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2012年4月30日 (月)

相良草競馬

4月29日(日・祝)10:00~、牧之原市相良(さがら)で『第36回さがら草競馬大会』が行われた。日本で唯一、砂浜で行なわれる草競馬である
午前中が予選5レース、午後には決勝5レースで、最終レースは「牧之原市観光協会長レ-ス」となる。
草競馬」とは「公認競馬に対して、農村などで行われる小規模の競馬」と辞書にはある。草競馬は長野県や、宮崎県などでも行われているが、砂浜で行われるのは、この相良だけで、矢張り草競馬という言葉から受ける印象より「浜競馬」の印象の方が遥かに強く感じる。

相良サンビーチが、馬場となり、かつて中央、地方競馬などで活躍し第一線を退いたサラブレッドなど39頭が人馬一体となって一周500mの特設馬場を疾走。
砂煙を巻き上げながら周回し、現役時代を彷彿とさせる力強い走りを繰り広げた。

Img_3019_2 会場は青空が広がり、絶好の行楽日和に恵まれ、観客からは熱い声援が送られた。
子供らのポニーレースにも盛んな応援の声が飛び、楽しい雰囲気を盛り上げた。

砂浜に竹竿を立て、綱を張って作った特設馬場の背後は駿河湾で、遥か水平線まで一望できる。
折しもコンテナ船が御前崎港へ向かって進んでおり、又手前にはヨットを楽しんでいる光景が広がっていた。
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因みに牧之原市観光協会の観光ガイドによる牧之原市の歴史的背景の解説には次のように記述されている。

『【城下町・相良】
1576(天正4)年、武田勝頼が相良湊に相良城を築城(城跡は相良小学校・相良中学校一帯)。その後、家康が相良御殿として鷹狩りの基地に用いている。
1710(宝永7)年、本多忠晴が三河国伊保藩から1万5000石で入部して誕生したのが遠州・相良藩。
田沼意次の治世に2万石の大名となり、相良城の近世的な城郭は1778(安永7)年に完成している。
第9代将軍・徳川家重のもとで頭角を現わした田沼意次は、相良藩主時代に出世し、いわゆる田沼時代を築いている。藤枝と相良を結ぶ街道は、田沼意次の治世時代に整備拡充が図られ、田沼街道と呼ばれている。譜代の大名が藩主となったのは、遠州の湊という重要性から。城下の風情はあまり残されていないが、片浜地区には往時の街道の面影も残されている。相良という地名の由来は定かでないが、沢河原(礫のある河口)といわれている。映画『ウォーターボーイズ』のロケ地としても有名だ。』

俳誌SのN主宰が、俳句文学館(2012/4/5号)の春夏秋冬欄に、『草競馬は地元新聞社刊の歳時記に出ているだけである。群馬県吾妻地方の「吹越」や浜松地方の「ひよんどり」が多くの俳人に詠まれ、例句に相応しい秀句を得て定着した。言葉の響きも良く楽しい「草競馬」もそうなって欲しい。』と述べているが「草競馬」でも「浜競馬」でも良いと思う。

参考に、競馬の雰囲気がよく出ている静岡新聞社の浜競馬の写真を引用する。
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2012年4月29日 (日)

医師の一言

医学の進歩に伴って、予知困難な病気も最近では比較的容易に予知されるようになり、治療方法も飛躍的に向上した。そのような背景もあって、最近は病名の告知が当たり前のようになった。

然し、吉行淳之介の例に見るように、患者によってはそれを望まない場合がある。
又、私の知人のKさんは、医師から「貴方の余命は、まるケ月です」と直接言われた後、急に体力が衰えて亡くなった。付き添っていた奥様は、今でもその時の医師のことを「本人に直接あんなことを言うとは思っていなかった」と、今でも悔しそうに言う。

いつも的確な分析と自己主張を書き送ってくれるAさんから便りがあった。
いつものように長い論説の最後に、自分の現在の健康上の問題に触れて、概要次のような意見が付加されていた。

