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2008年6月30日 (月)

別所線

過日上田の別所温泉で会合があり、幹事からの連絡に、「上田駅から別所温泉への足は、地球温暖化・環境浄化に沿ってマイカーではなく、上田駅から田舎の電車別所線に乗って頂きたい。車窓から沿線に広がる田園風景を愛でて心を癒して頂くのも一興かと存じます。」と、あった。

別所線に就いて、Wikipedia に依ると、
別所線(べっしょせん)は、上田市の上田駅から別所温泉駅までを結ぶ上田電鉄の路線である。
2005年10月3日より上田交通から鉄道部門を分社化した子会社の上田電鉄の運営となった。
別所温泉への湯治客輸送のために1921年に開業した。かつて側面に丸窓を持つ「丸窓電車」が走っていたことで知られる。1993年に元東急7200系電車を投入し冷房化を果たした。1973年に別所線廃止の方針が出されたが、地元の運動や軌道整備補助金(欠損補助)の交付が決まったことで危機を免れた。しかし2000年に上田交通の親会社の東京急行電鉄からの設備改修の提言を受け、国土交通省の地方鉄道安全新基準を満たすために上田交通が地元自治体に対し財政支援を求めており、再び存続問題が浮上している。
2005年8月に上田市が分社化後も支援継続することを発表したが、現在も予断を許さない状況が続いている。』と、ある。
その様な事情もあって、今回の会合を受け持つ地元幹事としては少しでも別所線を使って欲しいとの希望に沿った連絡でもあった。
Photo_2

沿線には塩田平の田園風景が開け、林檎の木が車窓に迫って来る。しみじみ信州に来たなあと感じる。

別所駅に着くと各温泉旅館共通バスが待機していて電車から降りた客を乗せて温泉街を一巡して、客の希望旅館で順次降ろしながら行くという仕組みになっていて便利である。

偶々乗った時刻は下校時とあって結構混んでいたが、途中乗車者より降車する者が多く、終点の別所駅に降りる者は温泉客、観光客それに温泉街の住人。路線の性格から時間帯によっては空いていることが予想され、それが経営成績に反映していると思う。

別所温泉を含む塩田平は、温泉以外に、北向観音、常楽寺、安楽寺、生島足島神社や附近に大法寺、前山寺、信濃デッサン館、無言館等々があって一名「信州の鎌倉」と呼ばれる観光名所でもある。

帰りも上田駅に出るのに同線を使ったが、別所駅の出札・改札は一人の和服に袴姿の女性が受け持っていて、路線PRの一端を担っていた。今では滅多に見られない姿ではあるが清楚な感じを受けた。一緒に記念撮影をしている風景も印象的だった。

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2008年6月25日 (水)

会社が誕生する時

6月25日はヤマハの株主総会である。総会は無事に済んでその後、ミニコンサートで「手嶌葵」のしっとりとした歌を楽しんだ。

総会に先立つ事半月前の10日に信州飯田高校の歴史的ピアノを拝見した。
「信州の飯田高校に初期のヤマハ・ピアノがあるが良かったら見に行きませんか」と、作家の松田不秋さんからお誘いのあったのが発端である。

清水越郎飯田高校々長先生のお話によれば、

『旧制飯田中学が独立したのは、今から100年前の明治33年(1900年)で、その3年後の明治36年(1903年)に購入したピアノを、飯田高校独立100周年に当る平成12年(2000年)に、同じく竪型ピアノ製造100周年を迎えたヤマハの協力によって、演奏可能な状態にまで復元した。当初修復予算は70万円だったが、ヤマハが更に200万円を後援して完全修復して頂いた。』とのことである。
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因みに、ヤマハがピアノの製造に着手したのは明治32年(1899年)で、その頃の試作品と思われるピアノが浜松市の楽器博物館にある。ヤマハが純国産ピアノとして竪型ピアノの製造を開始したのは翌、明治33年(1900年)からで1台目の製造番号が「1001」である。その2年後の明治35年(1902年)に造られた純国産ピアノ10台目の歴史的ピアノが、奇しくも眼の前にあるピアノである。正式名称は「山葉洋琴竪型2号」と言い、日本のピアノ史上でも貴重なもので、先の千葉県佐倉市立美術館で開催された「音のアンティーク展、造形と音が織りなすピアノの世界」にも招待出品された。

