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2011年10月10日 (月)

「天下の三長中」こぼれ話

この間、さる会場でM氏と会った時、こんな小文がありますよと披露されたのがタイトルの文章である。

著者は戸谷邦弘氏でその中から抜粋すると、

『クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」、「琉黄島からの手紙」で琉黄島の名前が広まり、栗林忠道中将(後、大将)の名が多くの人に知られるようになった。映画公開中、読売新聞(平成19年1月14日付)の編集手帳に次のような記事が掲載されていた。
「(前略)栗林中将は旧制長野中学の出身だ。連合艦隊司令長官を務めた山本五十六海軍大将は、旧制長岡中学を出た。そんなことから、昭和10年代の一時期の、狭い関係者の間でのことだろうが、「天下の三長中」と言われたりもしたという。「長」のつくもう一つの旧制中学の名前に就いては未確認だが、当時はどこの学校でも軍人として栄達した卒業生を誉れとし、現役生にも後に続くよう鼓舞するような空気があったのかもしれない。(後略)」』とあり、

『この記事に大変興味を持った私(戸谷氏)はいろいろと調べてみた。「天下の三長中」のうち二つは長野中学と長岡中学だが、もう一つがどこの中学かわからなかった。その後、この記事の筆者が長野高校の卒業生で、「天下の三長中」は在学時の国語教師の発言だったと記憶していたことが判明した。この事実を確認したい好奇心から今次大戦の名立たる人物をさがしてみたが、該当する人物は見当たらなかった。やむを得ず「長」の字のつく旧制中学を調べていると、旧制長崎中学の前身校で修学した日露戦役の軍神、橘周太中佐を発見した。戦歴はもとより人格者としても傑出しており、郷里の長崎県千々石町に銅像が建立され、昭和15年には橘中佐を祀る橘神社が創建されている。
以上のように、全国的に「三長中」と称されたかどうかは確認できなかったが、それぞれの地域では後進鼓舞の意もあり、話題にされたのでしょう。』と、書かれている。

当時の時代や世相を考えると、戦意高揚の意味からも、そのような表現や働き掛けのあったであろうことは、我々戦中派には容易に想像できるが、いずれにしても忘却の彼方へ消え去ろうとしている歴史の一齣を垣間見た想いがした。

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コメント

この記事を読んで、初めて気付いたことがあります。
海軍の広瀬中佐、陸軍の橘中佐が武勲だけでなく人間的に如何に卓抜した人物であったかを承知しているのは、私が戦中派であるが故ではなく、旧制長野中学で教育を受けたがためだったか、思いました。
身近にいる後期老齢者の中に、こんな日本人も居るのかと呆れるような人物が居ます。 検証可能な証拠が現存する伝記で、広瀬中佐、橘中佐の事績を現在の日本人に知って貰いたいです。 日本人の国際化う進めるのには、小学生に英語教育をするよりも、その方が遙かに有効だと思います。

投稿: 変人キャズ | 2011年10月11日 (火) 02時54分

私も全く同感です。
こんな記事を敢えて書いたのも、当時の卓抜した人たちが「国家のために」身を賭して働いたことの一端を知って貰いたかったからに他なりません。
幼少の時に、青春時代に、中年時代に…、夫々学習すべきことがあるはずなのに今の教育は一体何を考えているのだろうかと情けなくなることがあります。

投稿: Alps | 2011年10月11日 (火) 09時27分

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