2013年4月11日 (木)

ヤマハレディースオープン葛城

ゴルフをやらなくなって早10年以上経つ。
ゴルフのTV放映も最近は余り関心が無い。

しかし一つだけ例外がある。嘗て私のホームコ-スの一つだった葛城ゴルフ倶楽部が、毎年4月上旬に行う「ヤマハレディースオープン葛城である。
今年も4月4,5,6,7の4日間熱戦が行われた。しかし私は現地に行く元気はないので、専ら新聞のスポーツ欄と最終日のTV放映によって経過を知った。

何事も、舞台で踊る人とそれを支える舞台裏の人とが居る。
特にゴルフ競技の舞台裏を支える人たちの、気象条件収集・フェアウェーやグリーンの整備・バンカーの整備やラフの草丈・スタート時間の設定やスタート方法の決定・進行速度と対応・選手やマスコミとの対応・表彰を含めた行事の設定・それにギャラリーたちの誘導等々骨身を削るような神経と体力を使う。そんな舞台裏に支えられて競技は行われる。

今年もそんな中で進められたが、特に6,7日は強風に見舞われ、選手も大変だったが舞台裏も大変だったようだ。当日朝の我が家の気圧計は、6日は990hp、7日は982hpを指していた。これは台風並みである。

葛城ゴルフには山名コースと宇刈コースの二つがあり、特に山名コースは難コースと言われ、女子選手で、今年も4日間を通してアンダーパーを出したのは上位16人だけだった。

7日のTV放映を見て、あの強風の中をさすがプロだなと感心させられた。風で曲げられる球道、前に降った雨で固くなったバンカー、グリーンの上には強風で飛んでくる木の葉がパットの線上にまで散り、選手は丹念に拾い上げるがまごまごすると又飛んでくると言う悪条件の中での戦いだった。

結果は昨年7月のプロテストに合格したルーキーの比嘉真美子(19)がプレーオフで大江香織テレサ・ルー(台湾)を下しツアー初優勝、優勝賞金1800万円を獲得した。
比嘉は首位と5打差の12位からスタート、70で回り、この日70の大江、71のルーと通算284(4アンダー)で並んだ。プレーオフは18番ホールで行われたが1ホール目では決着がつかず、2ホール目で比嘉がバーディを奪い2人を退けたが、文字通り死闘を演じた名勝負だった。

プレーオフを戦う前に比嘉は、『昨秋の富士通女子で、優勝争いを意識して普段なら刻まないホールで刻む「守り」の姿勢で失敗した経験から、「今日は絶対に自分を曲げない」と、心に誓ってプレーをした』と比嘉は語った。

日経新聞によると、6位に終った横峯さくらが、『厳しいコンディションの中、2日続けて1ウェーという競技運営に納得がいかない様子で「自然との闘いはわかるけど、(アウト、インスタートの)2ウェーにするとか配慮があってもいいような」と口をとがらせた』と書いている。当日の気象条件もあり、競技運営に就いても色々意見はあろうが、彼女の将来の為にも考えさせられた。

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2009年10月31日 (土)

クライマックスシリーズ

今日(31日)からプロ野球日本シリーズが始まる。
セ・リーグのペナントレーズに優勝し、クライマックスシリーズ(CS)を勝ち抜いた巨人と、同じくパ・リーグ優勝で、CSを勝ち上がった日本ハムの対戦となる。

考えてみるとおかしなものだが、1年間を戦って優勝したチームが、たった7戦のCSで姿を消してゆくのも現実的には起こる問題で、兎に角CSを勝ち抜かなければ日本シリーズへの切符が手に入らないのが現実である。
そのような機構の中で、特に印象深いのは巨人の足取りである。
あの春先の日本中を湧かせた、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に、原監督率いる日本チームが、宿敵との決勝戦で、イチローの劇的なクリーンヒットで延長戦を制し、再度日本に優勝を齎したときの感激は忘れない。

このWBCに中日は12球団中、唯一選手を出さずペナントレースに備えた。勝敗がすべてというライバルに対抗するように、巨人の原監督は「ファンを魅了してこそプロ」との理念を掲げ、そして勝った。
且つその優勝を目の前にした中日の落合監督は、CSでの雪辱に向け「見くびるなよ」と息巻いた。しかし結局は中日は巨人にCSでも惨敗した。

私は無党派だがこの経過は矢張り記憶に残る。、大方のプロ野球愛好者は勿論、WBC優勝の感激を味わった者にも、夫々の想いの残る経過であったと想像する。
人の記憶も何とやら、終わってみるとやがて時と共に忘れ去られてゆくであろう。

そして今日からの日本シリーズ。興味は尽きない。

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2009年8月29日 (土)