ピアノを拝見する時の参考にもと思って、ヤマハや、ヤマハ・ピアノの歴史的経過の一端を知って頂く為に、「日本楽器製造(現ヤマハ)社史」の内、関係箇所を予め抜粋コピーしたものを持参した。

ところでその社史のコピーを、飯田線の中で松田さんにも見てもらったところ、松田さんが驚きの声を上げた。その社史の中に記されている重要人物である伊沢修二は実は、信州は高遠出身だという。私はそれを指摘されるまで知らなかった。信州出身者として迂闊と言えば迂闊であった。

該社史に依ると概要次のように記されている。
ヤマハの初代社長・山葉寅楠がある所から依頼されて修理したオルガンからヒントを得て、自ら企業化しようと計画し試作した
1号機を、協力者の河合喜三郎と共に天秤棒で担いで箱根の峠を越え、東京の音楽取調所(現東京芸大)の所長・伊沢修二を訪ね、今までの経過と抱負を語って審査を願い出た。「オルガンの形はよいが、調律が不正確で、使用に堪えない」、これが伊沢の第一声であった。だが伊沢は語を継いだ。「音楽の理論と調律を研究しないで、オルガンを造ろうとするのは無謀である。若し君たちに、それらを学ぶ希望があるなら特別に聴講生として、取り計らってやろう」、この一言で山葉寅楠は救われ、そのまま残って学び、やがて浜松に戻って、2台目のオルガン製造に着手し、二人は再び伊沢所長の審査を受けた。「前回の欠点はことごとく除かれて、舶来品に代わり得るオルガン」との認定を受けた。明治20年(1887年)のことである。』

このような経緯を辿って「山葉風琴製造所」の看板を上げたのが、明治21年(1888年)で現ヤマハの誕生である。そして明治30年(1897年)、「日本楽器製造株式会社」と社名変更し、更に昭和62年(1987年)「ヤマハ株式会社」と社名変更して現在に到っている。


このような経過を知ると、伊沢修二の一言ヤマハの誕生とは深く関係していた事を感じる。
若しあの時、伊沢修二の一言が無かったら果して、現在のヤマハという会社が存在していたかどうかと思うと、全く関係ないと思っていた信州とヤマハとの関係が急に息づいてくる。出会いとは不思議なもの、考え方によっては恐ろしいもの。会社が誕生する時は案外こんな時かも知れない。山葉寅楠のような傑物ならば或いはその時の一言が無くても会社を起したかも知れないが、今のようなヤマハとは違ったものになっていた可能性が高い。

一言の重み、その一言との出会いを今日、ヤマハの株主総会を終えるに当って、しみじみと想った。

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2008年6月20日 (金)

何かのご縁

信州の別所温泉で、6月17・18日と一泊二日の同級会があった。
その席で6月17日(火)の信濃毎日新聞に、同温泉の北向観音に関して、次のような記事が載っている事を聞いた。18日はその観音さまにお参りする日でもあったので丁度時宜を得た新聞記事であった。記事は次の様である。

『半田孝淳天台座主と、弟の清水谷孝尚浅草寺貫主揮毫の経、北向観音本堂に。

上田市別所温泉にある北向観音の本堂正面に、半田孝淳(こうじゅん)・天台座主(90)と、実弟の清水谷孝尚(しみずたにこうしょう)・浅草寺(東京)貫首(88)がそれぞれ揮毫(きごう)した観音経の一節が掲げられた。近くの北向観音本坊、常楽寺で生まれ育った兄弟がともに仏教界の要職に就いた記念。比叡山延暦寺(滋賀県)から帰省中の半田座主は16日、「2人とも北向観音の利益をいただいてきた。ご奉告できてうれしい」と語った。
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  本堂正面の階段の上り口に立つ左右の柱に5月末に掲げられた。それ1_5 ぞれ高さ2メートルほどのケヤキの板に、観音経のうち有名な節の10文字ずつが彫られ、金箔(きんぱく)が施されている。向かってが半田座主で、「具一切功徳慈眼視衆生(ぐいっさいくどくじげんじしゅじょう)」(観音様は、すべての偉大な力を身に付け、慈しみの目で私たちを見守ってくださる)、1_6 が清水谷貫首で「福聚海無量是故應頂禮(ふくじゅかいむりょうぜこおうちょうらい)」(海のような無量の福徳をたたえておられるので、心から敬い仰がねばならない)。

  半田座主は昨年2月、常楽寺住職から、256世天台座主に就任。清水谷貫首は27世で1996年6月に就いている。浅草寺は年間3000万人が訪れる。』と、記されている。

翌18日は旧友等と共に北向観音にお参りする。その時に新聞所載の掲額も拝見してきた。

昼食後、同級会もお開きとなり夫々帰路に着いた。私は上田駅から東京行きの長野新幹線に乗るべく待合室に居た。
その時同駅からバスで帰宅するT君が後からやってきた。私からは死角の位置に、どうも新聞に載っていた高僧に似た人が居ると彼が言う。成る程彼の位置からするとその人物がよく見える。お供らしい人が2名荷物などと一緒に傍に付いていた。
お付の人が僧から離れた時に、その人に思い切って尋ねてみたら矢張り、半田天台座主と判った。二人で新聞記事を仲立ちにして話しかけてみたら非常に気楽に打ち解けて話をされ、写真も一緒に撮らせて頂き、暫くしてからお別れした。とても90歳などとは思われず矍鑠としていらっしゃって此方も何か元気を頂いた感じがした。

帰宅後、その時の私の感想と、撮った写真を添付してT君へ送った。

『信毎記事の半田孝淳師と清水谷孝尚師の事を伺い、北向観音でその掲額にご対面してきたばかりなのに、当の半田師と、その日にお会い出来るとは人生は将にあざなえる繩の如しの感があり、出会いといった因果めいたものをしみじみ感じました。
あの時の待合室の私の位置からは師の所在を知る事は不可能でしたが、貴君が来て見つけて下さり声をかけて下さったおかげで、単なるすれ違いに終る筈だったものが、あの出会いになった事を思うと、不思議な因縁を感じました。』
まことに奇遇であり、これも何かのご縁というものであろうか。
若しあの時、半田師が駅に来られなければ、私が駅に居なければ、T君が来なければ、声を掛けなければ等と思うと、偶然とは言いながら、出会いの不思議さや因縁めいたものを感じる。

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句集「奈良町」

白魚火(しらをび)同人であった伊藤 徹氏の奥様から、徹氏の遺句集「奈良町」を頂いた。

句集名となった「奈良町」は、同誌仁尾正文主宰の序文に依ると「奈良町は町名ではない。奈良の町が京都へ移り、平城京は草原となってしまったが、残された諸大寺が学問寺として発展。……現在奈良市民が奈良町と呼んでいるのは、南部地区の薬師堂町、毘沙門町、元興寺町等々歴史の名残を思わせるような多くの町で、
  路地に水打って奈良町暮れにけり  徹
の句が示すように庶民的な雰囲気が残る一劃である」と記されている。

Photo_3 徹氏と始めて会ったのは、平成12年の明日香への一泊吟行で、以後平成13年の東近江一泊吟行、更に伊賀上野への日帰り吟行でその都度徹氏は参加されていた。

奈良にお住まいの徹氏は、浜松の句会へ都度手紙による投句をされていたが、句材の豊富な奈良町に近い所とあって、神事・仏事にからむ諸行事や歴史的な遺跡遺構を巡る句が多く寄せられ句友を喜ばせていた。不幸にして病を得て、本句集が「遺句集」となってしまったのは返す返すも残念である。
奥様から寄せられた「あとがき」や仁尾主宰の「序文」、更には句集を読んで一本筋の通った徹氏の生き方を感じる。そう言えば徹氏は、剣道5段で錬士の称号を持つ。

