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2012年5月31日 (木)

女のきつぷ(神谷美恵子)

NHKラジオ第2放送で毎日曜日朝、「こころをよむ」シリーズが放送されている。

4月から6月までは、森まゆみ氏の「女のきつぷ気風)」で、樋口一葉、与謝野晶子、宇野千代から始まって、全13回講座で5月27日は第9回、「神谷美恵子」に就いての講座だった。

この「女のきっぷ」を取り上げた趣旨を、まゆみ氏は概要次のように述べている。
『今まで近来の女性というと、門地と受けた教育、その人の業績、成功したかどうか、美人かどうか、華麗なる恋愛遍歴などに焦点が当てられてきたように思う。
そして「炎のように」「自分らしく」生きることの肯定のあとには「品格」に注目が集まったりした。
しかし品格と言うとどうしても上品、下品のように階級社会の価値観が持ち込まれる。……見せかけだけで、自分をさらけ出さない、慇懃無礼なあの山の手文化には、下町育ちのわたしはどうも馴染めない。これはまさに門地と学歴の社会だから。
そうじゃないところに素晴らしい生き方の人はいる。……ぎりぎりのところで人を助け、人を励ます。そんな女の人に共感する。云々』と、ある。

神谷美恵子と出会ったのは、ある時ふと立ち寄った書店に、みすず書房コーナーがあり、小難しい名の本が並ぶ中に、「生きがいについて」と題する本があり、その著者が神谷美恵子だった。立ち読みをしているうちに何か共感するものがあり、迷わず買った。1972年12月20日第19刷とあり、買ったのは本の裏表紙に1973年10月30日と記入してあるから今から約40年前になる。(写真はみすず書房刊「神谷美恵子著作集1.生きがいについて」より引用)

Photo それで知ったことだが、彼女の父上は、前田多門。文部大臣まで勤めた人。私が「大日本育英会」の育英資金を受けて進学出来たのは、終戦前年で、当時の大日本育英会会長が前田多門。今でもその資金を受けられたことに感謝している。
序に彼女の兄君は前田陽一で有名な仏文学者。NHKラジオのフランス語講座を担当していたのを記憶している。

その神谷美恵子は津田英学塾を出ながら、ある経緯があって東京女子医専に学び、彼女の半生をハンセン病患者のために捧げた。
岩波文庫に島崎敏樹著「生き甲斐」と言う本(記憶に間違いがなければ)があるが、彼女も医専時代に島崎敏樹と出会って精神科に興味を持ったのも一因ではないかと思う。

父上の勤務の関係もあり、幼時フランスに住んでいた時期があったので、長じても彼女は物を考える時にはフランス語で考えると、著書の中に記している。

私の家の近くに「聖隷エデンの園」という施設があり彼女も暫く其処にいたことがあると聞く。又、これも風のうわさだが、皇太子妃美智子様(現、皇后陛下)が皇室に入られてから種々のことで、美恵子とお話があったとも聞く。

1982年7月に娘から、神谷美恵子著「こころの旅」という本を送ってきた。私が「生きがいについて」を読んでいることは知らない筈なのに親子とも何か神谷美恵子に就いて同じような想いを抱いたのかもしれない。

神谷美恵子はこの多忙の中で、著作集13冊をまとめ、その他多くの翻訳本が岩波書店やみすず書房から出版されている。
1979年に65歳で急逝した彼女を、天はもっと生かして欲しかったとしみじみ思う。

森まゆみ氏の、神谷美恵子論を聞きながら色々のことを想った。

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2012年5月11日 (金)

切符の中身

上田発11時22分東京行きの長野新幹線に乗った。
金曜日の昼、大型連休も終わった後、それに長野の次の駅だから空いていると思った。然し予想外に混んでいた。

進行方向右側の席は2人掛け、左側は3人掛け。
左側の席に余裕があれば私たちは左側へ座るのが常だった。信州生まれの私は、この列車に乗る時は何時も、浅間山・佐久平や軽井沢の景を見るのが楽しみの一つだった。

左側の3人掛けの席のうちで、1人だけが座って2人分の空いている箇所が数箇所あった。そのうちの一つにすっと座った。
座ってから気が付いた。窓のブラインド(薄い布製)が下まで下ろされていた。窓際の女性は30代後半位。
声をかけた。「済みませんがブラインドを少し上げて貰えませんか」彼女が言った「私は紫外線が嫌いですから」「そうですか軽井沢まででも駄目ですか」彼女は無言。その後、彼女は東京まで眠ってしまった、いや眠った振りをしていた。
「降りるときはリクライニングを元の位置に戻すことにご協力お願いします」と何度か車内放送があったが彼女は大きく倒した席はそのままで降りていった。

