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2012年6月30日 (土)

株主総会

Y社の第188期株主総会が済んだ。今年は各社の業績低迷の中での株主総会が多かった。Y社の総会の詳細は専門経済紙または地方紙に詳述されている。

総会終了後、例年のようにミニ・コンサートが開かれた。須藤千春さんのピアノ、寺下真理子さんのヴァイオリンで聴き応えがあった。

特に今年の注目点はピアノとヴァイオリンそのもので、

ピアノはY社が買収したオーストリアの名門であるベーゼンドルファー社製のフルコンで大屋根の内部にグスタフ・クリムトの名画「接吻」が金箔を施した職人芸で装飾されている。
1 Fcjpg_2 世界限定25台の内の1台で、譜面台と脚部分にはクリムト絵画の有機的曲線をモチーフした金箔の描画がある。

2012年はオーストリアを代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の生誕150年にあたる。

男女の愛の形を象徴的に表現した、クリムトの最高傑作「接吻」。黄金のオーナメントで美しく装飾されたこの絵画は当時の美術界を席巻し一世を風靡した。また現代美術という新たな世界の到来を告げた革新的な作品であると言われている。写真はそのフルコンとクリムトの作品を示す(写真は何れもクリックで拡大します)。

ヴァイオリンはY社独自に開発されたもので、商品名はアルティーダ。豊富な音量と丸みを帯びたエレガントな音色はさすがと思わせた。

ベーゼンドルファー社製のピアノとY社製のヴァイオリンを駆使した、二人の演奏家による共演も見事で、短時間の演奏ながら聴き応えがあった。

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2012年6月28日 (木)

ブナ原生林

栃木県那須町芦野の、「遊行柳」を顕彰して「第30回柳祭り全国俳句大会」が開催されたが、そこから程近い、東北新幹線新白川駅から車で小1時間の山深い所に、福島県岩瀬郡天榮村と言う寒村がある。

その村の湯本二岐(ふたまた)は、二岐山の東麓で二岐川に沿って二岐温泉が湧出している。湯量も豊富で薬効も顕著とのことで、数軒ある旅館には温泉を楽しむ人たちがいつも来ている。
付近には見るべきものはこれと言って取り上げるほどのものはないが、ブナの原生林がある。

ブナは、山毛欅・椈・橅・などとも書かれ以前はさほど言われなかったが、最近では貴重材扱いされている。
ブナはその保水性から自然の水甕などといわれる。「人と森の物語」にも書いたように人と森の共生の必要性の認識の甘さから、当局による心無いブナ原生林の伐採が各地で行われたのも事実である。

Y社にいたとき、木材の購入から加工までを担当したことがある。当時Y社はブナを現地加工業者によって板材に加工されたものを大量に購入していた。それだけにブナには愛着も一入である。

旅館の若女将の案内で、旅館から4kmほど山に入ったところに行くとその原生林がある。秋田県の八幡平の原生林に比べると規模は小さいが何年ぶりかにブナと対面した。

Photo ブナの木肌にも触ってみた。昔の感触が伝わってくる。懐かしかった。高所にはブナの花が咲いている。下には去年の秋に降らせたと思われるブナの実が落ちていた。
旧友に会った感じで暫くは現地を動かなかった。

その付近に小さな神社があった。
Photo_2御鍋神社」と言う。小さな粗末な造りであるが庇の下には大きな鍋が吊るされている。

傍に由緒書がある。
『祭神は、平の将門・桔梗の前・平の九郎。
平の将門が戦に敗れ、奥州の清原氏を頼ってこの地点まで逃れてきたが警戒厳重を極め、桔梗の前は逆境にも拘わらず無事、将門の一子九郎を産んだ。然し山また山の強行軍は女性の足には耐えられず、一族の足手まといになるを恐れ桔梗が原に於いて自害して果てる。……現在の平九郎谷に至るも、これ以上の逃避は不可能と知り、現在の御鍋平に住み、ひそかに再起を夢みて本神社を祀ったのはこの頃であろう。……』

と、宮司と氏子総代の書いた由緒書があった。女性の守護神として尊崇され遠方より詣でる人が今に続いていると聞く。村の事情もあろうが、もっと麓に遷し、村の祭事とすることで村の活性化を図る方法もあるのではないかとの思いもあった。

