2014年12月31日 (水)

2014年を振り返って

2014年も今日で終わり明日からは2015年となる。

何時ものことだが、一年を振り返って見たとき、この一年間に私は一体何をして過ごしたのかと思うことが多い。自分では一所懸命にその日その日を励んだ筈だが、振り返ってみると何か平凡な一年だったように思う。
しかし、自分の歳を考えると、効率という点から考えても、平凡に暮らせるのは幸せなことではないかと思うようになった。

只何か大きな変化があると、その一年は忘れがたい一年になる。

Img_5616_2  今年は、既報のように或る音楽会に出席し、合唱に、合奏に取り組む児童たちの真剣さを何と美しいものかと思ったら不覚にも涙ぐんだ。

 音楽会の一部が終わり二部が始まる前に、校長先生が今日の音楽会にからむ或る感動的な話をしたが、写真はその話を聞く児童たちで、その後方(写真では見えない所)には父兄たちや近隣の人たちも居て熱心に校長先生の話を聞いていた。音楽会はそんな経過もあって盛り上がった。

 私はこの日の感動を忘れない。それと共に人間は一人では生きられないということを児童たちを通じて感じた。そして活き活と生きていく上にある種の感動が必要なことも思った。
感動は長続きしない。集団にあってはベクトルを合わせたり、感動を催す機会やその仕組みを作ることも必要なことではないかと思った。さて個人は。

明日から新しい年が始まる。Tomorrow is another day. である。

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2014年1月30日 (木)

デコちゃんの「わたしの渡世日記」

映画「24の瞳」「細雪」「喜びも悲しみも幾年月」「カルメン故郷に帰る」等々多くの映画に出演し、美貌と名声をほしいままにした高峰秀子(愛称デコちゃん)。其の高峰秀子著「わたしの渡世日記 上・下巻」(文春文庫)、2冊で770ページに及ぶので多少辟易したが、思わず引きずりこまれて読んだ。彼女が養女に貰われてくるいきさつから、偶然のことから5歳で映画の子役になり、それ以後も芸能界、とりわけ映画の世界で生きてきた半生が描かれている。
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彼女の経歴はさぞ燦然たるものであろうと思っていたが、期待は裏切られた。実父と養父それに第3の父親として名乗りを上げた東海林太郎を始め、数奇な運命を辿って転々とし、ハイエナのような養母、ダニのような縁故者等にたかられて、稼いでも稼いでも吸い取られてゆく有様は、『なかにし礼著「兄弟」文芸春秋社刊』の中の、礼が兄に食い荒らされてゆくのと似て哀れである

そんな境遇の中で、正規の学校にも行かれなかったデコちゃんが、「わたしの渡世日記」の中で、惜しげもなく自分をさらけ出し、率直に自ら辿ってきた人生をこんなにも上手い文章で書ける筆致は一体何処から生まれたのかと思わず目を疑いたくなるほど人を惹きつける。勿論書き屋の書いたものでないのは、沢木耕太郎氏の「解説文」を見れば頷ける。

 

華麗な人脈には一驚する。一寸挙げただけでも、新村 出・谷崎潤一郎・梅原龍三郎・志賀直哉・宮城道雄・奥田良三・川口松太郎・藤山愛一郎等々を始め多士済々である。

勿論映画関係者の山本嘉次郎・小津安次郎・木下恵介・市川昏・成瀬巳喜男監督、特に養母によって仲を引き裂かれることになる黒沢明監督、夫となる松山善三との出会い。花柳章太郎・大河内伝次郎・森雅之・徳川夢声・滝沢修・原節子・三浦環・田中絹代・岡田嘉子・入江たか子・等々挙げればきりがない。

 日本初の総天然色映画カルメン故郷に帰る」は、今も鮮烈に私の記憶に残っている。「現在のカラーフィルムの感度は100以上だが、当時のアーサーはたったの6度、よほどの光量がないと感光しない。第一、2時間ほどの長編映画の色が果たして統一できるかどうかさえ危ぶまれる頼りなさだった」そうで、其の中で技術陣や演技者らの苦心談が披露されているが、私などはそんな苦労も知らずあの映画を楽しんでいたのを思う。