因みに右側の席には直射日光が入り込んでいたが、左側は方向から言ったら北側になるので直射日光は入らない。直射日光が入らないところで且つブラインドの効果がどのくらいあるかは私は知らない。

窓際の人は普通、他の人と関係なく自分が開けたければ開け、締めたければ締める。直射日光の入り込む場合は普通はそれが当たり前と誰もたいして気にもとめない。

しかしそうでない場合は、窓外の景を楽しみたい人がいることを頭のどこかに置いておくくらいの配慮があってもよいのではないか。
そのような人の居るのに気が付かない場合は仕方ないが、頼まれた場合、それでもブラインドを開閉する権利を窓際の人は切符代の中に入れて買っているのかなと変な気になった。
車掌に言っても、恐らくお話し合いで決めてくださいというのが落ちだろう。
Photo_2 信州の山の新緑は美しかった。

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2012年5月 3日 (木)

原発問題に絡む或る交信

原発問題に絡む、友人からの所信に対する交信記録の一部から。

 『指摘されて始めて気づくのは感度の問題。最近感じるのは、政治の貧困とマスコミの堕落、そして我々国民全体の意識レベルの低さである。

今から800年ほど前、鴨長明は「方丈記」の中で元暦の大地震に付いて触れ「おびただしく大地震ふること侍りき、土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷にまろび入る。なれど月日かさなり年経し後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」と、既にしてこの時代に災禍の教訓が生かされないことを嘆いている。

昔の小学校の教科書に「稻むらの火」という記事があった。今のような通信手段や警報やその伝達手段の発達していなかった時代、津波の来襲を村人に緊急に知らせる為に高台にあった庄屋さんが自分の稲むらに火をつけ、それを見た村人が庄屋さんの家が火事だと駆けつけたために村人の命を救ったという話である。その教訓は以後今日までどのように生かされてきたのだろうか。』

と、書いたがこれは、原発問題などない時代のこと。

今は原発問題が更に加わる。お恥ずかしいことながら、以前は私は根拠もなく原発の危険性をそれほど感じていなかった。

例えば日本の原発技術は世界でも最高水準にあると思っていた。それこそ根拠もなく。それが3.11があって他愛のない妄想だと知った。79年のスリーマイル島、86年のチェルノブイリ事故、特にチェルノブイリ事故があったとき、ソ連(ロシア)という国の体質を先の戦争を通して知った我々世代は、その体質と関連してあの国の原発技術はそんなものかと思った。日本では考えられないとも思った。それが間違っていた。

それにフランスなど地震や津波の起こる可能性の極めて少ない地方と同じ基盤に立って、日本の原発問題を論ずる愚かしさを知った。日本列島を取り巻く地形を考え、その上に建てられた原発を思うとフランスなどとは別の対策を建てなければならない。

北の、ならずもの国家が意図して一発打ってきたらなどと想うと、自然災害、人的・技術的事故それに破壊活動によるものも想定に入れると更に問題は深刻さを増す。

関与する機構やそれに人脈にも問題がある。

本質論を置き去りにして小手先の議論や、それに加わる御用学者等、先の戦争の主導者や大政翼賛会も思い出す。

傾きかけた会社の再建には根本的な解決方法は別としてまづ「出づるを制し、入るを計る」が原則。

一例だが、路傍の自販機など全廃すれば発電所の一つや二つ減らすことが出来ると私は以前から提唱しているが所詮は犬の遠吠え。関連企業の反対、それに利益代表議員が動く。車の性能が昔に比べ格段に向上しても、依然として2年に1回の車検。これも見直そうとすると同じく業者・議員の反対。

 自然エネルギーの取り込みによる発電など法整備も進まず、奨励策もお寒いもの。この道の先進国に学べばよいものを。

原発問題からは多少横道に逸れるが、議員定数の削減、鉄道フリーパスの全廃等自らの痛みに関係する所は知らぬ顔。今は選良などとは程遠い。業界や地域の利益代表だけで国家の為にとか、国民の皆様は言葉だけのもの。

  政治・財界・マスコミ等を含めて、今ほど本質的な改革を望まれる時はない。強烈なリーダーを望む時はない。日本には今、嘗ての中野正剛、イギリスのサッチャーのような鉄の意志を持った人材が何故出ないのだろう。これは国民全体の意識レベルの低さにもあることを認識しなければならない。

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