『敗戦の3月10日、東京大空襲の際「避難せず自分の住んでいる家にどんどん水をかけて燃えないようにせよ、防火に努めよ」という命令に従い、みんな自分の家から逃げず焼け死んだ。

戦時中の大本営発表は嘘で固められた。嘘で固めるには真実を隠さなければならない。全滅しても”我が方の損害は軽微なり”と。

昔大本営、いま原子力保安院、時を越えて似たものを感じる。……

今の私は病んでいる、医師は「あなたの手術後の3年以上の余命は30%です」とか、よくもずけずけ人の気持も知らないで口にするものだと呆れている。ここでは「あなたの気力や精神力でもってすればまだまだ生きられるものと確信し、私もそのお手伝いをするのに吝かではない」くらいの嘘?をつくのも時には必要ではなかろうか、嘘も方便という言葉があるではないか。本論とは関係ないことだが。』と、あった。

医師は医術によって人を助けるのが職業だが、言葉によっても人を勇気付けたり、助けたりする者だと思う。
「総て告知するのが進歩的な医師だ」などと思うのは、余程の思い上がりか、思いやりのない医師だと思ってよい。
医師に限らず、根底に人間愛がなければ浅薄な人間か、冷酷非情な人間でしかない。
Aさんの手紙を読んで胸を打たれた。

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2012年4月28日 (土)

幻の池

我が家の近くに小学校がある。その北側の道路を隔てた北側に一夜にして大きな池が出来た。(写真は携帯電話のカメラで撮ったもの)。
201204271721000_2 水深も、周囲の長さも判らない。生き物が居るとすれば地中の小生物だろう。何しろ一夜で出来た池だから。消えるのには晴れた日が続いても数日は掛るだろう。

この池は、此の間まで県の庁舎があった所で、庁舎は最近引っ越した。その跡地は今は広大な更地となっている。
池が出来たのを機会に、その更地をXY軸に分割して水深を測れば土地の凹凸状況が 数値化出来るだろうなどと余分なことを考えながら幻の池を見た。

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2012年4月20日 (金)

山廬行

4月初旬機会を授かり、「山廬(さんろ)」を訪れた。
山廬は山梨県東八代郡境川村(後、合併により笛吹市境川町小黒坂)にある。当日は素晴らしい好天に恵まれた。

山廬とは飯田蛇笏・龍太親子が生涯を過ごした居宅の総称で邸内は非公開となっている。
今は龍太のご子息で山廬第11代の当主である飯田秀實氏ご夫妻がお住まいになっている。
歌人である三枝昂之氏は「文芸に関わる人間にとって山廬は聖地です」と言っているように、その道の人にとっては一度は訪問したい所である。

蛇笏・龍太について概括すると、

俳句における最高賞といえば「蛇笏(だこつしょう)」。
蛇笏賞は、飯田蛇笏の功績を称え、角川書店が1967年(S42)創設したもので、毎年6月に優れた句集に授与している。

飯田蛇笏(1885(M18)4.26.~1962(S37)10.3)、別号「山廬(さんろ)」
良く知られている句に
   芋の露連山影を正しうす
   をりとりてはらりとおもきすすきかな
   くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
等があり、1917年(T6)俳誌「雲母(うんも)」の主宰。

その子の飯田龍太(1920(T9)7.10~2007(H19)2.25)、
良く知られている句に
   いきいきと三月生る雲の奥
   一月の川一月の谷の中
   かたつむり甲斐も信濃も雨の中
等があり、「雲母」主宰を継承し、1992年(H4)蛇笏没後30年を期に「雲母900号」で廃刊した。
1  「廬」は「粗末な小さな家」という意味だが、勿論謙遜称で写真(絵葉書より)のように情緒のある銅葺き平屋建ての居宅。家の裏には大きな欅が生えている。訪れた時は欅はまだ冬木だった。

居宅の近くにある蛇笏・龍太の墓前に供華する。
山廬の広い庭には、蛇笏が愛した椿の花が咲き満ちていた。Img_2856 Img_2857

   

