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2010年9月16日 (木)

落慶

先に、「浜松周辺の見所」を紹介した中に、臨済宗大本山「方廣寺」の欄がある。その本堂は前述のように、明治38年(1905)から大正7年(1918)にかけて竣工された。

Photo 昨年(2009)4月から、本堂の平成大修理が行われていたが、この9月1日にその落慶法要が盛大に行われた。

写真は今年(2010)1月3日、本堂大屋根修理の模様で、大量の瓦の葺き替えや、足場だけでも大変なものだと思った。(写真はクリックで拡大します)
ただこんな時だからこそ見られる景でもある。

偶々或る会合で、9月1日に訪れた時、落慶法要が行われていた。まだ修理が行われていると思っていたので、まさかそのような法要の場を見られるとは予想していなかっただけに僥倖だった。

本堂の裏に舎利殿がある。其処へ階段を上ってゆく途中から下を見ると、修復成った本堂を含めて塔頭の甍が煌いていた。写真はその景で遠方には三重の塔も望見出来る。目の前には百日紅(さるすべり)が綺麗に咲いていた。
Photo_2 落慶法要に参加している20数名の僧侶の一斉唱偈や転読の景は圧巻である。
初勤行を詠んだ句に、
     海鳴のごと百僧の初読経    鹿島四潮
がある。そんな句を彷彿とさせる景でもあった。   

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2010年9月15日 (水)

浜松周辺の見所

10月3,4,5の3日間、S誌の全国大会が浜松で行われる。
遠方より来られる方への手引書代わりに、近場の人の再確認代わりに、S誌と関係のない方へのご紹介として、浜松周辺の主たる見所に就いて記す。

遠州と三河、南信濃を含めて三遠南信と呼ばれ、南北朝や戦国時代に絡む史跡に富んでいる。特に戦国時代の戦跡に絡む名所は、浜松城と三方原古戦場址の犀ケ崖を挙げることが出来る。
浜松城
浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)岡崎城からこの城に移り、駿府城に入るまで約17年間、この城を本拠として徳川三百年の基礎を築いた。

家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在職中に老中にまで栄進した人が多い。このことから世に出世城と言われる。

現在の建物は昭和33年(1958)に再現された。

    石垣

 石垣は荒々しく、粗雑で一見崩れやすいように見えるが、400年余の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している。石垣は野面積みで、慶長以前はこの方法が多く用いられた。

    天守曲輪

 ここは丘陵の西の端の最も高い所にあり、北東と南東に張り出した菱型に近い形をしている。周囲は低い土塁があり、その下に石垣をめぐらしている。

    井戸

 この井戸は銀明水と呼ばれていた。浜松城には10本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。

    浜松城公園日本庭園
 この庭は、自然地形の高低差と、水との関連も考慮して広葉樹が多く植えられている。谷間に上、中、下の三段池と夫々に大滝、小滝、滑滝が設けられ、上池に石橋、下池に木橋が架けられ庭園の添景となっている。庭園の各所には石灯籠が配置され、敷石には切石敷・寄石敷・玉石敷が配置されている。

犀ケ崖
 三方原古戦場で、唯一特定出来る場所が、この犀ケ崖古戦場である。

 犀ケ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないが、この付近から下流約450㍍の間に、急な崖が連続している。しかし当時の崖の大きさや深さは今は、はっきりとはわからない。元亀3年(1572)12月、家康は三方原において武田信玄に一戦を挑んで大敗し、浜松城に逃げ帰ったがその夜、犀ケ崖付近で地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。崖上の宗円堂には、この戦による両軍の死者の霊が祀られており、付近には家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の碑や、しんがりを務めて壮絶な討ち死をした本多忠真の碑が犀ケ崖を凝視するように立ちつくしている。崖の北には大島蓼太の「岩角に兜くだけて椿かな」の句碑が建っている。

    

臨済宗大本山方廣寺
 臨済宗大本山方廣寺は、建徳2年(1372)後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開創された禅寺で、遠州地方中心に末寺170寺を持つ臨済宗方廣寺派の拠点である。俗に黒門と呼ばれる総門をくぐると、前方に朱塗りの鮮やかな二層の楼門が見える。正面の「護國」と揮毫された大扁額は高松宮殿下の御染筆によるもの。この楼門が方廣寺の正式な山門にあたる。山門を過ぎると道は二手に分かれ、右は通称「らかん坂」で本堂・半僧坊へ、左は通称「哲学の道」と呼ばれ、半僧坊・七尊堂・三重の塔方面へ連絡する。本堂の近くに、半僧坊大権現が鎮守として祀られている。

