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2010年1月30日 (土)

フォルクスワーゲンの思い出

新年早々、スズキ自動車フォルクスワーゲン(以下VW)が包括的・業務提携したと発表され自動車業界に大きな波紋を投げかけている。
両者の長所を補完し合って、効率的な企業運営と企業基盤の確保を図るのが狙いといわれる。

最近の自動車業界の大変動からすると、今までの地盤や企業業績をそのまま鵜呑みにする訳には行かないが、取り敢えず、VWに就いてウィキペディアより一部引用すると、
フォルクスワーゲンVolkswagen )とは、ドイツ最大手の自動車メーカーである。傘下の企業を合わせてフォルクスワーゲングループを構成する。……
フォルクスワーゲンは、8つの自動車ブランド、19ヶ国に44工場を所有する多国籍企業である。 ……
2002年から、グループの乗用車ビジネスは、フォルクスワーゲンブランドおよびアウディブランドの2系列となっている。……
近年では、大衆車メーカーから、高級車も手がけるブランドへと変貌を図っている。……
2008年8月現在、フォルクスワーゲンは日本において最も新車販売台数の多い輸入車ブランドとなっている。』と、ある。

私は1969年1月から2月にかけて、1ケ月間の技術視察出張中に、VWを見学する機会があった。2月下旬の雪の降った翌日の寒い日だった。
写真はその時のVW社の外観写真である。大分セピア色にはなっているが。
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出張に先立って、事前勉強としてトヨタ自動車を訪問した。予 めY社のK社長から連絡して頂いていたので I常務が対応してくださって、「カンバン・システム」について担当課長から詳しく説明を聞いた後見学したが、勉強不足もあってそのシステムに就いての理解が不十分なままVWを訪問することになった。

訪問当時のVWは、所謂「ビートル」の愛称で親しまれたモデルからの脱皮をしようとしている時期だった。
ビートルは、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっていて、おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろうといわれたモデルであった。

ビートルの余りに大きすぎた成功は、後継モデル開発の妨げともなり、「フォルクスワーゲンすなわちビートル」というイメージの強さ、空冷リアエンジン方式というレイアウトが1960年代に陳腐化したにも関わらず、根本的変更が遅れていた。

こんな時期での訪問であっただけに、「会社経営という観点から、あの膨大な設備を新たなモデルチェンジに備えての更新を考えると、その負担の重さが想像され、これからの経営に大きな負荷となることが想像され大変だな」との想いを深くした。それが現実となったのはそれから間もなくのことだった。
かくしてVWの低迷期は1960年代後半以降長く続くことになる。

しかしその苦難期を見事乗り切って世界自動車業界の雄にのし上がった実績は見事である。そのVWとスズキが提携した。これからの展開が期待される。

「未来は過去と決別する時に始まる」そんなことを思いながら40年前に訪問したVWを懐かしく思う。

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2010年1月21日 (木)

大型書店

浜松市にある、大手書店・浜松谷島屋本店は、昨2009年3月6日に浜松駅ビルの一角をなすメイワン8階にオープンした。1フロアー全部を使っての店舗構成となっている。
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 Photo_4 売り場面積1900平方メートル、書籍・雑誌の在庫数約42万冊と広さ、在庫数ともに県内最大の大型書店となる。県内で初めて医歯薬、看護など医療関係者のための総合医学書コーナーを設け、理工学書やアート・デザイン関係の書籍も充実している。
 顧客が本を探すためのタッチパネル型検索機を同市内の書店で初めて設置。市街地を一望できる場所に読書ラウンジを設け、併設のカフェではコーヒーを飲みながら購入前の本の閲覧が可能。

Photo_5  本棚と本棚との間はビルの谷間のような感じがして圧迫感もあるのは仕方ない。
ただ本棚の端には椅子が設けられていて其処に座って読むことが出来るので買いたい本をじっくりと選ぶことが出来る。
買う人の立場を考えた配置でもあり、カフェと併せて利用者の便利とひいては売り上増を狙った商法とも言える。
当谷島屋の斉藤行雄社長がソウル最大級の書店「教保文庫」を訪ねた所見が静岡新聞に載せられている。
『ワンフロアー1万平方㍍もある巨大な店内は、まるで新宿駅の雑踏のようだった。年間の入店者数は1千万を超えるらしい。
中央にカフェとフードコートがあり、大勢の人が選書の合間にお茶や食事を楽しんでいる。あちこちにある「読書用座席」と「立ち読みデスク」はどれも満席だった。
この国はインターネット先進国といわれるのに「読書熱」がすごい。……』と述べている。
開店以後の業績や、販売書籍の動向を把握していないので気になるところだが、なんにしても漢字も読めない総理がアニメ殿堂を作ろうとしていた国との対比を考えると、今後のことが思いやられ、又しても戦後の教育制度の改悪を悔しく思う。

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2010年1月13日 (水)

或る年賀状

信州の在に私の従兄弟で篤農家と誰もが認めるK.H.さんが居る。彼からの今年の年賀状は、日頃の心情が綿々と綴られていて心を打たれた。
(K.H.さんに就いては、死生観生きる忘れないにも既に書いた) 

