« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007年11月22日 (木)

霜月末

過日、友人達と南知多の先端に近い「山海」を日帰りで訪れた。南知多道路を南下し、山海I.C.を出て海岸通り(国道#247)に出た所の「源氏香(げんじこう)」という聞きなれない名前のホテルで入浴・会食をする。
「源氏香とは、江戸時代中期に成立した5種の組香の事で、組み合わせ数が源氏物語の巻数と重なる事からその名がついた」と、ホテルの説明にはあった。温泉郷とあって入浴や海の幸料理も堪能出来た。

海岸付近を散策する。海に流入する「山海川」に架かる「乃野橋」に隣接して防潮水門がある。扉体には透視画法で海側は「希望の未来」を山側は「広がりの展望」を表現していると説明されている。(写真は山側)
1_2 
夏は海水浴場になるこの浜は、今はひっそりと静まり返っている。左の方はるかに伊良湖岬とその先に篠島が見える。
1_4
海浜をご婦人が一人歩いている。声をかけてみたらご主人と泊りに来ていて「主人は今、釣をしています。私は流木を探している所です」とのこと。生花にオブジェとして使うのだそうである。
1_3
1jpg
防潮水門の横に突堤が海に突き出ている。先端まで歩いてみた。波消しブロックの上で釣を楽しんでいる人が居た。大方先の話の人であろう。何が釣れるかと聞いてみたら「眼張(めばる)」と言う。因みに眼張は春の季語になっている。
名古屋港に近いのでタンカーを始め諸船が頻繁に沖を通る。

私はタンカーを望見して、嘗ての朦艟(もうどう)を想い起していた。戦中派の性(さが)とでも言うべきか。朦艟と言っても判らない人が多いと思うが、簡単に言えば「いくさぶね」の事である。
   十二月八日還らぬ兄二人   民江
は、今月の句会で投句した女流の作であるが、彼女は三人兄妹であったが、「兄二人が先の戦争で戦死し、私の人生も変りました」と涙ぐむ。彼女にとっては今も戦後は引き続いている。
12月8日が近くなった。と言ってもその日を知らぬ子供も増えていると聞く。教科書などでも先の戦争に絡む話が、何度となく問題になるが、語り継ぐべき所は、しっかりと継承して行かなければならない。

山海から少し北に「野間大坊」と「杉本美術館」がある。今回は杉本美術館だけ見学して帰った。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年11月15日 (木)

安曇野の山葵田(わさびだ)

山葵田は各地にあるが、何れも水が清く冷涼で、自然の地形に恵まれているか、自然の地形を生かして栽培地を造成している。中でも安曇野の山葵田は伊豆の山葵田と共によく知られている。

写真は、その安曇野の「大王わさび農場」の景で、清冽な流れと規則正しく植えられている山葵の色が目に沁みる。
1_2
折りしも立冬を過ぎた日が西に傾いてゆく。弱い日差しが山葵田を一層美しく浮かび上がらせている。

水脈は幾つにも別れ、山葵の間を隈なく、絶え間なく流れて行く。

   浅き水喜び流れ山葵沢      細見 綾子
   透き水のさざめき通る山葵沢  桂  信子
   芹の水山葵の水と合ふところ  太田 蛇秋

は、共に安曇野の山葵田の景を詠った句である。

安曇野と言う地名は最近では良く知られているが、その割には地域は、はっきりとしていない。Wikipediaに依ると、

安曇野(あづみの)は、長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、安曇野市を中心とした地域一帯を指す名称。おおむね梓川・犀川の西岸(押野崎以南)から高瀬川流域の最南部にかけて広がる扇状地全体を総括している。 該当する自治体としては安曇野市のほか、池田市池田町や松川村、さらに大町市の南部や、松本市梓川地区(旧・梓川村)まで含まれる。 古くは安曇平(あづみだいら)と呼ばれていたが、臼井吉見の小説「安曇野」によって有名になり、この名称が定着した。