自然やつい見逃してしまいそうな身ほとりを、かくも感性豊かに捉え、表現力豊かに、
    十分もかからぬ宮に梅を見に
    訪らふは風のみならん枯蓮田
    風鐸の舌のきらめき夏落暉
    一炊の間や宍道湖の冬の虹
    お祓ひをまちて駆け出す水着の子
    初詣遠き神より近き寺
俳句を詠む人にとっては一度は行って見たい神事祭事は奈良には多い。徹氏は毎年こまめに足を運んで詠んでいた様子が窺える、
 薪能を楽しんで、
    今し舞ふ薪御能は田村らし
    急調に入りし羽衣薪能
    薪能火勢なだむる水箒
 修ニ会を詠んで、
    戒壇院修ニ会別火の札かかり
    漆黒の闇に炎の瀑お水取り
    松明の回廊駆くるお水取り
 春日大社の神鹿の角切をリアルに描いて、
    勢子の追ひ泡ふく鹿の走りづめ
    勢子四人組み敷く鹿の白目むき
    角を切る鹿にあてがふ白まくら
    角切の幕間に控へゐる獣医
 行事の都度足を運んだであろう、
    山焼きの神事を差配春日禰宜
    献餞の黒酒白酒(くろきしろき)や百合祭
    大仏のみ手に移りてお身拭ひ
明日香は歴史の宝庫、そのかみの歴史に関心のある人にとっては垂涎の場所でもある。徹氏と始めて会ったのも明日香、
    駿河なる人待つ丘に瑠璃来鳴く
は、浜松からの私たちを待っていた時のものであろうか、
    甘樫の丘にたちみる青田かな
    楊梅の実を万葉の葉盛膳
万葉の葉盛膳は旨かった。
伊賀上野は高石垣で有名な藤堂高虎の上野城や芭蕉の俳聖殿でも著名な所、
    吾も過客よき句をたまへ伊賀の秋
    蕉翁の謦咳と聞く庵の虫
奈良町は直ぐ近く、
    鑑真廟鳥たつたびに木の実降る
    径せばめ萩咲きさかる白毫寺
    路地に水打って奈良町暮れにけり
    虫籠窓残る奈良町片かげり
親子家族関係の情愛も深く、又自分自身の来し方行く末を考え、
    父母ましてこその故郷山桜
    白牡丹盛りの縁に母と座す
    うそ寒や父あやふしの報来る
    さはやかや離れ住む吾を待ちて逝く
    戒名は一徹でよし初紅葉
    人恋ひつ一人酌みをる除夜の酒
    けざやかな百日紅や母まさず
    歩まねば弱る足腰秋暑し
思わぬ病魔に襲われながら、ご自分の生き方を貫き通す姿には感動する、
    伴はれそのまま入院夏立つ日
    気がつけば病床にあり青簾
    文月や世に忘らるる心地せり
    秋ゆくと言葉に出してわびしめり
    明日ある証なけれど日記買ふ
    括られて矜恃くづさぬ冬の菊
冬の菊の句は、徹氏の生き方を端的に表わしている。

句集の中から拾い上げた句を読み直してみても、あの当時の徹氏の事を彷彿と思い出され懐かしく、思わず胸が熱くなった。

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2008年6月 6日 (金)

わが青春に悔あり

青春時代に見た映画には自分の青春も詰まっている。
そんな映画を見ていると、当時の社会や思想の変遷が幻のように立ち上がってくる。そしてそんな時代の中に生きてきた自分自身の生き方も蘇ってくる。
青春時代の映画と言えば、「わが青春に悔なし」がある。過日NHK BSで放映されたが、私は迂闊にもそれを知らなかった。しかしそのことを知った旧友からこの映画を録画したDVDを態々送って頂いた(それには他にも数点、興味ある作品が載せられている)。

「わが青春に悔なし」の映画は、ご存知の方も多いと思うが、黒沢明監督、原節子主演に依る、京大事件を中心とする思想問題にテーマを得た物語であり、「満州事変をキッカケに軍部・財閥・官僚は……野望を強行するために、反対する思想の弾圧を強めた…」という書き出しから始まる。

八木原教授(大河内伝次郎)の追放、その令嬢で、無謀な戦争に反対する学生・野毛(藤田進)を慕う八木原幸枝(原節子)の戦中戦後を通した生き方をリアルに描き出し、逆境の中にあって自分の信念を貫き通し、耐え抜いた幸枝の生き方には泪を誘い感動を催す。「10年経ったらどっちの道が正しかったか判る」と、野毛は幸枝に言う。自由の裏には苦しい犠牲と責任がある。深窓の令嬢が獄中生活を送り、慣れない農耕生活に耐え抜いてゆく姿は悲壮感さえある。そして終戦、犠牲の上に成り立った今までの苦労が報われる。その生き方はまさしく、わが青春に悔なし。(映画の中の野毛は獄中死ということになっているが史実の詳細は知らない)。
たとえこれが映画の中の物語であったにしても、このような生き方をして来た人は現実の世界にも多数いることを疑わない。

