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2012年9月 4日 (火)

敬老の日

今年も亦「敬老の日」がやってくる。
昔の祝日には、「父の日」も「母の日」も「敬老の日」もなかった。
ひねくれて考えれば「父の日」がなければ父の恩愛を、母の日がなければ母の慈愛を、敬老の日がなければ敬老の心もなくなってしまったか、薄れてしまったかとも思う。
この分だと、今後も「なんとかの日」が増えそうだ。

嘗ての日本では、二世代または三世代同居が一般的であり幸せな時代であった。
子供たちは年輪を積んだお年寄りから、生の声で昔話を聞いて、心の中に深く刻み込み、豊かな情操を育んでいった。
しかし少子高齢化と共に、核家族化が進む中で育った子は、そのような心の豊かさが次第に希薄になってきたのではないか。価値観も変ってきたのではないか。

昔は尊属殺人などは新聞の一面トップ記事だった。今は所謂三面記事扱いだ。背景には教育制度の改悪も大いに関与しているのは周知の事実である。

人は何れは年をとる。この世に生を享けた者の宿命である。年の取り方に個人差があるのは当然のことながら、肉体の衰えを感じ始めたときに「年齢」を意識する。

此処で、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」を参考に引用する。

『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦却ける勇猛心、

安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年

月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる

事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く

求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。

  人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。

  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。』

U誌に「小説・路傍の石」の一説と、米国の詩人ロングフェローの言葉が引用されているがウルマンの詩と基本的には同様である。

最近の「敬老の日」というと、
 
   来賓の祝辞ながなが敬老日

を思い出す。時は解散風が吹きまくっている。議員さん達は此処を先途と走り回ることが予想される。そんな敬老日は益々「敬老」の実質とかけ離れたものになり兼ねず軽薄な「敬老日」になることが予想され覚めた物を感じる。老人自身の自覚も必要なことは言うまでもない。
思い出したような一日だけの「敬老の日」ではなく常日頃の中にその精神を生かしていってもらいたいものだ。

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