 沢木耕太郎氏は解説の中で『高峰秀子の文章を特徴づけるのは、他者を描く時の的確さと、自己を描く時の突き放した態度である。自分に対して決してベトついた書き方はせず、常に自己を相対化しようと努めている。それはごく一般的な女性の書き方とは際立って対照的な態度といえる。自分の苦しみや悲しみは諧謔を用いたり、照れて「ズッコケる」口調を用いることなしに語ろうとしない』と述べている。

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2013年5月26日 (日)

茱萸(ぐみ)の実

子供たちが幼かった頃から、社会人になった後まで、「真っ赤な茱萸紫陽花(あじさい)と」と言って、茱萸が真っ赤な実をつけ、また紫陽花が綺麗に咲くのを毎年見てきた。

然し茱萸の木は、新しい命にも書いたように、富田古老丹精の木であるが、富田さんも言っているように古木の為、この数年は実をつけることもなく、木自身はやがて枯れた。しかし其の根から新しい芽が出て新しい木に成長し新しい命が蘇った。

そして今年は可愛いらしい赤い実をつけた。
Img_4341 真っ赤な茱萸の実はたかだか10余粒だが、これから木が育つにつれて年々数を増していく楽しみがある。
天上から富田さんも喜んで見ていてくれると思う。
単なるそれだけの話であるが、人生や自然の摂理といったものまで感じさせてくれる。

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2012年5月31日 (木)

女のきつぷ(神谷美恵子)

NHKラジオ第2放送で毎日曜日朝、「こころをよむ」シリーズが放送されている。

4月から6月までは、森まゆみ氏の「女のきつぷ気風)」で、樋口一葉、与謝野晶子、宇野千代から始まって、全13回講座で5月27日は第9回、「神谷美恵子」に就いての講座だった。

この「女のきっぷ」を取り上げた趣旨を、まゆみ氏は概要次のように述べている。
『今まで近来の女性というと、門地と受けた教育、その人の業績、成功したかどうか、美人かどうか、華麗なる恋愛遍歴などに焦点が当てられてきたように思う。
そして「炎のように」「自分らしく」生きることの肯定のあとには「品格」に注目が集まったりした。
しかし品格と言うとどうしても上品、下品のように階級社会の価値観が持ち込まれる。……見せかけだけで、自分をさらけ出さない、慇懃無礼なあの山の手文化には、下町育ちのわたしはどうも馴染めない。これはまさに門地と学歴の社会だから。
そうじゃないところに素晴らしい生き方の人はいる。……ぎりぎりのところで人を助け、人を励ます。そんな女の人に共感する。云々』と、ある。

神谷美恵子と出会ったのは、ある時ふと立ち寄った書店に、みすず書房コーナーがあり、小難しい名の本が並ぶ中に、「生きがいについて」と題する本があり、その著者が神谷美恵子だった。立ち読みをしているうちに何か共感するものがあり、迷わず買った。1972年12月20日第19刷とあり、買ったのは本の裏表紙に1973年10月30日と記入してあるから今から約40年前になる。(写真はみすず書房刊「神谷美恵子著作集1.生きがいについて」より引用)

Photo それで知ったことだが、彼女の父上は、前田多門。文部大臣まで勤めた人。私が「大日本育英会」の育英資金を受けて進学出来たのは、終戦前年で、当時の大日本育英会会長が前田多門。今でもその資金を受けられたことに感謝している。
序に彼女の兄君は前田陽一で有名な仏文学者。NHKラジオのフランス語講座を担当していたのを記憶している。

その神谷美恵子は津田英学塾を出ながら、ある経緯があって東京女子医専に学び、彼女の半生をハンセン病患者のために捧げた。
岩波文庫に島崎敏樹著「生き甲斐」と言う本(記憶に間違いがなければ)があるが、彼女も医専時代に島崎敏樹と出会って精神科に興味を持ったのも一因ではないかと思う。

