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2012年1月29日 (日)

わりのあわない世代

1976年1月3日付けの朝日新聞のコラムに、むのたけじ 今も残る民族の病」 が掲載されたが、その翌日(1976/1/4)、同紙・同欄に、中村武志 「わりのあわない世代」が掲載されていた。

中村 武志は、長野県東筑摩郡片丘村(現・塩尻市)出身。
旧制松本中学校(現・松本深志高校)卒業後、国鉄(当時は鉄道省)に就職。以降、1964年に定年退職するまで国鉄に勤務する。在職しながら法政大学高等師範科を卒業している。
1933年頃、中村はすでに内田百閒をまねた随筆を国鉄の社内報に書き始めていた。戦後の1951年、「埋草随筆」を自費出版した折には百閒に頼み込んで序文を書いてもらっている。1954年に出版した「小説サラリーマン目白三平」がヒットし、以後シリーズ化し、1955年には映画化もされた(wikipedia)。』

その中村武志は、
『信州のいなかで、おやじはいばっていた。おかずの魚でもおやじはお頭つき。子どもはその半分だった。だから早く自分もおやじになろうと思った。戦中も戦後も妻子のためにひたすら働いた。耐えた。それがどうだ。いま父親の権威はない。家庭はばらばらになっている。国鉄時代に「死にたい」ともらした同僚がいた。思えば今老いていく私たちは割りのあわない世代である。』と、書いている。

あれから30余年経つ。記事はマイナーな面を殊更強調している面もあるが、時代が変わり世相が変わっても、現代世相の一端を表している記事と言えないだろうか。
今も記憶に残っている記事の一つである。

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2012年1月27日 (金)

今も残る民族の病

佐久間象川氏が、「武野・武治氏の生き方」を捉えて記事を書いている。
その記事を読んで思い出すことがある。

1976年1月3日付けの朝日新聞のコラムに、むのたけじ 今も残る民族の病」 が掲載されていた。内容をスクラップから書き出してみる。

『50年間未解決のままひきずってきた「日本民族の病」がある。
或る中国人ジャーナリストが戦時中指摘した。「都合の良いときは本質を考えず、都合の悪い時は考える余裕がない」と。その通りだった。
戦争中に全身を汚した人物がいま胸を張って大手を振って生きている。
判断力をなくして戦争に加わった民族はいま又、判断力を欠く。戦争に罪を感じ人生を変えた純粋な人は多い。
だが個人的な完結に終わって大きな力にはならなかった。
「民族の病」は今も深々と食い込んでいる。』 と書かれていた。

この記事は今から30余年前に書かれたものだが、今、読み直してみても矛盾を感じない。
過日、太田秀興氏より東北大震災に絡む問題まで含めて貴重なご意見を頂いたが、そのご意見も、象川氏のご意見と相通じるものがあり、上記、むのたけじ氏の論を彷彿とさせる。

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2012年1月18日 (水)

職責

『イタリア中部沖のジリオ島付近で1月13日夜に起きた地中海クルーズ中の豪華客船コスタ・コンコルディア(乗客乗員4200人)の座礁事故。行方不明者が船内に取り残されていないか懸命の捜索は17日も続いた。最悪の場合は船が完全に沈没する恐れもあり、時間との闘いとなっている。一方船長の無責任な行動が次々と明らかになり、関係者の怒りを買っている。

フランチェスコ・スケッティーノ船長(52)は乗客より先にジリオ島に避難したとして過失致死容疑で検察当局に身柄を拘束された。(係官が「船に戻ってください」と言っても受け入れなかったとも言う。)船から救助信号が発せられたのは浸水開始から約1時間後。乗客の一人が家族に電話で伝え、通報を受けた管轄の港湾監督事務所が船に無線で問い合わせたが船長は「大丈夫だ」と繰り返し、中々救助信号を出そうとしなかったという。船長は乗客乗員の救出が続いているのに船から避難したという。』

勿論年代も環境や状況も違っているとはいうものの、私は一瞬嘗てのタイタニック遭難を連想した。そして我々の年代ですら記憶から忘れ去られようとしている「佐久間艇長」の話を思い出した。

佐久間艇長の話はwikipediaによると、
『日本海海戦を戦った、佐久間 勉は、1908年(明治41年)11月、第六潜水艇隊艇長を命ぜられた。
1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中に沈没、佐久間以下14名が殉職した。その際、ほぼ全員が持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた者も潜水艇の修繕にあたっていた
佐久間自身はガスが充満し死期の迫る中、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、次にこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、遺言を書いた。

この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していた。』と、ある。

佐久間艇長は軍人であり、スケッティーノ船長は民間人という差はあるものの、職責遂行という観点から彼我の差は歴然としている。偶々此処に取り上げたのは船の事故または遭難に絡む職責の問題であるが勿論、業務等すべてに該当する問題である。

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2012年1月14日 (土)

潔癖さ貫いた硬骨漢

露の世に、芥のような人が群れる中、潔癖さを貫いた硬骨漢、城山三郎の生き方や著書は、多大な感動と、鬱勃たる勇気と、爽やかな読後感を与えてくれる。
日経新聞に「忘れがたき文士たち」と題する連載記事がある。その中に、城山三郎が取り上げられていた。

城山三郎は伝記文学で有名だが、彼は言う。(同記事から一部引用する)
『司馬遼太郎さんは「街道をゆく」を書いたが、伝記文学は「人間をゆく」ことだと思う。自分とは別の人生、男のロマンを追体験できる。人間は一度しか生きられないが、何人もの人生を生きられる。それが伝記文学の魅力ですね。』

事実、『「落日燃ゆ」は、昭和天皇を守る為に進んで罪を被り、東京裁判で民間人として唯一死刑になった広田弘毅を、
男子の本懐」は昭和初期に右翼の凶弾に倒れた浜口雄幸と井上準之助を、
粗にして野だが卑ではない」は勲一等を固辞した石田禮助を、
官僚たちの夏」は通産官僚、佐橋滋が国家のために、時の総理を痛烈に批判した事実が記されている。』

『城山三郎自身も潔癖だった。少年時代に軍神杉本五郎中佐の「大義」を読んで愛国少年となり「お国のために尽くそう」と敗戦の3ケ月前に海軍特別幹部練習生に志願入隊した。17歳だった。しかし憧れの帝国海軍は大義の世界とは異なり腐敗していた。早朝から夜更けまで、こん棒で殴られ、悪夢の日々を過ごした。
敗戦後、指導者たちは豹変して民主主義を唱え始めた。「軍隊で堕落した組織にいじめられ、敗戦でそれまで信じてきた忠君愛国の思想が間違いだったとされ、国家から二重に裏切られた。個人がどんなに頑張ろうとも指導者が方向を間違えると国は滅びる。つらい戦争の体験だけは遺して置きたいと思った。』
そして指導者に厳しい眼を向けるようになった。

日経新聞に「私の履歴書」の記事がある。城山三郎も掲載される予定になっていたが、執筆途中、高熱を発して緊急入院し、記事の半分を書いたところで他界したのは返す返すも残念だ。
未完の絶筆「私の履歴書」は「文芸春秋」に掲載されて「嬉しうて、そして……」(文春文庫)に収録されたと聞く。
「私の履歴書」は、『城山自身の文学の原点である戦争体験について多くの筆を費やしている。国民が十分な知識を得られないままに無謀な戦争に突入したこと、「水中特攻隊」など信じられないような兵器が編み出され、青年たちを次々と死なせようとしたこと……。「腹が立つより、悲しくなる」と書いていた。』

かくいう我々も、戦争が勃発した時、純粋に、強いて言えば根拠も無いまま、日本は必ず勝つと信じて疑わなかった。
戦時中、理工系学徒として兵役延期になっていた我々は、学徒動員はされたものの、軍隊生活も、軍隊の内部事情も、戦争体験も無く終戦を迎えた。そして後から彼我の戦力比較や、戦略比較を知ったが、それはあくまで戦後のこと。

潔癖さを貫いた硬骨漢、城山三郎の生き方に学ぶことは、これからの日本のあり方に就いて考える一助になることは間違いない。

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2012年1月13日 (金)

