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2008年6月 4日 (水)

石舞台古墳

お寺さんの西国巡拝の旅の途中に石舞台古墳に寄った。お寺さんの旅であるから巡拝が主体だし又参加者もそのような人の集まりだから、歴史上のこのような古墳は一寸見だけになってしまうのは止むを得ない。併し何年ぶりかで石舞台古墳を見ることが出来た。写真は上から石舞台の遠景と玄室の入口と中の状態を撮ったもの。
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1_3  Wikipediaに依ると,

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952)3月27日、国特別史跡に指定される。

古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた。

封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。1_4

外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている。

『日本書紀』の推古天皇三十四年(626)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。大臣は、馬子のこと。 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったとする説が有力である。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。
水野正好奈良大学名誉教授は石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。

なお、昼間は公開されており、石の下に入ることが出来る。』
と、記されている。

「石舞台」の名の由来に就いては、上記の他に、古墳拝観券裏面の説明に依ると『一般には石の形状からとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人がこの大石を舞台に演じたと言う説もある。勿論今は石の上に上ることは禁止されている。』と、ある。
附近には、橘寺や岡寺、飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、甘樫丘、酒船石、亀石、高松塚古墳、天武・持統天皇稜等々があり、一帯は国営飛鳥歴史公園になっている。そのうち此処は石舞台地区公園となっていて、今の季節には大勢の人が此処を訪れる。
此処に来ると、そのかみ蘇我氏が権勢を誇った時代、そして其の後の時代の推移をしみじみと感じさせてくれる。   

     玄室に夏の日矢さす石舞台

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コメント

トラックバック失礼いたしました。

古墳のスケールには驚かされますよね。
昔の人は本当にすごいなと思います!

投稿: 旅宿ぶらり | 2009年1月26日 (月) 10時57分

コメント有難う御座います。
とにかく明日香へ行くと心が休まる。この地にかつての歴史が秘められているのかと思うだけでも楽しくなる。一木一草にも何かを感じる。この地を余りにも俗化する商業主義には心が冷える。

投稿: Alps | 2009年1月27日 (火) 14時16分

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史跡とは、歴史上の出来事に関係のあった場所や建物、遺構などを指し、特に現状を保存して、後世の人たちに残す必要があると判断されたものをいいます。 史跡には、文化財保護法に基づき、国が重要であると認めて、 [続きを読む]

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