月と佛とおらがそば(一茶)

 名月や思ふまじきは過去未来(可都三)

 名月に瀬音ひそめて千曲川(里軒)

 枯れ果てゝ信濃路はなほ雪の前(登四郎)

 くるみ割るこきんと故郷鍵あいて(翔)

短歌にも、

わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて(よみ人知らず)がある。

  

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2005年10月18日 (火)

白馬から戸隠へ

白馬村の松川に架かる橋から見た北アルプスは素晴らしい眺めだった。白馬鑓ケ岳・杓子岳・白馬岳と並ぶ山頂には未だ雪はなかった(写真)。

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鬼無里村(今は長野市鬼無里)に入る。鬼無里と書いて「きなさ」と読む。鬼無里の由来にからむ松巌寺には、「鬼の無い里」の謂れが綿々と綴られている。

松巌寺の本堂の天井は格天井になっていて、その各桝には絵と俳句が描かれていて豪華だ(写真)。本堂から少し離れて輪蔵式の経蔵があり又、山門とは別に鐘楼の下を通る事が出来る(写真)。

鬼無里や戸隠には、其れ相当の伝説や神話が残されているが平成の大合併でそれらの地名と共に、それらのものが失われている例が多いのも事実だ。寺の周囲にはまだ藁葺き屋根の民家が散見され山峡の風情を僅かに残している。

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goutenjyou こんな素朴な風景が開発とか合併とかの名のもとに、むざむざと失われて行くのを見るのは耐え難い。

話は飛ぶが、長野駅なども其の例に漏れない。長年、長野市民に愛された善光寺の形を模した駅舎が、新駅に其の影も見えなくなったのは返す返すも残念だった。せめて一部でも残しておいて欲しかった。

戸隠(戸隠村も今は長野市戸隠)では、中社の入口にある宿坊「極意」で本当に美味しい蕎麦を食べ、同行全員が満足した。宿坊の庭の木は既に紅葉半ばだった(写真)。流石に此処は団体客で賑わっていた。

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戸隠神社は、宝光社・中社・奥社と別れ、特に奥社には神話にある、手力男命が投げたとされる巨石「天の岩戸」がある。鬼無里も戸隠も夏には水芭蕉が素晴らしい。

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2005年10月16日 (日)

大町から白馬へ

信州安曇野の秋を楽しみながら、大町市内の農園で林檎狩りをした。周囲の山々は薄紅葉で本格的な紅葉はもう半月位か。

大粒の良く熟れた実は甘みののった「信濃スウィート」と名づけられた林檎で、捥いで直ぐ食べても口の中でとろける様だった。澄んだ山の空気も又格別だった。

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同農園で栗ご飯を食べる。野沢菜と沢庵それに茗荷の漬物の味は流石信州ならではの味だった。快晴の秋の陽を浴びながら、白馬と安曇野の中間にある青木湖へ行く。青木湖は水が澄みきって、ひっそりと静まり返っていた。湖畔に椅子が一つぽつんと置かれていたのが印象的だった。

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湖畔には「塩の道」と呼ばれる古道があり、鬱蒼と茂った木々の根元には、千草に埋もれるように石仏が立っていた。

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2005年10月11日 (火)

上田紬を織る女

上田紬は、真綿からつむいだ紬糸や生糸を経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)には紬糸を使って織り上げる。丈夫で着やすく落着いた色柄等が上田紬の特色である。

上田紬の名が有名になったのは関ケ原合戦の真田昌幸、幸村父子の大奮戦によるという。その後藩主が替わり、時代が変わり幾多の変遷を経て受け継がれているが、現在も紬本来の糸使いの良さ、風合いの良さ、素朴さ等から多くの人に愛好されている。

無言館、信濃デッサン館の中間に、上田紬を織り、シャツ・ネックタイ・ヴェスト・帽子等を始め様々な小物まで、仕立てて売っている店があり、色鮮やかな上田紬の商品を楽しむ事が出来る。

私は、機を織る音を聞くと、母が冬になると玉繭(屑繭)を紡いで糸を作り、機を織っていた光景と音を思い出して、そこはかとない郷愁を覚える。

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上田紬を織る女(信濃デッサン館の近く)

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2005年10月 8日 (土)