特に原節子の知的美貌・美しい言葉・慎ましやかな所作等には、昔も今も理想の女性像を見る想いがある。そのような意味で、彼女のような女優が近来見られなくなったと思うのは間違いだろうか。

余談だが、この映画の出だしに、旧三高寮歌「紅萌ゆる岡の花 早緑匂う岸の色 都の花にうそぶけば 月こそかかれ吉田山」が歌われ、そのメロディーが映画のBGMとなっている。私はこの歌には、ある特別な私的感情があり聞くたびに胸が締め付けられる想いがある。この映画を見ている内はこの感情がそこはかとなく纏わりついて離れない(写真は銀閣寺と吉田山)。
Photo
私も戦中派、二拍子の青春時代を送った。幸いに優れた恩師に恵まれて今日が在る。しかし今、君の青春時代に悔はなかったかと問われたら矢張り、「わが青春に悔あり」と言わざるを得ない。

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2008年6月 5日 (木)

小諸とその周辺の句碑めぐり

伊豆の伊東や山中湖畔などには文学碑が多いが、小諸及びその周辺にも文学碑が多い。

その中で句碑だけを取り上げても、資料に依ると相当数に上る。
懐古園内の句碑
  紅梅や旅人我になつかしき   虚子
  雪散るや千曲の川音立ち来り  臼田亜浪
  秋立つや大樹の上の流れ雲  牧野耕雨
  郭公や何処までゆかば人に逢はむ  亜浪
  雲水の草笛哀しちくまが和    旅人
 尚、歌碑には、
  貞明皇后:夏の日のながき日ぐれし桑畑に
          桑きる音のまだたえぬかな
  若山牧水:かたはらに秋くさの花かたるらく
          ほろびしものはなつかしきかな
 藤村詩碑
     小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ…
Photo
北国街道沿いの句碑
  秋晴の浅間仰ぎて主客あり    虚子
  夜を荒れて火を見し浅間冴返る  曲水
  桜狩きとくや日々に五里六里    芭蕉
  柴を負ひそれにしめじの籠を下げ  虚子
  立科に春の雲今うごきをり      虚子
  人々に更に紫苑に名残あり     虚子
  風花に山家住ひも早や三年     虚子
  浅間嶺の月凉しけれ影を追ふ    亜浪
 歌碑には、
  若山牧水:幾山河こえさりゆかば寂しさの
            はてなむ国ぞけふも旅ゆく
 藤村詩碑
   昨日またかくてありけり今日もまた
           かくてありなむこの命なにをあくせく…
郊外の句碑
  今は雲を噴く火の山の若葉なり  荻原井泉水
  郭公や薬師立たせる山の霧     亜浪
  山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉
  ちち母の菩提のしだれ桜かな   宮坂古梁
  精霊も立ちふる廻の月夜かな   一茶
 藤村詩碑
   まだあげそめし前髪のりんごのもとに見えしとき
      前にさしたる花ぐしの花ある君と思いけり
高峰高原方面への道に沿って
  ふるさとは山路がかりに秋の暮  臼田亜浪
  秋たつや呼べばうなづく人の問  小林葛古
  あけぼのや露とくとくと山桜       亜浪
  親玉の後の子玉やシャボン玉   正木不如丘
  穴城に名ある小諸や虫の声       不如丘
  雨晴れて楢の若芽の銀色に    丸山晩露
  稲妻やびつくりさせてあとのなき     葛古
  五月雨や線香立てしたばこ盆       一茶
  山国の蝶を荒しと思はずや        虚子
  昼の蚊やだまりこくつてうしろから     一茶
  遠山に日の当たりたる枯野かな     虚子
  小諸路や茶によばれゆく夜のおぼろ 伊東深水
  遠峰の高嶺々々に夏の雲         虚子
  小諸とは雨の涼しき坂の町       富安風生
  凍る嶺の一つ嶺火噴きはばからず  橋本多佳子
  おく霜や浅間の峰にあかねさす       深水
 歌碑には、
  若山牧水:小諸なる君が二階ゆながめたる
            浅間のすがた忘られぬかも

旅情をかきたてる句碑(詩歌碑)が多く居並ぶ。時間が取れたら追って見たいと思うが何処まで出来るか。

世の中が便利さと早さを追い求める時代にあって、このような詩歌・俳句の先人の後を追ってみるのも、心に潤いを齎してくれる。

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2008年6月 4日 (水)

石舞台古墳

お寺さんの西国巡拝の旅の途中に石舞台古墳に寄った。お寺さんの旅であるから巡拝が主体だし又参加者もそのような人の集まりだから、歴史上のこのような古墳は一寸見だけになってしまうのは止むを得ない。併し何年ぶりかで石舞台古墳を見ることが出来た。写真は上から石舞台の遠景と玄室の入口と中の状態を撮ったもの。
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1_3  Wikipediaに依ると,

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952)3月27日、国特別史跡に指定される。

古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた。

封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。1_4

外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている。

『日本書紀』の推古天皇三十四年(626)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。大臣は、馬子のこと。 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったとする説が有力である。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。
水野正好奈良大学名誉教授は石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。

なお、昼間は公開されており、石の下に入ることが出来る。』
と、記されている。

「石舞台」の名の由来に就いては、上記の他に、古墳拝観券裏面の説明に依ると『一般には石の形状からとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人がこの大石を舞台に演じたと言う説もある。勿論今は石の上に上ることは禁止されている。』と、ある。
附近には、橘寺や岡寺、飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、甘樫丘、酒船石、亀石、高松塚古墳、天武・持統天皇稜等々があり、一帯は国営飛鳥歴史公園になっている。そのうち此処は石舞台地区公園となっていて、今の季節には大勢の人が此処を訪れる。
此処に来ると、そのかみ蘇我氏が権勢を誇った時代、そして其の後の時代の推移をしみじみと感じさせてくれる。   

     玄室に夏の日矢さす石舞台

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2008年6月 3日 (火)

浦島草

5月末、信州へ行った時、その宿の渓側の傾斜地に面白い形の花を見つけた。花の形から「蝮蛇草(まむしぐさ)」と思ったが、帰宅して「日本大歳時記(講談社刊)」を調べて見たら、同じサトイモ科の多年草で蝮蛇草によく似てはいるが異なった種類の「浦島草」と判った。
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同歳時記に依ると、浦島草は『サトイモ科の多年草。林野の湿った所に自生する。球茎から、多肉質の葉柄を立てて、先端に鳥足状の大きな葉をひろげる。柄の長さは40~50センチで暗緑色の斑点がある。5月頃、花茎を伸ばして花を開く。雌雄異株で、仏焔苞に包まれた肉穂の下に多数の雄花または雌花を着ける。花軸の先が長いむちの形をして垂れ、60センチにもなることから、浦島太郎の釣り糸に擬してこの名がある。』と記されている。

   蜑(あま)が家の簾の裾の浦島草 山口青邨
   浦島草茎立ち不二は雲の中    富岡掬池路
   浦島草夜目にも竿を延したる    草間時彦
   浦島草過ぎるは人の谺かな    保坂リエ
   その糸の闇をまさぐる浦島草    柴山みちを
   浦島草に屈めば水音聞えけり   加茂都紀女
   浦島草糸の石塵まみれかな    和田伊都美
等の句がある。

今まで何回も泊った事のある所なのに今まで見たことはなかった。今まで見つけることが出来なかったのは、其処に元々生えて居なかったのか、或いは生えていたけれどその時期に、其処に居なかったか、咲いているのに気がつかなかったのか。
いづれにしても珍しい花を見つけた。

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2008年6月 2日 (月)

再び海野宿と懐古園

5月末に再び海野宿を訪れる。
春には春の、秋には秋の風情を伴って北国街道・海野宿はその時々の顔を見せてくれる。以前にも記したように此処は北国街道の宿場町でその当時の面影を色濃く残している。
Photo丁度季節も五月、若葉の季節とあって宿場の道の真ん中を流れている小流れには清冽な水が流れ各家ごとに架けられた石の橋の周囲には色とりどりの花が咲いていた。
また各家ごとに濯ぎ場が設けられ、今は殆ど使われていないようだが嘗ての景はそのままに残されている。
卯建や通常海野格子と呼ばれる格子戸それに蚕飼の跡を残す気抜き屋根が景観を添えている。

