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2008年1月31日 (木)

祖霊息づく千枚田

1月早々に、冬枯れの千枚田を見たくて、愛知県新城市鳳来地区の北端、鞍掛山麓近くに広がっている千枚田を訪れた。1999年に「日本の棚田百選」に選ばれ、2005年には「第11回棚田サミット」が開催された場所でもある。
事実1971年、休耕施策が施行されるまでは1296枚の田圃が作られていた。其の後、減反施策と高度経済成長に伴って都市への労働力移行から休耕田化が加速した。
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千枚田の歴史は古く、江戸時代には千枚田としての形態が整っていたと言われる。

今から百余年前の明治37年(1904)7月10日、梅雨時の長雨と紀伊半島に上陸した雨台風で山崩れが起こり、死者11人を出す大惨事をもたらした。沢沿いの棚田は壊滅したが、先人たちは、この不幸にもめげず約5年掛けて鍬とモッコで棚田復興に全力を注ぎ堅牢な石積みの棚田を蘇らせた。

千枚田は一枚の平均面積が90平方メートルと狭く、小さな機械を入れるのも一苦労。手植えのところも数多く、稲を背板で運ぶ苦労を強いられている。それに追い討ちをかけるように高齢化が進んでいる。 そこで1997年に農家の有志が集まり、「鞍掛山麓千枚田保存会」が発足した。
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山の傾斜地に作られた千枚田は、そのあぜや石垣によって大雨の際の土壌浸食を防ぎ、またその保水機能によって調整池の役割を果たし、水が一気に流水するのを抑える災害防止機能を備えている。
更に常に水をたたえて豊かな緑を育む田は、様々な動植物にも生息空間を提供している。

高齢化、採算性、獣被害・・・の問題が千枚田の維持管理に深刻な影を落としている。休耕田が増えてきたのは前述の通りだが、鞍掛山から流れ出る沢水は複雑な水路網を通して下へと流れていくので、休耕田の位置によってはそこから下の田圃数枚に水が行かなくなり、連鎖的に休耕田になってしまうということもあり得ると言う。かてて加えて最近では、獣被害が深刻な問題になっている。

今、この血と汗の辛苦を地域の人々は風化させることなく、先人の残した偉大な財産を使命感を持って守り続けている姿には頭が下がる。
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野面積みされた石垣は山裾から山頂に向かって延々と築かれ、先人の労苦の跡を垣間見る想いがする。

土地人の自然に対する畏敬と感謝の気持は石垣の中に組み込まれている「田の神」を祀る姿にも表れている。石垣の所々に石神がひっそりと祀られているのは印象的である。

このような石垣を築き棚田を守ってきた先人の苦労を思うと飽食の時代との対比について、割り切れない切なさと、当時はこれだけでも生計を立っていけた慎ましい時代だったのかとの想いも過ぎるが思い過ごしであろうか。
Photo_4 千枚田群の中を今は車の通れる道がある。其処から更に山に向かって畦道を上って行くと、「勅撰歌碑」と書かれた杭がひっそりと立っている。
岩に刻まれたその歌詞は「鞍掛山(くらかけ)の水ひく丘の千枚田云々 山本太一歌」と書かれているのがかすかに読める。

歴史的文化遺産・資源として、また環境保全の場としても残して行きたいところであるが、地元の人のご苦労を思い、政治として何が出来るかを考える時ではないかと切に思った。(文中一部ネット情報引用)。

(千枚田を訪れて、ふと3年前に訪れた下栗(しもぐり)の里を思い出した。)

1月早々というのに一部には冬耕の跡が見られる。

  ひつじ田にしぐるるときの音もなし 長谷川浪々子

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2008年1月24日 (木)

再び蘇民将来

日本各地にある国分寺の内でも、信州上田の信濃国分寺は特に有名で、今も仁王門、本堂、三重の塔、鐘楼等の主たる建造物が現存し、参詣人が後を絶たない。参詣した時にお守りの「蘇民将来」を受けることが出来る。

