« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月15日 (火)

藤沢周平の「一茶」

藤沢周平の時代小説は何れも人肌の温みがある。
小説「一茶」もその一つ。一茶は、私の生家からは比較的近く、雪深い信州柏原の産。
写真は1981年、文春文庫として刊行されたものを、2009年4月に新装版として発行されたもの。
1
周平は山形師範(現山形大学)卒業後、郷里で中学教師を勤めていたが、、就職後2年、結核に侵され、闘病生活中に休職期間が過ぎて復職が出来なかった。このことが結果的に彼の運命を変える事になる。

闘病生活中、病院の中の句会に入り、静岡の俳誌「海坂(うなさか)」に投句し、指導を受けた。その後次第に句作からも遠ざかったが、それが機縁で俳句に関する書物を読むようになり、小林一茶と出会うことになった。以後の彼の時代小説の舞台となる「海坂藩」の誕生は、俳誌「海坂」の名前から取られたものでその経緯は「藤沢周平と海坂」に詳しい。

解説の文芸評論家・藤田昌司氏は概略次のように言う。『本書は、あくまで藤沢周平の視線から捉えられ、息吹を吹き込まれ、現代に蘇生させられた一茶である。一茶に対する周平の並々ならぬ執着を感じさせる意味からすると、あくまで周平の一茶である。』

幼児、生母に死別し、継母に冷たく扱われ、不幸な幼少期を過ごし、15歳で江戸に奉公に出された。以後10年間の詳細な記録は消えてしまっている。その間の足跡は周平の想像で描かれている。
   痩蛙まけるな一茶是に有
   雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
等は幼児の記憶から滲み出た人間性の一端を詠ったものであろう。

藤田氏は続いて、『それ以後の足跡はかなりはっきりしている。
   秋寒むや行先々は人の家
   秋の風乞食は我を見くらぶる
40歳を過ぎてなお、こんな貧乏句を詠んだ一茶である。そのような漂泊と赤貧に疲れた初老の男の悲哀に、周平自身の運命を重ねながらこの小説を書いたものと思われる。

(一茶の晩年は、義弟との遺産相続争いや、50歳を過ぎてもらった若妻との生活。次々愛する子をなくす運命。)

藤沢周平の書こうとしたのは、そのような一茶の「ただの人ぶり」であり、ただの人のままに「非凡」だという複雑な人間の研究であった。
一茶は生涯に2万句を詠んだと言われる。或いはその何倍かの句を詠んだかも知れない。……
「慈悲心とか小動物を可愛がる心があったといわれるが、そうではなく何でも詠んでやろうというところがあったんですね。エキセントリックな性格があって、小さなものに執着した。それは慈悲心なんかと関係ないんです。」と周平は私とのインタビューにこたえ語っている。
周平は最も好きな句として、
   木がらしや地びたに暮るる辻諷ひ(つじうたい)
   霜がれや鍋の墨かく小傾城(こけいせい)
の2句を挙げる。
「地びたに暮るる…」と、辻諷いと共に街行く人びとを見上げるローアングルの視線に共鳴し、「霜がれや…」の句は、芭蕉の「ひとつ家に遊女もねたり萩と月」や、其角の「小傾城行てなぶらん年の昏(くれ)」などと比べれば、人生の底辺に生きる人間へのよりそい方がわかるであろう、というのだ。
そしてこのような一茶への共鳴のしかたこそ、藤沢文学のもつ肌のぬくもりであり、心にぬくもりを失った現代人にとっての魅力でもあるといえるだろう。』 

おわりに、  
   はいかいの地獄はそこか閑古鳥
   細る也蚯蚓(みみず)の唄も一夜づつ
   古利根や鴨の鳴夜の酒の味
   是がまあつひの梄(すみか)か雪五尺

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月 9日 (水)

岬鼻

S誌6月号の「現代俳句を読む」の中で、N氏は次の句を取り上げて評を書いている。

  囀りのあふれてきたる岬鼻  鳥井 保和

『岬鼻。足下から始まる海は、孤を描く水平線まで続く大海原である。岬の突端に向かって歩く時、大眺望の開けない前から、その昂ぶりを覚えるものだ。自殺の名所となった岬では、一時期、様々な宗教団体が、立て看板で呼びかけをしたところ、反って自殺者が増えたそうである。岬の昂ぶりに雑音が加わって、自殺者の頭を混乱させたのだろう。
この句では「囀り」。中七の「あふれてきたる」が、その昂ぶりと重なる。囀りも余りに激しいと、快いよりは不安になるものである。その一方で、矢張り囀りは、その不安感と共に、生きることの喜びをも、精一杯、叫んでいるのだ。不幸や不安であっても、矢張り「生きることは素晴らしい」のである。』

この評を読んで思い出したのは、過日訪れた「白浜・三段壁」のことである。
土地の人は三段壁を「白浜の錦ヶ浦」とも呼ぶそうである。
過日の景は、凪ぎ渡った海と岬の開けた大景、岬鼻の岩に拠って釣りを楽しむ平和な風景であった。
しかしその平和な岬鼻も言われてみると、人によっては絶望の景に変わる恐ろしさも含んでいることを感じた。
三段洞窟から嵐をついて出撃する「水軍」のあった歴史を考える時、平和と嵐は表裏を為していると思った。そんな感慨を新たにしてくれる句評でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月 6日 (日)

白浜・千畳敷

白浜・三段壁に隣る瀬戸崎に千畳敷と言う景勝地がある。
太平洋に突き出た広大なスロープ性砂岩で、この凹凸の岩畳は第3世紀の柔らかい砂岩が、打ち寄せる荒波に長い間浸食されて出来たもの。
Img_0120

『新第3紀層の砂岩から成る、太平洋に面したスロープ状の岩盤。砂岩は非常に柔らかいため、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑な地形を形成している。 その広さはおおよそ4ヘクタールで、畳を千枚敷けるほどの広さであることが名前の由来。三段壁・円月島と並んで、白浜町の景勝地として知られている。

この場所から望む夕日の美しさは非常に有名で、広大な太平洋へ沈むその姿には、この地に訪れるものに深い感動を与える。

その一方で、砂岩は非常に柔らかいため、硬貨等でも簡単に削れる。それが故に、心無い者による落書き被害が後を絶えない。白浜町では条例で「都市公園の損壊行為は10万円以下の罰金」と定めてあるが、適用までにはなかなか踏み込めず、観光客らのモラルに訴えるしかないのが実状である。

2003年に、落書きを機械を利用して全てを消去する計画を検討したが、費用が高額になるため、見送りとなっている。落書きは自然風化により少しずつ消えるが、書き込まれるペースはそれ以上であり、今も岩盤には無数の落書きが刻まれたままである。』と、wikipediaには記されている。私たちが訪れた時も多くの落書きがあり、観光客の観光マナーが問われている。

この地は「和歌山県朝日・夕陽百選」にも選ばれている景勝地。
この地に立って、海から出る朝日を、海に沈む夕日を想像すると、大きな感動が生まれることを確信する。自然を大切にする気持ちが、「」にも通じることをしみじみ思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月 5日 (土)

白浜・三段壁

新しい政権が誕生した。新首相は14年ぶりの非世襲首相。橋本・小渕・森・小泉・安倍・福田・麻生・鳩山と続いた世襲首相にはそれなりのしがらみがあったことは確か。新政権が何処までやるかを注目したい。

旅といえば最近では、或る所用の序での観光か、お寺めぐりの序での立ち寄りかに限られていた。
そんなこともあって南紀白浜は過去2回通ったが何れも素通りだったが、今回はなんとか白浜海岸を散策することが出来た。
Img_0079_4 Img_0062_4

写真左は「円月島」右は「白浜海岸」。
円月島は陸地から僅かに離れた所。白浜海岸は文字どうり真っ白な砂浜で、塩田のように砂を盛り上げているのは観光用か別に理由があるのかは確認し損なった。

付近に三段壁(さんだんぺき)と呼ばれる岩場がある。Img_0089_2 Img_0091_2 Img_0092_2

前面の三段崖岩層の生成期は中期270万年前に於いて今日の基礎を構成したものと言われる。

Img_0106_2その岩の中に「十像岩」と言われる岩がある。
鼠・人面・スフィンクス・獅子・狼・狼・狼の遠吠え・人頭・人面と、岩の縁に沿って右回りに見て取れると言うが、そういえばそのようにも見える。岩の中程に弁天様も見え、そんな所からして十像岩と呼ばれるらしい。

三段壁からエレベーターで降りた所に大きな洞窟がある。三段洞窟と呼ぶ。

Img_0102_2 『第50代桓武天皇の頃、熊野鬼ケ城を本拠とした海賊多賀丸なる者がいた。
三段壁」もその頃は「みだん」と呼ばれて、海上を運航する船の状況を偵察したり、果ては魚群の様子を巌頭に立ってみる壇から、みだん三段になったといわれる。
鬼ケ城を本拠とする海賊(水軍)の隠し洞窟として使用されたと思われるのは、沖をゆく大船がある朝忽然と消えたり、燃えて没してゆくのを見たと古い記録にあり魔の牟娄沖と船夫に恐れられた』と由来書にある。

又、『熊野別当湛増は吉野十津川の兵とも糾合、総勢2000、熊野水軍と200隻の船に分乗し、若一王子の正体を榊の枝に奉じ金剛童子と描き、日月が東の山の端に出る勢威のもとに、源平両軍対峙する屋島の浦に向かって、ここ田辺湾を出発した』と、牟娄風土記に記されている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »