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2013年1月10日 (木)

この人が居て

1月7日、一人の車椅子の選手が、サッカー女子の澤穂希選手らと共に、スイス・ローザンヌ国際オリンピック委員会本部で、2020年夏季五輪開催を目指す東京の招致委員会の立候補ファイルを提出した。
車椅子の人は、ロンドン・パラリンピックで日本競泳陣の主将を務め、2個の銅メダルを獲得した鈴木孝幸選手(浜松市北区出身)で、先天性四肢欠損障害を負った選手であるが幼い頃から周囲に障害を感じさせなかった。

澤さんや孝幸君らの活躍が大震災や景気低迷に苦しむ人々にどれほど感動と勇気を与えてくれたことか。

彼に就いては以前にも書いたように小松洋さんとの出会いが彼の運命を決定付けた。

孝幸君が生まれた時、何らかの理由で、実母夫婦は養育を放棄したと言われる。それを救ったのが小松洋さんである。
それまで小松洋さんと孝幸君とは何の関係もなかった。ただ孝幸君の生まれたのが聖隷三方原病院で、その当時聖隷関係の若葉保育園の園長をしていたのが小松さんだった。
そんな事から小松さんの知るところとなり、引き取って養育する決心をしたのは孝幸君にとっては僥倖だった

小松さんは、孝幸君を育てる為に保育園長を辞めた。普通の子並みに育てた。やがて小学校へ入学する時のことを考えて、自動車の免許を取得した。
入学期が迫った時に、市教委から養護学校への話が出たが、小松さんは今までも普通の子として育ててきたから、普通の子並みに三方原小学校(浜松市)へ入れたいと希望しそのようになった。

学校への送迎は小松さんが車で行ったが、学校も受け入れのために、トイレや階段、机や椅子その他一切設備の変更はしなかった。
トイレなどへ行くのも他人の手を一切煩わせなかった。階段なども家でやっているように車椅子からひょいと降りて両手を使って、すいすいと上ったり下りたりした。
運動会があっても孝幸君は普通の子と同様に走った、走ると言っても転がったと言った方が良い。それでも走った。サッカーなども普通の子と同様にやった。将来の希望を聞かれた時「僕はサッカー選手になりたい」と言ったほどだ。
それでいて、何も周囲に阿ることもなく、器用に動き回り勝気ながら、素直な態度で当時からリーダー的な性格を備えていた。

小松洋さんの献身的な養育によって、現在の孝幸君がある。孝幸君は小松さんをいつも「おばあちゃん」と呼んでいる。

今、学校でのいじめや体罰などの問題が多い。
孝之君のことを考えると、彼の資質が優れていることもさりながら、三方原小学校の先生を含め、級友たちが言葉でも行動でも一切差別なく、学んだり遊んだりした態度は立派だったと思う。

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2013年1月 1日 (火)

寿(いのちなが)

俳人協会・俳句文学館発行、平成25年1月の俳句カレンダーの巻頭に水原春郎氏の新年の俳句一句が掲載されている。

 これよりの計を初湯に寿  水原春郎

25011 岡部名保子氏の解説文がある。

『平成18年の年初、満84歳を迎えられるひと月前の作品で、第二句集寿いのちなが)』は掲句に依る。

 「毎年元日は伊豆山荘でゆっくり温泉につかり1年の計を立てて、英気を養うのを常として...」おられるようで、水原家に代々伝わる厳粛な行事やしきたりを守り続けていらっしゃるのだろう。 透き通る湯の耀きと立ち籠める湯気、昨日とは一線を画した淑気と、めでたさの漂う空間に身も心も清められ、真っ白な月日に向き合うお姿が目に浮かぶ。

 「私はねあかで、余りくよくよしない」とエッセーにある通り、常に穏やかでユーモアあふれるご存在であるが、ご尊父秋櫻子が創刊した馬醉木」の灯を継ぎ、千鶴子氏に渡されるまでの重責と決断、そのご心労は計り知れないものだっただろう。馬醉木と同い年という奇しき縁の下で、いついつまでも長生きして頂きたい、と切に願っている。(岡部名保子)』と、ある。

解説文中にある、句集寿いのちなが)」のあとがきには、『私は正直一生に一句集持てば良いと思ってきた。しかし、馬醉木90周年記念大会の話が出て来た頃から、第二句集を出すように周囲から勧められ、どれ程のものが出来るか危ぶみつつ、云々』と第二句集を纏められた経緯が謙虚に述べられている。
『私は馬醉木と同じ90歳。こんなに長生きするとは思ってもいなかった。父母から健康なDNAを授かったものと感謝している。』が、あとがきの最後を飾っている。

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