蘇民将来の謂れや信濃国分寺に就いては、既に書いた蘇民将来に詳しい。毎年1月7,8の二日間は同寺の縁日で、この日に限って受けられる蘇民将来がある。写真の中央がそれで、大きさは高さが約245mm、6角形の長辺は約85mmある(尚「蘇」と「蘓」は同字)。左右のものは通常御参りした時にも受けられる。六角形の夫々の面には「蘓民、将来、子孫、人也、大福、長者」と書かれている。
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Img_29771 地元新聞に依ると,縁日には境内に200軒もの出店が軒を連ねると言う。特に有名なのは達磨市で、中には一抱えもあるような達磨さんを抱えて帰る人もある。大方、商売繁盛を願っての事であろう。

今年の8日は天候にも恵まれて例年にも増して人出があった模様でお陰でバスの時間などは渋滞で全く当てにならなかった。

念ずれば花ひらく」の気持も何処かにあるのだろう(尤もこれは坂村真民の詩の一節で、真民の母の念仏といってもよい自己激励の言葉)。
  念ずれば花ひらく年立ちにけり  岡本昌三

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2008年1月22日 (火)

商品コンセプト

ヤマハ発動機の本社コミュニケーションプラザに於いて、昨年の東京モーターショーに出品した同社ブースを再現し公開している。

同社がオートバイ業界に打って出た1955年代は、T社が断トツのトップ企業で、その後を、HSK各社が追い、更にR社等有望企業が続いていた。

ヤマハ発動機は、元々Y社を母体として誕生した会社である。Y社がオートバイ業界に参入した動機は色々あるが、いずれにしてもその決断をしたのはK社長(当時)であり、Y社の大方の経営者が反対する中での決断だった。
かくして生れたY社の新規事業部門は、やがて分離独立して現在のヤマハ発動機となった。今や1兆円企業に成長し、この業界のトップ3にまでなっている。経営者の孤独な決断を知る一例として知られている。

今回公開された同社のブースを見るお目当ての一つは、同社がオートバイ業界に名乗りを上げた時の製品第1号機であるYAⅠである。(写真はそのYAⅠ)。
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YAⅠ生産移行時、生産技術の一端を担った私にとっては忘れ難い製品で、改めて吾子と対面した感もある。
因みにYAⅠの愛称は「赤トンボ}と呼ばれ、2サイクル125ccで、私も会社から供与された赤トンボを当時使用していた。
赤トンボが開発されて間もなく開催された、富士登山レースや浅間レース等で赤トンボは優勝を始め上位を独占し、その洗練されたデザインや性能と相俟って名機の名を欲しいままにした。
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赤トンボが出てから間もなく業界地図はがらりと変る。圧倒的なシェアを誇っていたT社は見るみる内に勢いがなくなり、やがて姿を消していった。そしてR社も営業力が伴わず、あたら優れた技術を持ちながら脱落してしまった。

T社が脱落した理由の一つに挙げられるのは商品コンセプトである。

ヤマハ発動機の商品コンセプトは、若者をターゲットにした「スポーティーな乗り物」であるのに対して、T社のそれは「荷物運搬用の乗り物」であった。
従って前者はデザインと性能に重点を置いたのに対し、後者は荷台の大きさを大きくして何Kgの荷物を載せても安定した走行が可能かといったことに重点を置いた。
当然ながら、それはデザインや性能に現れる。因みにデザインの中には色彩も入る。ヤマハ発動機の製品がスマートな小豆色を主体としたのに対し、T社は黒色を主体にしていた。
それらの商品を選ぶ層と、その選択基準が結果として社運を左右することになる。

今頃「顧客指向の経営」などと言われるが、当たり前の事であり、ドラッカーも当時の著に「経営とは顧客の創造である」と言っているのは蓋し名言である。
現在、デザインは商品を決める重要な要素になっていることは周知の通りだが、その根本には商品コンセプトが関わっているのは論を俟たない。

