« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月30日 (金)

新しい命

今から約50年前のある朝、突然家の前にトラックが停まった。

降りて来たのは、職場の先輩で尊敬する富田さん。「今度家を引っ越すので、良かったらこの木をお宅の庭に植えてくれませんか」と言う。
見れば大きな土の鉢をつけた、松の木、茱萸(ぐみ)の木、それに細葉の三本。

富田さんは、楽器の木製部品などの機械加工方法を次々と自動化する特殊技術の持ち主で会社にとっても貴重な存在で、後に黄綬褒章も受けている。
寡黙な技術屋で、曲ったことが大嫌い、上司に媚びるような人や、保身の術に長けた人とは口も利かないような一徹な所もあった純粋な人だった。

正規の学校を出ていないので、機械の設計図は必ずしも完全な製図ではなかったが、時の工作部門もそれを承知でちゃんと加工し、立派な機械に仕上げてくれた。比較的コンパクトな機械だがそれが実に良く働いてくれた。長年この部門で働いてきた人の知恵の結晶のようなものだ。

その富田さんの唯一の趣味は盆栽を始め、庭木をいじることで、庭には所狭しと植えられていて、時々植え替えたりするので、大きな木の根っこは土の鉢になっていた。

頂いた木は我が家の庭に立派に育った。その後我が家が現在位置に転居したので、その木も移転させた。
ご好意で頂いた木を枯らさないように植木屋も細心の注意で移植したので見事に根ついて、今も我が家の庭を賑わせている。

その木の内、茱萸(ぐみ)の木も老木化したが、根元から糵(ひこばえ)した枝にルーペで見るような芽が付いているのに気が付いた。

Img_2752 新しい命の誕生を目の当たりにしたように感じて、小さな芽が愛しかった。
芽は小さいがやがて葉が出、糵(ひこばえ)の幹も大きく育ってくれることを信じている。
富田さんも天上から見ていてくれるだろう。

松は今も門かぶりの松として、細葉も庭の一隅に生き生きと命を輝かせている。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年3月19日 (月)

年々歳々

我が家近くの通称「木蓮通り」には年々歳々2月から3月にかけて、白木蓮が見事な花を咲かせる。

この「白木蓮」に就いては毎年、本稿にご紹介しているので、今年からはもう書くのは止めるつもりだった。
しかし今年の花の状況は今までとは違っているので今年も書くことにした。
Img_2684 今年の開花は際立って遅いのがその理由である。

因みに、
2006年は3月8日に咲き始め、
2007年は2月28日に咲き始め、
2009年は2月25日に咲き始めた。
2010年は、バルセロナから帰国した3月12日にはもう散り花で、散った花弁が地上に散乱していた。
2011年は3月16日には満開だった。そして今年、
2012年3月19日、即ち今日漸く咲き始めた。写真は咲き始めた今年の白木蓮である。

若い頃は十年一昔と言った。しかし段々歳をとってくると、五年一昔になり、三年一昔になり、二年一昔になり、そして一年一昔になるように感じる。
従って、年々歳々花相似
     歳々年々人不同
が実感となる。そんなことを感じさせる花である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月14日 (水)

旧奥山線、曳馬野駅

我が家の近くに旧奥山線の曳馬野(ひくまの)駅の跡がある。

Img_2667_4  曳馬野駅の由来書に拠ると『大正3年(1914)11月30日沿線住民の大きな期待を受けて浜松軽便鉄道が元城~金指間に初開通した頃には、曳馬野駅はまだ設置されていない。蒸気機関車の煙突の形が植物のらっきょうに似ていることから「ラッキョ軽便」の愛称で人々に親しまれ、三方原台地の広大な原野をひたすら走りぬける「ラッキョ軽便」は沿線の風物詩的存在となった。

大正4年(1915)4月24日浜松鉄道に社名変更。大正12年(1923)4月15日板屋町~奥山間の25.7kmが全通した。

昭和14年(1939)、現在の浜松工業高校(東方約1km)一帯が飛行連隊の爆撃演習場だった頃、第97部隊の創設を機に同年4月3日ここに軍用駅「廠舎口(しょうしゃぐち)停留場」が新設。翌年9月「曳馬野駅」に改称した。昭和20年(1945)6月18日の浜松大空襲では、浜松市街地方面の浜松鉄道施設は甚大な被害を受けたが、曳馬野駅は幸いにも戦火を免れた。

