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2009年8月29日 (土)

都市対抗野球

社会人野球のメイン・イヴェントと言えば、毎年8月末から行われる都市対抗野球である。今年も8月21日から9月1日まで12日間、東京ドームで開催されている。
今年は節目の第80回記念大会とあって、例年より4チーム多い36チームで行われる。

都市対抗とは言うものの、実質上は企業対抗戦になっているため、壮絶な闘いと華麗な応援合戦を繰り広げる割には、毎日新聞以外では、比較的こじんまりとした報道しかされないのが実情である。TVなどでも決勝戦以外は放映される機会が少ない。特に今年は選挙期間とダブってしまったために、影が薄い感がある。
今年は景気低迷の影響から休部する企業もあり、名門日産自動車も今年を最後に休部することが決まっている。

そんな中で、今年も浜松市の代表としてヤマハが出場する。ヤマハ野球部は今年創部以来51年となる。都市対抗では、第43回(1972年)・第58回(1987年)・第61回(1990年)の3回優勝している。
私は過去の経緯もあり、特に思い入れが強く、今年は是非応援に行こうと思っていた。一回戦は都合で行けないものの二回戦(8月28日)は試合開始時間が11.00からと言うこともあって其処に決めていた。丁度其の試合が皇太子殿下のご観覧試合となったのは偶然であった。相手チームは鈴鹿市代表の強豪本田鈴鹿。
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写真はヤマハ側から見た景で、応援合戦も華麗に展開された。(写真はクリックで拡大します)
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試合結果はヤマハの4番佐藤の、ソロホームランと劇的なさよならホームランで、投手戦を僥倖にも勝ち抜いた。写真は最終スコアーボードを示す。写っている笑顔は殊勲の佐藤選手のインタビュー。
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この結果ヤマハは8強の内の1チームとして、準々決勝へ駒を進めることになった。

嘗てヤマハも社内の雰囲気が湿った時がある。そんな空気を吹き飛ばそうと、野球後援会内の同志が語らって、野球を通じて空気を盛り上げようと手を打ったことがある。

その一端として、浜松駅長と直に話し合って新幹線で応援専用列車を走らせたことがある。其の列車を定員近くまで持ってゆくために動員を掛けた。勝ち進む度に応援者が入れ替わる。
浜松から出て掛川に停車する以外は東京までノンストップで走らせるために、当時の浜松駅長・大物のOさんが、中央と掛け合ってダイヤを組んでくれたことは忘れ難い思い出である。以後は其の方法を継続し、他社もそれに倣ったものだが、今は別方式になり、応援専用列車は語り草になっている。
グラウンドとスタンドの一体感は、勝っても負けても感動的で、社内に残った人たちにも伝えられ、野球を通じて社内の空気の盛り上がったのを実感した。

そんな過去のことも懐かしく思い出しながら、両市代表の熱戦と、応援合戦を楽しみながら観戦した。

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2009年8月26日 (水)

八月

「八月は六日九日十五日」と言う句があるそうだが、我々の年代は、八月と言うと、原爆や敗戦日(終戦日とも言う)を含めて、戦争に明け暮れた青春時代を思い出す。
そんな青春時代に失ったものも大きかったが、失ったものばかりでないのは、精神的に耐えることの出来るメジャーをみな持っていることもその一つだろう。

今は戦争を知らない者が増えているという。勿論当時の耐乏生活や明日の命を保証されない日のあったことを知る者が少なくなっているだけでなく、想像すら出来ない者が居るのは当然のこと。

写真は戦時中の煙草の写真で、「ゴールデン・バット」という銘柄だが、敵性用語だと言うので「金鵄(きんし)」と改名して売り出されたもので、先に書いた八月十五日の資料を提供して下さったKさんの提供である。(写真はクリックで拡大)
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この写真から何を読み取って頂くかは読者夫々の領分。

一例として、当時は英語を敵性用語として、旧制中学校や旧制高等女学校などで、英語の授業を極端に減らしたところも多いと聞くが、幸い私の学んだ学校ではそんなことは全くなかったのは、幸いな事であった。

