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2011年9月21日 (水)

台風15号

非常に強い台風15号が今日(9/21)14時頃浜松に上陸した(気象庁)。

浜松の現在地に来てから40余年になるが、これほど強い台風に見舞われた事はない。
2009年10月、強い台風18号を経験した(この時の最低気圧は975hPa)が、今度の15号は比較にならない大きさだった。

以下の気圧推移は我が家での記録である。台風の推移もある程度推測できよう。

 時刻   気圧(hPa)       備考
  6.30   1000   通常の気圧より約15hPa低い
  :      :
 12.00    986   
 12.20    982
 12.40    980   暴風雨となる
 12.50    979      ↓
 13.00    976      ↓
 13.10    975      ↓
 13.20    973      ↓
 13.30    970      ↓
 13.40    966      ↓
 13.50    964      ↓
 14.00    959      ↓
 14.10    955      ↓
 14.15    952  14.20より暴風雨がピタリと止る   
  :      :    (台風の目に入ったと思われる)
 14.30    952      ↓
 14.35    953      
 14.40    954      
 14.50    960  再び暴風となる(雨は殆どなく)
 15.00    965   (台風の目が通過したと思われる)
 15.10    971      ↓
 15.20    972      ↓
 15.30    974  (風勢やや弱まる)        
  :      :         ↓
 16.30    983  暴風は一応収まる
  :      :
 17.00    986

952hPa」という低い気圧も始めてだが、こんなに長時間吹き荒れたのは、鈍足台風の齎した結果である。
暴風雨は収束したものの、吹き返しか外はまだ強風が吹き荒れている。強い台風の割には、大した被害の出なかったのが幸いだった。これから通過する地点での被害の少ないことを祈る。  

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再び、出発(たびだち)の歌

昨夜(9/20)夕食後のひと時、偶々NHK・TVのスイッチを入れたら、懐かしい歌声が飛び出してきた。
聞いた瞬間に、上條恒彦の「出発(たびだち)の歌」と判った。私にとってはY社時代の懐かしい思い出の一齣である。
放映は、「歌謡チャリティーコンサート:神戸から歌で復興のエール」と題するコンサートだった。その番組の最後をこの歌で締めくくったが、丁度それを聞くことが出来た。作曲は「六文銭」の小室 等、作詞は及川恒平で歌詞は、

 乾いた空を 見上げているのは誰だ
 おまえの目に 焼き付いたものは化石の街
 愛のかたちが壊れた時に
 残されたものは出発の歌
 さあ今 銀河の向こうに
 飛んで行け

 乾いた空を 見上げているのは誰だ
 おまえの耳を ふさがせたものは時計の森
 自由な日々が失われた時に
 残されたものは出発の歌
 さあ今 銀河の向こうに
 飛んで行け

 さあ今 宇宙に
 さあ今 未来に
 さあ今 宇宙に
 さあ今 未来に
 飛んで行け

上條恒彦は1971年、グループ「六文銭」と共演した『出発(たびだち)の歌』で、三重県合歓の郷で開催された「ポピュラーソング・フェステバル'71」のグランプリを受賞。次いで11月、第2回世界歌謡祭でグランプリ・歌唱賞を受賞した。

世界歌謡祭での当時を思い起すと当然のことながら、あれから40年の歳月を刻んで居る。しかしそれにもかかわらず上條恒彦の声量もさほど落ちては居ないし、容貌も当時を思い出させるに充分で40年前の、あの日本武道館での懐かしい世界歌謡祭の興奮が髣髴と蘇った。

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2011年9月20日 (火)

馬醉木創刊90周年

馬醉木(あしび)」が今年創刊90周年を迎えた。一口に90年と言っても、90年間も老化せず続くことは大変なことだ。

これに先立ち、俳誌「馬醉木」は、平成19年(2007)6月号で通巻1000号を迎えた。100020076_2馬醉木1000号記念号」の水原春郎主宰によると、
『「馬醉木」の前身「破魔弓」が佐々木綾華により創刊されたのが大正11年(1922)4月であった。秋桜子は「破魔弓」を昭和3年(1928)年7月、奈良での作、
 馬醉木咲く金堂の扉にわが触れぬ
の句に因み「馬醉木」と改題した。名実ともに秋桜子が主宰する契機となったが、同じ頃昭和医専の産婦人科教授に就任、関東大震災で消失した病院の竣工と重なり、教授と病院長と水原産婆学校長と多忙を極めた時であった。
昭和6年(1931)馬醉木10月号に秋桜子は「自然の真と文芸上の真」の一文を書き俳句革新の端緒を開いた。
それからの10年間秋桜子は次々と新しい企画を実行、激務にも関わらず気力が漲っていた。一高時代から親しんだ短歌も窪田空穂の教えを受け「万葉集」を学び、調べを叩きこまれた。
しかし戦争の暗雲は俳句の世界にも及び秋桜子にとって一番辛い時期が訪れる。用紙節減の為、次々と減頁となり「馬醉木」は表紙のない仮綴12頁となってしまう。
昭和20年(1945)4月14日夜の空襲により神田三崎町の自宅も病院も消失、八王子に移り住み、発行所は八王子の大和町に住んで居られた木津柳芽宅となり、3、4月合併号が出たが以後休刊の已むなきに至る。だが漸く12月に15頁の仮綴で復刊。21年より軌道に乗り、療養俳句、山岳俳句、田園俳句など新しい分野も広がり、気力活力共に充実の時期を迎える。(中略)。木津柳芽さんは昭和32年(1957)6月号の400号の発行を機に引退され、替って現在の西荻窪に発行所を置くことになった。』と、「馬醉木」の歴史の概要を記述している。

