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2008年6月25日 (水)

会社が誕生する時

6月25日はヤマハの株主総会である。総会は無事に済んでその後、ミニコンサートで「手嶌葵」のしっとりとした歌を楽しんだ。

総会に先立つ事半月前の10日に信州飯田高校の歴史的ピアノを拝見した。
「信州の飯田高校に初期のヤマハ・ピアノがあるが良かったら見に行きませんか」と、作家の松田不秋さんからお誘いのあったのが発端である。

清水越郎飯田高校々長先生のお話によれば、

『旧制飯田中学が独立したのは、今から100年前の明治33年(1900年)で、その3年後の明治36年(1903年)に購入したピアノを、飯田高校独立100周年に当る平成12年(2000年)に、同じく竪型ピアノ製造100周年を迎えたヤマハの協力によって、演奏可能な状態にまで復元した。当初修復予算は70万円だったが、ヤマハが更に200万円を後援して完全修復して頂いた。』とのことである。
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因みに、ヤマハがピアノの製造に着手したのは明治32年(1899年)で、その頃の試作品と思われるピアノが浜松市の楽器博物館にある。ヤマハが純国産ピアノとして竪型ピアノの製造を開始したのは翌、明治33年(1900年)からで1台目の製造番号が「1001」である。その2年後の明治35年(1902年)に造られた純国産ピアノ10台目の歴史的ピアノが、奇しくも眼の前にあるピアノである。正式名称は「山葉洋琴竪型2号」と言い、日本のピアノ史上でも貴重なもので、先の千葉県佐倉市立美術館で開催された「音のアンティーク展、造形と音が織りなすピアノの世界」にも招待出品された。

ピアノを拝見する時の参考にもと思って、ヤマハや、ヤマハ・ピアノの歴史的経過の一端を知って頂く為に、「日本楽器製造(現ヤマハ)社史」の内、関係箇所を予め抜粋コピーしたものを持参した。

ところでその社史のコピーを、飯田線の中で松田さんにも見てもらったところ、松田さんが驚きの声を上げた。その社史の中に記されている重要人物である伊沢修二は実は、信州は高遠出身だという。私はそれを指摘されるまで知らなかった。信州出身者として迂闊と言えば迂闊であった。

該社史に依ると概要次のように記されている。
ヤマハの初代社長・山葉寅楠がある所から依頼されて修理したオルガンからヒントを得て、自ら企業化しようと計画し試作した
1号機を、協力者の河合喜三郎と共に天秤棒で担いで箱根の峠を越え、東京の音楽取調所(現東京芸大)の所長・伊沢修二を訪ね、今までの経過と抱負を語って審査を願い出た。「オルガンの形はよいが、調律が不正確で、使用に堪えない」、これが伊沢の第一声であった。だが伊沢は語を継いだ。「音楽の理論と調律を研究しないで、オルガンを造ろうとするのは無謀である。若し君たちに、それらを学ぶ希望があるなら特別に聴講生として、取り計らってやろう」、この一言で山葉寅楠は救われ、そのまま残って学び、やがて浜松に戻って、2台目のオルガン製造に着手し、二人は再び伊沢所長の審査を受けた。「前回の欠点はことごとく除かれて、舶来品に代わり得るオルガン」との認定を受けた。明治20年(1887年)のことである。』

このような経緯を辿って「山葉風琴製造所」の看板を上げたのが、明治21年(1888年)で現ヤマハの誕生である。そして明治30年(1897年)、「日本楽器製造株式会社」と社名変更し、更に昭和62年(1987年)「ヤマハ株式会社」と社名変更して現在に到っている。


このような経過を知ると、伊沢修二の一言ヤマハの誕生とは深く関係していた事を感じる。
若しあの時、伊沢修二の一言が無かったら果して、現在のヤマハという会社が存在していたかどうかと思うと、全く関係ないと思っていた信州とヤマハとの関係が急に息づいてくる。出会いとは不思議なもの、考え方によっては恐ろしいもの。会社が誕生する時は案外こんな時かも知れない。山葉寅楠のような傑物ならば或いはその時の一言が無くても会社を起したかも知れないが、今のようなヤマハとは違ったものになっていた可能性が高い。

一言の重み、その一言との出会いを今日、ヤマハの株主総会を終えるに当って、しみじみと想った。

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コメント

老化が進んで記憶力が低下し、先日も、たった50年前に一度会ったガールフレンドから電話が入ったのに、誰かを思い出せなくて、同居人に締め上げられました。 伊沢修二が長野の人だということを以前には承知していて、何処かに書いたような気もするのだが探し出せません。 能力が衰えているのに最近難しい事を始めて時間が不足して、上記女性の件をブログに書く時間が取れません。 それでもAlpsさんよりも50年遅れで、漸く楽理の勉強をしたのでレポートをTBします。

投稿: 佐久間象川 | 2008年6月26日 (木) 16時54分

お読み頂いて有難う御座いました。
私も伊沢修二が高遠出身とは松田さんから指摘されるまで知りませんでした。
高遠城址にある「無字の碑」が、その弟の多喜男のものであることも聞いて吃驚です。
いずれにしても大変な兄弟であったことは確かで、ヤマハの存在も修二に負う所大であった事を考えると、ヤマハと信州との関係を改めて想ったものでした。

投稿: Alps | 2008年6月28日 (土) 07時13分

前略
昨年末に「ヤマハ草創譜」という本を発刊しました。ヤマハの創業期中心にまとめたものです。本冊子作成過程で、資料を求めて飯田高校でピアノを見、高遠の図書館へ行き、伊澤修二直筆の書状多数を拝見しました。もし、ご興味がございましたら本冊子を入手され、ご意見等をお寄せください。

投稿: 三浦啓市 | 2013年2月 6日 (水) 12時04分

三浦様 「ヤマハ草創譜」を発刊された由おめでとう御座います。
本冊子の内容によっては、拝見いたしたいと思います。

投稿: Alps | 2013年2月10日 (日) 18時13分

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