我々の知らないところに、このような歴史が潜んでいることを再認識した。

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2012年6月23日 (土)

芦野の田植祭

第30回柳まつり全国俳句大会」の開会に先立ち、
那須町芦野指定史跡・遊行柳近傍の、遊行庵前の水田で「田植祭」があり、農耕馬の代掻き早乙女が登場する昔ながらの田植え風景が再現された。
Photo_4

 遊行柳は、奥の細道行脚で訪れた松尾芭蕉が「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を詠んだ場所。祭は、柳と句碑のある芦野地域の活性化にと「芦野の里づくり委員会」が10年前から主催。昨年は東日本大震災で中止された。

 地区の渋井弘さん(67)が所有する農耕馬が馬鍬(まぐわ)を引いて広さ約150平方メートルの田んぼの代掻きをした。

Photo_3 根本キヨさん(86)が田植え唄を歌う中、8人の婦人たちが絣(かすり)の着物に赤タスキ姿の早乙女に扮(ふん)して苗を植えた。(文の一部毎日新聞より引用)

昔ながらの田植え風景は懐かしく、機械化された現代からは忘れ去られた風景が再現され子供の頃のことを思い出した。

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2012年6月19日 (火)

遊行柳(ゆぎょうやなぎ)

  田一枚植て立去る柳かな  芭蕉

『意味は、「柳の陰で昔を偲び、気がつけば一枚分の田植えが終わっている。思いを残しつつ私もここを立ち去ることだ」で、此処にいう柳は現、栃木県那須町芦野にある遊行柳。西行が「道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集)と詠んだとされ、謡曲「遊行柳」で知られる。

「植て」と「立去る」の主語をめぐって、①いずれも早乙女、②前者は早乙女で後者は私、③何れも私(「植て」は夢幻の中の行動)、④何れも柳の精、など諸説がある。芭蕉句に「て」の前後で主語が替わるものが多いとの指摘もあり、②を支持する説が多い。なお、「立去る」のは作者芭蕉ではなく、作中人物の「予」』(以上、「芭蕉全句集」(角川文庫)より引用)。
Photo_2 写真左手の玉垣に囲まれた方が、長年にわたって植え継がれてきた「遊行柳」で、傍らに芭蕉の「田一枚うゑて立ち去る柳かな」の句碑がある。那須町の平成6年の説明書きに拠ると、幹周り90cm、樹高10mとある。広い田圃の中にぽつんとある柳は関心がなければ見過ごしてしまう。

室町後期、観世信光が上記西行の「道のべに・・」の歌の柳を主題にした、謡曲「遊行柳」を創作してから有名になり歌枕の地となった。
謡曲「遊行柳」では、遊行上人(一遍上人)が奥州行脚の際に、老人の姿をした柳の精に出会って西行が詠んだ「朽木の柳」へ案内され、老人は上人に念仏を授けられ成仏するが、夜になって再び現れ、上人に柳にまつわる故事を色々語り報謝の舞を見せて姿を消す、という筋書きになっている。

芭蕉は西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ、元禄2年4月、遊行柳に立ち寄った。「奥の細道」には、あこがれの遊行柳の地に立った感慨が、「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と記されている。

那須町では遊行柳の顕彰もあり、毎年那須町芦野に於いて、「柳まつり全国俳句大会」を開催し、今年は第30回全国俳句大会が開催された。

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2012年6月 5日 (火)

人と森の物語

かれこれ15,6年前、日経新聞の日曜版に、池内紀おさむの「ドイツ宝探し」という連載記事があった。ドイツの秘境とも言うべき地の紹介を、洒脱な文章で、的を絞った記事は読んでいて楽しかった。日曜版の来るのが待ち遠しかった。
池内氏はドイツ文学者でエッセイスト。