都市対抗野球

社会人野球のメイン・イヴェントと言えば、毎年8月末から行われる都市対抗野球である。今年も8月21日から9月1日まで12日間、東京ドームで開催されている。
今年は節目の第80回記念大会とあって、例年より4チーム多い36チームで行われる。

都市対抗とは言うものの、実質上は企業対抗戦になっているため、壮絶な闘いと華麗な応援合戦を繰り広げる割には、毎日新聞以外では、比較的こじんまりとした報道しかされないのが実情である。TVなどでも決勝戦以外は放映される機会が少ない。特に今年は選挙期間とダブってしまったために、影が薄い感がある。
今年は景気低迷の影響から休部する企業もあり、名門日産自動車も今年を最後に休部することが決まっている。

そんな中で、今年も浜松市の代表としてヤマハが出場する。ヤマハ野球部は今年創部以来51年となる。都市対抗では、第43回(1972年)・第58回(1987年)・第61回(1990年)の3回優勝している。
私は過去の経緯もあり、特に思い入れが強く、今年は是非応援に行こうと思っていた。一回戦は都合で行けないものの二回戦(8月28日)は試合開始時間が11.00からと言うこともあって其処に決めていた。丁度其の試合が皇太子殿下のご観覧試合となったのは偶然であった。相手チームは鈴鹿市代表の強豪本田鈴鹿。
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写真はヤマハ側から見た景で、応援合戦も華麗に展開された。(写真はクリックで拡大します)
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試合結果はヤマハの4番佐藤の、ソロホームランと劇的なさよならホームランで、投手戦を僥倖にも勝ち抜いた。写真は最終スコアーボードを示す。写っている笑顔は殊勲の佐藤選手のインタビュー。
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この結果ヤマハは8強の内の1チームとして、準々決勝へ駒を進めることになった。

嘗てヤマハも社内の雰囲気が湿った時がある。そんな空気を吹き飛ばそうと、野球後援会内の同志が語らって、野球を通じて空気を盛り上げようと手を打ったことがある。

その一端として、浜松駅長と直に話し合って新幹線で応援専用列車を走らせたことがある。其の列車を定員近くまで持ってゆくために動員を掛けた。勝ち進む度に応援者が入れ替わる。
浜松から出て掛川に停車する以外は東京までノンストップで走らせるために、当時の浜松駅長・大物のOさんが、中央と掛け合ってダイヤを組んでくれたことは忘れ難い思い出である。以後は其の方法を継続し、他社もそれに倣ったものだが、今は別方式になり、応援専用列車は語り草になっている。
グラウンドとスタンドの一体感は、勝っても負けても感動的で、社内に残った人たちにも伝えられ、野球を通じて社内の空気の盛り上がったのを実感した。

そんな過去のことも懐かしく思い出しながら、両市代表の熱戦と、応援合戦を楽しみながら観戦した。

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2005年5月 3日 (火)

ウォーキング

健康管理の一環として、毎日歩くようになってから既に20数年になる。朝の早いのが苦手な私は、現役時代は会社から帰ってから、又一線を退いてからは午後の適当な時間を選んで歩いている。

20数年前はジョッギング全盛時代で、或る年齢の人までジョッギングしていた。しかし私はジョッギングには、ある種の疑念を持っていた。それで自分なりに考え、且つ高年齢まで続ける事を前提に歩く事にした。雨天を除いて今も続けているが流石に当初よりは多少、歩速ペースが落ちて来ているのはやむを得ない。歩くコースは専ら平地。

2004年早々、旧友から佐藤嘉尚著「歩々清風、金子智一伝」(平凡社)なる書を紹介され、世の中にはスケールの並外れて大きい立派な人がいるものと感動した。ウォーキング・クラブやユース・ホステル誕生の生みの親だけでなく、インドネシア独立の実質上の原動力になった金子氏の話である。常に夢・理念を持ち続け、難関を切り開いてゆく、金子氏の並外れた行動力に圧倒され、胸を揺さぶられる感動を覚えた。その金子氏が残した遺産の一つがウォーキングクラブ。此れに力を得て、これからも私はウォーキングを続けてゆこうと思っている。

私がウォーキングを始めた当時は、ウォーキングの為に歩いている人は殆ど居なかったが、最近は老いも若きも盛んに歩いていて、町は遊歩道を整備し直すなどして、更に歩きやすくなった。只、最近は犬連れの中年女性が多くなり、本来ならば人間の為の遊歩道を数人の女性が一列横隊で道一杯に広がり、しかも声高に喋りながら歩いて来るのが目立ち始めた。少し足の悪い、ご老人などは、そんなのに出会うと、横へ避けて、お犬様と女性共を通してから歩くのが目に付く。もう少し謙虚に他人に迷惑をかけない位のマナーは持って貰いたいものと思っている。

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