椿に隣り、大きなもちの木が立っている。(写真はクリックで拡大)
入口の門は石柱が左右対称に立っている。其処から玄関までは大きな飛び石がある。家の前には龍太の書斎に寄り添うように赤松が枝を伸ばしている。

Img_2906 家の入り口には井伏鱒二書の「飯田龍太」の表札が今もそのまま掛っている。

屋内は昔の雰囲気がそのまま残されていて情緒がある。

床の間の掛け軸の俳句は、その時々の季節に合わせて架け替えられる。今回は、
  満月に目をみひらいて花こぶし  龍太
だった。

山廬の裏に出ると瀬音が聞こえる。幅4~5mの狐川で、有名な龍太の句、
   一月の川一月の谷の中   龍太
は此処を詠ったものである。
山廬の外壁には昔蚕飼に使われた大きな籠などが置かれ、又龍太手作りの箒が立てかけられていて情緒がある。姫辛夷や、しで辛夷が今を盛りと咲いていた。
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狐川にかかる木造の太鼓橋を渡った先が後山(ござん)でこの広大な山も飯田家の所有である。
  手が見えて父が落葉の山歩く   龍太
は此処で詠われたもの。後山を登ると広い展望が開ける。

Img_2891_2 一面の桃畑と葡萄畑が連なり、その先に八ヶ岳連峰を含めて四囲の山々や更には甲府盆地の絶景が見渡せる。
疲れた体を休める木椅子も設けられていて、周囲には野蒜も生えている。

山廬や狐川、後山を含めた一帯の景は、恰も俳句の世界の中にどっぷりとつかっているような雰囲気が漂っていて、三枝氏の言葉が実感として迫ってくる。

山廬訪問の余韻を胸に帰路に着く。

西富士道路から見る富士山には月が掛っていた。

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2012年4月12日 (木)

「きたまど」第33集

 S誌の旭川全国大会閉会後、帰浜を1日延ばし、翌日(200372日)旭岳山麓散策の一日を楽しんだ。

そこで出会ったのが、偶々同じ考えで旭岳を訪れた、同じS誌所属のT女史だった。もしあの大会後、夫々そのまま帰宅していたら(大会のどこかで会っていたにしても)単なるすれ違いに終わったに違いない。考えてみれば出会いとは不思議なもの。

あれから9年近くの歳月が経った今、こうしてお互いの情報を交換し合えるのは不思議なご縁である。

9年という歳月は夫々の想いの籠もった重い9年だったに違いない。そして合同句集「きたまど第33集を迎えた。年一回の発行だから33年の歳月を経たことになる。会員各位と奉仕者の努力は大変なものだろう。

