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2008年7月30日 (水)

山寺常山(2)

幕末時代、信州松代藩にあって、第八代藩主「真田幸貫」は、夙に名君として知られ後に老中職まで勤めた。その陰で幸貫を支えた、鎌原桐山佐久間象山山寺常山は、松代の三山と言われた傑物である。

過日信州へ行った時、久しぶりに川中島古戦場址(八幡原)を訪ねたが、「八幡社」や「三太刀七太刀之跡の碑」周辺は勿論、其処以南も広範囲にわたって見事に整備され、その一角に佐久間象山の銅像が新に建てられていた。

山寺常山に就いては既に記した様に、特に佐久間象山とは親友関係にあった。

私の生家は、山寺常山と姻戚だった関係からその肖像画が、座敷に他の写真と並べて飾られている。
Photo
当時の世情に就いて、前沢英雄著「佐久間象山の生涯」から要約すると、『米国はハリスを総領事として下田に駐留させ、安政5年(1858年)更に通商条約を幕府に迫った。この条約は片務協約といって所謂不平等条約であった。
幕府の老中堀田正睦も苦心の末勅許を願い出たが得られなかった。もはやハリスとの約束期限も過ぎていた。
これを知った象山は蟄居中の身も忘れ、長文の上申書を認め、藩主幸教の名を以って幕府に献策するよう藩老の同意を得て4月16日使者を江戸に送った。
上申書は4月21日、幸教の許に到着したが、意見する者があって結果的には幕府に上達されなかった。
やがて幕府は井伊直弼を大老に任じ6月19日、直弼は勅許を待たず日米通商条約に調印してしまった。
この条約で、象山の主張してきた横浜は開港されることになったが、象山は釈然としなかった。』とある。
この時、常山は好意を以って象山援護の書を幕府要人に送り届けたが何故か象山は喜ばず、却ってこれが原因となって両人は袂を分かつ事になった。最後まで両雄の友情の保てなかった事は至極残念の極みである。

山寺常山の生涯に就いては、前記「山寺常山」に詳しいが、一方象山の最後も人のよく知る所である。

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