2016年7月31日 (日)

佐鳴湖

浜松市旧市街の南西に佐鳴湖(さなるこ)がある。
Img_6580
佐鳴湖に就いては、嘗て紹介したように、
『東西600m、南北2.2km、周囲7kmの湖で、三方原台地の水を集めて浜名湖に注ぐ谷川が沖積期に入った頃(約1万年前)に、南端に打ち寄せた砂州によって出口を塞がれてできた自然湖である。
古くは浜松城主や賀茂真淵などの文人墨客が清遊し美しい風景を詩歌文筆に残している。
また入野の竹村広蔭が佐鳴湖を愛し佐鳴八景といって風致景観を賞讃した(浜松市)』
Img_6583周囲には季節の花々が咲き乱れ、青蘆も群生し、いつも常連の釣り人が糸を垂らし、特に鰻は上質で鰻筒が仕掛けられている。
また周囲を散歩する人、ジョギングする人たちが、又湖上は漕艇場になっていて、公式コースも設定されている。

朝夕の日差しに照らされる風景は実に美しい。俳人達にとっては格好の句材収集の場でもある。
近くの蜆塚遺跡や博物館も亦同好の士の散歩や憩いの場となっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月19日 (月)

鏡池

9月30日に或る会合があって信州へ行って来た。その会合は今回を以って打ち上げと決まっていた。会は和やかな雰囲気で終始し打ち上げとなった。

翌10月1日は昨日同様よく晴れた秋日和だった。

久しく長野近辺も歩いていないので、思い立って戸隠を含めて数箇所へ行って来た。
信州へ出かける前に急に思い立っての行動だけに前もって計画して行ったわけではない。
昨日長野へ着いて、会合の行われるホテルに投宿したが、会合が始まる前の数時間を利用して墓参した時に呼んだタクシーの運転手と話して、今日の行動を決めた。

メインは戸隠へ行くことだった。
戸隠の中社にお参りした後、中社から程近い鏡池へ行って来た。文字どうり普段は鏡のように静まり、戸隠連山や周囲の景を映して美しい。今度は多少風があって一部に漣が立ち鏡が少し乱れた所もあったが、ほぼ満足できる光景だった。

Photo 写真は鏡池で、背景の左の山は戸隠連山の西岳(2053m)、右は戸隠山(1906m)で、西岳の頂上は雲に覆われていた。

戸隠は秋最中で周囲も紅葉に染まっていた。帰路中社の前のそば屋で新蕎麦を食べたが矢張り一味違って美味かった。

ご多分にもれず、鏡池では中国の観光客が数人固まって賑やかに写真を撮ったりしていた。

鏡池は戸隠にも書いた様に旧友H君が連れて行ってくれて知った処だ。あれからもう9年経つ。月日は鈍行から新幹線並に早く過ぎる昨今である。
H君は今回の会合に体調もあり欠席したのは一抹の寂しさを感じさせた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月30日 (月)

柳まつり全国俳句大会

第32回「柳まつり全国俳句大会」が今年も6月8日に那須町で行われた。

俳句大会の開催に先立って例年のように、遊行柳(ゆぎょうやなぎ)をバックに芦野の田植祭が行われた。
Img_5203 Photo

 今年は時ならぬ今様芭蕉さんも出て会場の雰囲気も盛り上がった。

田植風景は最近では余り見られなくなったが、瑞穂の国の原風景であり、私のように子供の頃から実際に其の仕事をしてきた者にとっては懐かしい風景でもある。

芭蕉は「おくのほそ道」で前述のように「田一枚植て立去る柳かな」と詠んだあと、須賀川の等躬亭で「風流の初やおくの田植うた」と詠んでいる。
「陸奥の田植歌こそ、白河を越えて最初に味わう風流だ」の意で「おく」とは「奥州」の意。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月 1日 (土)

道路が息づく

浜松在の私の故郷は信州。6,7年前までは良く車で出かけた。
飯田までは国道を、飯田から長野までは中央高速・長野高速と乗り継いで走った。飯田からの高速路はトンネルや衝立等で折角の沿道の景が遮られ情緒に欠ける憾みがあった。しかし浜松から飯田までの国道は、美しい信州の景色を楽しみながら走ることが出来た。
 特に郷土史や俳句を嗜むようになってからは、今まで気づかなかった道辺の、史跡や人々の営み、山や河そして木や花等々の自然が、季語を伴って息づいているように感じられ、本来無機質の道路その物にも生気を感じるようになった。


写真は信州の景色の一端で、嘗て八方尾根に登った時の寸景である。
1000032_img(今はJRにより、往路は名古屋経由中央線で、復路は長野新幹線で東京経由帰浜する。長野新幹線はトンネルと衝立の間に景色が点在する感じであるが、中央線からの景は矢張り息づいている。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月 3日 (木)