「馬醉木1000号記念号」発刊と併せて「馬醉木千号記念 馬醉木俳句集」(合同句集)を平成19年(2007)5月に発刊された。
Photo そして今回は、同じく誌友相互の研鑽の一助とするために「創刊九十周年記念 馬醉木俳句集」(合同句集)を平成23年(2011)年9月に発刊した。

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2011年9月15日 (木)

妖しき運命(さだめ)

手許に『対米中開戦に反対した二人と「妖しき運命(さだめ)」』と傍題のついた、原山茂夫著『栗林忠道と今井武夫物語』(ほおずき書籍)がある。Photo 栗林忠道は、梯久美子著「散るぞ悲しき 琉黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社)で広く知られるようになった陸軍中将(後、大将)であり、今井武夫は陸軍少将で中国通として知られ徹頭徹尾不拡大方針を貫き通しながら、妖しき運命に翻弄されながら自己主張を貫き通した気骨ある軍人だった。

本書の目次によると、
   プロローグ
   第1章 二人の生い立ち
   第2章 二人が軍人になった時代ーそして「妖しき運命」
   第3章 運命の満州事変ー「今井は、中から見ていた」
   第4章 日中戦争と今井武夫
   第5章 太平洋戦争と中国での停戦・復員と今井
   第6章 日中戦争・太平洋戦争と栗林忠道
   第7章 硫黄島戦の栗林忠道と戦後の今井
   エピローグ
の各章からなっている。
特に努力型の栗林、秀才型の今井の、生い立ちから軍人として自己の信念を貫いてゆく過程には心打たれる。

運命の満州事変から太平洋戦争に突入してゆく過程に就いて、強硬派から目の敵にされ生命の危険を感じながら、今井の果した役割に就いての記述は特に詳しい。「統帥権」を楯にした一部軍の暴走。出先機関である関東軍の動きをコントロール出来なかった国家としての機能喪失過程、不拡大方針のために、今井が懸命に中国要人と政策的組織を築いてゆく努力を片端から崩してゆく統制派強硬派との抗争過程等々。

栗林は陸士入学前、佐久間象山の「せいけん録」を学び、象山の言葉に感動し「自分も陸士に合格し一国に繋がってきているではないか」との自覚を深めたという。
東条最後の懲罰人事も従容として受けながら、「大本営には一刻も早い和戦を要請し、できれば米軍に大損害を与え、米国の世論を和戦の方向に誘導したいものだ」と考え、事実そのように行動した。このことに就いては「散るぞ悲しき」に詳しいが、米軍が「5日で陥落させる」と言った硫黄島での組織的戦闘は米軍上陸後36日間も続き、戦死傷者の数では日本軍20933人、米軍28686人で太平洋戦争の島々の戦いで、米軍の損害が日本軍より大きかったのは唯一、硫黄島の戦いだった。「国の為重きつとめを果たし得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」の辞世の短歌の冒頭の句の末尾「散るぞ悲しき」の部分は、大本営によって「散るぞ口惜し」と改ざんされて新聞発表された。

栗林と陸士同期で、同じ時期に豪州に近い小島十五のメレヨン島守備隊長となった北村勝三少将は、兵士と島民を大事にして兵の士気を鼓舞したが、補給路の途絶と非衛生的な環境下での1年余の砲爆撃下で栄養失調死約五千を失い、上陸作戦なしで終戦を迎えた。昭和22年(1947)8月15日に、母校長野中学を足下に見下ろす旭山で割腹自決して責任を取ったことを本書では小さく伝えている。

三人とも旧制長野中学の出身だった。そして太平洋戦争に至るまでの過程を本書で具体的に知るにつけ、改めて「国家とは何か」に就いて考えさせられた。

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2011年9月12日 (月)

