2010年1月21日 (木)

大型書店

浜松市にある、大手書店・浜松谷島屋本店は、昨2009年3月6日に浜松駅ビルの一角をなすメイワン8階にオープンした。1フロアー全部を使っての店舗構成となっている。
Photo_3
 Photo_4 売り場面積1900平方メートル、書籍・雑誌の在庫数約42万冊と広さ、在庫数ともに県内最大の大型書店となる。県内で初めて医歯薬、看護など医療関係者のための総合医学書コーナーを設け、理工学書やアート・デザイン関係の書籍も充実している。
 顧客が本を探すためのタッチパネル型検索機を同市内の書店で初めて設置。市街地を一望できる場所に読書ラウンジを設け、併設のカフェではコーヒーを飲みながら購入前の本の閲覧が可能。

Photo_5  本棚と本棚との間はビルの谷間のような感じがして圧迫感もあるのは仕方ない。
ただ本棚の端には椅子が設けられていて其処に座って読むことが出来るので買いたい本をじっくりと選ぶことが出来る。
買う人の立場を考えた配置でもあり、カフェと併せて利用者の便利とひいては売り上増を狙った商法とも言える。
当谷島屋の斉藤行雄社長がソウル最大級の書店「教保文庫」を訪ねた所見が静岡新聞に載せられている。
『ワンフロアー1万平方㍍もある巨大な店内は、まるで新宿駅の雑踏のようだった。年間の入店者数は1千万を超えるらしい。
中央にカフェとフードコートがあり、大勢の人が選書の合間にお茶や食事を楽しんでいる。あちこちにある「読書用座席」と「立ち読みデスク」はどれも満席だった。
この国はインターネット先進国といわれるのに「読書熱」がすごい。……』と述べている。
開店以後の業績や、販売書籍の動向を把握していないので気になるところだが、なんにしても漢字も読めない総理がアニメ殿堂を作ろうとしていた国との対比を考えると、今後のことが思いやられ、又しても戦後の教育制度の改悪を悔しく思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月24日 (火)

立体花博

9月19日から浜松市で開催されていた、「浜松モザイカルチャー世界博浜名湖立体花博2009」は、11月23日で閉幕した。会期は66日間。当初の来場目標は80万人だったが、86万1300余人の来場者があったという。

モザイカルチャーは、トピアリーのように植物を刈り込んで作るのではなく、デザインにあわせて作った骨格に植物を植え込んで作るもので、ヨーロッパで古くから楽しまれているもの。形も大きさも自由自在で配色もしやすいため、20世紀末には都市景観を彩る装景技法として定着した。2000年モントリオールでの第1回世界博を皮切りに、3年ごとに各国で開催され、今回はその4回目となる。
Img_8699 開催された場所は浜松市のフラワー・パークで、世界25ケ国と日本各地域からの出品があり盛況裡に終了した。

出不精で余り興味もなかったが、気まぐれ日記さんの、「浜松モザイカルチャー世界博」と「モザイカルチャー2」の記事に触発されて会期末も近い18日に重い腰を上げた。と言っても14時頃に出かけたので、駐車場と会場を結ぶシャトルバスに乗って会場に着いたのは15時を廻っていた。日暮れの早い今の時節では遅い出かけであった。会場内の出品内容は上記気まぐれ日記さんの記事に詳しい。

この中で目を惹いたのは、カナダ・モントリオール市出品の「木を植えた男」で、出品作品の中で最高栄誉賞に輝き、又、来場者人気コンテスト1位にもなった。
Img_8709
本作品の解説に依ると、『1987年モントリオールの映画監督によるアカデミー賞短編映画受賞作「木を植えた男」は、寛大で不屈の羊飼いエルゼアール・プフィエが、一人、不毛の地を命溢れる緑の森に蘇らせる物語で、荒地は石の部分で表現され、男が植える楓が描く虹で希望と再生が表現されている。「虹」と「楓」は秋に森が深紅に染まるケベックのシンボルでもある。野原を走る馬が自由と命の復活を表している。』とあり、情緒に富んだ作品だった。
本作品に使った植物の色と、偶々訪れた時の西日と調和して、「木を植えた男」を見事に表現していて感銘した。
表面的な表現に陥りやすいこの種の作品の中で、この作品は深みがあり、余韻を感じさせ、心に沁みるものがあった。

