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2011年6月30日 (木)

句集「春潮」

「馬酔木」「海坂」同人の、間宮あや子さんから句集「春潮」を頂いた。

「あとがき」で著者が記しているように、句集名春潮は水原春郎馬酔木主宰が新人賞予選句に取り上げた、
   春潮や力を抜けば生きやすく
から採られたもの。天竜川河口近くに住み海濤音を聞いて育った著者の環境が偲ばれる。Photo
俳句には著者の人間性がそこはかとなく滲み出るものである。
家族のこと、恩師や友人のこと、生活や旅のこと、自然や人間自身のこと等々本句集を読んでその想いを深くする。

作句と選句は表芸、論評は裏芸と言われる。
筆者のような、浅学非才の身が、論評したり、選句したりするのは憚られるが、敢えて、独断と偏見を交えて取り上げさせて頂く。

主題(焦点)と表現、季語と取り合わせ、そして俳句の深みと言った観点からすると、焦点がきっちりとしているので句に揺るぎがない。洗練された言葉と表現、滑らかなリズム感、歴史や文化を踏まえた表現等々に句の深みを感じる。

句集は、銀の匙・桐の花・漁火・福達磨・鯛焼・形代・初芝居の7章からなり、計392句が納められている

家族を詠った句が多く、特に母上との血の通った句が目を引く、
  初春や離乳始まる銀の匙
  頼りたき母に頼られ夏逝きぬ
  冬ごもる母にすさびの毛糸買ふ
  装ひて目立たぬ母の花衣
  着ぶくれて母に失せざる負け嫌ひ
  逆縁も老いれば淡し魂迎
  初日記母ある限り命惜し
  曝書して子の青春を垣間見し
  振り返るかに形代の流れけり
母上を亡くされた後、漸く生活にも落ち着きが戻ってきて、
  独り居も過し上手となりて春
  迎へしも送るも一人門火焚く
  鯛焼の一つが言へず三つ買ふ
  春潮や力を抜けば生きやすく
自然や人間自身を見つめて、
  引潮や日の晒しゆく蜷の道
  火伏護符古りし窯場や下萌えて
  決断と言ふもひそやか松の芯
  花尋めて深入りしたる真葛原
  湿原の風の錆びゆく桷の枯れ
  登りつめ己れ揉みあふ藪からし
  青葉木菟鳴くたび月の濃くなりぬ
  さりげなき一語のぬくみ葛湯吹く
自分史を築きながら真摯に生きて、
  木枯や何にともなく身構へて
  寒九の水飲みて弱気を封じたる
  駆け抜けし月日の嵩や古暦
  ほどほどの思案にほどく懐手
  遺すものなき身軽さや葛桜
恩師や友人との関わりも深く、
  笑むのみの病臥の友や鳥渡る
  葛切や師に終生の京なまり
  牡丹鍋師弟の垣の高からず
  手を握るのみの見舞や遠蛙
世界遺産研究会にも長年加わって、海外詠も含めて旅吟も多く、
  手織機ひびく遅日の飛騨格子
  春聯や雑踏に吹く朝の粥
  南十字星夜凉に兆す旅愁なり
  中原の空けぶらせて麦焼く火
  大の字の撥ねきつちりと大文字
  数珠玉や島の起伏に馬柵の沿ひ
  安曇野の水の高鳴る旧端午
巧みな表現方法は著者の感性によるものか、
  如月の崎の風揉むフェニックス
  一乗谷春雪の空定めなき
  蝶あまた草に溺るる夏野かな
  休暇果つすでに翳持つ少年期
  巻藁のぬくみほどきて苗木植う
  噛み合はぬ思ひかきまぜ氷水
  網繕ふ指に春光捌きつつ
  大根引地軸の暗さ覗きけり
  豆稲架のつぶやき止まぬ日和かな
  涅槃図や慟哭固く巻かれたる

挙げ始めたら切がない。あや子さんの人生の一端を垣間見る想いがする。自分を見失うことなく心豊かな日々をこれからも送って下さい。
爽やかな読後感を頂いた。 

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2011年6月28日 (火)

犬山城

吟行会で犬山城へ。
国宝に指定されている城は、犬山城・松本城・彦根城・姫路城の4城でその中で最も古いのが犬山城である。

犬山城は別名「白帝城」とも呼ばれている。江戸時代の儒者・荻生徂徠李白の詩からとって命名したと伝えられている。
  『早(つと)に白帝城を発す  李白

   朝(あした)に辞す白帝 彩雲の間(かん)
   千里の江稜 一日にして還る
   両岸の猿声(えんせい)啼き住(や)まざるに
   軽舟已(すで)に過ぐ 万重(ばんちょう)の山』
Img_1880 訪れた日は終日梅雨曇りだった。天守閣入口に、内藤丈草句碑が立っている。
    涼しさを見せてやうごく城の松
天守閣の階段は段差が大きい上に急峻で手摺に縋って登る。流石に天守閣の頂から見る景は素晴らしい眺めで木曽川がゆっくりと流れているのも景に花を添える。

『犬山城は天文6年(1537)に織田信長の叔父に当る織田与次郎信康によって造られた。
戦国時代だったので、その後何代も城主が代ったが1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭が整備された。
小牧長久手合戦(1584)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を敷いた徳川家康と戦った。
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和4年(1618)城主となってからは、成瀬家が代々受け継いで明治に至った。
明治4年(1871)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物は殆ど取り壊された。
明治24年(1891)の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れたのでそれを修理する条件で再び成瀬家所有となった。
その後伊勢湾台風などでも被害を受けたが、昭和36年(1961)から40年まで4年間をかけて解体修理を行った。望楼型の独立天守で、高さは24m。
Img_1892_2 平成16年(2004)4月、財団法人犬山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法人になった。』

天守閣から歩いて15分位の所に、その中に国宝茶室如庵」を持つ有楽苑(うらくえん)がある。
織田信長の実弟・織田有楽斎は尾張が生んだ大茶匠。その有楽斎の遺した茶室や隠居所などを、和の心たっぷりの庭園美とともに味わえるのが、ここ有楽苑。中でも茶室・如庵は国宝茶席三名席の一つに数えられ、「日本の美の極致」とも評される。

吟行では皆が同じ時に、同じ場所を歩き、同じものを見ながら、斯くも違った見方をしこんなにも違った句が出来るものかと驚く。

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2011年6月27日 (月)

信濃追分宿と小田井宿

江戸からの道が旧北国街道と中山道に分岐する所に「分去れの道標」がある。その分岐箇所に、(信濃)追分宿がある。

Img_1789_2 追分宿は、旧中山道の宿場町だった往時の趣を色濃く残す。幕府からの通達文書を掲げた高札場が復元されており、周辺には「旧本陣跡」「脇本陣油屋旅館」「枡形の茶屋」といった見どころが点在。「軽井沢追分宿郷土館」では、当時の宿場の様子などが展示されている。西はずれに北国街道と中山道の分岐点「分去れ」がある。
周辺は堀辰雄など多くの文人に愛された場所でもある。

「分去れ」から中山道は国道18号線を斜めに横切り小田井宿へと続く。
Img_1851 小田井宿(おたいじゅく)は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられた。
昭和に入って数度の工事で道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられたが、東・西の入口にあった枡形も僅かにその形をとどめている。
文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され「姫の宿」とも称されている。
街道の繁栄期は文化・文政期で、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場のだった。

付近に「御代田の一里塚」がある。

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2011年6月26日 (日)

おひさま

NHKの朝ドラ「おひさま」は、先の太平洋戦争が次第に敗色濃厚となってゆく場面に差し掛かっている。
ヒロインの陽子(井上真央)を中心に、親友の真知子(マイコ)、育子(満島ひかり)との関わり合いを通じてドラマは進行してゆく。

昭和20年3月10日の東京大空襲直後の場面。陽子と真知子は、東京で戦災に遭った育子を探し求め、力づけ、安曇野に連れ戻すシーンも感動的だった。
その時の彼女らの友情を示す演技は、我々の学生時代に良く口にした「友の憂いに吾は泣き、吾が喜びに友は舞う」の歌詞ぴったりで、思わず涙ぐんだ。
思えば彼女らの演じている時代は我々の青春時代そのままで、彼女らの演技が真に迫ってくるのは、我々老人の生きてきた時代とラップして映るからで、当時を思い起こして時に泪目になる。

今のような子供手当てなども無いどころか貧しい中、折角苦労して育てた我が子を、赤紙一枚で召集され、明日の命の保証も無い戦地に、送り出さねばならなかった親御さんはどんなに辛かったであろうか。

私の兄も赤紙一枚で招集された。赤紙が届けられた時は取り入れ作業の最中だった。村役場から使いの人がやってきて、「おめでとう御座います」と言いながら赤紙を父に渡して行った。父は無言だった。母の顔色が変わったのを覚えている。

「おひさま」の中で息子の戦死公報が届くのではないかとオロオロする母親の姿が描かれるシーンは頷ける。

「あなたは勝つものと思ってゐましたか」と
         老いたる妻のさびしげにいふ
は敗戦時、歌人・土岐善麿の歌であるが、戦争は非情であり、召集される若者には突如としてやってくる赤紙だった。

東日本大震災も突如やってきた。あれから3ケ月半。原発問題も考えると、戦時中の東京大空襲等を彷彿とさせる過酷な現実を思う。それを思うと犠牲者には慰める言葉が無い。ただ一日も早く立ち直れるように國を上げて援助して行かねばならない。

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2011年6月24日 (金)

株主総会

東日本大震災後の株主総会、その影響は各企業にも暗い影を落としている。
Y社の株主総会もそんな中で6月24日に行われた。総会自体は順調に終わり、前回前々回のように株主へのサービスとして、ミニ・コンサートが行われた。

工藤重典氏のフルート、彩愛玲氏のハープの合奏で、
  メンデルスゾーン作曲「歌の翼による変奏曲」
  イベール作曲「間奏曲」
が演奏された。普段は、ピアノ曲を聴く機会が多いので、この組み合わせは音色と言い、雰囲気と言い、一味違った温もりがある。
特にハープの演奏を聴く機会が少ないだけに、7本のペダル、47本の弦を自在に弾きこなすのには一驚する。
イベールの間奏曲はフラメンコ調で軽快だ。
ハープの最高音部の弦が一本切れたが間奏曲の演奏終了直前だったので問題にはならなかった。ハープはY社の吹奏楽団所有の楽器で、その場で瞬の間に張り替えられた。

Y社の吹奏楽団は、全国吹奏楽コンクールで金賞29回の実績を誇る楽団で定期演奏も行っている。
その吹奏楽団と上記二者の合奏が続いて行われた。
  モーツァルト作曲「フルートとハープの為の協奏曲 第二楽章」
で、普通は当然オーケストラとの共演になる。今回は吹奏楽団との共演ながら、弦楽器を持たない吹奏楽団が見事に弦楽器に近い音色を奏でたのは見事で聴き甲斐のある協奏曲だった。

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2011年6月22日 (水)

御代田(みよた)の一里塚

軽井沢町追分の「分去れ」から、中山道は国道18号線を斜めに横切って小田井宿(おたいじゅく)へと続いている。
その中間の「しなの鉄道・みよた駅」の北方に「御代田(みよた)一里塚」がある。
Img_1828 長野県教育委員会の「長野県史跡 御代田一里塚」に拠ると、
『中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井宿へと至り、更には佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿へと向かう。
中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長7年(1602)に整備され、寛永12年(1635)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5m。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4.5mである。
これらは、現中山道より7m離れた畑中に位置するため遺存状態も良く貴重である。
ちなみに、国道18号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が2基保存されており、町指定の史跡となっている。』

一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出し、10年ほどで完了した。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿であると言う。

本御代田の一里塚には見事な枝垂れ桜の巨木があり、春ともなれば塚を蔽って万朶の花を咲かせるだろう。
浅間山は塚の北方、指呼の間にある。訪れた日は、浅間山の嶺には雲がかかり、山の全貌を望むことが出来なかった。
昔は旅の交通手段と言えば、脚力が主体だっただけに一里塚へ寄せる旅人の想いも格別なものがあったであろう。

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2011年6月21日 (火)

分去れ(わかされ)の道標

信濃追分(現、軽井沢町大字追分)に「分去れ(わかされ)の道標」がある。

江戸からの道が、旧北国街道と中山道とに分岐する所である。(現在は更に浅間サンラインが直ぐ近くに通じている。)
分岐点の頂点に当る三角点から奥へ、道祖神・道標・森羅亭万象歌碑・常夜灯・史跡表示・地蔵尊等が並び、ほんの一角ではあるが詩情豊かな場所である。訪れた6月中旬は新樹の中にあった。

軽井沢町教育委員会と軽井沢町文化財審議委員会の名で「分去れの道標」について解説文が立っている。
『(右、従是北国街道  左、従是中山道)
中山道と北国街道の分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
右は北国街道姨捨の「田毎の月」で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。』
Img_1809  「道標」の正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中山道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年(1679)三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われる(以下、碑文の良く読めぬところは一部ネット情報から引用した)。

更にその奥に、同じく「史跡追分宿の分去れ」についての解説文が立っている。
『中山道と北国街道の分岐点である
 「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」
とうたわれているように、此処を右すれば北国街道の名所の更科や越後路に、左すれば桜の名所吉野や関西方面に分かれたところである。此処に幾多の旅人や様々な感慨をこめて左右に袂を分かったことであろう。
安置された石仏、石碑、石燈籠等に昔がしのばれる。』
Img_1804 Img_18031jpg
地蔵尊の台石には、
「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿」
と刻まれている。
台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれている。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されている。


 「森羅亭万象の歌碑」には、
  「世の中は ありのままにそ霰ふる かしましとだに 心とめねば」と彫られている。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれている。

歌碑の奥には常夜灯がある。中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られている。

中山道は分去れから国道18号線を斜めに横切って小田井宿(おたいじゅく)へと続いている。 

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