小松 義春氏の巻頭エッセイ「句の切れ味寸見」は大変参考になった。実例を引いて解説しているから良く判るし納得できる。例えば、

梅東風狼煙詰所の暗のぞく 

は日頃多く用いられている切れ字であり、

   山鳩みればまはりに雪がふる

に置き換えてみるとの場合のように呼びかけて共感を求め合うという密なる連絡がたたれてしまう等々判りやすい。

高井 利夫氏の落ち葉尽して」は物に託して心象を詠っているのに感動した。読みなおし味わいなおした。

  残り火の一つ燻り野焼き果つ

  陪塚の孤影野に置き春惜しむ

等、景を詠いながら滲み出る心象を詠っていて興味深い。

毎号、質の高い投句を拝見しているが、生活感や人生観の滲んだ寸言も興味深い。

33_3  ①俳句に関する意見や感想

所属結社との作風のずれや温度差を句会を通して感じたこと

第二芸術論により惹起させられた俳句の真髄の再発見

俳句との出会いによる観察眼の変化

兼題に苦労しながら句友と研鑽しあったこと

湯豆腐のような句は美味しそうに

深耕するほどに俳句とは何かと思い悩みながら深みを増してゆくこと

句作と選句の難しさを改めて実感していること

東日本大震災への想い

歴史に学びながらいつの間にか人間の弱さを露呈する教訓

銀杏の実を拾う人の影が見えなくなった寂しさ悔しさ

希望を持つ限り生きる力が湧く話

旅吟

子規の句に勇気付けられ藤村を回想して美濃から信州へ

正倉院展に絡む歴史を追って

魅惑の北欧の旅の印象

自然詠

庭先の赤い実にまで想いを寄せるようになった

牛農家との交流の實体験や自然愛の再認識

面白い話題

海鼠(なまこ)の面白い保身術に絡む話

自選の難しさ

選句の難しさ過酷さの実感

健康と俳句

健康が基本。満足もせず後悔もせず、来し方を振り返りつつ「きたまど」を去る淋しさ。

「絶筆となるやも知れぬ日記買ふ」は切ない。

人間誰だって生死は宿命。希望ある限り人は老いない(サムエル・ウルマン)。

宇賀神 尚雄氏のあとがき」に『北窓句会は、2310月に毎月の例会が400回目を迎えました。大変な偉業であると思っています。』とあるが、この種の句集で30年余も続いているのは稀有のこと。会員各位の熱意と努力に敬意を表したい。

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2012年4月 3日 (火)

高台へ

東日本大震災から1年経過した。

内閣府の有識者検討会は、3月31日、東海、東南海、南海地震を起す「南海トラフ」で、これらの想定震源域が連動し、最大級の地震が起きた場合の津波高と震度分布の最大値を公表した。
浜岡原発に近い御前崎の津波高は21mとある。

先の東日本大震災の恐怖が脳裏に深く刻み付けられている時だけにショックは大きい。

最近、浜松市の海に近い地方のマンション等の住民の一部が三方原台地へ移転する動きが出ているそうである。それらの全部とは言わないまでも東日本大震災を踏まえての行動である事が予想される。
三方原台地は将に今、建築ラッシュだ。因みに同台地の海抜は53m前後である。

写真下左は、我が家に近い三方原台地の一角で、2009年5月に撮ったもので一面の茶畑だった。同右はそれ以後のもので広い茶畑が更地になっている(写真はいづれもクリックで拡大します)。
Img_7047 Img_7465

 

更地になってからの動きは殆ど無かったが、この1年であっという間にその広い土地が住宅で埋まってしまった。下の写真はその模様である。Img_2811更にこの土地の近傍には10棟を越すマンションが建った。この地の小学校は満杯だそうである。

戦時中はこの辺り一帯は高射砲部隊があったと聞く。戦後は荒涼とした開拓村だったようだ。時代の趨勢とは言え大きな町に変貌した。

我が家の付近にあった大きな椎の木もマンション建設のために切られた。最近はめっきり雀が少なくなった。三方原台地の状況は急速に変わりつつある。

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2012年4月 1日 (日)

花の日

俳人協会・俳句文学館発行、平成24年4月の俳句カレンダーに、大峰あきら氏の一句が載っている。

 花の日も西に廻りしかと思ふ 大峰あきら

24041_2 田島和生氏の解説がある。

『山々は、春らんまんの桜に彩られ、日輪は白く輝きながら天空を通る。
日光は花びらに透き通り、薄紅に滲む。穏やかな花の一日が暮れ、日輪はやはり西の方に廻って行ったのかなあ、とふと思う。
あきら俳句は、柔らかで、伸びやかで、こだわらず、思いのままに表現される。しかし、深い人間性に包まれている。

 氏は宗教学者で真宗教学の研究者。歌人前登志夫は「親鸞の弟子」と称したが、俳句には宗教臭はない。
掲句と同時期に<いつまでも日は西にある牡丹かな>。同様に「西」は西方浄土と見られなくもないが、西は西でいいかと思う。

 氏はフィヒテやハイデッガー研究の哲学者。実在を尊ぶ。ただ前登志夫の称するように「抜群の霊力をそなえた存在」らしく、<虫の夜の星空に浮く地球かな>のような不可思議な宇宙世界も詠み上げ、幻惑する。

 掲句は平成20年作。『群生海』所収。勢いがあり、風格のある書を眺めながら、俳句悠々の世界を楽しみたい。(田島 和生)』

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