父上の勤務の関係もあり、幼時フランスに住んでいた時期があったので、長じても彼女は物を考える時にはフランス語で考えると、著書の中に記している。

私の家の近くに「聖隷エデンの園」という施設があり彼女も暫く其処にいたことがあると聞く。又、これも風のうわさだが、皇太子妃美智子様(現、皇后陛下)が皇室に入られてから種々のことで、美恵子とお話があったとも聞く。

1982年7月に娘から、神谷美恵子著「こころの旅」という本を送ってきた。私が「生きがいについて」を読んでいることは知らない筈なのに親子とも何か神谷美恵子に就いて同じような想いを抱いたのかもしれない。

神谷美恵子はこの多忙の中で、著作集13冊をまとめ、その他多くの翻訳本が岩波書店やみすず書房から出版されている。
1979年に65歳で急逝した彼女を、天はもっと生かして欲しかったとしみじみ思う。

森まゆみ氏の、神谷美恵子論を聞きながら色々のことを想った。

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2012年3月30日 (金)

新しい命

今から約50年前のある朝、突然家の前にトラックが停まった。

降りて来たのは、職場の先輩で尊敬する富田さん。「今度家を引っ越すので、良かったらこの木をお宅の庭に植えてくれませんか」と言う。
見れば大きな土の鉢をつけた、松の木、茱萸(ぐみ)の木、それに細葉の三本。

富田さんは、楽器の木製部品などの機械加工方法を次々と自動化する特殊技術の持ち主で会社にとっても貴重な存在で、後に黄綬褒章も受けている。
寡黙な技術屋で、曲ったことが大嫌い、上司に媚びるような人や、保身の術に長けた人とは口も利かないような一徹な所もあった純粋な人だった。

正規の学校を出ていないので、機械の設計図は必ずしも完全な製図ではなかったが、時の工作部門もそれを承知でちゃんと加工し、立派な機械に仕上げてくれた。比較的コンパクトな機械だがそれが実に良く働いてくれた。長年この部門で働いてきた人の知恵の結晶のようなものだ。

その富田さんの唯一の趣味は盆栽を始め、庭木をいじることで、庭には所狭しと植えられていて、時々植え替えたりするので、大きな木の根っこは土の鉢になっていた。

頂いた木は我が家の庭に立派に育った。その後我が家が現在位置に転居したので、その木も移転させた。
ご好意で頂いた木を枯らさないように植木屋も細心の注意で移植したので見事に根ついて、今も我が家の庭を賑わせている。

その木の内、茱萸(ぐみ)の木も老木化したが、根元から糵(ひこばえ)した枝にルーペで見るような芽が付いているのに気が付いた。

Img_2752 新しい命の誕生を目の当たりにしたように感じて、小さな芽が愛しかった。
芽は小さいがやがて葉が出、糵(ひこばえ)の幹も大きく育ってくれることを信じている。
富田さんも天上から見ていてくれるだろう。

松は今も門かぶりの松として、細葉も庭の一隅に生き生きと命を輝かせている。

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2012年1月18日 (水)

職責

『イタリア中部沖のジリオ島付近で1月13日夜に起きた地中海クルーズ中の豪華客船コスタ・コンコルディア(乗客乗員4200人)の座礁事故。行方不明者が船内に取り残されていないか懸命の捜索は17日も続いた。最悪の場合は船が完全に沈没する恐れもあり、時間との闘いとなっている。一方船長の無責任な行動が次々と明らかになり、関係者の怒りを買っている。

フランチェスコ・スケッティーノ船長(52)は乗客より先にジリオ島に避難したとして過失致死容疑で検察当局に身柄を拘束された。(係官が「船に戻ってください」と言っても受け入れなかったとも言う。)船から救助信号が発せられたのは浸水開始から約1時間後。乗客の一人が家族に電話で伝え、通報を受けた管轄の港湾監督事務所が船に無線で問い合わせたが船長は「大丈夫だ」と繰り返し、中々救助信号を出そうとしなかったという。船長は乗客乗員の救出が続いているのに船から避難したという。』