昭和22年(1947)5月1日遠州鉄道に合併。昭和25年(1950)4月26日東田町~曳馬野間8.3kmに軌間762mmのまま電化。翌年8月曳馬野~奥山間17.5kmに蒸気機関車を廃止しディーゼル動車に転換した。曳馬野駅は全線で一、二を争う広い構内に駅員・乗務員らにより電車とディーゼル動車の中継駅として多くの乗客で賑わった、
しかしモータリゼーションの著しい進展に抗しきれず、昭和38年(1963)5月1日奥山~気賀口間廃止。翌年11月1日(東京オリンピック東京大会終了後)気賀口~遠鉄浜松間廃止。50年の歴史に幕を閉じた(平成14年(2002)11月1日)』と記されている。

曳馬野駅跡地は今はスーパーになっていて毎日多くの人で賑わっている。
その軌道敷跡は道路として活用され、その一部は木蓮通りと呼ばれ卒業期には見事な白木蓮の花を咲かせる。

今、浜松もご多分に漏れず車が溢れている。市の中心地に出るのに(バスの運転手にもよるが)、バス停の予定時刻は全く当てにならない。

今、この線が残っていたら(経営努力が必要なことは当然だが)、恐らく時間正確に運行される鉄道の価値や、運行頻度それに第3セクターの天浜線との連結等を考えると、沿線住民の利便性は勿論のこと、市中心街の発展にも寄与したであろうことを思うと、将来を見据えた対処の重要性をつくづく感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月10日 (土)

共産党最後の日

「忘却とは忘れ去ること」という台詞があった。人間の記憶力には限界もあるし、薄れることも忘れることもある。「共産党最後の日」は強烈な印象があるが、その時の記憶には案外朧な部分が多い。

日経新聞に「私の履歴書」という欄があり、その記事の中で、嘗て元米国防長官であったウィリアム・J・ペリー氏が、「共産党最後の日」を記録している。記憶の補完として記述する。

1991年8月19日、ソ連国営のタス通信はゴルバチョフ・ソ連大統領が「健康上の理由」で辞任したと報じた。同日付で大統領代行にはヤナーエフ副大統領が就任。ヤナーエフはソ連国内の一部地域に非常事態宣言を発令すると共に、この後の国家運営方針を定める「国家非常事態委員会」も創設した。

同じ日、英BBC放送はゴルバチョフが同日、夏季保養先の黒海・クリミアの別荘から軍のヘリコプターで近くの軍事施設に移送されたと速報。ゴルバチョフと同じく、改革派の代表格だったロシア共和国のボリス・エリツイン大統領も同日の記者会見でゴルバチョフの消息について「滞在中の別荘で拘束されている可能性がある」と述べ、政変がクーデターであるとの見方を強調していた。

3日後、ゴルバチョフは国営テレビを通じて、国家非常事態委員会に代って再び全権を掌握したことを宣言した。同日、ヤナーエフを中心とする国家非常事態委員会は機能を停止。クーデターを首謀したクリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長、ヤゾフ国防相らは何れも失脚した。こうして世界を驚かせたソ連の政変劇は、わずか3日でその幕を下ろした。………復権から3日後の24日、ゴルバチョフは共産党書記長からの辞任を表明。これにより、ソ連共産党はロシア革命以来、70年余に及ぶ支配の歴史を終えたのである

モスクワで続けざまに起こる劇的な展開を、私は米ソ民間交流を予定していたハンガリー・ブタペストで見守っていた。(以下略)』と、ペリー氏は記録している。

因みに、以下は3月4日プーチン「返り咲」に関する毎日新聞の社説の一部。

『ロシアの次期大統領に、00~08年の2期8年にわたり大統領を務めたプーチン首相(59)の「返り咲き」が決まった。5月に就任し、「第2次プーチン政権」がスタートする。

 前途は楽観を許さない。昨年12月の下院選で不正の疑いが生じ、政権への抗議行動がロシア全土に広がった。4日の大統領選では反対勢力を結集できる候補者がおらず、約64%の票を得て当選したが、「第1次プーチン政権」の全盛期と比べれば政権基盤は盤石とは言えない。』 

今日は、我々年代にとっても忘れがちである、日露戦争の陸軍記念日である。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2012年3月 9日 (金)

うつしみは

俳人協会・俳句文学館発行、平成24年3月の俳句カレンダーに、西村和子氏の一句が載っている。

2403_21_2 うつしみは涙の器鳥帰る  西村 和子

帯屋 七緒氏の解説がある。

茫漠とひろがる春浅い景。作者は、ひとり佇つ。

 そのまなざしが大空の涯に向けられていると思わせるのは、季題「鳥帰る」の働きばかりではない。「うつし身」が、亡き人の存在を語るのである。
 あの人は、私をおいて逝ってしまった。この世に残されたわが身は、まるでとめどなく湧いてくる涙を湛える器。見上げる空を今、あの人の化身とも思える白鳥が北へ帰ってゆく。