年迎ふ

俳人協会・俳句文学館発行、平成24年1月の俳句カレンダーに鷹羽狩行氏の一句が掲載されている。

年迎ふ山河それぞれ位置に就き 鷹羽 狩行

2401_3 太田かほり氏の解説文がある。

『独創的で大胆な擬人法である。山河に倣い人間の心身も引き締まる。山河は、日本人が最も畏敬の念をもって真向かうものの一つ、それもランク付けすればかなりの上位に位置する対象である。 四季いずれにおいても、いかなる状況においても、山河とともにあるのが日本人の根本的な精神であった。
 山河すなわち自然、多くの人々にとってふるさとの山河すなわち自然であった。だが、今の日本はうち続く災害に見舞われ、その山河さえも危うい状況に陥っている。
 しかしながら、物理的にどうであれ、「国敗れて山河あり」は心の真実である。如何なる地震も、津波も、原発も、心の山河までも奪い去ることはできない。今まさに位置に就く。スタートに備えて万端整え合図を待つばかりの緊張の一瞬である。
 今年、我々は挙って悲愁の底から出発する。この句は平成16年の作であるが、かつてない災害を経験して新たな意味をもつことに感銘を受ける。
 詩歌の普遍をこの句に見る。(太田かほり)』

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2012年1月12日 (木)

生涯の一句

石田波郷没後40年を記念して設立された「石田波郷俳句大会」が第3回を迎え、清瀬市で行われた。この大会は清瀬に縁の深い波郷の名を後世に伝え、また市民が俳句に親しむ豊かな町づくりを目指して平成21年より開催。全国より応募者があり盛況裡に終わった。

大会作品集の冒頭には、波郷のご子息である、石田修大(のぶお)氏が「生涯の一句」と題する一文を寄せている。
『………波郷の最初の師、五十崎古郷は30半ばで俳句を始め、「馬酔木」同人にもなった人だが、40歳で亡くなったため、2000余句の殆どは自らの句風を開くための習作に終わったという。だがそのなかの
    寝待月灯の色に似て出でにけり
一句だけで古郷俳句は朽ちないと、波郷は断言する。そして「俺には生涯の句があるだらうか」と独白するのである。
波郷の名を冠した清瀬の俳句大会も3回目を迎えた。縁あってこの大会に投句、入選された皆様には、ひきつづき俳句を作りつづけていただきたい。自分を偽らぬ俳句をつくりつづければ、いつかは生涯の一句を手にする幸せが得られる…はずだ。俳神の加護はなくとも、あの世の波郷が手を貸してくれるかもしれない。』
Photo
本大会より、石田修大著「我生きてこの句を成せり~石田波郷とその時代」(本阿弥書店刊)を頂いた。

本書の概要について、

目次から抜粋すると、『「馬酔木」の三羽烏/ 虚子・秋桜子それぞれの道/ 大友柳太郎の誘い/ 病古郷との俳句修行/ ”仮想敵手”草田男/ 馬酔木の若手 窓秋・竹秋子/…無季俳句に走る/ 友二・古郷ー出会いと別れ/辰之助去り「鶴」創刊/ 夜毎の新興俳句征伐/ 難解な人間探求派/ 「京大俳句」特高が急襲/ 囮にされた三鬼/ 「馬酔木」を去る楸邨・波郷/ 韻文精神 戦場に呻吟す/ それぞれの終戦/ 俳句復刊/百家争鳴/ 「第二芸術」の弔鐘を撞く/ 俳句で食えるか 協会設立/ 療養生活を詠う仲間たち/ 「馬酔木」復帰・30周年を祝す/ 生涯の一句』

といった内容が盛られていて興味深い。

波郷をとりまく俳句の黄金時代」について、
『私は、私の行く道はもうこの他にないと思った。新興俳句の開花期に、多くの新興俳句の担ひ手である友人たちと交はりつつただひとり伝統派にとどまって胸を張って拮抗し得たのは、この自負によったに他ならない。』と述べている。

戦前・戦中・戦後を通じて俳句はどんな経緯を辿ったか、どんな葛藤があったか。
戦中の特高の暗躍、戦後の所謂 桑原武夫による「第二芸術論」に就いての論争も興味深い。

戦後俳壇が漸く活動を再開しようとしていた、まさにその時期に外部から俳壇にポイと手榴弾のように投げ込まれたのが、いわゆる「第二芸術論」だった。
仏文学者・評論家の桑原武夫が雑誌「世界」に発表した「第二芸術ー現代俳句についてー」で、『俳句は菊作りのような消閑の具にすぎず、しいて芸術の名を要求するなら「第二芸術」と呼んで、他と区別するのがよい』と主張した。
「第二芸術論」に対して、俳壇の大勢は自省のきっかけと受け止め、桑原らとの激論には至らなかった。それだけ俳壇の懐が深いというより、底なし沼のような状態だったのかもしれない。

石田波郷を中心に纏められた本書の内容は、俳壇の趨勢と俳句内容の変遷をするのに適当な書と言える。

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