北アルプスの山々から湧き出た清流を堰(せぎ)と呼ばれる用水路によってかんがいし、稲作やワサビ栽培といった農業に利用している。長野県内有数の観光地・別荘地となっており、多くの観光客が県内外から訪れる。』と、ある。 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年11月14日 (水)

近くて遠い存在

中央高速道が出来る前は、浜松から長野へ行くときは専ら国道19号線を使った。この道は木曾谷伝いに塩尻へ抜ける道で、途中に鳥居峠があり此処が分水嶺になっていて、北側は日本海へ、南側は太平洋に流れる。

その鳥居峠の南側に権兵衛茶屋という老舗の茶店があり、8月の盆頃に帰省する時はいつも此処に寄って行くのが常で、その時期はいつも混んでいた。
しかし中央高速道が出来てからは、19号線を乗用車の走る機会がぐんと減った。
権兵衛茶屋の其の後が気になって行って見た事があったが見る影も無くなっていたのには驚いた。人や車の流れがこれほど生活環境を変えてしまうのは予想以上のものだった。

この権兵衛茶屋の近く(木曽町日義)から伊那へ抜ける道がある。飛騨の高山市と伊那市高遠町を結ぶ国道361号線である。然し国道とは名ばかりで木曾谷から伊那谷へ抜けるには、中央アルプスを越える必要があり、其処に姥神峠権兵衛峠の二つの難所があり、急峻で狭く、時間が掛かる上に、冬は雪や凍結で通れない。しかも木曽谷から伊那谷へ抜ける道は、この道以外には、中央道の恵那山トンネルか塩尻を迂回する以外に道は無い。

木曾町の日義から伊那谷の伊那市までは高々20Kmに過ぎないが、将に近くて遠いお隣の地域であり、此処に道を通す事が木曽谷側と伊那谷側の住民の悲願でもあった。その願いが叶って2006年2月4日に全線の開通式が行われた。
Ubagami01_2それに先立って最初、姥神トンネルが2002年に開通した。写真(ネットより引用)は姥神トンネルとその周囲の景で 螺旋状に高度を上げてトンネルへ入ってゆく。(各写真はクリックで拡大)
木曾側と伊那側の高度差や、トンネルの長さや工事の難易を考慮しての事であろうと思われる。
そして2006年遂に全線が開通した。権兵衛トンネルの全長は4467m。
2
写真は11月12日の、権兵衛トンネルの伊那側の景で、この工事は予想以上の難工事であったと言われる。地元の喜びが目に見えるようだ。しかも通行料は0というのが良い。
医療、福祉、経済、文化交流、地域交流等その効果は大きいし、19号線への影響にも役立っている事は間違いない。
1 嘗ては山の中にあった場所に、そば屋が出来た(写真左)。旧家を解体してその太い梁などを組んで造ったものだろうか、囲炉裏があり自在鉤が掛けられ五徳や火箸が添えられ炭火が起されていた。全体は新しいが、部材には古色が滲んでいる。全体的に落着いた雰囲気で、周囲の景との調和が何となく融け込んでいて素晴らしい景観を呈している。
その上に蕎麦の味が良い。昼時だったが店内は殆ど満員に近かった。
2_2
伊那側のトンネル出口から遠望する伊那谷の景は南アルプスを背に異国情緒すら感じ、草ロールが点々と転がっていた。

郷土史研究家のM氏から、近くて遠い存在だった木曽谷と伊那谷を結ぶ権兵衛トンネルが出来たから是非通ってみて下さいと薦められていたが、今度その機会を得て、この道の素晴らしさを実感出来た。

何より地元の喜びと期待感の強い事をひしひしと感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月 9日 (金)