『「それでもまだ信じていた。戦いが終わったあとも。

役所を 公団を 銀行を 私たちの国を。

あくどい家主でも 高利貸でも 詐欺師でも ない。

おおやけ というひとつの人格を。

「信じていました」 とひとこといって 立ちあがる。

もういいいのです、私がおろかだったのですから。」

昨年暮の信濃毎日新聞にのった詩人・石垣りんさんの1970年作「女」という作品です。この詩が2010年の現在も現実味をもって社説に述べられる日本の今日が悲しい。

自分でも不思議に思っている程愚直に生きて88年。振り返ると凡そ100年前の昭和大恐慌の中で生まれ育ち、そして今、出口の分からない平成不況の中で生涯の終りも近い日を暮らしている。果して88年の人生は生き甲斐があったのか! 社会的に価値観をもって評価できるのか? 先世代の人々から歴史を引き継いで、次世代の人々に平和と幸せを引き渡すことが出来たのか? 迷悟の中での毎日を暮らしている。

嘗て青春の日々の中で生意気にも「人間は環境の所産である」「環境は人間が創出するものである」等、難解極まるヘーゲルやカントの哲学を論じたり、或いは「葦折れぬ」という反戦の手記を残して自殺した女子高生の是非を論じあったり…然し結果的には「大東亜戦争」の兵役3年半の戦陣生活の末、敗戦の挫折を味わってから、多くの若者の生命を失い大勢の日本人の殺戮の犠牲の惨禍を体験して「生き残った者の責任」を強く感じて、自己の人生観を大きく変えて今日まで愚直を貫いて生きてきた。

こんなことを書いたのは始めてだと思う。最近つくづく日本人というのは人間として生きる信念をいとも簡単に変えて世渡りする集団だなあと思うようになりました。1945815日を「終戦記念日」として割り切って過去と将来を器用に判断して生活出来たのですから…。そして60余年、今日の日本がどの様な国柄になっているのか、物質の豊富さの中で何を失いつつあるのか殆ど自覚が無く、今日と明日を振子の様に考えて安定して幸せになれると思っているらしい?。
 家庭崩壊を「核家族」と名付けて我慢したり、地域社会の堕落を「自由主義」が定着したからだと言訳したり、日本人一人の借金が1000万近くなっている不況を子や孫が生活する将来社会に遺産として残してやったり、親たちが苦労しながら子弟を高校、大学を卒業させても就職率が50%しかない国内産業の衰退…。

明治維新改革や敗戦から立ち直ろうと一億の人々が頑張りぬいた戦後復興の時と比して、今日一番欠けているのは人々の意志と根性。

地球と人類の破滅から救う道は?論文を書く心算は無いが弱い人間はどこかに悲鳴をぶつけたくなるものだと思います。

人々が生きるために一番大切な農産物の自給率も、施政者の不明から落下速度を早め今や40%以下に。そして今日本に現れている農業の統一無き珍現象、曰く、農業法人(但し利益を求め輸出食品を心がけ)、企業百商(土建業者の転業主体)、農業遊人(定年退職して都会疲れした年金豊かな人達)、農業協同(グループを組んで地域自立に)、道の駅地産(地産地消を中心に)。国の農業政策に基いて行われている農業集団ではない。自立して農産物を作り加工、販売を目的として試行錯誤しながら踏み出している全国的に散発している。国の農政は何をしている?。

炬燵にしがみついている毎日なので、訪れる若い連中が来ない暇を利用して書きました。

今年からもう年賀状を書くことを止めましたので…読み返す事も面倒なので走り書きのまま。気に入らない所や間違っている所は赤線を引いて送り返して下さい。』

声を出して読んでいると、何かがこみ上げてきて声にならなくなった。

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2010年1月 4日 (月)

初凪

明けましておめでとう御座います。

俳人協会・俳句文学館発行、平成22年1月の俳句カレンダーに、馬酔木主宰水原春郎氏の一句が掲載されている。渡辺千枝子氏の解説がある。

初凪や大海原に島七つ  春郎

『「俳句」平成20年2月号に掲載。伊豆高原の徳田山荘からの眺めと思われる。
「初凪や」と高らかに打ち出して、「大海原に島七つ」とゆったりと受ける快さは、まさに秋桜子先生の調べである。大景に向かって一歩も引かない覚悟のほどが潔い。
20年前、
  夜の薄暑チェホフもまた医師なりし
  ぼろ市のもどりのおかめうどんかな
  検眼のコナルカロフニ冬うらら
などの句をもって颯爽と俳壇に登場された頃の春郎先生は、わざとのように秋桜子先生とは対照的な素材に興味を持たれ、秋桜子夫人をはらはらおさせになったようだ。
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しかし、幼い時の折々の家庭俳句会で自然に身についた俳句の骨法をわきまえた上での冒険は、結果として馬酔木俳句の幅を広げるという大きな効果をもたらしたように思う。
既成の型にも発想にも素材にも捉われず、自在に詠んでいらっしゃるように見えながら、年頭に当たってはこのような句をきっちりとお作りになる。血というものであろうか。渡辺千枝子』(俳句文学館紙所載)

新年の句として清々しい大景である。

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