今度の訪問時は何時もの道と異なり千曲川の南岸(左岸)を通った。その途中で思わぬ景に出会った。彩雲と呼ばれるものに略近い物で、その虹のような美しさに曳かれ、車から降りて暫く見とれた。或いは「環水平アーク」と呼ばれる横に真っ直ぐ伸びた虹の一種かもしれない。
Photo_2
当日夜の信越放送のニュースにもこの模様が放映されたが、気象条件がある条件に合致した時に出る現象で極めて珍しい景であるとのこと。偶々その時に、そのような場に出会わせたので見ることが出来た。

その足で小諸の懐古園に行く。海野宿から車で高だか20分くらいのところ。此処も万緑に覆われていた。特に小諸城址の石垣と若葉が美しい。此処は島崎藤村でも有名である。因みに草笛或る出会い続、或る出会いを参照されたい。
Photo_3
此処で、思いがけず全く久しぶりに郭公が鳴くのを聞いて懐かしかった。比較的近くで枝移りしては鳴いていた。
   ふるさとに来て故郷の閑古鳥
   郭公や浅間の嶺にけむり立ち
   郭公やしみじみ故里にある想ひ

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2008年6月 1日 (日)

句集「たびごころ」

馬酔木同人の、一(いち)民江さんから句集「たびごころ」を頂いた。

民江さんが「あとがき」に記しているように「歳時記に載る行事をよく訪ね、日本の伝統を守り抜く方達の真摯な態度にいつしか心打たれる」ようになり従って各地での旅吟、写生句が多く、更に親子兄姉等の生き方に就いて世の中の不条理をヒューマンな視点から捉えた人生観は心に沁みる。
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句集は、野生馬・化粧塩・ざしきわらし・雪ゑくぼ・春疾風・狐火・流し雛・白絣・福寿草の9章からなり、計379句が納められている

全体を通してまさしく旅心である、
  野生馬の肌あらあらと草青む
  取分の章魚手掴みに帰りけり
  錆鮎の隙なきまでに化粧塩
  奈良坂に歩をとどむれば秋逝きぬ
  田遊の籾きらきらと撒かれけり
  田遊の田打男がとちりけり
  大宇陀の雪より白き葛晒す
  中千本その中ほどの花吹雪
  春の鴨吹きだまりゐて相寄らず
  夢に降りうつつに積り春の雪
  主綱の僧衣地を擦る除夜の鐘
  よく動く兜虫より買はれけり
  大根蒔く小袋さらに小分けして
  山里の沈む臘梅月夜かな
併せて行事や歴史・民話等を詠ったものが前半に多く、
  田楽を守り継ぐ七戸注連飾る
  四つ舞の一人幼し花祭
  前触れもなく粥占の始まれり
  ひよんどり漆黒の山迫りけり
  姥捨のまことを聞きし夏炉かな
  昼寝覚ざしきわらしが擦り抜けて
家族関係を詠ったものが多く、長兄・次兄を戦争で失った傷は今も戦後を引きずっている、
  みんなみに長兄死にき鷹渡る
  喰積や卒寿の母に婪尾(らんび)の酒
  父の日や遺影の父の膝知らず
  待つことの明け暮れ母は着ぶくれて
  息災の母にあやかる柚子湯かな
  花一分二分五分母を看取りをり
  春疾風急かさるるごと夫逝きぬ
  かげろふの後姿となりにけり
  とめどなく風とめどなく竹落葉
  共に踏む落葉の音もなかりけり
  亡き夫の靴を磨きて年惜しむ
  送り火の独りとなつてしまひけり
  こんなにも小さき妣のちやんちやんこ
人生の生き方師との関わりを詠って、
  半生をしたたかに生きちやんちやんこ
  今一度お声聞きたし火恋し
  来し方の顔捨てきれず日向ぼこ
  冬萌や晩年もまた捨て難く
  亀鳴くや何かと人に後れをり
  手探りの余生楽しむ柚子湯かな
  神留守の底を突きたる常備薬
  生き方を問はれてをりぬ蟇
  春愁や本に右綴ぢ左綴ぢ
  恙なく歩くしあはせ花樗
  語部に闇深みゆく夏炉かな

挙げだしたら切がなくなる。第一句集「たびごころ」には、民江さんの人生と生活実感が滲み出ている。爽やかな読後感を頂いた。

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