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2010年5月31日 (月)

乏しきを

自らは鍬を手に専業農婦として働きながら、偉大な夫を支えその力を存分に発揮させ、一方で立派に子を育て、且つ一流の歌人として足跡を残した、金子きみはその歌集「草の分際」の中で「物は心を食う」と題して次のような一文を残している。

『「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」こうした嘆息は日本人の普遍的なものだった。私たちもそういう生活を当たり前として生きてきた。……しかし戦後の経済成長はこの感慨を遠くした。便利、敏速、繁盛、斬新、溢れる物量に押しまくられて心は縮む。私にはそれが、ものが心を食べている姿に見えて仕方がない。』

このような嘆息は「或る年賀状」にも記されているし、 「母の世は」にも同じ趣旨の事を述べている。

時代が違うと言えばそれまでのこと。生活レベルが違って何十年も前のことを今更言っても始まらないと、したり顔する連中も居ることを、せんこく承知で敢えて一言を。

私たちの子供時代は、義務教育は尋常高等小学校の、尋常科だけでそれ以上の進学は、それなりの才能とそれなりの資力に恵まれたものだけに限られていた。
それだけではない。義務教育といっても、教科書は自費で買った。教科書を買うお金がなくて苦労した親御さんも沢山居た。だから教科書を開く時は押し頂いて開いた。馬鹿げた事をしたものだと言いたい奴は言うが良い。自分が金を出したものは大事に扱うのは自然の成り行きだし、当時の親はそのように子供を教育したものだ。
勿論義務教育を終えて更に進学した人は定められた負担を負うのは論を俟たない。

それがどうだ。今は教科書の無償配布。義務教育でも無い高校教育まで無償とは。

しかも子ども手当まで出す。将来のことを考えれば子供は国家にとって宝物であることは論を俟たない。少子化対策が緊急に必要なのは当然のことだ。
しかし子ども手当を満額支給したら子供が二人居る家庭では、子供が中学卒業までに1000余万円の支給を受けることになる。しかも年収とは関係なく支給される。「乏しきを憂えず等しからざるを憂える」と言う観点からしても、子供をつくれない家庭は、子供の居る家庭に対してそれだけ税金を負担しなければならない。これは一種の不平等である。

しかも子ども手当の内容を仔細に見ると驚くような内容であることに気がつく。すべて日本国民の血税であることを、何故かマスコミは報じない。
その内容は敢えて省略する。事務手続きをする各自治体の届け出内容の事実確認にも問題がある。しかも少子化対策として得られる効果の予測値が出されていない

少子化担当大臣は今まで何人代ったか知らないが、この程度のことしか対策として考えられないとすれば、金子きみが心配していたことが将に現実味を帯びてくる。

明日から6月

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2010年5月25日 (火)

中山道石畳

妻籠馬籠島崎藤村との関係で広く知られ年間を通して内外の観光客を数多く集めている。しかし馬籠へつづく落合の石畳は余り知られていない。

過日、中津川の人たちが其処へ案内してくれた。勿論馬籠や妻籠がその行に入ったのは当然のこと。Img_9890 中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠(じゅっきょくとうげ)の坂道を歩きやすいように石を敷き並べた道。
江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え制度化しその保護に努めたが、石畳には余り処置が施されなかった。そのためこの石畳も一時は荒れるに任せていたが、地元の人たちが勤労奉仕で原形を復元した
途中には矢張り地元の老人たちの奉仕で、昭和51年に植えられた「なんじゃもんじゃの杜」がある。「なんじゃもんじゃ」の正式名は「ひとつばたご」という古世代の依存木と記されている。道の辺に蝮草が咲いていた。

中山道が出来たのは寛永年間であるが、石畳が敷かれたのは何時ごろか不明と言われる。
文久元年皇女和宮の通行と、明治天皇行幸の時に修理したが、この時石畳に砂を撒いて馬が滑らないようにしたことが記録に残っている。

馬籠や妻籠は週日とは言え賑わっていた。韓国や中国からの観光客が多いのは、観光スポットの最近の風景と見受けた。

馬籠は平成の大合併で、中津川に編入され岐阜県になった。
案内してくれた中津川の俳人たちは一様に「島崎藤村は矢張り信州の人ですよね」と言っていたのが印象的だった。

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2010年5月 5日 (水)

母の世は

  母の世は子福者ぞろひ実千両

母の世は忙しかった。
国策もあって一軒に五人六人の子を抱える家は珍しくなかった。今の世から考えると過酷な労働を強いられながら必死に子供を育てた。

   裏山は子らの遊び場草いきれ

「子供手当て」どころか折角育てた子を戦争へ駆り出され、亡くしてしまった世の中の多くの母親達の気持ちを思うと今もたまらない。

   兵たりし兄は寡黙に黄砂降る

私の生家は信州。善光寺平の一角に細々と暮らす農家だった。雪が融けると一冬括られていた桑を解く。

   野にいまだ重き風あり桑ほどく

寒風のなか麦踏みをし、やがて実をつける頃になると春蚕を飼う。家中が蚕に占領される。

   上蔟の夜は正体もなく眠る

上蔟を済ませると休む間もなく麦刈り。刈り終ると直ぐに田植え。今のような機械はなく全部手植え。田の草取りは酷暑の中。二番三番草を取りながら、秋蚕を飼う。
中学(旧制)では配属将校が幅を利かせていた。

    若き日の叉銃の記憶キャンプ村
    
遠雷や甲斐も信濃も闇の中
    

秋は忍び寄るようにやってくる。秋も半ばを過ぎると既に凩の来る予感を感じながら田の面に立った。

   閉ぢし書の上に手をおく涼新た
   防人の越えし峠やいわし雲
   連山に雲の影おく蕎麦の花

そしてそれが済むと稲刈り。

   母といふ楯がゐませり寒北斗

母の世は忙しかった。

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