帰る鳥は多いが、ここでは白鳥がふさわしい。大和言葉の「うつし身」が死後、白鳥となって天翔けたという倭建命のイメージを誘うからである。
 
喪失の悲しみに満ちた身を「涙の器」とした新しさと、上五中七を普遍的に述べて、かえって感情の深さを表現した技巧に注目したい。
 夫を亡くした平成18年の作。句集『鎮魂(たましづめ)』所収。(帶屋七緒)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 4日 (日)

「遠州のしなの」に想う

 

遠州地方には信州を始め各県人会があるが、その中で我々の遠州信濃会は毎年、「遠州のしなの」を発行して会員相互の親睦と交流をはかってきたのは特筆すべきことである。
31_3 時の流れとはいえ第三十二号を以って廃刊するのは、真に淋しいことである。今、改めて歴代の役員各位のご努力と会員各位のご協力に感謝致したい。


廃刊にあたり一、二の話題を提供し有形無形の立場から、ふるさと信州を偲んでみたい。

  
  第一話 歴史的遺構に寄せる想い

地名や景観には、歴史やその影を負っている所が多い。平成の大合併や、目先の便利さのみで、それらをいとも簡単に払拭し、忘却の淵に沈めるのは耐え難い。過去は時さえ経てば風化し、やがて消え行くなどとはもっての他。

そんな想いに駆られて「北国街道海野宿」を訪ねた。宿場に平行して千曲川が流ている。

「日本の道百選」の一つに選ばれた北国街道は、北陸地方へ向かう街道の総称で、江戸時代は参勤交代や佐渡の金の輸送路として賑わう一方、善光寺詣の道としても栄えた。         

北国街道を挟み、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている海野宿は、小諸と上田の中間に位置し、寛永二年(一六二五)頃に成立されたと伝えられる。宿場東端に白鳥神社があり、其の前を流れる千曲川の白鳥河原は、治承五年(一一八一)木曽義仲の挙兵地として知られる。

街道のほぼ中央には用水が流れている。宿場の東西には桝形が置かれ、その間約六町(六五〇m)の長さになる。宿場時代の建物は多くが旅籠屋で出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が今も景観を添えている。明治期以降は養蚕業で榮え、その富により建築された建物は宿場の風格を受け継ぎ江戸時代のものと調和して現在の町並みを形成している。海野格子に加うるに、卯建・気抜き屋根・戸毎の屋号、六文銭の真田紋を配した藍暖簾・立行灯、用水路に影を落とす並木は美しい。歴史民俗資料館に見る箱膳や養蚕具には子供時代の記憶が蘇り、街道から望見する浅間の煙と共に胸が熱くなる。

 第二話「水車小屋のウィル」の話(出会いに就いて)

 

 旧友から感動的なメールが送られてきた。

「今までに経験したことの無い、始めての形の出会いが有りました。現実にはお目にかかっていない方との心の出会いの話です。

ことの発端は、ある日週刊誌を眺めていて『明治人の教養(竹田篤司著)』と言う文庫本の書評を目にした事です。一寸気になる話がある様なので購入して読みました。その中に、西田幾多郎博士がスティーブンソンの短編小説『水車小屋のウィル』を読んで大層感動し、たった一日でこれを読み上げ、ウィルの生き方を『余が理想の人なり』と言ったという話がありました。
「水車小屋のウィル」は、平原と星・牧師の娘マージョリー・死の三部からなっている。
本書は、無限への憧憬を抱いた少年の一代記で、私も学生時代に読んで感動しました。そんな経緯もあって再読することにしたが、今頃読み返したら恐らく馬鹿馬鹿しいと幻滅を感ずるのではないかと心配したが、やはり深い感銘を覚え、心和む思いにひたることが出来たのは幸せだった。」と記されていた。

私も早速、「明治人の教養」と、有吉新吾氏の訳になる「水車小屋のウィル」があるのを知って手当てし、数日で読み上げ、訳者の「あとがき」にも感銘を受けたと言って、そのコピーを旧友へ送った。

それに応えて彼から「私は有吉氏の訳本の存在を始めて知りました。更に訳者の『あとがき』を読んで西田博士の他にも同様な感動を持った方の存在を知って大層嬉しく思いました。」と返信されてきた。

人は夫々に生きてきた時代、生きてきた環境等から夫々に、ふるさとを思う。
「水車小屋のウィル」という短編小説にからむ、この様な時空を超えた感動的な出会いは、旧友との学生時代の信州を髣髴と思い出させてくれる。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »