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2008年10月22日 (水)

佐鳴湖畔の蘆刈り

浜松市の一角にある佐鳴湖。その湖畔のを22日の9時から地元の佐鳴台小学校5年生140名全員が揃って刈った。
引率の先生に依れば、総合的学習時間の一環として「見つめよう私たちの佐鳴湖」をテーマに、自然環境に親しむ一環として行っているそうである。
佐鳴台小学校は転出入が激しい学校で、児童同士の連帯の一環にもなっているようで、異国の人のお子さんらしい児童も混じっている。
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最初に係りの市の担当者から作業上の注意があってから始まる。刈る人、運ぶ人、束ねる人の役割を決め、途中で休憩を取るたびに役目が代わるように組織だった行動になっている。
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慣れない手つきながら一所懸命に刈り、受け取り、束ねて行く姿は微笑ましい。足元は水のあるところ、無いところもあり気をつけて刈る。Img_52871_2  

刈り進んで湖辺の柵が見えると眼前に湖が開けてくる。
引率の先生が声をかける。「未来が見えるようでしょう
良い言葉だ、未来が見えてくる。感じ易い年代の児童には特に響く言葉であろう。
先生に依ると、「この年代の児童の頭の中には今日の蘆刈りが確りと焼きついて、生長してもその記憶が鮮明に蘇るようです」と説明してくれた。
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刈られた蘆はトラックで運ばれる。
近所の茶畑に運ばれ、畝間に敷かれたり、或いは動物園の象の餌にも使われるとのことである。

昔のように蘆葺家が殆どなくなったので、刈った蘆の使い方も変ったと、来ていたお年寄りが話していた。

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2008年10月20日 (月)

計算尺

机の引き出しの隅に、何十年も前に使った計算尺がひっそりと納まっている。今では滅多に見られなくなった懐かしい代物だ。
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Img_5229_2上の 写真は、2本の計算尺で、それに刻まれている目盛りを左の写真に示す。

機械の設計をしていた1955年前後、強度計算などをする計算の道具として主として使われたのがこの計算尺や、タイガー計算機である。

計算尺の目盛りは対数目盛りになっていて、足し算をすれば掛け算の結果が出るようになっている。
Img_5232_2 例えば(12×15=180)は(12+15)として見れば答えが180と表示され、カーソルの赤線を該当数字に併せると、更に読みやすいように出来ている。左の写真はその例で、位取りは自分で決める。(写真は何れもクリックで拡大)

Tiger22 序にタイガー計算機(写真はネットより引用)についてふれておくと、これは例えば掛け算をしようとすれば、ハンドで被乗数をレバーで設定し、乗数をその数だけハンドルを前方または手前に回して計算するもので、一日計算をしていると肩が抜けるほど疲れた。

今は、子供でも簡単に持っている計算器が普及して、将に今昔の感がある。だからこんな古くさい計算尺の話をしても判って貰える人が少なくなった。

計算尺と言い、タイガー計算機といい、何れも青年時代の思い出を辿る縁の一つで、手垢の滲んだ計算尺は私にとっては懐かしい物の一つである。

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2008年10月12日 (日)

薪能

10月9日、浜松の文化芸術大学の屋上芝生の特別ステージで薪能松風」が開催された。これは同大特別公開講座として開催されたもので、これに先立ち7日は朗読劇「松風」が、8日は「舞台裏から見る景色」に就いての講座があった。

松風」は、世阿弥初期の幽玄能で、「熊野、松風に米の飯」と評され完成度の高い演目という。
あらすじは、『旅の僧が須磨の浦を訪れ、磯辺の一本の松に目を留めた。この松の謂れを所の者に尋ねると、それは嘗て在原行平が愛した、松風・村雨という二人の海人乙女の墓であるという。
日が暮れて僧は近くの汐屋で一夜を明かそうとする。すると二人の海人が現れる。それこそが松風・村雨の亡霊であった。二人は汐を汲み、歌を歌いながら、月は一つなのに、二つある桶の水面には月の影がそれぞれ映ると興ずる。
僧は二人に在原行平の和歌に就いて語った。行平が松風と村雨のために旧跡を弔ったのだと聞かせる。
姉の松風は行平のことを思いながら、涙ながらに行平の形見の衣装を取り出しそれを纏うと、松が行平に見えてくる。村雨は姉を止めるが、松風は行平の別れ際に残した歌を歌い舞う。
 「立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰りこん」
だんだんと夜が明け、僧が目を覚ますと、そこには松風ばかりが吹き残っていた。』

シテは梅若猶彦、ツレは梅若善久、ワキは福王茂十郎ほか等で、薪能など始めての者にとっても何か胸に迫るものを感じさせる。
Img_5086_7 当日のステージは二階屋上に設けられ、客席はそれを囲んでびっしりと椅子が並べられ、折しも快晴だった空からは涼風が心地よかった。空には小さな月が掛っていた。
  芝生席の最後尾に居た私の席からはステージが遠かったので実演写真は静岡新聞より引用した。
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薪能(たきぎのう)は、主として夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能。「薪の宴の能」の意。起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催されたものが最初だという。興福寺では、現在5月の11日、12日に薪能が行われている。ただし興福寺では薪御能(たきぎおのう)と呼ぶ。また、薪御能の源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であり、野外で薪を燃やせば薪能になるのではないとしている。