国際モザイカルチャー委員会のリズ・コルミエ理事長は「浜松は素晴らしい成功を収めた。日本におけるモザイカルチャーのリーダーの位置づけを獲得した」と語ったと新聞は報じていた。

次期開催地は2012年、カナダのモントリオール市。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月12日 (日)

薪能

10月9日、浜松の文化芸術大学の屋上芝生の特別ステージで薪能松風」が開催された。これは同大特別公開講座として開催されたもので、これに先立ち7日は朗読劇「松風」が、8日は「舞台裏から見る景色」に就いての講座があった。

松風」は、世阿弥初期の幽玄能で、「熊野、松風に米の飯」と評され完成度の高い演目という。
あらすじは、『旅の僧が須磨の浦を訪れ、磯辺の一本の松に目を留めた。この松の謂れを所の者に尋ねると、それは嘗て在原行平が愛した、松風・村雨という二人の海人乙女の墓であるという。
日が暮れて僧は近くの汐屋で一夜を明かそうとする。すると二人の海人が現れる。それこそが松風・村雨の亡霊であった。二人は汐を汲み、歌を歌いながら、月は一つなのに、二つある桶の水面には月の影がそれぞれ映ると興ずる。
僧は二人に在原行平の和歌に就いて語った。行平が松風と村雨のために旧跡を弔ったのだと聞かせる。
姉の松風は行平のことを思いながら、涙ながらに行平の形見の衣装を取り出しそれを纏うと、松が行平に見えてくる。村雨は姉を止めるが、松風は行平の別れ際に残した歌を歌い舞う。
 「立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰りこん」
だんだんと夜が明け、僧が目を覚ますと、そこには松風ばかりが吹き残っていた。』

シテは梅若猶彦、ツレは梅若善久、ワキは福王茂十郎ほか等で、薪能など始めての者にとっても何か胸に迫るものを感じさせる。
Img_5086_7 当日のステージは二階屋上に設けられ、客席はそれを囲んでびっしりと椅子が並べられ、折しも快晴だった空からは涼風が心地よかった。空には小さな月が掛っていた。
  芝生席の最後尾に居た私の席からはステージが遠かったので実演写真は静岡新聞より引用した。
0810091_9

薪能(たきぎのう)は、主として夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能。「薪の宴の能」の意。起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催されたものが最初だという。興福寺では、現在5月の11日、12日に薪能が行われている。ただし興福寺では薪御能(たきぎおのう)と呼ぶ。また、薪御能の源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であり、野外で薪を燃やせば薪能になるのではないとしている。

現在、各地の神社仏閣(平安神宮、増上寺、生国魂神社など)や庭園(大阪城西の丸庭園、新宿御苑など)で催されている。

京都郊外の薪村(たきぎむら)で行われたので薪能と呼ばれた。』(Wikipedia)

同大の薪能の特別公開講座は今回で8回目(8年目)を迎える。第1回目の講座の開講時、時の学長だった木村尚三郎氏は次のように語っていた。
『お能はその夜の世界を拓いて見せてくれます。そこには人間中心の欧米的ないし近代的な、初めや終わりはなく、過去と現在の唆別も、演者と観客の別もありません。その代り、笛や鼓を通して風の音や山の木霊(こだま)が聞こえてきます。謡や舞を通して、人の心の奥底が見えてきます。能では面(おもて)をつけていない素顔を、直面(ひためん)といいます。それは私たちが「素顔」という面をつけて、心の底を見せないように日常を演じているということです。』

江戸時代、薪能は徳川幕府の手厚い保護を受け、繁栄していた。しかし、明治維新によって、新政府が成立されると徐々に衰退の道をたどることになった。

現在、全国各地で行なわれ、多くの方々に親しまれている野外能としての薪能は、第二次世界大戦後に広まったもので、比較的新しいものである。

火と空気が織り成す舞台で能を舞う。それら三者が一体となった心地よい調和を生む。
     序の舞を火蛾仕る薪能    高橋たか子
    急調に入りし羽衣薪能    伊藤 徹
    今し舞ふ薪御能は田村らし  伊藤 徹      

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年6月 5日 (木)

小諸とその周辺の句碑めぐり

伊豆の伊東や山中湖畔などには文学碑が多いが、小諸及びその周辺にも文学碑が多い。

その中で句碑だけを取り上げても、資料に依ると相当数に上る。
懐古園内の句碑
  紅梅や旅人我になつかしき   虚子
  雪散るや千曲の川音立ち来り  臼田亜浪
  秋立つや大樹の上の流れ雲  牧野耕雨
  郭公や何処までゆかば人に逢はむ  亜浪
  雲水の草笛哀しちくまが和    旅人
 尚、歌碑には、
  貞明皇后:夏の日のながき日ぐれし桑畑に
          桑きる音のまだたえぬかな
  若山牧水:かたはらに秋くさの花かたるらく
          ほろびしものはなつかしきかな
 藤村詩碑
     小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ…
Photo
北国街道沿いの句碑
  秋晴の浅間仰ぎて主客あり    虚子
  夜を荒れて火を見し浅間冴返る  曲水
  桜狩きとくや日々に五里六里    芭蕉
  柴を負ひそれにしめじの籠を下げ  虚子
  立科に春の雲今うごきをり      虚子
  人々に更に紫苑に名残あり     虚子
  風花に山家住ひも早や三年     虚子
  浅間嶺の月凉しけれ影を追ふ    亜浪
 歌碑には、
  若山牧水:幾山河こえさりゆかば寂しさの
            はてなむ国ぞけふも旅ゆく
 藤村詩碑
   昨日またかくてありけり今日もまた
           かくてありなむこの命なにをあくせく…
郊外の句碑
  今は雲を噴く火の山の若葉なり  荻原井泉水
  郭公や薬師立たせる山の霧     亜浪
  山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉
  ちち母の菩提のしだれ桜かな   宮坂古梁
  精霊も立ちふる廻の月夜かな   一茶
 藤村詩碑
   まだあげそめし前髪のりんごのもとに見えしとき
      前にさしたる花ぐしの花ある君と思いけり
高峰高原方面への道に沿って
  ふるさとは山路がかりに秋の暮  臼田亜浪
  秋たつや呼べばうなづく人の問  小林葛古
  あけぼのや露とくとくと山桜       亜浪
  親玉の後の子玉やシャボン玉   正木不如丘
  穴城に名ある小諸や虫の声       不如丘
  雨晴れて楢の若芽の銀色に    丸山晩露
  稲妻やびつくりさせてあとのなき     葛古
  五月雨や線香立てしたばこ盆       一茶
  山国の蝶を荒しと思はずや        虚子
  昼の蚊やだまりこくつてうしろから     一茶
  遠山に日の当たりたる枯野かな     虚子
  小諸路や茶によばれゆく夜のおぼろ 伊東深水
  遠峰の高嶺々々に夏の雲         虚子
  小諸とは雨の涼しき坂の町       富安風生
  凍る嶺の一つ嶺火噴きはばからず  橋本多佳子
  おく霜や浅間の峰にあかねさす       深水
 歌碑には、
  若山牧水:小諸なる君が二階ゆながめたる
            浅間のすがた忘られぬかも

旅情をかきたてる句碑(詩歌碑)が多く居並ぶ。時間が取れたら追って見たいと思うが何処まで出来るか。

世の中が便利さと早さを追い求める時代にあって、このような詩歌・俳句の先人の後を追ってみるのも、心に潤いを齎してくれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 2日 (月)

再び海野宿と懐古園

5月末に再び海野宿を訪れる。
春には春の、秋には秋の風情を伴って北国街道・海野宿はその時々の顔を見せてくれる。以前にも記したように此処は北国街道の宿場町でその当時の面影を色濃く残している。
Photo丁度季節も五月、若葉の季節とあって宿場の道の真ん中を流れている小流れには清冽な水が流れ各家ごとに架けられた石の橋の周囲には色とりどりの花が咲いていた。
また各家ごとに濯ぎ場が設けられ、今は殆ど使われていないようだが嘗ての景はそのままに残されている。
卯建や通常海野格子と呼ばれる格子戸それに蚕飼の跡を残す気抜き屋根が景観を添えている。

