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2008年12月31日 (水)

ノーベル賞・益川敏英氏

今年も間もなく除夜の鐘。

アメリカを震源地とする金融危機の齎す100年に一度ともいう経済危機の暗い世相の中にあって、日本人4人のノーベル賞同時受賞は、来る年に繋がる明るいニュースである。
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写真は受賞式出席の3氏。左から小林誠氏益川敏英氏下村脩氏(静岡新聞より)。南部陽一郎氏は奥様の健康状態からシカゴ大で受賞。

特に印象深いのは益川氏。
氏の言う「I speak Japanese only.」は、もちろんそのまま受け取る訳にはゆかないが、事実、受賞記念講演は本当に日本語でされたという。
氏は嫌いなのか苦手なのか英語がいやで海外の学会には行かないという。そう言えば初めてパスポートをとったのが今回の受賞式に行くためと聞いて驚いた。
氏は又「英語がしゃべれなくても物理は出来る」と言うが「英語を覚えなくてもよいということではない」とも言っている。

日経夕刊の「人間発見」という記事に、益川氏と一緒に研究した物理学者の坂東昌子氏の話が載っている。その記事の一部を引用すると、

『益川敏英さんと一緒に論文を書いたのは、小林・益川理論が世に出て10年ぐらい後でしょうか。「超対称性が自発的に破れたときどんな不変量があるか」と議論を持ちかけたら、「それは新しい鉱脈かも」と益川さんが乗り気に。彼は出張から戻るたびに「新幹線の中で考えた」と言って数式がぎっしり書かれた紙を、はいっと渡す。こちらはその式を解読するのに四苦八苦。益川さんの数学の「腕」のすごさを思い知らされました。』

素粒子論の分野では1960年代後半から70年代にかけて新しい流れが起きた。それをいち早くつかんだのが今年のノーベル賞を取った益川、小林の両氏。私は流れを見極めることが出来なかった。だからでしょうか今なお物理への思いが尽きない。日本が得意とするクォークの世代の起源は自分の手で解明したかった、という無念さもほんのすこし残っている。』と、書き記している。益川氏とそのグループの在り方の一端を知ることが出来る。

来年は丑年。牛歩でも良い、一歩一歩を大切に明るい年にしたいものだ。

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トヨタ・ショック

書店へ行くと「トヨタ」と言う字のつく本がやたらに目につく。
「トヨタ」を冠とする、生産方式、カイゼン、仕事術、、最強企業の哲学、人づくり……で、その中の生産技術をとっても、大野耐一著「トヨタ生産方式」は別として、いわゆる「カンバン方式」に代表される生産技術関連書も当然多いが、中でこれはと思う専門書は、私の読んだ範囲では只1冊だけだった。他はトヨタを題材とする商魂を垣間見る書が多いように見受けた。

峠路は上りきったら下りになる。
かねがね疑問に思っていたものの一つは、これほど売れている自動車の売れ行きの峠は一体どこにあるのだろうかと言う疑問だった。商品コンセプトが消費者に受け入れられていたのも事実だが、まさに天井知らずに見えたが、それが今回の金融危機を契機に露呈した感がある。
年間2兆円を越す営業利益が、2009年3月期の予想では想像も出来ない1500億円の赤字になると言う。まさにトヨタ・ショックである。予測不可能に近い需要の減退と為替差損と言えるかもしれないが、それ以上に重要な何かがあるように思う。

固定費の高い企業は比例費を少なく抑えられることが多い。自動車工業はロボット等の導入で設備費に金をかけた分、人件費を少なく抑えることが出来るはずだ。当然下請け企業も親企業の合理化に対応するために生産技術力を高めるための投資をしてきた。そのような面からすると自動車工業は装置工業に近い性格を持っているとも言える。
従って操業度が問題になる。損益分岐点を越すと急速に業績は向上するが、逆に分岐点を下回ると急速に悪化する。
トヨタの「カンバン方式」は世界に誇れる生産技術であるが、生産技術であるだけに、その思想や手法が果たして完成車の在庫まで及んでいたかどうか疑問視される。それだけに生産能力をどこまで持つかは大きな経営判断になる。

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2008年12月29日 (月)

大根はざ

犀ケ崖等の史跡と共に三方原合戦の古戦場址として知られる三方原台地は、現在は梨や馬鈴薯等の農産物でも有名になっている。正月用の花の出荷も今が最盛期である。今年の経済情勢が影を落としているのではないかと気遣われる節もある。

そんな今頃、台地の一角に大根を干している風景が散見される。
Photo
付近には漬物工場もある。

大根はざに映る自分の影が長く尾を引き、冬の入日は早い。山の端にかかった入日を撮影しようとカメラを出している間にもあっと言う間に日は沈んでしまう。

刻の過ぎ行く早さを物理的に実感するのはこの時である。
物理的な刻と心情的な刻の早さの違いは誰しも感じていることだが、歳をとると経験の量が増えることもあって、自然の推移に対する感受性が鈍ってくるのも一因であろう。

俳人のN女史は、若さを保つ秘訣を「カ行」で表現している。
カ:感動
キ:興味
ク:工夫(俳句を作るために表現等の工夫)
ケ:健康
コ:恋(ときめきの心を持つこと)
これらを心がける事で何時までも若々しい句が出来るということであろう。

こんな暗い世相の時だけに、努めてそのような気持ちを持ちたいものと思う。

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2008年12月 4日 (木)

十二月八日

今年もまた12月8日が近づいて来た。1941年(昭和16年)12月8日は我々の年代にとっても特別な日である。

   十二月八日青春欠け初めし    森  洋子
   骰子の一の目赤し開戦日     吉田 ひろし 
   十二月八日靴音消ゆる壁     寺井 治
   十二月八日徴兵なき平和     香川美代子
   十二月八日の航の潮つぶて   友岡 子郷
   十二月八日の記憶無しとせず  相生垣瓜人
   十二月八日一生狂はせり     奥   てるを
   十二月八日よ母が寒がりぬ   榎本 好宏
   十二月八日米研ぐ水の音    白川 宗道
   開戦日くるぞと布団かむりけり  木田 千女

歳時記には十二月八日の季語があって傍題が開戦日となっている。その故か、開戦日で詠った句が少ない。
  Photo_2
写真は当時の新聞の一部を示す(クリックで拡大)。

当時私は旧制中学の2年生だった。以後は戦争一色となった。
しかし戦争はこの時に始まったわけではない。それ以前から始まっていた。満州事変、5・15事件、2・26事件、支那事変、ノモンハン事変等々戦時色の濃くなった末の大戦突入だった。
失われた青春と言えばそれまでのこと。しかし失われたものだけではなく得たものも確かにあった。失った青春だけでは余りにも辛い。得たものは心の中に今もある。それは敢えて言うまい。

今は戦争のあった事をすら知らぬ世代が増えていると聞く。まして5・15事件、2・26事件と言っても判らないだろう。歴史認識の薄さ甘さが再びの愚を繰り返さないとも限らない。

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2008年12月 2日 (火)

新雪の浅間嶺

   新雪の千の白糸浅間嶺に

俳句協会・俳句文学館発行、平成20年度最後の12月カレンダー所載句である。
作者は堀口 星眠氏で、遠藤 正年氏の解説がある。

句集『営巣期』初秋。昭和45年作
 碓氷川を遡る。碓氷峠の水神の碑の立つ源流の泉に至る。熊野権現が上信二国の境に祀られ、峠の茶屋がある。見晴らし台が眺望を恣にしている。
 軽井沢、浅間高原は作者の第一句集『火山灰の道』(昭和33年刊)の先師石田波郷跋文によって知られているように、高原をこころざす人々の交流された場所である。
  冬は落葉松の空にきらめく氷塵。夏は白光する浅間の頂き。浅間より古いといわれる小浅間の草一つない丸みを帯びた山容。前田普羅はこの山の夜の火山活動を女性浅間といったが、古くからこのようなイメージがあったのであろうか。
  1000本の白糸にように等間隔に山襞に懸かる新雪。眼前の姿を叙したもので『営巣期』の帯の、自然参入は作者生得の素質で及び難いと書かれた先師の文章を思い出す。浅間へのしたしさが余韻となって心に残る。(遠藤正年)』

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写真は今年11月初旬、長野新幹線の車窓から望見した浅間山であるが、まだ雪はなく山頂からは僅かに噴煙を棚引かせ、丸みを帯びた山容は美しい。
長野市に生まれた私にとっては、時々大噴火して火山灰が長野まで降ってきた記憶が何回かあるが、今は休止状態なのかそのような便りは殆ど聞かない。
信州人、特に北信に故郷を持つ者にとっては懐かしい浅間山の姿であり、この姿を見ると信州へ来たなあとの実感が湧く。
掲句は新雪を頂いた浅間山の景観を見事に表現していて印象深い。

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