勿論年代も環境や状況も違っているとはいうものの、私は一瞬嘗てのタイタニック遭難を連想した。そして我々の年代ですら記憶から忘れ去られようとしている「佐久間艇長」の話を思い出した。

佐久間艇長の話はwikipediaによると、
『日本海海戦を戦った、佐久間 勉は、1908年(明治41年)11月、第六潜水艇隊艇長を命ぜられた。
1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中に沈没、佐久間以下14名が殉職した。その際、ほぼ全員が持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた者も潜水艇の修繕にあたっていた
佐久間自身はガスが充満し死期の迫る中、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、次にこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、遺言を書いた。

この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していた。』と、ある。

佐久間艇長は軍人であり、スケッティーノ船長は民間人という差はあるものの、職責遂行という観点から彼我の差は歴然としている。偶々此処に取り上げたのは船の事故または遭難に絡む職責の問題であるが勿論、業務等すべてに該当する問題である。

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2012年1月14日 (土)

潔癖さ貫いた硬骨漢

露の世に、芥のような人が群れる中、潔癖さを貫いた硬骨漢、城山三郎の生き方や著書は、多大な感動と、鬱勃たる勇気と、爽やかな読後感を与えてくれる。
日経新聞に「忘れがたき文士たち」と題する連載記事がある。その中に、城山三郎が取り上げられていた。

城山三郎は伝記文学で有名だが、彼は言う。(同記事から一部引用する)
『司馬遼太郎さんは「街道をゆく」を書いたが、伝記文学は「人間をゆく」ことだと思う。自分とは別の人生、男のロマンを追体験できる。人間は一度しか生きられないが、何人もの人生を生きられる。それが伝記文学の魅力ですね。』

事実、『「落日燃ゆ」は、昭和天皇を守る為に進んで罪を被り、東京裁判で民間人として唯一死刑になった広田弘毅を、
男子の本懐」は昭和初期に右翼の凶弾に倒れた浜口雄幸と井上準之助を、
粗にして野だが卑ではない」は勲一等を固辞した石田禮助を、
官僚たちの夏」は通産官僚、佐橋滋が国家のために、時の総理を痛烈に批判した事実が記されている。』

『城山三郎自身も潔癖だった。少年時代に軍神杉本五郎中佐の「大義」を読んで愛国少年となり「お国のために尽くそう」と敗戦の3ケ月前に海軍特別幹部練習生に志願入隊した。17歳だった。しかし憧れの帝国海軍は大義の世界とは異なり腐敗していた。早朝から夜更けまで、こん棒で殴られ、悪夢の日々を過ごした。
敗戦後、指導者たちは豹変して民主主義を唱え始めた。「軍隊で堕落した組織にいじめられ、敗戦でそれまで信じてきた忠君愛国の思想が間違いだったとされ、国家から二重に裏切られた。個人がどんなに頑張ろうとも指導者が方向を間違えると国は滅びる。つらい戦争の体験だけは遺して置きたいと思った。』
そして指導者に厳しい眼を向けるようになった。

日経新聞に「私の履歴書」の記事がある。城山三郎も掲載される予定になっていたが、執筆途中、高熱を発して緊急入院し、記事の半分を書いたところで他界したのは返す返すも残念だ。
未完の絶筆「私の履歴書」は「文芸春秋」に掲載されて「嬉しうて、そして……」(文春文庫)に収録されたと聞く。
「私の履歴書」は、『城山自身の文学の原点である戦争体験について多くの筆を費やしている。国民が十分な知識を得られないままに無謀な戦争に突入したこと、「水中特攻隊」など信じられないような兵器が編み出され、青年たちを次々と死なせようとしたこと……。「腹が立つより、悲しくなる」と書いていた。』