現在、各地の神社仏閣(平安神宮、増上寺、生国魂神社など)や庭園(大阪城西の丸庭園、新宿御苑など)で催されている。

京都郊外の薪村(たきぎむら)で行われたので薪能と呼ばれた。』(Wikipedia)

同大の薪能の特別公開講座は今回で8回目(8年目)を迎える。第1回目の講座の開講時、時の学長だった木村尚三郎氏は次のように語っていた。
『お能はその夜の世界を拓いて見せてくれます。そこには人間中心の欧米的ないし近代的な、初めや終わりはなく、過去と現在の唆別も、演者と観客の別もありません。その代り、笛や鼓を通して風の音や山の木霊(こだま)が聞こえてきます。謡や舞を通して、人の心の奥底が見えてきます。能では面(おもて)をつけていない素顔を、直面(ひためん)といいます。それは私たちが「素顔」という面をつけて、心の底を見せないように日常を演じているということです。』

江戸時代、薪能は徳川幕府の手厚い保護を受け、繁栄していた。しかし、明治維新によって、新政府が成立されると徐々に衰退の道をたどることになった。

現在、全国各地で行なわれ、多くの方々に親しまれている野外能としての薪能は、第二次世界大戦後に広まったもので、比較的新しいものである。

火と空気が織り成す舞台で能を舞う。それら三者が一体となった心地よい調和を生む。
     序の舞を火蛾仕る薪能    高橋たか子
    急調に入りし羽衣薪能    伊藤 徹
    今し舞ふ薪御能は田村らし  伊藤 徹      

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2008年10月 7日 (火)

晩年といへば

晩年といへばむらさき湿地(しめじ)など

俳人協会・俳句文学館発行、平成20年10月俳句カレンダー所載句である。作者は三田きえ子氏鈴木紀枝氏の解説がある。

 『晩秋の雑木林は、その澄んだ空気と光に身を委ね、心を自在に遊ばすことのできる稀な空間のひとつである。
 豊かな時間に浸っている中で、作者はムラサキシメジに出会った。湿った地に紫色のかさが列をなし輪を描いて群生する。この光景に遭遇しえたならば、それは眼福の一語に尽きる。
 木々の葉が燃えるように染まるその下で、ひっそりとしっとりと営まれる生。しばし濁りのない匂うような色を地にふりまいて。
 さて目の前の世界の広がりよりも、後ろに置いてきた世界の深さに心を奪われる時、人は晩年の意識にとらわれ始めるようである。
 だが作者は「晩年といへば」と何気なく主題を提示し、あの山中での「むらさき湿地」との一会の残像を蘇らせるのである。 しかも「など」と軽く納めて、絞ることも断定もせず、詠嘆もしない。主題は淡々と柔軟に展望される。
 晩年のありようを、このように華やぎをもってゆったりと詠んだ句をほかに知らない。平成14年作。(鈴木紀枝)』

この時期に晩年と詠うのは、多少抵抗もあるが、全体的には紀枝氏の解説に共鳴する。

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2008年10月 6日 (月)

海坂創刊750号記念

遠州地方を拠点に幅広く俳句活動をしている俳誌に「海坂(うなさか)」がある。本年10月号は、創刊750号記念号となる。一口に750号といっても実に60有余年の歴史を持つことになる。

750 同誌の平賀扶人主宰によれば『「海坂」誕生の源流は、昭和21年6月、当時二俣町に疎開していた久野仙雨医学博士を中心に結成された俳誌「あやめ」に由来する。指導者は仙雨と羽公。編集、発行を沖青魚が担当、46版110ページの謄写印刷であった。昭和22年8月より瓜人も選者に加わり、活版印刷となった。現在の「海坂」に改められたのは昭和25年1月号からであり、表紙も雄渾な筆致の瓜人画か飾る事となった。爾来歳月を重ね、此処に創刊750号を迎えるに至った。云々』とある。

俳誌「海坂」は、百合山羽公、相生垣瓜人両蛇笏賞作家の共主宰の形で運営され、以後現在まで引き継がれ多くのすぐれた俳人を輩出している。

海坂と言えば何処かで耳にした方も大勢いらっしゃるだろうと思う。そう、藤沢周平の時代小説に出るのが「海坂藩」である。
向井敏の「海坂藩の侍たち」によれば、『藤沢周平が庄内藩を模して工夫した架空の藩を海坂藩と名付けた由来は、その昔、彼が会員の一人として加わり、しきりに投句していた俳句雑誌が「海坂」と名乗っていたことから来ている。』とある。

俳誌「海坂」は、水原秋桜子創刊の「馬醉木(あしび)」系に属しているがその馬醉木も亦平成19年(2007年)6月号を以って、第1000号を迎えている。

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