今度の訪問時は何時もの道と異なり千曲川の南岸(左岸)を通った。その途中で思わぬ景に出会った。彩雲と呼ばれるものに略近い物で、その虹のような美しさに曳かれ、車から降りて暫く見とれた。或いは「環水平アーク」と呼ばれる横に真っ直ぐ伸びた虹の一種かもしれない。
Photo_2
当日夜の信越放送のニュースにもこの模様が放映されたが、気象条件がある条件に合致した時に出る現象で極めて珍しい景であるとのこと。偶々その時に、そのような場に出会わせたので見ることが出来た。

その足で小諸の懐古園に行く。海野宿から車で高だか20分くらいのところ。此処も万緑に覆われていた。特に小諸城址の石垣と若葉が美しい。此処は島崎藤村でも有名である。因みに草笛或る出会い続、或る出会いを参照されたい。
Photo_3
此処で、思いがけず全く久しぶりに郭公が鳴くのを聞いて懐かしかった。比較的近くで枝移りしては鳴いていた。
   ふるさとに来て故郷の閑古鳥
   郭公や浅間の嶺にけむり立ち
   郭公やしみじみ故里にある想ひ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 8日 (木)

文化遺産

浜松市の中心部は先の大戦で殆どの建物が消失したがその中で、残骸として残った建物を修復したものは何箇所かある。

その中で消失を免れほぼ完全な形で残った建物に靜岡銀行・浜松営業部(旧遠州銀行本店)がある。その建物の特徴はイオニア式柱頭と呼ばれる渦巻き型柱頭を持った4本の柱である。イオニア式柱頭 Ionische Kapitell は、柱の上に左右対称になった渦巻きがのり、その上にアバクスがのるといった構造で、アテネのアクロポリスではこのイオニア式とドリア式の柱が巧みに配置されている。

Img_3688
以前(2006/4)、本ブログで紹介した時には、その建物の前にバス停の屋根があってあたら文化遺産の景観も台無しだった。しかし今度リニューアルした建物の前からは、街路灯一本だけが残されたものの、それ以外のものは完全に撤去され建物の全貌が望まれるようになった(写真)。

『靜岡市役所も設計した明治生まれの建築家・中村與資平が県内で始めて本格的に手がけた建物で、県内近代建築の記念碑的存在である。ギリシャ、ローマ建築の流れをくむ正統古典主義の造りで、中村の代表作である。』と、靜岡新聞(2008/5/8)には紹介されている。
同紙によると『建築は昭和3年、県内初の鉄骨鉄筋コンクリート造りで堅固な構造が吹き抜けの大空間を可能にした。当時、県下随一と言われた総工費45万円をかけた最高レベルの建物』とも記されている。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年4月30日 (水)

長野県立歴史館

私は長野市郊外の杏の花で全国的にも有名な農村に生れた。今は長野市になっている。
私の子供時代は4月ともなれば一村は杏の花に埋まり屋根は花に浮いたように見える。全国から画家が集まってきてあちこちの辻に画架を据えて絵を描いていた。しかし今は村の中を新幹線が走り、農地は住宅地に変貌し杏の姿は掻き消え、出現した団地の名前に杏花台という名前があって辛うじて杏の花の名残を留めている。

そんな事もあって杏の花というと強い郷愁を感じる。所でもう一箇所、長野市に近い千曲市に「あんずの里」と呼ばれる杏で有名な森という集落がある。
杏の花はいつも4月の18日頃を中心に咲くのが普通。
1 22日に確かめもせずに森へ杏の花を見に出かけたが今年は何時もの年より10日も早く咲いてしまったとかで行った時には一花も見ることが出来ず、蘂だけが残っていた。残念。
その集落の中に「あんずの里工場」があってジャム等の加工をして全国へ発送している。杏のソフトクリームをご馳走になって帰って来た(写真はクリックで拡大します)。