かくいう我々も、戦争が勃発した時、純粋に、強いて言えば根拠も無いまま、日本は必ず勝つと信じて疑わなかった。
戦時中、理工系学徒として兵役延期になっていた我々は、学徒動員はされたものの、軍隊生活も、軍隊の内部事情も、戦争体験も無く終戦を迎えた。そして後から彼我の戦力比較や、戦略比較を知ったが、それはあくまで戦後のこと。

潔癖さを貫いた硬骨漢、城山三郎の生き方に学ぶことは、これからの日本のあり方に就いて考える一助になることは間違いない。

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2011年1月 4日 (火)

年頭所感

年頭に当たり、思い出す好きな詩がある。

サムエル・ウルマン(Samuel Ullman)の詩の中の一つに「青春」と題する詩がある。

一見、単純、無邪気とも言えるエロスの世界にも映るのだが、ウルマンの他の詩を読んでみると、彼の心にも深いタナトスのひだがあったことを感じる。だからこの詩は、人々の心を捉え、人々に勇気を与えてくれる。

以下に、松永安左エ門訳と伝えられる「青春」の詩の抜粋を紹介する。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ(Youth is not a time of life;it is a state of mind.)。
逞しき意志、優れた創造力、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない
理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。(中略)

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。』

「青春」は、我々の胸奥に深く秘められ、適切な言葉とならない想いを歌い上げ、いつか夢に見たが言い得ない感情を揺さぶる。

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2009年9月24日 (木)

吉行淳之介

浜松から比較的近い原発のある浜岡町(現御前崎市)に宮城まり子創立の「ねむの木学園」があった。現在は掛川市郊外のなだらかな丘陵に移転している。
彼女の名前を聞くと直ぐに思い出すのは吉行淳之介で、かねてから彼の生涯には興味があった。

そんな時、旧友からさりげなく薦められたのが、佐藤嘉尚著「人を惚れさせる男 吉行淳之介伝」(新潮社)である。
Photo 著者は、かつて「歩々清風 金子智一伝」(平凡社)で、インドネシヤ独立の陰の功労者である金子智一を紹介した著者である。私も感動して読んだことがあるので、同著者の吉行淳之介伝には興味がある。

『大正13(1924)年4月13日、吉行淳之介は岡山市桶屋町43番地で、父栄助と母安久利の長男として生まれた。栄助は自分の本名の漢字を嫌って「エイスケ」と名乗り、安久利も後に「あぐり」と名乗るようになった』から始まるこの伝記には、著者自身も時々顔を出すことによって、淳之介像をより浮き立たせるように工夫されている。

父エイスケは天才肌の一面を持つ作家だったがその経緯の中で,十分才を発揮できぬまま34歳の若さで台風のように逝った。

母あぐりは、終戦まもなく師匠山野千枝子の勧めで、戦争未亡人や戦災に遭った女性たちに美容技術を教えることになり、以後、美容師として次第に世間にも知られるようになる。現在は100歳を越える最高齢の美容師でもある。

淳之介は、昭和20年4月旧制静岡高校から東京帝大文学部英文科に入学した。後に妻となる平林文枝と出会ったのは、『何時召集令状が来るか判らない死と対決している時代である。「僕はまだ童貞という濡れたシャツを脱ぐことさへ出来ていなかったのだ」淳之介はせめて死ぬ前にそのシャツを脱ぎたいと切実に思っていた。』そんな時期に出会ったのが文枝だった。
母あぐりが病に倒れた後、和子も含めて同居し文枝を入籍した。淳之介は大学を中退し、新太陽社という雑誌社の記者となった。

『淳之介はのべつ病気をしている印象が強い。16歳のときの腸チフスと28歳のときの肺結核では命の危険性さえあり、ゼンソク発作には20歳以降常に苦しめられた。』

『昭和32年11月、淳之介は写真家の秋山庄太郎、歌手の宮城まり子と鼎談をした。そのときに淳之介と宮城まり子は、初対面で、お互いに好感を持った。淳之介33歳、まり子30歳。』以後、まり子との関係やまり子入籍に絡む問題は周知の通りである。