大分前に読んだ本で今も手許にある「ドイツ町から町へ(中公新書)」、「一人旅は楽し(中公新書)」なども楽しい本だ。

今回縁があって、池内紀著「人と森の物語」(集英社新書)を頂いた。
表紙を繰ると池内氏の署名と共に、ご自身が描かれたワンカットの挿絵が入っていて読む前から楽しい雰囲気が伝わってくる。
Photo_2
「あとがき」に拠ると、
『あるとき、北大名誉教授石城謙吉氏に会った。…「1973年4月が始まりだった。苫小牧演習林に新しい林長が赴任してきた」…その人の口から「都市林」という言葉を聞いた。その前から活字では知っていたが、具体的なイメージを抱いて考えてみるようになったのは、それがきっかけだった。あとから著書を読んで、先にもっと勉強しておけばよかったと大いに悔やんだ。あとあとまでも思い出すたびに、身が細る思いがした。後悔をエネルギーにして、少しづつ勉強をはじめた。』とあり、池内氏はそれから全国森行脚をした。

また前書きに言う。
『花の都パリは西にブーローニュの森、東にヴァンセンヌの森を持っている。古都ウィーンには西から北にかけて広大な「ウィーンの森」が控えている。ロンドンニューヨークミラノマドリード…。世界都市はどこも、直ぐ脇に大きな都市林をそなえている。都市生活者は建物のひしめき合った都市に生活するからこそ、より切実に広い緑のエリアが欠かせない。』

春ともなると、我が家の狭庭にも一面に緑が広がってくる。その色を見ているだけで心が和む感じがする。以前、PCを立て続けに4時間以上さわっていたら、急に目の中に稲妻が走って物が二重に見えるようになって慌てたことがあったが、その時は部屋を移って30分ほど庭の緑を見ていたら自然に治ってしまった(以降は2時間を限度にしている)。
だから、池内氏の前書きが頷ける。

本書は、
第1章・甦りの森(北海道苫小牧)、 第2章・クロマツの森(山形県庄内)、 第3章・匠の森(岩手県気仙)、 第4章・鮭をよぶ森(新潟県村上)、 第5章・華族の森(栃木県那須野が原)、 第6章・王国の森(埼玉県深谷)、 第7章・カミの森(東京都明治神宮)、 第8章・博物館の森(富山県宮崎)、 第9章・祈りの森(静岡県沼津)、 第10章・青春の森(長野県松本)、 第11章・クマグスの森(和歌山県田辺)、 第12章・庭先の森(島根県広瀬)、 第13章・銅の森(愛媛県新居浜)、 第14章・綾の森(宮崎県綾町)、 第15章・やんばるの森(沖縄県北部)
からなっている。北から南に掛けて、主だったところを紹介している。

私の身近な所では、
第9章 祈りの森 で沼津の千本松原の紹介がある。千本浜・片浜・原・田子の裏の海岸がゆるやかな湾曲を描いた所。距離にして約19km。これだけ長大な松原が続く地形も珍しい。
僧、長円が静岡巡錫の途中、この地に立ち寄り、風と波に苦しめられている人々を見て植松をすすめ、その指導によって防風林が広がり、緑豊かな土地に変わった。
若山牧水がこよなく愛し、住みつくまでになった。牧水のいう「二抱え三抱え」の古木も戦争中に松根油採取のために切られた。大正末年の伐採計画は市民の反対で立ち消えになったが、昭和の大戦争が千本松原を根こそぎにした。

もう一つは私の故郷である信州の森、
第10章 青春の森 で、岳都と称せられる松本の松本駅は、標高の点に目をつぶればヨーロッパの岳都インスブルックの駅頭に立ったときとそっくりである。
私も海外出張時インスブルックには約1週間滞在したが、今もその時の自然の美しさが目に焼きついている。
此処に旧制松本高校がある。大正10年(1921)第2代校長として大渡忠太郎が赴任してきた。当時の校長はおおかた文部省のお眼鏡にかなった能吏型の教師が選ばれたが、大渡校長は明らかに当局の意向に反していた。当時はだだっ広い空地に校舎があるだけ。校長は赴任するやいなや校長の職務の傍ら、ヒマラヤスギを植え、県の宮の跡地を丸く取り囲んだケヤキ群と結びつける。グラウンド沿いにサクラの若木を植え学園環境を整えた。植物学者でもあった大渡校長のヒマラヤスギは青春の森として今も親しまれている。

本書は、自然環境の中の森の持つ役割と、その重要性を改めて考えさせてくれる。

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