其処を出て真近に「長野県立歴史館」がある。1994年11月3日にオープンして現在に至っているが、信州はヴェルム氷河期のナウマン象と野尻湖人の暮らしから始まって現在にいたる3万年の歴史があり、その間の無数ともいえる資料の中から厳選された資料が展示されている。
1_2 原始・古代・中世・近世・近現代の5つの時代区分に従って主要なテーマの重点展示をしている。
又、歴史的なトピックが理解できるような工夫を凝らして、所謂周辺展示をしていると歴史館では言っていた。
所蔵資料が豊富で、保存上の必要もあって時折り展示替をしているので全資料を同時に見学は出来ないので展示替の時期と内容を確認して行く必要がある。
1_3 歴史館の上方には「科野(しなの)のクニ・森将軍塚古墳」を望見出来る。
・先土器時代のナウマン象(レプリカ)と黒曜石
・縄文時代の土器や石斧、土偶、装飾品等々
・縄文時代の住居や衣類、各種石類等々
・弥生時代の農具、石器、銅器、勾玉等々
・古墳時代の文鏡、勾玉、金銀銅環、装身具等々
・飛鳥時代の木簡や国印等々
・平安時代の土器や通宝、陶磁器、鉄鏃等々
・以下、鎌倉、室町、戦国、各時代を経て現代に至るまでの諸物がぎっしりと展示されその内容の濃さと範囲の広さ・深さに圧倒された。
見終わって些か疲れた。

ところがその展示品の中に思わぬものを見つけた。
1_4
明治時代のヤマハ・オルガンである。燭台付きのオルガンで「静岡県・真島ふみ氏寄贈」としてあった。最初、ブランド名がはっきりしないので係りの女性に尋ねたら親切に調べてくれてヤマハのオルガンである事を確認した。大正初期のヤマハ・オルガンを九州の旅先で見つけた時にも似た感動を覚えた。

ヤマハの創業は1887年(明治20年)11月で、オルガンの製造が発端であるから明治のオルガンといったら極初期の製品であることに間違いはない。
オルガン・リードの自動調律機の設計などをしたことのある私にとっては身近な楽器でもあったオルガン、それも明治のオルガンとあっては、先輩たちの苦労の跡も偲ばれて想いを深くした。

杏の花は見損なったが、それを償って余りあるものを見ることが出来て感動した。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年9月28日 (金)

故郷の秋祭り

人はみな故郷を持っている。故郷を離れて何十年経っても人は、嬉しいにつけ哀しいにつけ故郷を想う。

私が幼かった時分は、母に手を引かれて産土神社の秋祭りに行った。
長じてからは母の手を引いて秋祭りに行った(故郷を出てからも年に一度は墓参を兼ねて帰郷していて、たまさか帰郷した時、秋祭りに合致した時の話であるが)。
それだけに、故郷を離れてからも、幼い時から親しんできた秋祭りの記憶は鮮明に残っている。神楽囃子、獅子舞、花火等は聞いても見ても未だに心が躍る。

私の故郷の産土神社は長野市安茂里(旧安茂里村)の「犀川神社」。毎年9月21日には、秋祭りが行われる。最近は祭りの日を日曜日や祭日に変更する例が多いが、犀川神社の祭りは伝統を守って9月21日を変えない。

犀川神社の太々神楽は、長野市の無形文化財に指定されている。奉納される神楽獅子舞は、伊勢代神楽獅子舞系に属し、御神楽と獅子舞とによって形成されている。天保14年(1843)の松代藩への届出文書に依ると、宝暦3年(1753)頃には既に実施していたとされているので、250年以上の歴史を持っていることになり(関連資料に依る)、伝統と格式を重んじている神楽である。神楽囃子の笛の調べも、太鼓の打ち方も、間(あい)の歌も全て作法が決まっていて一糸乱れない。それを親から子へ、子から孫へと受け継いでいる。

今年は9月17日に故郷へ帰った。その夜、懐かしい神楽囃子が何処からとなく聞えてきた。祭りの日が近づいているので練習をしているに相違ない。家の兄と一緒に練習風景を見に行った。大日堂と呼ばれる、お堂を兼ねた公会堂へ行って見ると今将に練習の最中だった。練習中の、笛も太鼓も獅子舞も、知らない顔ばかり。しかし兄からあれはAさんの息子さんとか、Bさんのお孫さんとか聞くと途端に身近な人になる。Photo

