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2009年9月30日 (水)

哲学の道

誘われるまま一泊二日の日程で京都へ。同行8人。
私は嘗て、年に20回・10数年も大阪往復をした時もあったが、ある事情があって京都へ寄る気にはなれなかった。
しかし数年前に京都でS誌の大会があった時に参加したのを機に解禁した筈だったが、やはり引っ掛かりがあって、進んで行く気にはなれなかった。しかし何時までもそんな気ではいけないと今度こそ解禁した。

今回は比較的ゆったりとしたスケジュールで、1日目は大徳寺・真珠庵・祗園を散策してそこで夕食。2日目は法然院・哲学の道を通って永観堂・南禅寺・八千代で昼食をとり、疎水とインクラインの軌道敷跡に昔の記憶を辿り、それから維新の元勲山県有朋の別荘であった無鄰菴へ。
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京都東山の通称「哲学の道」とよばれる小路を歩く。

『2km足らずの短い散歩道で、街道となづけるほどの道幅もない。そもそも江戸時代にはなかった道で、明治時代の半ば、琵琶湖疏水の建設にともなってうまれた小径である。

この道を哲学者西田幾多郎や経済学者河上肇などが歩いて思索にふけったことから「哲学の道」とよばれるようになった。ドイツ最古の名門大学都市ハイデルベルク
を流れるネッカー川の向こう岸にゲーテやニーチェも散策したという元祖「哲学の道」があって、ドイツ哲学にあこがれた京大生たちが名付けたともいわれている(ネットから引用)』。

この道は、かつて京大に学んでいた弟と一緒に歩いたこともある道でいずれにしても、懐かしくも切ない道である。哲学の道自体は若王子神社から銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋までの1.8kmの疎水べりの散策路である。

名前の由来にある西田幾多郎は京大の教授になる前の段階から良く思索に耽って散策することがあって、それは幾多郎の日記「寸心日記」にもよく記述されている。
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この書は昭和23年(1948)頃に、当時の弘文堂からアテネ文庫として出版された一連の文庫本の中の一冊で、今は求める術もない本となっている。

幾多郎が旧制第4高校の教授だった頃の日記が主体であるので、この哲学の道を散策した記録は、本書以外から調べて見なければ判らないが、「寸心日記」からの印象では京都へ出てきてからも思索の散策をしたことはうなづける。

この道は琵琶湖疎水の水路沿いにあって、花のシーズンともなると大勢の花見客が押し寄せると言う。私たちが歩いている時には殆ど人の姿が見当たらなく文字通り哲学の道に相応しい雰囲気を漂わせていた。

この道を歩いていたら思いがけなく、外国人の母子が散策していた。聞いて見たらポーランドから来たといっていた。彼の地までこの道が知られていることはないだろうが、京都を訪れる人にとっては矢張り一度は歩いて見たい道に違いない。

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2009年9月24日 (木)

吉行淳之介

浜松から比較的近い原発のある浜岡町(現御前崎市)に宮城まり子創立の「ねむの木学園」があった。現在は掛川市郊外のなだらかな丘陵に移転している。
彼女の名前を聞くと直ぐに思い出すのは吉行淳之介で、かねてから彼の生涯には興味があった。

そんな時、旧友からさりげなく薦められたのが、佐藤嘉尚著「人を惚れさせる男 吉行淳之介伝」(新潮社)である。
Photo 著者は、かつて「歩々清風 金子智一伝」(平凡社)で、インドネシヤ独立の陰の功労者である金子智一を紹介した著者である。私も感動して読んだことがあるので、同著者の吉行淳之介伝には興味がある。

『大正13(1924)年4月13日、吉行淳之介は岡山市桶屋町43番地で、父栄助と母安久利の長男として生まれた。栄助は自分の本名の漢字を嫌って「エイスケ」と名乗り、安久利も後に「あぐり」と名乗るようになった』から始まるこの伝記には、著者自身も時々顔を出すことによって、淳之介像をより浮き立たせるように工夫されている。

父エイスケは天才肌の一面を持つ作家だったがその経緯の中で,十分才を発揮できぬまま34歳の若さで台風のように逝った。

母あぐりは、終戦まもなく師匠山野千枝子の勧めで、戦争未亡人や戦災に遭った女性たちに美容技術を教えることになり、以後、美容師として次第に世間にも知られるようになる。現在は100歳を越える最高齢の美容師でもある。

淳之介は、昭和20年4月旧制静岡高校から東京帝大文学部英文科に入学した。後に妻となる平林文枝と出会ったのは、『何時召集令状が来るか判らない死と対決している時代である。「僕はまだ童貞という濡れたシャツを脱ぐことさへ出来ていなかったのだ」淳之介はせめて死ぬ前にそのシャツを脱ぎたいと切実に思っていた。』そんな時期に出会ったのが文枝だった。
母あぐりが病に倒れた後、和子も含めて同居し文枝を入籍した。淳之介は大学を中退し、新太陽社という雑誌社の記者となった。

『淳之介はのべつ病気をしている印象が強い。16歳のときの腸チフスと28歳のときの肺結核では命の危険性さえあり、ゼンソク発作には20歳以降常に苦しめられた。』

『昭和32年11月、淳之介は写真家の秋山庄太郎、歌手の宮城まり子と鼎談をした。そのときに淳之介と宮城まり子は、初対面で、お互いに好感を持った。淳之介33歳、まり子30歳。』以後、まり子との関係やまり子入籍に絡む問題は周知の通りである。

平成6年。淳之介は肝臓癌と診断されたが、『まり子は、和子と相談し、本人及び他の家族には知らせないことにした。本人には、医師から血管腫と伝えてもらった。』
『5月半ば、放射線科の医師が、エコーの結果を知りたいと淳之介が聞いたのに対して、「肝臓癌ですね。あまりたちのよくないのが出ましたね」とあっさり告げた。しばらくして淳之介はつぶやいた。「シビアなことをおっしゃいますな」。これを契機に急速に体力が落ちていった。まり子は、不用意に告知した医師を、許せないと思った。』

告知を含めた「医師の一言の重さ」というものに就いて、つくづく考えさせられる問題がここにもある。

吉行淳之介に就いてのかねてからのイメージは、芥川賞受賞作家、ダンディと言う言葉がそのまま当てはまる人柄と容貌、幅広い知識、人脈の広さ、そういったものが綯い交ぜの作家像であったが、本伝記を読んで、今まで抱いていたイメージはほんの一部の知識でしかなかったことを思い知らされた。

著者は、『百人いれば百の「吉行淳之介物語」がある』という。本伝記は著者の想いが籠もっていて、吉行淳之介と一体となって表された感動的な伝記である。
尚、本記事の中で、『 』 で括った部分は、本伝記のうちの出会いの部分を主体に、一部分をそのまま引用させて頂いたものである。

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2009年9月 3日 (木)

秋、三句

俳人協会・俳句文学館発行、平成21年9月俳句カレンダー所載の巻頭三句。

駅一つ花野の中に葬らる   佐藤郁良

 句集『海図』所収。初出は「銀化」平成18年10月号。
 郁良さんの文学経験からすれば、難しい漢字や難しい表現で、読み手の気を引く句は幾らでも出来そうだ。だが、郁良さんはそれをしない。掲句も難しくは書かれていないのだが、鑑賞となると難しい。廃線の駅を詩的に書いたと読めるが、別の読み方をすれば、駅を一つと数えているので小さな駅を想い、葬るは、覆い隠されたと読める。
 花野に小さな駅が覆い隠されている、と読んで景が鮮明に浮かぶ。同時に何故か懐かしさを伴う。季語の花野が中心になりそうだが、駅の存在が象徴的に心に残る。この駅は、郁良さんが幾つも通過してきた過去の駅(思い出)の中の一つ、そんな風に思えるのだ。花野の中にあるのだから若い頃の思い出。そして、それは封印してしまっただろう思い出。それが懐かしい。
 読み手にもまた通過してきた駅を懐かしく思い出させる句。それが初出の時から変らないこの句に対する印象である。(田口武)

露のせてゐて芋の葉の濡れてゐず   白濱一羊

 俳人協会新人賞を受賞した句集『喝采』所収。
 里芋の葉の表面には水をはじく性質があるため、白露は丸く固まったままころころと葉の表面を移動していく。つまり里芋の葉は、露を乗せても、露に濡れることがないのである。
 作者は芋の葉を凝視し、そのことを発見した。眼前の事象を当たり前のことと思えば何も起こらない。そこに不思議さを覚えた時に詩が生まれるのだ。
 そしてこの句が単なるトリビアリズムを超え佳句となった所以は、作者の澄んだ眼差しを感じるからだろう。師の小原啄葉はそれを「童眼」と評したが、至言である。芭蕉の「俳諧は三尺の童にさせよ」に相通ずるものがある。
 そしてこの句は七五五の破調だが、「の」「て」の繰返しでリズムが整えられている。凝視した時間の流れを象徴するかのようだ。
 作者は含羞の人。この句には、その真摯な人柄や句作態度がよく表れている。(深谷義紀)

秋の水ひかりの底を流れをり  井越芳子

 『鳥の重さ』には、掲句をはじめ、たくさんの「ひかり」が登場する。
 天地間のすべてのもの、山も、川も、花も、水も、「ひかり」があるからこそ美しい。作者の眼差しは、この「ひかり」を透き通った心で捉えている。対象物の表面を捉えるだけではなく、その裏側にまで迫っていく。そしてその眼差しの行き着いた先で、作者はひたむきに自分の言葉を探し求める。「ひかりの底を」という表現を得たことは、まさにそのことの証ではないだろうか。
 ここではただ「秋の水」しか詠まれていないが、「ひかりの底を」という措辞によって、この句は大きくふくらみ、読む者に不思議な余韻を残すことになった。
 また、墨量をおさえた書き振りには、乾いた秋の空気への思いが感じられる。
 澄み切った秋の空気は水の底にまで到達していて、読む者はとびきり爽やかな「秋」の中へと誘われる。(ローバック恵子)

佐藤郁良氏は、俳誌「俳句」に毎号「郁良と楽しく文語文法」を掲載している。今まで疑問に思っていたことや、知らずに誤った使い方をしていた文法に就いて、霧が晴れるように感じることがある。

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