    らかん坂

 参道の両側には奇岩が露呈し、その上に五百羅漢の石像が此処かしこに安置されている。羅漢の表情は豊かで見る人の心を和ませてくれる。

    哲学の道(半僧坊表参道)

 道に沿って小流れがあり、その傍らに椎河龍王の祠がある。渓を跨いだ朱色の亀背橋と呼ばれる木橋は安全の為、一度に10人しか渡れなかったが、現在は通行禁止となっている。橋を渡らずそのまま進むと七尊堂の前に出る。    

本堂

 明治38年(1905)から大正7年(1918)にかけて竣工されたもので、東海屈指の建造物である。中央に「深奥山」の山岡鉄舟の筆になる大扁額が掲げられている。本堂中央に釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が祀られている。

    「らかんの庭」と舎利殿

 本堂裏の「らかんの庭」は江戸時代宝歴年間(1751~1764)に造られ、斜面を利用して幾多の羅漢が安置されている。更にその高所には京都銀閣寺風二層式の舎利殿がある。

    半僧坊真殿

 鎮守半僧坊大権現を祀る。明治14年(1881)の大火直後に、再建された。

    七尊菩薩堂(重要文化財)と三重の塔

 七尊菩薩を合祀した鎮守堂で応永8年(1401)建立。杮葺造りで県下最古の建物。其処から左へ進むと朱塗りの三重の塔がある。大正12年(1923)建立、寄進された。

    

周辺の名所   

    舘山寺とその周辺
 浜名湖に突き出した庄内半島の先端に標高50㍍の舘山があり、この麓の舘山寺は、曹洞宗の禅寺で、弘仁元年(約1200年前)弘法大師により開創されたと伝えられている。本尊は虚空蔵菩薩で、秋葉三尺坊大権現が鎮守として祀られている。隣接して縁結地蔵尊があり、更にその横に愛宕神社がある。

 半島先端一円は良く整備された遊歩道が巡らされ、浜名湖の内浦(舘山寺温泉方面)と湾外の景観を楽しむ事が出来る。

 舘山山頂には景勝地の象徴として、高さ約16㍍の大観世音菩薩像が昭和12年(1937)建立された。

舘山の中腹の東側には穴大師がある。弘法大師が舘山寺開創の折、籠もった霊窟で、奥に自作の石仏が祀られている。

半島の北端に展望台があり、奥浜名湖一帯を望見出来る。近くの富士見岩は天気が良ければ二つの岩の間から富士山が見える。更に半島の最東端に西行岩があり、西行法師はここでよく瞑想に耽った。「館山の巌の松の苔むしろ都なりせば君もきてみむ」と、この岩上で詠んだ。

舘山寺の麓に広がる舘山寺温泉地と、対岸の大草山(標高113㍍)を結んで、ロープウェイが湖上を走る(所要時間は約4分、往復800円)。降りた大草山山頂には浜名湖オルゴールミュージアムがあり、エレベーターで屋上に上ると浜名湖全景が展望出来る。直ぐ近くに国民宿舎「浜名湖舘山寺」がある。

龍潭寺と井伊谷宮 
 方廣寺への道を左手に折れると龍潭寺と、井伊谷宮がある。

龍潭寺は、天平7年(733)行基菩薩により開創され、現在は臨済宗妙心寺派の古刹で本尊は虚空蔵菩薩である。宗良親王・井伊家の菩提寺としても知られ、池泉観賞式の庭園は、小堀遠州作と伝えられる。堂塔六棟はいずれも江戸時代の建造物として県の文化財に指定されており、本堂内には丈六の釈迦如来像も仮安置されている。鴬張りの廊下と共に左甚五郎作といわれる龍の彫刻や龍潭寺屏風等の寺宝は本堂内に保存され、本堂の左手に朱塗りの楼閣造りの開山堂があり、塔上に井伊家の家紋がある。御霊屋には幕末の大老井伊直弼の位牌が安置されている。

龍潭寺に隣接して旧官幣中社井伊谷宮がある。後醍醐天皇の第四皇子宗良親王を祭神として明治5年に創建された。学問・開運の神として尊崇されている。大鳥居をくぐると左手に絵馬史料館がある。妻入り本殿の横には、ご神木と史料館があり、周囲には宗良親王歌碑や水原秋桜子の句碑、慈母観音石が建っている。本殿背後に宮内庁所管の宗良親王ご陵墓が京に向かってたてられており、普段は石の柵と扉に閉ざされている。  

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2010年9月 8日 (水)

視点

切り口を変えてみると、一つの物にも色々の顔のある事がわかる。円筒形を或る切り口で切って見ると、円であったり、楕円であったり、或いは矩形であったりする。

視点鳥瞰的に変えて見たり、虫瞰的に変えて見たりすると、普段見慣れている風景も違った姿を現し、思わぬ造形美を発見して感動することがある。

灯台なども最近では無人化して内部を見学することもままならないが、中の螺旋階段を上り詰めて、外へ出てみると、眼前に素晴らしい風景が展開するのは良く経験することである。その螺旋階段を上から覗くと、蝸牛のような景に見えて面白い。
以前、旧友と御前崎灯台へ行ったことがあり、その時の景を思い出す。ただ螺旋階段の写真を紛失してしまったのは残念だ。

螺旋階段と言えば、ガウディ建築の集大成とも言われる、バルセロナの聖家族教会サグラダ・ファミリア)内の螺旋階段、又は偶々泊まった同じバルセロナの、Aホテルのそれを思い出す。写真左は教会の、右はホテルのそれを示す(写真はクリックで拡大します)。
Sagrada_familia5a Img_9383_36
教会内見学用には、約300余段の螺旋階段(無料)やエレベーター(有料)がある。教会内部を見学する時間がなかったので、螺旋階段の写真は他から流用したが、聞くところに拠ると、2006年の夏まで、螺旋階段で上ることが出来たが、現在は、エレベーターしか利用出来ないという。
鳥瞰的に見るとこのように見えるのは面白い。
教会とホテルの螺旋階段とでは規模も違うが、それにしても両者とも見事な造形美である。

それほど大袈裟なことではないが、普段見慣れているものでも、視点を変えて見ると、面白い発見があるかもしれない。.

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2010年9月 3日 (金)

残暑

今年は113年ぶりの猛暑と言う。

気象庁は1日、今夏(6~8月)の全国の平均気温が平年より1.64度高く、1898(明治31)年の統計開始以来最高だったと発表した。特に8月は平年を2.25度も上回った。暑さは9月も続く見通しで、1日も気象庁が観測する921地点中242地点で9月の観測史上最高気温を記録。157地点で35度以上の猛暑日、789地点で30度以上の真夏日となった。気象庁は「異常気象」として3日に専門家などによる分析検討会を開く。(毎日新聞)

立秋を過ぎると残暑と呼ばれるが、政界の混沌腐敗を含めて矢張り猛暑の感が強い。

俳誌「海坂(うなさか)」に松平和久氏が、蛇笏賞作家である相生垣瓜人(あいおいがき かじん)の『句集「負暄(ふけん)」私解』と題して残暑の句を取り上げている。
    歌ふべし何処まで続く残暑ぞと  瓜人
『残暑に参った気持ちを詠んでいるのは当然として、なぜ「何処まで」なのか。幾度か口に上せているうちに、「歌う」が気になり始める。瓜人の句は、古典や漢詩文を下敷きにしているから難しいと聞くことがある。それらを下敷きにすることも確かにあるが、そればかりではない。これは軍歌が下敷きになっていると気づく。
何処まで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ 三日二夜も食もなく 雨降りしぶく鉄兜」云々。「討匪行」の冒頭である。満州、今の中国東北区の植民地化を進めていた昭和初期の軍歌。藤原義江のテノールがかすかに耳に残る。国家の領導した戦争をうたう歌詞を、庶民の日常の感懐をよむことばに転換させる。ここに戦争への郷愁を読み取るのは正しくない。ここにあるのは風刺の精神であり、これこそが俳諧の精神なのである。』

とに角残暑猛暑が厳しい。

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