全日空 NH1055便

現職中は海外出張で世界のあちこちに出掛けたが、観光は仕事の合間に時間の取れる時だけ。今から考えると、もう少しやりようがあったのではないかと思う。

一線を退いた翌年(2000年)、友人のお誘いを受けて、10月24日から31日迄、3夫婦6人のハワイ行きとなった。行く先はマウイ島で、妻にとっては始めて見る海外、特に憧れのハワイ旅行とあって、随分楽しかったようだ。その上、同行の友人たちも本当に気持ちの良い人々だったのでその楽しみも倍加した。私もハワイは出張時、トランジットでホノルルに降りた位で、ハワイはその意味では始めてだったし、プライベートな海外旅行も始めてだった。往き帰りとも、当時の名古屋国際空港を使用し、乗機はANA(全日空)だった。

(今は、名古屋からのハワイ行きには、JAL(日本航空)しかなくANAや、前には有ったノースウェスト航空も運行していない。競争原理からも残念なことだ。)

この旅行の帰路は、マウイからホノルルに出て其処から、ANAのNH1055便に乗った。機中でクイズがあって偶々正解だったので、ささやかな賞品を頂いた。其の中の一つにANAの飛行機模型(写真)も入っていた。尻尾のところから息を吹き込むと、美しい機体になる。記念に今も私の書斎の机の上にハワイの方向に向かって吊るされている。

尚この旅行以後、隔年ハワイに出掛けている。

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  クイズ賞品の一つ、ANA飛行機模型

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2005年10月 5日 (水)

水上飛行機

水上飛行機と言っても日本では余り知られていない。しかしアラスカ方面へ旅行した人ならきっと、お世話になっている筈。

この水上機は波が無いと離水出来ない。波が無い時は、水上を輪を描いて廻り、自分が立てた波に乗って離水する。人生の一面を見ている感がある。

アラスカにシトカ(Sitka)と言う港町がある。1906年頃まではアラスカ準州の州都だった所。ケチカンの北西、ジュノーの南西に位置し漁業と林業が中心の町だが、其処の材でシトカ・スプルースという木材を嘗ては「Y社」が大量に買っていた。P製品の心臓部にあたる部分に使われていた為で、恐らく今も使用している筈である。私が「T工場」を担当していた期間がもう1年長かったら、恐らく、ケチカン、ランゲル、シトカ、ジュノーといったアラスカの町へ、出張していたかもしれない。

そんなことを、丁度アラスカ西岸へ来ていると報らせてきた、世界一周クルージング中の船上の友人にメールした所、ジュノーで撮った水上機の写真を送ってきてくれた。私にとっても心温まる写真なので今も大切な写真の一つである。

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2005年10月 3日 (月)

信州の鎌倉・塩田平と収穫風景

鎌倉幕府の執権北条泰時の弟重時が信濃の守護として、塩田に守護所を置いた。鎌倉・塩田を街道によって結び、義政、国時、俊時の三代で50有余年治められ、この塩田の地に鎌倉風の文化が開けたところから、「信州の鎌倉」と呼ばれている。

別所の国宝安楽寺八角三重塔、常楽寺石造多宝塔を始め、塩田の中禅寺薬師堂、前山寺の未完の三重塔、武田信玄ゆかりの由緒ある生島足島神社そして國時の菩提寺竜光院等々数多くの古い文化が静かな森の中に、集落の一角、山裾の一隅に散在し、信州のこの地に鎌倉文化が栄えた往時が偲ばれる。

歴史を尋ねて信州の鎌倉を訪れ、ゆったりと休養しようとすれば、観光湧湯の街、別所温泉がある。ここには八角三重塔や多宝塔、北向観音がある。かつて映画「愛染かつら」で全國老若男女の紅涙をしぼったゆかりの桂の大木が今なおこの北向観音の境内に生い茂っている。自然と歴史の街、信州の鎌倉を訪れる人は多い。(切手シールの説明より一部抜粋)。

塩田平には又、稲田を始め畑が開け、今は稲の収穫の最中である。最近はコンバインで藁まで刻んでしまうので、稲架風景や、藁ぼて(藁ぼっち)を見る風景も少なくなったが、此処ではそれが見られる。稲架に隠れて林檎の収穫も今盛りだ。一寸足を伸ばすと上田城址や蘇民将来護符で有名な信濃国分寺があり、江戸時代の俤をそのままに梲(うだつ)を掲げた海野宿があり、更に大法寺の見返り三重塔が塩田平を見下ろしている。夫神岳・女神岳・独鈷山の裾に広がったこの塩田平の真ん中を千曲川がゆったりと流れているのも詩情をそそる。この時期、多くの俳人もこの地を訪れる。付近には「無言館」「信濃デッサン館」もある。