浜松は、世界的なオートバイメーカーと、世界的な楽器メーカーが存在する町として良く知られているが今、生産拠点の浜松からオートバイが姿を消すことになるのは如何にも寂しい事である。

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2008年1月16日 (水)

続、或る出会い

小諸の懐古園で出会ったO.H.さんから、2007年11月末に1泊2日の旅をされた「千曲川の流れに沿って」と題する旅行記とスケッチが送られてきた。

旅行記に依ると、初冬の数日間を無為に過ごす事もないので、当初は2泊で佐渡へ渡ってみようかとも思ったが、詩情豊かな千曲川の流れを訪ねてみようと思い直し、川下から川上への1泊2日の旅をしてきたという。
内容を拝見すると、私の故郷に近い所をずっと経巡った旅行記になっているので非常に懐かしく興味と親近感を覚えた。

旅行記から一部引用させて頂くと、
『木曽福島から乗車したが既に5分以上の遅れが出ている。長野での乗り換えは僅か2分としたら物理的に間に合わない。待ってくれるかどうかと車掌に尋ねたら「私たち(JR東海)は次の塩尻で交代します。あとは会社(東日本)が違いますから何とも言えません」もっと返答の仕方がありそうなものを。縦割り日本社会での横の連携は苦手とするところか。いつも米原(JR東海、西日本)でそれを味わっている。』

『長野での乗り換えにどうにか間に合った飯山線は、2両編成のディーゼル車、豊野で本線と別れしばらくすると右手に千曲川が寄り添ってきた。進行右側に端正な雪山が現れてくる。乗務員にその山の名前を尋ねたら「私はこの土地の人間ではないから知らない」と、次第に雪が目立ち始め替佐駅辺りからローカルの旅情豊かになり、赤い屋根の集落が美しい。』

『有数の豪雪地帯らしくラッセル車が待機している。45分で飯山に着く頃には雨となった。予想以上に寂しく小さな駅だが小屋根つき門構えの恰好いい姿、プラットホームには寺の町らしく梵鐘がでんと控えている。この雨ではとても七福神巡りも出来ないのが心残りである。…駅前の地面には融雪のノズルが沢山埋められている。』

『野沢温泉行きのバスには地元の人が結構乗っている。この辺りの千曲川は川幅も広く水量も豊富。…40分で野沢温泉に着く。坂の町らしく何処へ行くにも平坦路はないロマンチックな洋館はおぼろ月夜の館、「ふるさと・おぼろ月夜」の作詞家高野辰之は替佐で生まれ、晩年をここで過ごした所だが…将に山は青きふるさと、水は清きふるさと…職員の女性に「私は死ぬ時には荒城の月とこのふるさとを持ってゆく」といったらポカンとしていた。』

1 スケッチは千曲川と高井富士(JR飯山線替佐駅附近)
(写真はクリックで拡大します)

翌日は千曲川を遡る。昨日とは違って晴天となる。
『豊野から戸倉辺りまでは鉄路から離れていた千曲川が接近、上田平に出て山が離れてゆく』

『北国街道海野宿の第一印象は、妻籠に比べ暗い感じ、晴れて明暗がくっきりしているのが私の直感を狂わせたのかも知れない。しかし卯建の美しさや長短2本づつ長さの違う格子は実に美しい。…すぐ横を流れる千曲川は将に清き流れ。』

『10分で小諸に着く。駅裏に出ればそこは懐古園の入口、三の門は一幅の墨絵である。昨日の飯山線が高野辰之ムードが辺りを制しているのであれば、ここ小諸は島崎藤村である。…”小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ”の醸しだす浪漫的雰囲気の小諸にどれだけ憧れたか、始めて接する小諸と背後の浅間も初対面である。断崖からはるか下を流れる千曲川を眺め、司馬遼太郎ならずともさすが詩情を禁じえない。』

1_2スケッチは千曲川と浅間山

『引き返し園内に入ったら居合わせた老夫婦と話が弾むのもこの感動の直後ならではのこと、思わず私はリュックサックより過ぎ去りし個展の資料を贈り名刺交換となった。園内は紅葉が今を盛りとまだ晩秋の気配である。浅間の山頂は雪化粧しているが煙は望めない。』

1_3スケッチは千曲川上流(小海線沿線)

待望の小海線に乗る。
『終点小淵沢駅までの間、佐久広瀬までは千曲川に沿い、そのあと左手に離れ水源は20km先の秩父山地甲武信ケ岳である。…発車後15分で佐久平駅を通過し暫くして千曲川と再会する。…この辺りの千曲川はもう上流であり歩いて渡れそうな小川。…小海を過ぎやがて、佐久広瀬で昨日から寄り添ってきた千曲川とはお別れである。』

『列車は急勾配を登ってゆき、愈々日本鉄道最高地点野辺山1345mに達する。前面に見えた八ヶ岳連峰が右手近くに望まれ、白樺林も落葉してよりくっきりと白い。清里を過ぎ間もなく終着小淵沢である。』

懐古園で出会ったO.H.さんは、旅の風景を言葉に置き直し、写真やスケッチとして残すと共に、その時々の想いを記している。
JRは民営化されて体質も大分変ったように思っていたがまだまだ本質の所は変っていないのではないか。
一体に、新幹線は防音壁やトンネル、延々と連なる橋脚。景観と旅情を楽しもうとする人にとっては無粋な乗り物で、江ノ電に人気があるのは狭い路地を縫うように走る人間サイズへの郷愁であろう。

冒頭にも述べたように、この旅行記に記載されている土地は、私の故郷に近い馴染みの深い土地であるだけに非常に興味を持って拝見しただけでなく、此処に引用させて頂いた以外の描写には、人情の機微の伺える部分も多く滲んでいる。しかし引用は、千曲川に沿って巡った土地の事に限定して、言うなれば骨の部分だけになったが、O.H.さんとの出会いの経過等も述べられているので、文中で再会を果たした気分にもなる。

芭蕉は「奥の細道」の序文に「月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年も又旅人也」と記しているが、そのような情が彷彿として浮かぶ。

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2008年1月13日 (日)

大岩壁へ挑戦するクライマー夫婦

1月7日の夜10時から1時間、NHK総合TVで「NHKスペシャル:白夜の北極圏・高さ1300mの大岩壁に挑む伝説のクライマー夫婦」と題する放映があった。

その夫婦とは、世界最強のクライマーと言われる、山野井泰史・妙子夫妻である。白夜の北極圏グリーンランドの高さ1300mの大岩壁に挑む夫妻の姿と夫婦愛を映した感動のシーンである。

山野井泰史・妙子夫妻のことに就いては、既に「活字上での再会」、「そこに夢があるから」、「続、そこに夢があるから」に紹介した事がある。
山野井夫妻の属する日登(日本登攀クラブ)の先輩に当る、根岸利夫氏の山小屋へは今も時々岳人達が訪れるが、その中に山野井夫妻も時々顔を見せる。写真は数年前、根岸山小屋に集まった岳人達で後列中央が根岸、その両側が山野井夫妻である。(クリックで拡大)
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一般に知られているクライマーは殆どスポンサーがついて居るが、山野井夫妻の場合は自分で働いて得た金でしか登らない。今回も費用は自分の貯金を取り崩してまかなったという。

彼らは、自分が登る目標は常に前人未踏の岩壁を自分で選ぶ。それが山野井流の方式である。今回も登攀目標は、2007年5月、夫婦でヘリから見て、また降りてその岩壁の下から確かめて選んだ。厳しい目標を選びながら、嬉々としている姿が印象的だった。登攀は8月の北極圏の白夜期と決めた。
場所は北極圏グリーンランドのミルネ島。海に流れ込む氷河の両側にそそり立つ高さ1300mの、未踏の大岩壁で、その岩壁を海の王者鯱に因んで「オルカ」と命名した。
ギャチュンカンで大雪崩に遭遇して以来、2人で登攀するのは5年ぶりという。当時は彼らのクライマーとしての活躍は終ったと誰もが思った。しかし彼らの山への想いは終ってはいなかった。今回は木本哲(さとし)氏が二人の手伝いとして加わった。