太鼓は、大太鼓・締め太鼓・小太鼓と三種類があって夫々の笛の音にあわせて打ち分けられる。当日の練習は大太鼓と締め太鼓だった(写真)。

は(写真)、神楽が出発直前の時、神社に向かって進んでいる時、社前で獅子舞を奉納している時、神社から帰る時、帰りついた時の調べと分かれており、聞いただけで神楽の位置が判る。
Photo_2 遠くからだと、笛の音より先に、太鼓の音がまづ聞えてくる。然しその太鼓の打ち方で矢張り神楽が今どんな位置に居るかが判る。笛の音が聞えてくるともっとはっきりする。
又、獅子舞の曲だと今どの辺を舞っているのかも推定出来る。要はそれ程伝統的に一糸乱れず継承されていると言う事であろう。

Photo_3
Photo_4
9月21日の祭り当日には、小西・大門・差出組の神楽三台が境内に並び、獅子舞は「三番叟」の奉納から始まる。この三番叟は代々小西組が(宮前の地と言うことから)担当する事になっている。
ついで三人立ち(獅子頭に1、母呂に2)の「長母呂」、続いて「曲獅子」が三組揃って演じられる。写真上は長母呂の練習風景。
Photo_5
尚、三番叟は、神楽獅子舞と能楽の「翁(おきな)」の白尉(はくじょう)とが結びついて完成された神楽獅子舞三番叟である。写真は1995年の祭り当日のもの。当然今も全く同じいでたちで同じ舞を奉納している。舞手は一人立ちで長袖朱色の襦袢を着て裾を端折り、浅黄色の股引に白足袋を履き、獅子頭をかぶり右手に鈴、左手には扇を持ち囃子にあわせて重々しく舞い始める。

神楽囃子には、三番叟・長母呂・曲獅子のほか勇(いさむ)・角付け(かどつけ)・寄せ・片拍子・乱れ拍子・丸拍子・かんから獅子・新拍子等々があり、それに合わせた太鼓と独特の間(あい)の歌が入り、獅子舞が奉納される。

練習も終盤になった。名残惜しかったが余韻を胸に帰宅した。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2007年5月31日 (木)

醒井宿

5月27日(海軍記念日)に、近江の国は醒井宿(さめがいじゅく)を訪れた。

醒井宿(滋賀県米原市)は、中山道61番目の宿場で、JR醒ケ井駅前の国道21号線とその南側を走る名神高速道に挟まれた地域を通る旧中山道に沿った比較的狭隘な宿場町である。
資料に依ると、「古代からの交通の要衝であり、「日本書記」の日本武尊の伝説に登場する「居醒泉」が醒井の地名の由来であるといわれる。豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いない。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤している。」とある。

此処は京都と江戸をむすぶ中山道の宿場町で、特徴はなんと言っても町並みを流れる清冽な地蔵川の流れである。
Img_10562
北国街道・海野宿は街道の端を比較的狭い水路が流れているが、ここ醒井宿の水路は、宿場の道の南の縁を、その名の通り川として流れ、中山道を行く旅人の疲れを癒すと共に、川には戸毎に石の橋が架けられ、濯ぎ場が設けられて里人の生活手段の重要な位置を占めていた。「近江名所図会」には、地蔵川べりに床几で一服する旅人が描かれている。
Img_10612

写真は宿場の町並みの一部を示し、写真の道路の右手に地蔵川が流れている。川をはさんでその右にも家並みが連なっている。この宿場跡には、居醒の清水(日本武尊の像がある)、地蔵川のバイカモ(梅花藻) 、醒井宿資料館 (醒井宿問屋場(旧川口家住宅)、醒井郵便局局舎)等々をはじめ旧宿場の町並みが続き往時の雰囲気を色濃く滲ませている。

川にはハリヨ(トゲウオ科・イトヨ属)という体長4~7cmのトゲのある魚が棲んでいる。里人は目ざとく見つけるが私には遂に見つけることが出来なかった。水温20度以下の清流に生息している。
バイカモ(沈水植物、キンポウゲ科)は、水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年生水草で、掌状の葉が特徴で水面上に梅花様の白い花が咲く。バイカモとハリヨは共存状態にある。
Img_10512_1
旧醒井郵便局は1915年、米国出身のウィリアム・メレル・ヴォーリスの設計によって建てられた木造2階建の擬洋風建物で、現在の建物は1934年に改装されたもので基本的な内部構造は創建時の建物を利用している。1998年に国の登録文化財に指定されている。