続、変貌する台地

私の住んでいる台地が大きく変貌している。戦時中は高射砲連隊があった所とか。戦後は開拓地として開放された土地だったと土地の古老は言う。

今から40数年前に私たちが此処へ移ってきた時には、周囲には数えるほどの家しかなかった。それも殆どが平屋だった。未舗装の道路、掘り抜き井戸、LPガスボンベ、そして汲み取り式のトイレが多かった。しかしそんな中で、年に一度は隣保が寄り集まって交流を深めたし、そんな機会を利用して新しい入居者の紹介などもあった。

それが今の台地街になった。つれて道路・水道・市ガス・下水道等も完備されるようになった。今はマンションや個人住宅の建設ラッシュだ。地震や津波の想定高さ等が発表されてから急に変ってきたように思うが因果関係は知らない。

昔からの家は勿論、つい最近までは個人住宅やマンションの周りには庭木や庭石などが置かれ、春ともなると木々の芽吹きが始まり日増しに緑色が広がり心が和んだ。然し車の保有台数が一家に数台の時代になると様相が一変する。庭木より駐車場が優先するようになった。マンションも周囲に木々を配したものは少なく専らコンクリートだけになった。

家自体の構造も変った。古くから日本の民家には風の通り道があった。北国は別として、日本の夏は蒸し暑い。兼好法師は日本の家の建て方は夏を旨とすべしと言っているように、嘗ての日本の民家は大きな屋根、深い庇、そして開放的空間があった。今は洋式建築が主体になって兼好法師も霞んでしまった。

生活様式をより快適に、より便利にと、人工的な様々の環境を作り上げてきて、それが逆に住み難い環境を齎しているのも見逃せない。それ以上に、環境が人間の心に及ぼす影響も大きい

人々は家に閉じこもりがちとなり、古き良き慣習も薄れつれて隣人同士の交流も少なくなった。権利ばかり主張して義務にはそっぽを向いていはしまいか失われて行くのは時代の必然とばかり言ってはおられない。昔に返せといっているのではない。少なくとももう少し心の通い合う環境にしたいものだと思っている。 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年9月29日 (日)

稲倉の棚田

信州の上田市と小諸市の中間に東御市(とうみし)がある。北国街道沿いの、美しい梲(うだつ)を持つ海野宿などで知られている。
その東御市の北方を走る浅間サンライン(道路名)の北に広がる稲倉の棚田は、秋の収穫前で風に揺れる稲穂の風景は美しい。写真は10日前に撮ったもの。

Photo_3中間に並んでいる点状のものは近づいて見ると、最近余り見かけなくなった案山子で、現代風の案山子が並んでいる。昔は案山子といえば1本足と決まっていたが、今はちゃんと2本足の案山子もある。
Photo_4  この道路の入口には休憩所と展望台を兼ねた四阿(あずまや)があり、行った時には一人の女性が携行した昼食を摂っていた。

今、日本各地の棚田は休耕田が増えたりしてその対策に地元では智恵を絞っているが、この稲倉棚田には休耕田が見当たらない。恐らく土地の勤勉性と維持努力がなされているのではないかと感慨を深くした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年6月11日 (火)

変貌する台地

私の住んでいる台地の状況が最近特に大きく変貌している。

戦時中は高射砲連隊が有ったところとか。その後は開拓地として開放された土地だったと古老は言う。40数年前に私たちがここへ移って来た時には、周囲には数えるほどの家しかなかった。それが今は街になった。つれて道路・水道・ガス・下水道等々も完備されるようになった。今はマンションや個人住宅の建設ラッシュだ。

台地は海抜53m。津波の予想高さが公表された頃から建設ラッシュが始まったように思うが、因果関係は知らない。海に近いマンションの1階や2階に住んでいた人が移ってきているとも聞く。地域の小学校や中学校は満杯状態だと言う。

台地を走る中央分離帯のある大きな道路の両側には、開業医の看板がやたらに多くなった。それに食べ物屋が多くなった。その栄枯盛衰も目を見張るものがある。あそこはうまいと言う評判が立つと一気に人が寄る。逆の場合は閑古鳥が鳴くようになり所有者がいつの間にか変わる。

最近、台地を下ったところの中央分離帯の基幹道路に沿って、イタリア料理の店が出来た。当然のことながらピザ(ピッツア)やスパゲッティが売り物で美味しいと評判が高い。娘に誘われて行って見た。確かに美味いし、店長はじめ従業員の態度も至極良い。
Pg_2 1_4

入口には薪がうず高く積まれている。その薪で焼いたピザが炉から出される。(写真はクリックで拡大します)
1_5 1_6

それを天井近くまで回しながら放り上げ、落ちてくるピザを手で受ける。
何のためにそんなことをするかと聞いたら、ピザを伸ばす、粉を振り払う、そしてパフォーマンスもあると言う。勿論3番目の意味の大きいのは判るが、なんとなく説得性があって面白い。
野菜サラダや飲み物を自由にお取り下さいというサービスも嬉しい。
それになんと言っても、売り物のピザとスパゲッティが美味かった。

多様化する社会の中にあって、(ありきたりの物・サービス+α)が商戦を勝ち抜く秘訣の一つかも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月17日 (水)