科野(しなの)のクニ

長野市と上田市の中間に屋代(やしろ)という所があり、近くには鞭声粛々で有名な川中島古戦場や妻女山、雨宮渡しがある。

此処に「科野(しなの)のクニ・森将軍塚古墳」がある。「信濃の国」となる以前の「科野(しなの)のクニ」を治めた王の墓と考えられている。所在地の正確な地名は「千曲市(ちくまし)大字森字大穴山」で、有明山の北側尾根上、標高490mのところに構築されている。森将軍塚とは「森」という地区にあることから名づけられた。

この古墳は、今から凡そ1600年前に作られた全長約100mの前方後円墳である。1960年代から発掘調査が行われ、昭和56年(1981)から平成4年(1992)まで11年の歳月を掛けて復元された。

復元するに当たっては、発掘調査結果に基づいて、同じ材料、同じ工法で築造当時の姿に正確に復元された。(写真はクリックで拡大出来ます)
1_2
表面には約8万個の大小の石が積まれ、古墳の上には千曲川の玉砂利を敷き詰め、27種・157個の円筒形埴輪や朝顔形埴輪が古墳を飾っている。
1jpg
後円部には、竪穴式石室が納められていて、その大きさは日本最大のもので、室内は平石を積んで壁面は赤いベンガラで彩色されている。

麓には森将軍塚古墳館がある。古墳館では、現地では見ることの出来ない竪穴式石室や、出土した副葬品・埴輪などを、実物や模型・映像によって展示している。
其処から130m上にある古墳までは、古墳館専用バスが案内してくれる。
1
訪れた日は秋の好天に恵まれ、古墳から北側を見下ろすと善光寺平が一望され、左に長野新幹線、右に長野高速道が見え、その前方遥かに長野市が望見出来る。
ボランティア・ガイドさんが詳しく説明してくれたので助かった。ガイドさんに依ると、子供たちが遠足に来た時には、時たま古墳上の石を埴輪に向かって投げることがあるので注意しているとの事。
1_2
世界の巨大遺跡と言えば、エジプト・ギザの三大ピラミッド、メキシコ・テオティワカンの太陽ピラミッド、イギリスのストーン・ヘンジ、中国の秦始皇帝稜、日本奈良県の箸墓古墳等が挙げられる。

上記遺跡の歴史や規模と比すべきもないが、
森将軍塚古墳は周囲に13基の円墳もあり、又近辺には川柳・土口・倉科の三将軍塚古墳もあり、それ等を含めると大きさから言っても日本でも有数の古墳群になると思われる。

私が故郷の長野市を離れたのは、この古墳発掘調査が始まるより前ではあったが、故郷の近くでこのような古墳の研究と復元工事がなされていた事を知ったのは、世界遺産研究家のYさんから助言を頂いてからである。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年11月 5日 (月)

侠気

   曾て男に侠気のありし時雨かな

俳人協会・俳句文学館発行、平成19年11月俳句カレンダーの掲載句。
作者は山上樹実雄氏で、井出千ニ氏の解説文がある。

『平成十一年作。『四時抄』所収。侠気とは広辞苑によれば「強きをくじき弱きを助けること。おとこぎ」とある。遠く史記刺客伝に溯るまでもなく、我が国でも侠気は男子たるものに要求される最高の資質であった。それは武士階級に限られたものではなく、広く市井の町人社会にも及んでいたことは、侠客などという言葉が残っていることでも明らかである。
 人間の日々の営みを、崇高で意義あるものとしたこの美徳が、何時の間にか周囲から姿を消してしまったことを作者は深く憂い、その心情を、人生の逆旅と見る中世の無常感を帯びた「時雨」という季語に托したのである。
 風化する社会に対する感懐を表した句であるが、筆者は、作者が生涯の師として仰いだ山口草堂こそ、この「侠気のひと」と言えるのではないかという思いの湧くのを禁じ得ないのである。(井出千二) 』

最近、俳句界でもこのような骨太の句が鳴りを潜めているのが多少気がかりな現象である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »