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2007年10月 6日 (土)

砥石城

砥石城址に登る。

今、NHKの大河ドラマで「風林火山」が放映されているが、その中に出てくる所謂「砥石崩れ」の名で知られる砥石城である。
この城は長野県上田市近傍の東太郎山の一支脈が、神田川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して砥石城と呼ぶ。今度登ったのはその内の南の砥石城である。
本城の南に連絡しており、北下がりの鞍部に幅9mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平方形郭で、周囲の展望は極めて良好である。
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麓に車を置いて其処から「徒歩25分」との事で、それなら行ってもいいなと思って上り始めた。
然し山路の25分と言うのは若者の足の25分なのか、中年のそれなのか判らないが歩き始めてみて、又途中からの径の険しさから見てどうも中年か、もう少し若い人を基準にしたものではないかなと思い始めた。
上田の街が飛行機から見下ろすように見える。城址への径は曲がりくねっている上に、立ち木で城址が見えないので、やや不安もあったが、もう大分歩いたから城址も近いだろうし、登りきろうと思ってそのまま歩く(写真はクリックで拡大)。
1_3 途中では誰にも遭わない。径は小石交じりの乾いた径で、普段履きの革靴では滑りやすいので慎重に登る。
城址が見え初めて赤い幟が見える。然し径はそれからが大変でロープが張られており、それに掴まって辛うじて滑らずに登りついた。
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城址には 「砥石城跡」と書かれた白杭と、六文銭の旗印に風林火山と書かれた幟が翻っていた。城址には地元の愛好家が一人居て色々と説明してくれた。彼は月に2,3回は登っているとのことで誰にも会えないかと心細かったが会えてほっとした。

城址に説明書があった。『この城は村上・真田氏が戦略上重要視し、又重要な役割を果たした城であって、居館としても用いられた』とあり、攻めるに難い城のようだ。

信州にはこんな山城が非常に多い。鎌倉時代には館の多くは平野部か河川に近い低湿部にあり、城郭を山に構えるようになったのは南北朝時代以降の様である。
それにしても昔はこんな険しい山の頂に、よくもまあ城郭(砦といった方が良い)を築いたものだなと感心する。普段の生活はどのようにしていたのかとも思ったが、説明書に居館とあるからには普段も此処で暮らしていたのであろう。

尚、「砥石崩れ」の詳細に就いて、
ウィキペディア(Wikipedia)より関係部分の記事を抜粋してみる。

砥石崩れといしくずれ戸石崩れ)とは、天文19年(1550年)9月、甲斐の戦国大名・武田晴信と北信濃の戦国大名・村上義清との間に勃発した砥石城(戸石城)の戦いのことである。

1. 背景

天文19年(1550年)9月に北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城攻略に乗り出した晴信は、天文17年(1548年)の上田原の戦いで義清に大敗していたこともあり、その復仇を目指しての戦いでもあった。また、この城を落とせば、村上氏の東信における防衛線が大きく後退するため、重要な戦いでもあった。

2. 砥石城攻め

砥石城は小城ではあったが、その名のとおり、東西は崖に囲まれ、攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城であった。このときの武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。

9月9日、武田軍の武将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、攻め手の大将の横田高松は戦死した。

9月11日、今度は武田軍の武将・小山田信有による城攻めが行なわれたが、これも同じく城兵の果敢な反撃にあって散々に打ち破られ、信有はこの戦いで重傷を負い、後にそれがもとで天文21年(1552年)に死去した。

兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し、晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。

3. 結果

砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。兵力的にも、7000人の武田軍の3分の1程度の2500人の村上軍相手に、しかも村上軍の犠牲が皆無に等しいのに対し、武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松をはじめおよそ1200人もの将兵を失った。

武田信玄の生涯の中で、砥石城の戦いは最大の負け戦といわれている。このため、この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれている。なお、武田晴信の戦績は49勝2敗20分けとされているが、このうちの2敗は、いずれも村上義清がつけたものである。

しかし、天文20年(1551年)武田晴信の部将・信濃先方衆の真田幸隆の調略によって、砥石城は武田軍の手に落ちた。村上義清の勢力はそれを契機として衰退し、天文22年(1553年)義清は長尾景虎を頼り、越後へ落ち延びた。義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼ったことから、史上名高い川中島の合戦へと発展していく。』

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コメント

がんばつてらっしゃいますね。その体力というか、そのァイトには唯頭下げるのみ。
 私の坂と言うか、高所への恐怖は、習性になっているようです。
昔チェルマツトで、マツターホルンを見にゴルナーグラート展望台に行くかどうか、登山電車の駅でなやみました、終点が約3000mと聞いて。
 ガイドの山に酸素もあるしと言われ、電車にのり、おかげで美しい山姿にみほとれました。歩きまわらなければ大丈夫としりましたが、
 ホテルで夜中胸が痛い感じで目がさめるのですが、びつくりして浜松の主治医に電話したら、高さのせいだうと言われました。呼吸が浅くなる夜中など酸素不足になるようで、平地のホテルでは起きないのです。しかし今はそれもできません。

投稿: 尚童 | 2007年10月13日 (土) 20時14分

尚童さま
砥石城は城址近くになって急に切り立ったように険しく、攻めるに難い城だったと思いました。
ご経験を聞かせて頂き有難う御座いました。
ツェルマットからゴルナークラートへは、かの有名な登山電車が行っているのですね。お体の事もあるでしょうが良い経験をなさったですね。附近にはモンテローザやマッターホルンがあり、さぞかし思い出に残る景だったでしょう。
私は現役時代の出張以外には、ヨーロッパを訪ねた事はないのですが、偶々出張の途中でシャモニーを訪れた時、翌日は日曜日でしたので仕事も無く、モンブランへのロープウェイに乗る予定にしていたところ、生憎の強風で乗り損ねたことがあり、今から考えても残念でした。

投稿: Alps | 2007年10月15日 (月) 10時00分

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受信: 2007年10月13日 (土) 18時17分

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