八月もあと僅かで終わる。本記事は多言をせずに、「八月と言う月」の意義をお互いに考えてみようとするのが本意である。

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2009年8月16日 (日)

八月十五日

あなたは勝つものとおもってゐましたかと
          老いたる妻のさびしげにいふ (土岐善麿)

敗戦の日が来るといつもこの歌を思い出す。
Photo_4 左の記事は朝日新聞の特報版で当日の玉音放送のあることを知らせた記事である。

玉音といふ語も死語か敗戦日

玉音放送は雑音が入り随分聞き取り難かったが、日本が戦争に負けたと言うことだけは判った。

暑い日だった。あの日は青空が一面に広がっていた。

毎年この日は全国戦没者追悼式が、天皇・皇后両陛下を迎え、東京の日本武道館で行われる。戦没者310万人。今年は第64回目の追悼式になる。正午の時報に合わせて全国一斉に黙祷を捧げるが、戦後はまだ心の中に残っている。

この大戦で肉親を失った人達にとっては、戦後は未だ終わっていない。戦争のあったことを知らない世代が増える中で、今も戦後の終わっていない人達はどんな気持ちでこの日を迎えたであろうかと思うといたたまれない気持ちになる。
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写真は「終戦の詔書」の始めと、終わりの部分を示す。この後に昭和二十年八月十四日の日付と各大臣の署名がある。
(写真に示す当時の記録は、昭和20年8月12日に召集令状を受け、今年90歳を迎えた、Kさんの提供による。)

負ける筈がないと教えられていた戦争に負けた虚脱感、これで戦争に行かなくてもよくなったと思う安堵感、それらがないまぜになった複雑な気持ちだった。

敗戦の日を詠った俳句を、作句時期も作者も順不同に書き上げる。

敗戦日五つ違ひの兄逝かせ    岡本 眸
平成もはやひとむかし敗戦忌   保坂加津夫
敗戦忌知らぬ若者増えにけり   伊藤 一歩
海を見に敗戦の日の峠越す    宮崎 山景
勝つと信じ逝きにし父や敗戦日  林    翔
戦捷の明治に生れ敗戦日     能村登四郎
きれぎれの軍歌ざらつく敗戦日  岡田 貞峰
敗戦のビラ舞ひし村田草取る   木田 千女
敗戦日文箱の底の君の文     泉 京子
満月に白き海あり敗戦日      渡辺千枝子
その後の束の間なりし敗戦日    渡辺千枝子
敗戦や蝶が止まりて沈む草     今瀬 剛一
若きらの四肢美しや敗戦忌     橘 沙希
ひつつみといふすいとんや敗戦日 神蔵 器
言葉なき遺品の重み敗戦忌    彦坂 範子
死語となりし言葉の数や敗戦忌  水原 春郎
生を得しこと大切に敗戦日     水原 春郎
敗戦日語らざる父酔ひにけり    橋本 榮治
敗戦日電車は傾いて曲る      神野 沙希
敗戦日妻を入れむと風呂洗ふ   秋元不死男
暮れはててなほ鳴く蝉や敗戦日  石田 波郷
終戦の夜のあけしらむ天の川   飯田 蛇笏
玉音や記憶は飢ゑと蝉時雨    木村 一雄
耐ふること今は暑のみや終戦日  及川 貞
生涯の父の号泣敗戦日      大橋 敦子
這ふごとく敗戦の日の畳拭く    岡本 眸
まつ白な太陽一つ敗戦忌     伊藤恵美子
一億分の一の責負ひ敗戦忌   有働 亨
ふと浮かぶ明治の軍歌敗戦日  安陪 青人
奉天にて自刃思ひぬ敗戦日   松崎鉄之介

我が家ではこの日の一食は、当時の飢えた時代のことを偲んで、「すいとん」を食べることにしている。

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2009年8月 6日 (木)

新涼

俳人協会・俳句文学館発行の、平成21年8月俳句カレンダー所載句の作者は有馬朗人氏、西村我尼吾氏の解説がある。

   新涼の母国に時計合せけり  朗人

『第2句集「知命」所収。昭和57年刊。処女句集「母国」の序文を、師の山口青邨は「二兎を追って二兎を獲得するで あろう」という文で締めくくっている。
 米国において極めて高い評価を得、正規教授資格も得ていたにもかかわらず、原子物理学と俳句の二兎を追うために昭 和48年、43歳のとき敢然と帰国を決意した。そしてまだ学園紛争の余波が色濃く残る中、東大学生俳句会「原生林」 を指導しながら、現代俳句のあるべき姿を、国際性の観点を踏まえて真摯に追求した。
 帰国してからも学問的業績を慕って、世界中の研究所・大学が朗人を招聘した。
 平成14年までに、海外への出張は長期短期を合わせて150回近くを数えた。
 掲句は、シシリー島からの帰国時、国際俳句から日本の俳句へ、自らの季感をリセットする時の作。秋の初めの涼しさ に母国の季節を感じながら、時差を調整する。それは朗人にとって二兎を追う覚悟を確認する聖なる儀式のようなもので ある。』

人生には何度か重要な決断をする時がある。解説を読んで、掲句はそんな時に詠んだものと知って感銘した。

 

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2009年8月 3日 (月)

最近、虹に関する記事を見て興味を惹かれた。虹と言えば、通常私たちが見かける「」は殆どアーチ形の虹で、時には二重虹を見かけることもある。
年中虹を見る事の出来る場所もあるがそれは、虹の発生条件が整っているところで、例えば大きな滝のところとか、ハワイ・マウイ島のイアオ渓谷などは其の例であろう。

昨年、私は水平に懸かっている虹を見た。この珍しい虹は「環水平アーク」と呼ばれる。
偶々信州上田市中を流れている千曲川の辺を走っている時に見かけた。かなり長時間懸かっていたように記憶している。
Photo
この「環水平アーク」に就いて、ネット情報があるので転載する。

『環水平アークは太陽が見える方向の地平線近くにほぼ水平の虹が見える現象で、太陽高度が58度以上の場合にのみ現れます。ですから真冬のように太陽の高度が低い時期に見えることはなく、夏場のお昼前後を中心に太陽が頭上高く昇るころに現れます。

環水平アークは高度が低くて視界に入りやすいので見つけやすく、明るく鮮やかに見える場合があるのでよく話題になります。これに対して環天頂アークは頭の真上近くに現れるのでなかなか気づきません。

色の並びは上(太陽に近い側)が赤で、環天頂アーク(下が赤)とは逆になります。環水平アークはその形状から水平環水平弧などと呼ばれることもあります。

内暈日暈)と環水平アークが同時に現れると太陽を二重の虹が取り囲むように見えるため、環水平アークを外暈と勘違いすることがあるので注意が必要です。また報道等では彩雲と称される場合も多いようです。』
と解説されている。

又、数年前に「丸い虹」を見たことがある。偶々北海道からの帰途、恐らく津軽海峡を渡り本州上空に差し掛かった頃かと思うが、はっきりと見ることが出来た。雲海をスクリーンとして映っている丸い虹は、雲海が平らではないので歪んで見える。写真はその時、機上から撮影したもので、飛行機と一緒に動いていた。其の傍には我々の乗機の影が映っているのもかねて聞いていたことと符合する。
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丸い虹に関して、Pー3Cの機長さんの興味深い記事があるのでご紹介する。

『最近、都市部ではほとんど虹を見かけなくなった。虹が出ないのではなくて、そういう自然の移ろいを受け止める心のゆとりが無くなってしまったのかも知れない。

私が育った四万十川のほとりでは、夏空に夕立が通り過ぎるときれいな虹が出た。山をまたぎ田畑を越えて懸かる大きなアーチをいつまでも飽きずに眺めていた子供の頃の記憶が鮮やかによみがえる。

飛行機から虹を見たらどの様に見えるだろうか?

もちろん地上に懸かる虹は、多少高度の高い飛行機から見てもアーチ型である。

夏の夜空を彩る大きな打ち上げ花火は、地上から見るときれいな真円だが、上空から見るとどの様に見えるだろうか?と素朴な疑問を持って、夜間飛行の時に湘南海岸で確かめたことがあるが、真上から見ても見物人のいない海側(裏側)から見てもやはり真円であった。

ところが、飛行機で雲上を飛んでいると「まん丸な虹」を見ることができる。高度に関係なく、上空が晴れていて、飛行機の直下に雲海が広がっている場合、下の雲がスクリーンとなって自分の飛行機の影が映る。その周りにまん丸い虹が出来るのである。その虹は自分と同じ速さでどんどん移動する。

雲の上面は完全な平面では無いから、虹の七色はやや混ざり合った色となり、コントラストの乏しいぼけた色合いではあるが、虹であることは間違いない。

なぜこのように雲の海に丸い虹が出るのか(どこで分光されるのか?)は残念ながら分からない。そういえば、一般の乗客が旅客機の窓からこの虹を写真に撮って航空雑誌に出していたのを見たことがある。

飛行機がどんどん上昇すれば、外の気温もどんどん下がることは以前の稿にも書いたが、私が経験した一番低い外気温度は、晩秋の北海道上空3,1000フィートで-54というのがある。このような極低温にさらされると操縦席や各見張り窓のガラスも外気に接する層では収縮し、機内の空気に接する層では相対的に膨張することになるから熱破壊しないよう又、凍結して視界を失わないように内部の電熱層に通電して常に温めている。したがって窓ガラスは何層も張り合わせた構造になっており、大きな鳥にぶつかってもビクともしない。

それでも-54℃ともなると半端ではない。こんな低温では空気中に水分は無いから(すでに氷結して降下している。)ガラスの外側が凍ることはまずないが、機内の暖められた空気には水分が残っているからガラスの内側が凍る。息など吹きかけようものならたちまち厚い霜になる。電熱層を持たない窓は何もしなくても内側にびっしりと霜が着く。そんな時に後部の見張り席から後ろを見ると水平尾翼の先端から飛行雲を引いている。

最近、アフガニスタンを爆撃するB-52を地上から撮影した映像がしばしばテレビに出るが、B-52は主翼後縁からやや離れた所で飛行雲が発生し、4本の飛行雲を長々と後ろに残している。4本出る所を見ると2つずつ束ねたエンジン(全部では8発)から1本ずつ出ている様である。

P-3Cでは水平尾翼の先端から左右それぞれ1本ずつ出る。なぜエンジンから出ないのかは分からない。あるいは機内からは見えないやや後方で出ているのかも知れない。

いずれにせよ機内から見る飛行雲はあまり美しくない。後部見張り席のバブル・ウィンドウに顔をこすり付けないと見えないせいもあるが、なぜか灰色でみすぼらしい。直線飛行していると操縦席からは見えない。しかし、地上から飛行雲を見ると機種による色の違いは無いからP-3Cも旅客機と同じように真っ白なトレールを引いているのであろう。

私は飛行機から写真を撮るのが好きで、若いときから訓練の合間に色々なシーンを撮影してきたが、ひとつ心残りがある。それは、P-3Cが大きな半径で飛行雲を引きながら旋回し、大空に360度の円を残した場面をものに出来なかったことである。

すでに航空隊勤務を終えた老兵には飛行雲を引いて3万フィートを飛ぶ機会は無いが、ぜひ後輩の誰かがこの夢を実現してもらいたい。
 老兵は死なず、ただ消え去るのみ。』
とあり、やはり長くこのようなお仕事をされていると、我々には判らないご経験を随分されたでしょうし、色々な現象に会われたり、色々なロマンもご経験されたであろうと推察する。

良く結婚式などで、新郎・新婦を励ます言葉に「無限の可能性」という言葉が使われるが、それは懸命に努力したものが、幾多の困難を乗り越えたときに可能なことであり、それがなければ、虹のように華麗に見えながらやがて消えてゆくものであろう。

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