両陛下「あんずの里」ご訪問

新聞報道によれば、
『天皇、皇后両陛下は15日、初めての私的旅行として長野県をご訪問、同県千曲市の「あんずの里スケッチパーク」などを観光された。
パーク内のあんずの花は例年より早くピークが過ぎてまばらだったが、穏やかな晴天に恵まれ、両陛下は木々の間を散策された。』
『これまで両陛下の私的な地方訪問は御用邸で過ごすケースが多かったが、宮内庁は「今年80歳を迎えられることもあり、美しい風景や名産品を見て回るという新しい形での旅行をしてもらう」としている。』
と報じている。

長野県の「あんずの名所」と言えば、、現長野市安茂里と現千曲市の2ケ所が有名で花の季節になると、一村が杏の花に埋れ、全国から画家や観光客がやってきたものである。

しかし安茂里は長野市のベッドタウン化して、杏の花が殆ど見られなくなり、森の杏だけが杏の名所となった。

森の杏の里が、何時から「あんずの里スケッチパーク」と呼ばれるようになったのか知らないが、私の郷里に近い場所でもあり、訪れたこともあるので、今度両陛下がご訪問されたと聞いて懐かしく思い出している。

参考までに近くに、科野(しなの)のクニ・森将軍塚古墳がある。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2012年6月28日 (木)

ブナ原生林

栃木県那須町芦野の、「遊行柳」を顕彰して「第30回柳祭り全国俳句大会」が開催されたが、そこから程近い、東北新幹線新白川駅から車で小1時間の山深い所に、福島県岩瀬郡天榮村と言う寒村がある。

その村の湯本二岐(ふたまた)は、二岐山の東麓で二岐川に沿って二岐温泉が湧出している。湯量も豊富で薬効も顕著とのことで、数軒ある旅館には温泉を楽しむ人たちがいつも来ている。
付近には見るべきものはこれと言って取り上げるほどのものはないが、ブナの原生林がある。

ブナは、山毛欅・椈・橅・などとも書かれ以前はさほど言われなかったが、最近では貴重材扱いされている。
ブナはその保水性から自然の水甕などといわれる。「人と森の物語」にも書いたように人と森の共生の必要性の認識の甘さから、当局による心無いブナ原生林の伐採が各地で行われたのも事実である。

Y社にいたとき、木材の購入から加工までを担当したことがある。当時Y社はブナを現地加工業者によって板材に加工されたものを大量に購入していた。それだけにブナには愛着も一入である。

旅館の若女将の案内で、旅館から4kmほど山に入ったところに行くとその原生林がある。秋田県の八幡平の原生林に比べると規模は小さいが何年ぶりかにブナと対面した。

Photo ブナの木肌にも触ってみた。昔の感触が伝わってくる。懐かしかった。高所にはブナの花が咲いている。下には去年の秋に降らせたと思われるブナの実が落ちていた。
旧友に会った感じで暫くは現地を動かなかった。

その付近に小さな神社があった。
Photo_2御鍋神社」と言う。小さな粗末な造りであるが庇の下には大きな鍋が吊るされている。

傍に由緒書がある。
『祭神は、平の将門・桔梗の前・平の九郎。
平の将門が戦に敗れ、奥州の清原氏を頼ってこの地点まで逃れてきたが警戒厳重を極め、桔梗の前は逆境にも拘わらず無事、将門の一子九郎を産んだ。然し山また山の強行軍は女性の足には耐えられず、一族の足手まといになるを恐れ桔梗が原に於いて自害して果てる。……現在の平九郎谷に至るも、これ以上の逃避は不可能と知り、現在の御鍋平に住み、ひそかに再起を夢みて本神社を祀ったのはこの頃であろう。……』

と、宮司と氏子総代の書いた由緒書があった。女性の守護神として尊崇され遠方より詣でる人が今に続いていると聞く。村の事情もあろうが、もっと麓に遷し、村の祭事とすることで村の活性化を図る方法もあるのではないかとの思いもあった。

我々の知らないところに、このような歴史が潜んでいることを再認識した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年6月23日 (土)

芦野の田植祭

第30回柳まつり全国俳句大会」の開会に先立ち、
那須町芦野指定史跡・遊行柳近傍の、遊行庵前の水田で「田植祭」があり、農耕馬の代掻き早乙女が登場する昔ながらの田植え風景が再現された。
Photo_4

 遊行柳は、奥の細道行脚で訪れた松尾芭蕉が「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を詠んだ場所。祭は、柳と句碑のある芦野地域の活性化にと「芦野の里づくり委員会」が10年前から主催。昨年は東日本大震災で中止された。

 地区の渋井弘さん(67)が所有する農耕馬が馬鍬(まぐわ)を引いて広さ約150平方メートルの田んぼの代掻きをした。

Photo_3 根本キヨさん(86)が田植え唄を歌う中、8人の婦人たちが絣(かすり)の着物に赤タスキ姿の早乙女に扮(ふん)して苗を植えた。(文の一部毎日新聞より引用)

昔ながらの田植え風景は懐かしく、機械化された現代からは忘れ去られた風景が再現され子供の頃のことを思い出した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