問屋場は、宿場を通行する大名・役人に人足や馬を提供する事務所で物資運搬と言う見地からすると宿場では最も重要な施設であったことは間違いない。醒井宿ではこうした問屋が7~10ケ所も設けられていた。

土地の人々は親切で、宿場のことや産物、見所等に就いて聞いて見ると、詳しく説明してくれ、わざわざ案内してくれたり、自分では分からないことがあると隣の人や、旧家の長老の所まで聞きに行ってくれる。古き良き時代の名残が色濃く残っている。

醒井宿は又、俳人たちがよく訪れる所と聞く。帰路は、奥の細道むすびの地と呼ばれる大垣で芭蕉時代の俳人を偲んだ。

日本各地には旧宿場町が歴史的建造物群として保存されて居る所が多く見られるが、文化的遺産として大切にしたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月21日 (月)

小江戸

信州の鎌倉」とか、各地に点在する「小京都」等は夫々の特色が冠地名との関連で表されているが、「小江戸」と呼ばれる地もある。

小江戸こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、埼玉県川越市があげられる(wikipedia)』。

川越の土蔵造りの店舗は、所謂「蔵造り」として有名で類焼を防ぐ為の巧みな耐火建築で江戸の町屋形式として発達したもの。蔵造りの建物が並ぶ一番街は江戸の面影を色濃く残している。
Photo_28
Photo_30 今の東京には、江戸の昔の日本橋小伝馬町、室町などにあった蔵造り問屋街の遺構は全く無い。その歴史的面影をここ川越に見ることが出来る。
重量級の黒漆喰の壁、大きな鬼瓦等はその一端で、その情緒は多くの俳人を引き寄せている。
写真上は一番街の風景、左の上は亀屋、下は大澤家住宅を示す。
Photo_31 亀屋は店蔵と隣に袖蔵が並び、巨額の費用を投じて造られたもの。
又、大澤家住宅は国の重要文化財に指定されている。
この町並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、高さ11m以上の建物は制限され、電柱は地下へ移され、今後は街灯を工夫される由である。

一番街の通りから一歩奥に「埼玉リソナ銀行」の瀟洒な建物(国の登録有形文化財)があり又、「残したい日本の音風景百選」に選ばれている「時の鐘」は更に数軒分、通りから奥にある(写真の上と下)。
Photo_34 リソナ銀行は、スマートな白レンガ造りの西洋建築で鉄骨3階建て、青銅ぶきのドーム型の塔屋で国の登録文化財に指定されている。蔵造りの町並みと対照的であるがその町並みになんとなく溶け込んでいるのが面白い。

「時の鐘」は約400年前から川越のシンボルとして今も6,12,15,18時の四回、鳴らしている。櫓の高さは奈良の大仏と同じ高さだそうである。現在のものは4代目と言われ、鐘の鳴る時間にはそれを聞く為に塔の周りには人垣が出来る。
Photo_35 この他に、見落せないものに、川越城本丸御殿と喜多院がある。

川越城本丸御殿は、明治維新以後次第に解体されてしまったが今も本丸御殿の玄関と大広間が残っている。

川越大師として知られる「喜多院」は、徳川家光誕生の間や春日局化粧の間、更に境内には五百羅漢や多くの文化財や史跡がある。
Photo_37 Photo_38

これらの町並みや史跡を結ぶ観光交通機関としては、「小江戸巡回バス」や「観光用人力車」がある。

巡回バスはボンネットが大きく張り出したレトロな感じの懐かしいバスで、一日乗り放題で500円というのもよい。
観光用の人力車は、主だったところを説明つきで廻ってくれる。こんな乗り物を利用するのも情緒がある。

此処は絵になる風景であり、俳句になる風景である。
このような町並み保存には、この地を含めて例外なく地元の熱意や努力や忍耐が感じられる。
車社会に合わせて道幅を20mに拡大しようとした都市計を中止させ、建物の高さ制限、電柱の地中化、その他の工夫等がこのような景を確保していることは間違いない。
それでも一番街は通りに面しているので車の往来があって多少気になるところであるが、それを割引しても尚江戸の原風景が楽しめる。
    夕焼くる川越宿や時の鐘
    江戸の世の店蔵今に夏燕

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