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      稲架

harvest

      脱穀

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      藁ぼて

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2005年10月 2日 (日)

続、信濃デッサン館

この「信濃デッサン館」は昭和54(1979)年6月、窪島誠一郎が20数年にわたる素描コレクションの一部をもとに、私財を投じてつくりあげた小美術館である。

収録された村山槐太、関根正二、戸張孤雁、靉光、松本竣介、吉岡憲、広幡憲、古茂田守介、野田英夫らはいづれも「夭折の画家」とよばれる孤高の道を歩んだ薄命の画家たちで、現存する遺作品は極めて少なく、特に槐太、正二のデッサンの集積は貴重である。槐太は17歳頃、正二は16歳の春に、夫々この信濃路、長野近郊辺りを流連彷徨している(入場券の案内の内から抜粋)。

絵画についての専門家の批評は色々あるだろうが、彼等の心境を慮ると、何とも言えない感動に胸を揺さぶられる。作品の一部を御覧下さい。

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         村山槐太作 裸婦

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左:関根正二作 自画像                    右:松本竣介作 少女像 

                                                                                                                                    

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2005年10月 1日 (土)

信濃デッサン館

無言館(戦没画学生慰霊美術館)から程近い所にある、古刹前山寺の境内脇にひっそりと佇んでいる信濃デッサン館は、無言館に先立ち且つ同じく窪島誠一郎氏の苦心の末の作。趣旨と佇まいを写真で御覧下さい。文字通りデッサンを主体にした美術館で、無言館とは又別な感動を催します。

   dessin_kan

          デッサン館設立趣旨(窪島誠一郎著:信濃デッサン館日記から) 

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      信濃デッサン館入口風景

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2005年9月22日 (木)

日付変更線

旅には必ず発見があり、感動がある。その旅に予期せぬ出来事や出会いが有ったら、その旅は素晴らしい旅として記憶に残る。まして始めての海外旅行の印象は強烈なものがある。

私の始めての海外出張も其の例に漏れない。4月24日に書いた「思い出のスチュワーデス」、9月2日に書いた「或る女子学生との会話」は其の時の出会いの一端の紹介だが、この旅には他にも色々の出来事や出会いが有った。

例を挙げれば、羽田からエールフランスでパリへ、其処でスイスエアーの小型機に乗り換えてインスブルックへ着いた時、同空港のバッゲージクレームで何時まで待っていても荷物が出て来ない。クレームを付けたら、後からスイスエアーがホテルまで届けてくれて事なきを得た事。

オーストリアの出張初日の夜、思わぬ自動車事故に巻き込まれたが無事に済んだこと。

それから、帰国後航空会社からA4版の「日付変更線通過記念証」(写真)が立派な包装で送られてきた事。このカードには、御覧のように七福神の絵が書かれていて,

「Proclamation of the Seven Deities of Good Fortune」 と書かれ、その下に「日付変更線通過記念証」、更に私の名前(写真は暫定的に、私のブログ上のニックネームに置き換えてある)が書かれている。

Mr.Alps(nickname on blog) has crossed the Internatinal Date Line,・・・とあり、通過年月日と通過時刻が明確に記されている。

始めての海外の旅だったので、こんな物を大切に保存していたと思うが、ひょっとした事から発見した。

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2005年9月 2日 (金)

或る女子学生との会話

1963年9月、私は1ケ月間の海外出張の後半の旅の途中にあった。

当時は海外で日本人に会うことは滅多になかった。何しろ始めての海外出張とあって戸惑う事が多かった。ヨーロッパでの仕事を終え、ハンブルグ空港を出発してニューヨーク空港で、ユーナイテッド・エアラインに乗り換えロサンジェルス空港へ行くことになっていた。所がニューヨークへ着いてみたら、其の便は今は無いとのこと。何しろブロークンな会話しか出来ない私だが、ルフトハンザ(ドイツ航空)と交渉した。「お前の所で作ってくれたスケジュールが間違っていたのだから、責任を持って、最短時間でロスへ行ける便を探し航空券を切り替えてくれ」と依頼した。やがてデトロイトで乗り換えてロス行きの便があるが良いかという。良いも悪いも無い。

かくしてニューヨークからデトロイト行きの客となった。もう現地時間で夜の8時位だったと思う。私の右に大学生と思われる若い女性が乗った。その右には、やはり学生らしい若い男性が乗っていた。

ニューヨークを出発して間もなく女性が私に話しかけてきた。バショウ とか シキ とか ブソン とか言い始めた。私を日本人で俳句を知っている男とでも思ったらしい。聞けば彼女はミシガン大学で日本の、特に俳句の研究をしているらしい。此処で全く知らないと言ったら沽券に関わると思って私もありったけの知識を絞って何とか質問に答えていた。大方いい加減なことでお茶を濁していたのかも知れない。時に会話で判らない事があると彼女はノートを出して筆談してくる。隣の男性と会話する事もなかったが、垣間見ていると男性も二人の会話を楽しそうに聞いているように見えた。そんな事があってデトロイト行きの時間は結構楽しい旅になった。

ところがである。デトロイト空港に着いたら、彼女の両親が出口に彼女を迎えに来ていた。彼女は先ず彼女の右側に坐っていた男性を両親に引き合わせているのを聞いて驚いた。彼女のフィアンセで両親に始めて会わせるために一緒に来たらしい。其の上、赤の他人の私まで「飛行機の中で知り合った日本人の会社員で、俳句の話をさせて頂いた」と両親に紹介してくれた。両親からはお礼とも言える言葉を掛けられた。

始めての海外出張で、私はつくづく欧米人の社交性というものを、見せ付けられた気がした。若しこれが日本人のそのような男女関係の人と、異国の人が乗り合わせたとした時に、フィアンセを措いて異国の人と話すだろうか。矢張り長い生活習慣の中で培われて来た社交性とも言うべきものではないかと思った。

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2005年7月 5日 (火)

或る老夫婦

6月23日、根室本線の富良野駅から釧路行きの列車に乗った。目的地は函館駅。ただ富良野から新得で乗り換えるまでは、普通列車で二人づつ相向きの旧型車で冷房もなく、天井に扇風機がだるそうに回っていた。乗客も少なくガラガラ状態だった。

ふと気が付いて見ると、通路を挟んで私達夫婦の反対側のボックスに老夫婦が乗っていた。そのご夫人がA4版位の額を車窓に外を向けて置き、手で支えていた。見るともなく見ていると何かご主人と、ぼそぼそと呟く様に話していた。列車の進行方向の右側は夕張山地、左側は石狩山地。額は夕張山地の山々が見えるであろう方角(その日は曇っていて何れの山も見えなかった)に向けられ、列車が新得駅手前の新狩勝トンネルに入るまでそれは続いていた。私たちの方からは額の裏側しか見えないのでどんな写真が入れられているのか知る由もなかった。

恐らくお子さんか、お孫さんが山で遭難でもされたのではないかと私は思った。老夫婦は其の思い出の地に写真を持って訪れ、三人で話していたのではないだろうか。私たちが新得で下車した後も、老夫婦はそのまま乗って行かれた。

新得駅で乗り換えた後私達と、同行の友人夫婦との間で其の話が出て、皆が密かに思っていた事が期せずして同じだった事がわかった。勿論老夫婦とは話を交す事もなく一期一会の車中光景だったが、何か今も其の光景が旅の思い出の一隅を占めている。

このような人間社会の現実を他所に、富良野は、矢張り北の大地の風格を滲ませていた。

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               草ロール

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              富良野の麦畑

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2005年7月 3日 (日)

函館

北海道へは過去4回行った事がある。しかし、函館だけは偶々台風の影響で行けなかったので今度が始めての訪問である。

函館は歴史のある町だ。その建造物にも世界の建築様式が凝縮されている感があり、素晴らしかった。五稜郭は日本始めての(正確には信州佐久郡の龍岡城と相前後して)稜堡式城郭で、剣戟戦から砲術戦に変って城の構造が、がらりと変った典型的な城だ。