句集「熊の皮」

 俳誌・白魚火(しらをび)同人である栗田幸雄氏から、句集「熊の皮」を頂いた。

Photo 「あとがき」に、「思い返せば会社をリタイアする時期に妻の急逝で、欲張った夢や計画は打ち砕かれ、茫然自失の一人居へと一変し、自らの健康管理の必要に迫られました。

そのような中で俳句も、心の健康と自分史作りの一助として始めたものです。」とあり、以来「自分自身驚くほど俳句にのめりこんでゆき精神的にも立ち直りが早かったように思われます。」とある。

序文で白魚火の仁尾主宰が述べているように、「逆境や苦難を幾度も乗り越え都度、道を開いてきたパワー」を感じさせる句集である。旅吟の多いのもその一例であろう。

句集は、なまはげ(H1116)文化の日H1719)、熊の皮(H20)(はたはた)(H21)、種袋H22)の5360句から成っている。

句集名の「熊の皮」は

  横座にはまたぎの座る熊の皮
から取られたもので、東北山間地帯のまたぎの伝統を捉えたもの。

 

 親子の情愛をしみじみと詠んで

   嫁ぐ子とバージンロード夏ふかし  

  亡き妻の植ゑし四葩を截りにけり

  夏の桃供へて妻の忌を修す

  百合の花豪華に活けて一人の夜

  書を曝す中に戦時の銀行券

自然を深く見つめて

  暫くは夕日とどまる秋桜

  空をけり海女は波間に消えにけり

  鳥帰る潮目まぶしき岬かな

  揚雲雀空の深さをまだ知らず

  菜の花や消し忘れたる昼の月

  一湾の潮目さだかに望の月

  月の宴下戸の吟ずる黒田節

  きびきびと柏手を打つ寒詣

  曲屋の上がり框に踊り笠

  仮名書きの三嶋暦や初つばめ

  富岳より水を戴き代田掻く

  次々と峰雲育つ草千里

  秋澄むや檜の匂ふ輪つぱ飯

  霜晴や匠の打ちし備前物

地方吟も多く

  なまはげが御酒を過ごして転げけり

  湿原の風に色あり水芭蕉

  文化の日ランプの宿で早寝かな

  鰰(はたはた)の押し寄せて来る海の色

  国後を指呼に流氷ただよへり

  更けて尚おわら踊の辻流し

  カルデラに飛び火のごとく草紅葉

  横座にはまたぎの座る熊の皮

海外詠も多国に渉り

  夕立晴れ氷河の湖はエメラルド(カナダ)

  ランタンの淡き灯りや春の雨(中国)

  白秋のマッターホルン雲遊ぶ(スイス)

  菩提樹の花の街道馬車の鈴(ドイツ)

生活に密着した句も

  田起しの土の匂ひて春近し

  徒然に書く旅日記月朧

  寒析の遠退く音や地酒酌む

社会の動きも機敏に捉え

  黴の香や座して商ふ古本屋

  世話焼きの指図あれこれ川施餓鬼

人生や心象を詠って

  雑音の玉音遠き終戦日

  余生なほ為すこと数多大根蒔く

   年長けて日月早し麦の秋

   自分史に余生のことを秋夜長

   種袋振ればいのちの弾みけり

 挙げ出したらきりがない。白魚火のモットーは「わが俳句足もて作る犬ふぐり 西本一都」で、栗田氏の句集「熊の皮」の読後感はこのモットーを彷彿とさせる。仄々とした読後感を頂いた。

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2011年9月 9日 (金)

みんみんが鳴いた

信州の夏は蝉時雨などと言われるように蝉の天国でもある。
其の中でも、みんみん蝉の鳴き声は一際高く、特に鳴き始めから鳴き終わりにかけては序破急があって、この声を聞くとしみじみ故郷を感じる。

昔の子供らは良く蝉を取って遊んだものだが、最近はそんな光景を見る機会が少なくなった。子供らの遊び方も随分変わった。

浜松へ来てから、いつの間にか60年経った。その間に浜松の自宅でみんみんを聞いた記憶がない。
ところが昨日(9/8)15時頃、みんみんの鳴き声を聞いた。鳴き声は少し遠方からだったので、始めは耳を疑った。空耳ではないかと思った。しかしこの歳になっても耳は割合確かなほうなので、聞き直してみても間違いなくみんみんの鳴き声だった。鳴いたのは一匹だけで時間はせいぜい1分か2分くらい。それでも懐かしかった。

しかし60年も聞かれなかったみんみんが何故今頃になってこの地で鳴いたのだろうか。
3月の東日本大震災、そして今度の台風禍等、異常気象との関係もあるのだろうか。今年は全国的に蝉の鳴き声が少なくなったと聞く。気象と言えば、「環水平アーク」を3年ほど前に見たことも思い出した。

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