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2011年8月31日 (水)

統帥権

文芸春秋八月特別号に「心に灯がつく人生の話」と題して、城山三郎、吉村昭、司馬遼太郎等10人の名講演集を掲載している。

そのうちの司馬遼太郎の講演は『日本の「電池」が切れるとき~組織というものは40年でダメになる』という題で講演している。(1992/06/02、東京よみうりホールでの講演)
その中で、「文章と其の解釈の重要性」に就いての論説がある。
其の中から適宜引用させて頂く。

『明治22年に憲法が出来た。其の憲法の基本に~これが日本の破滅につながるのだが~統帥権というものがあり、いま考えても嘘のような憲法解釈があった。陸軍ないし海軍の一番偉い人間が内閣総理大臣に相談もせず、隠れて天皇に会うことが出来る。これが「統帥権」で、帷幄上奏と称して総理大臣以下を無視して決める権利を持った。これが統帥権の基本で、日本を好きなようにしてしまった。』

『実は憲法が出来たけれどその解釈学が必要と言うことになり、美濃部達吉がイギリスへ、佐々木惣一がドイツへ留学した。
美濃部はイギリスに行って「天皇機関説」を考えたが後にそのために追われることになった。昭和10年のこと。』
『美濃部も佐々木も憲法解釈の本を書いた。二人とも三権分立を熱っぽく書いたが、その三権分立の最後に、小さな活字で「」と書いてあって、
美濃部の場合は「わが国の慣習として統帥権というものがある」と一行あるだけで統帥権は何かとも書いていない。
佐々木もそっくりの文章で「わが国の慣習として統帥権というものがある」と記されているに過ぎない。
イギリスは慣習の国であって、美濃部が、我が国の慣習として統帥権というものがあると書くのは「註」としても重い。ドイツは成分法の国で慣習を認めない。そういう意味では美濃部のほうが重大で、あとで「軍という魔物」をつくり出すもとになった。』

『日露戦争はやっと勝ったというのが実情であと1ケ月続いていたら駄目になったでしょう。しかし、やっと勝ったということを、新聞・雑誌・教育の現場で一度も教えなかった。バカな話で、軍が秘密にして、秘密にして、秘密にして遂にのちの戦争で国を滅ぼした。』

『昭和14年にノモンハン事変が起こった。ノモンハンは大平原で行われ、向こうは完全な機械化部隊だった。ところが日本軍は織田信長の軍隊のようだった。それは当時連隊長ををしていた須見新一郎氏の実体験で、其のことを氏自身が語っている。』

『昭和の始めぐらいの陸軍ではモスクワ駐在武官に何人も行っているが「ソ連の軍隊は日露戦争の時のロシア軍ではない。凄い近代装備に変わっている」などと書いたら「狂ソ病」として出世が止まった。』

『日本という国は恐ろしい国です。日中戦争を昭和12年に始めて、その間にノモンハンで敗戦し、それから僅か2年で太平洋戦争をやる国だ。それは全部、憲法の統帥権が悪かったからだ。』

『兎に角明治40年までは素晴らしい国だった。それがバルチック艦隊の最後の一艦が沈んでから悪くなった。』

8月30日のNHK「さかのぼり日本史~満州事変・暴走の原点」で、軍は遂に昭和天皇の意志も無視して暴走した実態を報道していた。それがのちに、何百万もの犠牲者を出した太平洋戦争につながった。
今、憲法第9条の解釈を巡って、自分に都合の良い様に、勝手に解釈をしているのが気になる。

今日で敗戦月の8月が終わる。

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2011年8月23日 (火)

人生の岐路

長い人生のうちには何回かの岐路があり、その都度選択と決断の時がある。

2、3週間ほど前だが、朝ドラの「おひさま」の中にもそんな情景があって感動的だった。

陽子が、校長先生に呼ばれ、「丸山先生(陽子)と高橋先生のどちらかに職を離れて欲しい」と言われた。
陽子は悩む。自分は先生になりたくてその道を選んだ。戦後、今まで教えてきた内容がどんでん返しになって悩みながら漸く進む方向が見えてきて、気持ちの上でも何とか落ち着きが戻ってきた矢先の事だった。

彼女は一人で悩む。しかしそれは何時しか夫の和成にも判るようになる。其処から夫婦の会話が始まる。会話の詳細は忘れたが凡そ次のようなものだったと記憶する。

「陽子は高橋先生のことをどう思っているんだい」
「高橋先生は優れた先生だと思っています」
「若しそうなら、陽子が残ろうと思うと、高橋先生に対しては失礼になるんじゃないかなあ。
だから高橋先生のことを考えるのは止めて、自分のことを考えよう。
陽子は先生になるのが夢で、これからも先生を続けたいのなら断固拒否したらいい」

「でも先生でない生活を考えたこともなかったよね。ゼロから考えてみよう。まだ私達には十分時間がある」
「私もなんとなくそう思っていました」
「なんだそれなら陽子は答えを決めていたんじゃないか」
「いえ、和成さんの言葉が引き金になっただけです」
「身の丈に合った世界を築いてゆこう。太陽の陽子として」

「一クラスは48人でも、その何組も持ってきた事を考えたら、小さい世界といっても凄い数だよね。その生徒が卒業しても陽子は、何時までもその子たちの先生なんだ」

ドラマの世界とは言え、自分史と重ね合わせて感動の選択の場面だった。

愈々卒業式を迎えた陽子の気持ちは痛いほど伝わってきて、万感胸に迫るものがあった。
今では聞かれなくなった「仰げば尊し我が師の恩」を生徒が立ち上がって一斉に歌うシーンを見て何かがこみ上げてきた。

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2011年8月 6日 (土)

虫送り

虫送りとは、晩夏から初秋、農作、特に稲作の害虫を追いやる行事。イナゴ・ウンカ・ズイムシなど稲の害虫を駆除する願いを込め、害虫の悪霊を村から追い出すために行う。村人や子供たちが集まり、松明を点し人形を押したて、鳴り物を鳴らし「稲虫、送らんか」などと囃しながら木の枝で地面を叩くなどして、村境の山、川、海へ虫を追い立てる』と、歳時記には載っている。

Mさんから、8月5日の夜8時から、浜松市金折町で虫送りの神事が行われるから良かったら見に来ませんかとお誘いを受けた。
このような素朴な行事が今も続いているのは珍しい。
神事は女禰宜さまの祝詞から始まり、終わると杉と竹と藁から出来た舟形に津島神社の神札が載せられ(写真)それを先頭に、大松明約60本が次々と1km先の磧まで続く。
Photo 大松明は麦殻を束ねて作られ、その先を大篝から点火したものを、一人一本づつ抱え、束ねた所まで火が燃えてくると束ねた藁を解き、火勢をそのまま保ちながら安間川の磧まで運ぶ。
Img_2055 最近は麦を作ることが少なくなったので、麦殻を集めるのに苦労しているとは祭役員の話で、それでも約60本の大松明は写真のように抱えられて続く。磧までの道筋には消防団も満を持して待機している。

静岡県では他に岡部町あたりでも続けられているようだが、維持が段々難かしくなってきているようだ。
自然に対する畏敬の念を忘れない為にもこれからも存続させたい行事の一つでもある。

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