赤レンガ倉庫群、旧函館区公会堂、旧イギリス領事館、トラピスト修道院、トラピスチヌ修道院、ハリスト正教会、カトリック元町教会等々をはじめ、どれをとっても歴史の匂いを秘めている。

トラピスト修道院はロマネスク風の建物がひっそりと建っている。入口には長い橡の並木が続き其の奥に修道院がある。並木の横には草ロールが転がっていて、自ら働きながら研修している。此処では同行した友人のご縁で特別に神父とお会いしてお話が出来た。トラピスチヌ修道院もフランス・ロマネスク風の美しい建物だ。此処は女性だけの修道院。ハリスト正教会はロシア・ビザンチ風の一見其れとわかる建物。カトリック元町教会は、ゴシック風の建物でキリストの道行きの絵が壁にずらりと掲げられている。ルネサンス風の旧函館区公会堂は国の重要文化財。銀行・商館・役所には擬似洋風建築が多く、商家には和洋折衷建築が多く見られ、赤レンガ倉庫群は柱の無い西洋式の建築様式をとっている。

他には、誰でもが知っている函館の夜景等々、始めて訪問した私は函館に魅了された(冬は別な顔を持つのだろうが)。もう一度じっくり時間を掛けて訪ねてみたいと思った。

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トラピスト修道院  (この手前に長い橡並木がある)

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トラピスチヌ修道院

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ハリスト正教会

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カトリック元町教会

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2005年5月16日 (月)

下栗(しもぐり)の里

 三遠南信(三河、遠州、南信濃)歴史研究会一行20数名で、5月15日、南信州の上村(かみむら)の遠山郷・下栗の里へ行って来た。上村を土地人は一名「神村」とも呼んでいる。高所にあって限りなく天に近く又、「上(かみ)=神(かみ)」と引っ掛けたものだろう。

南信州・遠山郷の上村には霜月祭等の重要無形文化財や「日本のチロル」と言われる、下栗の里、それから更に1000m上がった所にある、「しらびそ高原」等は、気候の良い時には観光客が訪れる。その上村も南信濃村と共に飯田市に合併され、一方、静岡県水窪町まで合併する浜松市と、飯田市が隣り合わせになる事になる。

上村には重要民俗文化財指定の「霜月祭」等の固有文化があり、この地に限らず、心ある人からは、平成の大合併に伴って、その地の固有文化が失われる危険性を心配する声が上がっている。

「遠山郷下栗の里を日本のチロルと命名す、東京学芸大学教授 市川健夫」という碑の立っている下栗の里は、標高1000mの山肌にへばりつく集落。平家の裔という説も有るが定かではない。70数戸の家が最大斜度35度の畑を耕している。下から上に向かって耕すと、土が下に落ちてしまうので、この地独特の長い柄の鍬を使って、上から下に向かって耕している。こんなにまでして何故という気もするが、この土地の人はこの地をこよなく愛し、最近では若者にも回帰現象が出始めている言う。このような文化や風景に接すると、特殊法人などに巣くって、税金を無駄使いしている連中のいることに無性に腹が立つ。

上村のパンフレットによると、「日本の原風景を今に残し、神の恵みを受け続ける里、下栗。この集落は、太陽が足下から昇ると表現されている。眼前には南アルプスの山々を望め、百名山で名高い聖岳・光岳が手に取るようだ。急斜面に広がる耕地は、お茶をはじめ、蕎麦・二度芋・コンニャク・雑穀類が栽培され、まさに「耕して天に至る」の光景である」と、ある。

二度芋もコンニャクも蕎麦も本当に美味しかった。此処からの夕日の眺めは日本でも有数の眺めと言う。今回は天候は薄曇だったものの、遥かの山々まで見渡せて素晴らしい光景だった。そして村人たちの働く姿に胸を打たれた。

この下栗の里から、約1000m上がった「しらびそ高原」は標高2000m。途中には、日本初の隕石クレーターと言われる「御池山クレーター」が望める。高原からの南アルプスの山々を望む大パノラマは声をのむほどだ(数年前に、その風景を目の当たりにした)。生憎、今回は濃い霧の為、視界30mでは致しかたないが、今回の研究会の主目的は、下栗の里 に有ったので、しらびそ高原の眺望不良は、そう思って諦める外はない。深い感動と素晴らしい風景に接する訪問だった。ご案内頂いた上村役場の観光担当の課長さんにもお礼を申し上げる。

     写真は「下栗の里」の一風景

20050515

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2005年4月30日 (土)

メキシコ

4月28日のNHK「世界遺産」の番組で、メキシコの、太陽のピラミッド、月のピラミッドの紹介があった。私は所用で途中で出かけたので最後までは見ていない。

私がメキシコへ、E製品立ち上げの打ち合わせと、技術指導に出発したのは、昭和47(1972)年4月19日(水)。バンクーバー経由メキシコシティー行きのフライトだった。現地駐在員には酒豪が揃っていたので日本酒を引っさげて行った。

5日間の滞在の内、日曜日を除く4日間は専ら仕事。その間は、業務の合間に又は通勤途上にインスルヘンテス大通りや、パリのシャンゼリゼ通りを模して造られたといわれる、レフォルマ大通り又は1910年に独立100周年を記念して造った独立記念塔などを見学した。

そして日曜日の1日は、テオティワカンの太陽のピラミッド、月のピラミッドを案内して頂いた。太陽のピラミッドへ上ったのが特に記憶に残っている。そのあと皆でバーベキューを楽しんだ。

その途上に散見したのは、現地人の貧富の差。車間を縫って車に物を売る人達。又壁画と近代建築で知られる大学都市。そして大サボテン群。

ピラミッドに纏わる話は色々有るが、要は神々の信仰と深く結びついている。神の依代という考えは日本にも昔からあり、特に山岳信仰は役行者(えんのぎょうじゃ)が説いてからは定着した。只、今は山が心ない輩に荒らされているのが心配だ。

メキシコでの食経験は、水は生水は避けてミネラルウォーターだけ、食べ物ではチレ(或いはチーレ)、アルコールはテキーラ、そしてアラメダ公園での屋外ディナーは流石にメキシコ。マリアッチを聞きながら、4時間はたっぷりかけて楽しんだのが印象的だった。矢張り此処はアスタマニャーナの国と変な所に感心した。

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上:月のピラミッド

左:太陽のピラミッド

                                    

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2005年4月24日 (日)

思い出のスチュワーデス

私が始めて海外出張をしたのは昭和38(1963)年の夏。1ケ月に渉る欧米の技術視察だった。当時はパスポートの申請・受領は外務省まで行かねばならない時代で、海外で日本人と出会う機会は殆ど皆無に近かった。

出発は、1963年8月10日(土)、羽田発11.15AMのパリ行きの南回り。乗機はエールフランス187便、ボーイング707(或いはDC-8だったかも)。羽田より、マニラ、サイゴン(現ホー・チミン)、バンコック、カラチ、テヘラン、アテネ経由パリだった。今から考えると気の遠くなるような長旅だった。このフライトは日本航空とタイアップして運行していたのでフランスのスチュワーデス(今はフライト・アッテンダントと言う)の他に日本人のスチュワーデスが一人便乗勤務し、機内アナウンスもフランス語と日本語の両方だった。乗客は私を含めて10数人と言う小人数で、日本人スチュワーデスは途中で和服や洋服に着替えてサービスに勤めていた。そんな事情だったので、彼女は日本人である私の席の横に時々座っては、身の上話までしてくれたので、お陰で私は初の海外出張にも関わらず、随分緊張をほぐして頂いた。その時の彼女の氏名等を確認しておかなかった事を後悔している。今お元気でいらっしゃったら当時の思い出話等したいものと思っている。

所で、つい最近ひょっとした事から、1998年4月にフライト人生40年の勤務を終え、60歳の定年で日航を定年退職した「永島玉枝さん」と言う方がいらっしゃる事を知った。この年齢からすると私が出張した1963年の時は25歳だった筈で、私とお話してくれた方と極めて近い。彼女は日本人女性初のフライト時間2万5020時間、主に国際線を担当して、日航初の管理職乗務員として活躍し、最近その関係の本を読売新聞社から出していると聞いた。若し彼女が私のお会いした、あの時のスチュワーデスであったら、ぜひお会いして話をしたいものと思っている(その著書はまだ読んでいないし、JALへの問い合わせ等は今のところ未済)。

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2005年4月13日 (水)

都田川

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細江の山上より、浜名湖へ注ぐ都田川を俯瞰する

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馬籠宿

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藤村ゆかりの馬籠と妻籠へ行って来ました。

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