平成6年。淳之介は肝臓癌と診断されたが、『まり子は、和子と相談し、本人及び他の家族には知らせないことにした。本人には、医師から血管腫と伝えてもらった。』
『5月半ば、放射線科の医師が、エコーの結果を知りたいと淳之介が聞いたのに対して、「肝臓癌ですね。あまりたちのよくないのが出ましたね」とあっさり告げた。しばらくして淳之介はつぶやいた。「シビアなことをおっしゃいますな」。これを契機に急速に体力が落ちていった。まり子は、不用意に告知した医師を、許せないと思った。』

告知を含めた「医師の一言の重さ」というものに就いて、つくづく考えさせられる問題がここにもある。

吉行淳之介に就いてのかねてからのイメージは、芥川賞受賞作家、ダンディと言う言葉がそのまま当てはまる人柄と容貌、幅広い知識、人脈の広さ、そういったものが綯い交ぜの作家像であったが、本伝記を読んで、今まで抱いていたイメージはほんの一部の知識でしかなかったことを思い知らされた。

著者は、『百人いれば百の「吉行淳之介物語」がある』という。本伝記は著者の想いが籠もっていて、吉行淳之介と一体となって表された感動的な伝記である。
尚、本記事の中で、『 』 で括った部分は、本伝記のうちの出会いの部分を主体に、一部分をそのまま引用させて頂いたものである。

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2009年2月13日 (金)

蕎麦打ち名人

信州出身の蕎麦打ち名人Y氏の、蕎麦打ち実演を拝見し、その蕎麦を頂いてから3年程経つ。その時の実演光景と味は今も忘れられない。

そのY氏が、今度も蕎麦打ちをしてご馳走してくださると言う。早速ご自宅に伺う。さすがに蕎麦打ち設備は整っていて、鮮やかな手つきにも再度感心した。茹で上がった蕎麦を頂く。
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付け汁も手作りでI.H.で適当な温度に温められている。柄杓状の小さな竹篭へ必要な分量の蕎麦をとり、汁に浸して温めると共に汁の味を沁み込ませて手元の椀へ入れて食べる。
写真は左から、手打ち蕎麦を刻んでいるところ、各自が蕎麦を食べるための膳部、汁に浸した蕎麦を椀へ移そうとしているところ。

蕎麦の味は、蕎麦自体の味は勿論だが付け汁の味との相乗積にもなる。今度も又、手打ち蕎麦の素晴らしい味を堪能させて頂いた。その膳の食器は殆ど木曽の漆器で、ぶ厚い漆の光沢がしっとりと味に花を添えていた。

感動したのは蕎麦の味と共に、実はY氏ご夫妻の生き方である。
奥様も実に明るいし話も弾む。部屋にあるものは奥様好みのものとおぼしきものが、これも部屋にマッチングした飾り棚に収められている。名人は言葉少なに楽しげに動いている。ご夫妻とも謙虚で言葉や行動の端はしにそれを感じる。至極自然体で衒いも無く、着物もありのままの普段着で何かゆとりと心の豊かさがある。

蕎麦を頂いた横の別室は和洋兼用で、床の一部が畳になっていて、その一部の床板を外すと、囲炉裏が切ってある。五徳・火箸・渡し・火消し壺等、どれをとっても懐かしい。故郷の信州時代の生活を思い起こして郷愁を感じる。
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お聞きした所では時々の海外旅行も、名人ご自身でスケジュールを作ると言う。これはと思うイヴェントをネットで予約を取り、それを中心に全ホテル予約を前提で 組むという。

蕎麦も美味しかったがそれ以上に、その生き方に感動した。
人の生き方や人生観は人夫々。これがベストと言うものはない。それにしても、「あれも人生、これも人生」の感を深くした。

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