登攀は7月29日から始め、8月16日に登頂に成功した。19日を要した事になる。階段状の岩壁を600m登ってヘッド・ウォールへ、其処から400m攀じてコルへ、そして最後の300mの大難関を攀じ登ってオルカ頂上へ。

登攀時、トップ、セカンド(確保)、ユマーリング等の役割があるが、トップは先頭に立ってルートを切り開く役目で、1日目のトップはは妙子だった。妙子に先ずその先頭を担当させ、そして最後の16日はトップを泰史、木本と交代し最後の30mを妙子に任せた。妙子に最初にオルカ頂上に立たせようとの泰史の妙子への愛情を感じさせてくれる。

彼らの登攀の模様を同行のカメラマンが的確に捉えていた。カメラマンも大変だったと思うが、よくその実景を捉えていた。山野井夫妻の今までに登った山の中でカメラマンが同行したのは初めてだと思う。と言う事は、それまではカメラマンが同行できる山ではなかったし、単独登攀(ソロ)が主体だった。

彼らの生活拠点は奥多摩にあり、働きながらその合間に自宅の登攀訓練用の壁で訓練を怠らない。
今度の登攀に当って、泰史は妙子の為に、カム(ギアー)や、ハーケンを打つためのハンマーの柄を妙子の指に合う様に改造したりして周到な準備をしていた事がわかる。

彼らの山への情熱をひしひしと感じるし、これほどの岩壁を登攀しながら飄々として、山が好きで登る事が楽しいと語るのを見ていると、見ているものにも生きる勇気を与えてくれる。

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2008年1月 3日 (木)

初電車

  初電車待つといつもの位置に立つ

 俳人協会・俳句文学館発行、平成20年1月俳句カレンダー所載句である。作者は岡本 眸氏で、高橋 さえ子氏の解説がある。

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『第十句集の中の一句。
 第四十一回蛇笏賞受賞句集『午後の椅子』に所収されている作品。日常身辺からこそ豊かな詩が生まれると考え、実証したのがこの句集である。
 自宅に近い東京、葛飾の金町駅のホーム。いつもと同じ場所に立ち、新年に初めて乗る電車を待っている。こんな誰もが経験する日常が詩となり、人の心をとらえると感じる人はごく少数ではないか。その点でも新しい視点であったと思う。
 この句、〈初電車〉をそれらしく詠もうと身構えたりしていない。それが音読したときの調べの良さに表れている。平常心で対象を温かく受けとめているのである。これも作者の人生観につながるのだろう。
 〈初電車〉の先には未知の一年がある。新年という節目の時も、立つ位置は常と変わらない。静かに足元を見つめて、心深く映じたことを忠実に言葉に移し、詩に昇華する。そのためにも季節を介し日常を深く深く掘り下げる。いつも前向きを信条に「俳句で日記」を実践した句であるといえる。
  (高橋さえ子)』

年末といっても、新年といっても、時の流れの中のある時期にしか過ぎない。その流れを、一年を一つの節目として区切り、来し方を振り返り行く末を考える機会として考えたのは蓋し人間の智恵であろう。
そんな新年には、未知の世界の広がる期待感があり、人々は清々しい気分で新年を迎える。健康であれば尚の事。初明り、初茜、初日、初御空、初山河、初景色、初富士、初詣、初神楽、初夢、初硯等々、全て清々しさが滲んでいる言葉である。

目に映ったものに、触れたものに、聞いたものに…心が動かされたら、それを素直に表現できれば新しい自分の世界が開ける。

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