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2007年10月15日 (月)

窪寺城

私の生家(長野市安茂里)の庭先から見ると、家の西側にこんもりとした丘のような山がある。此処は世間に余り知られていないが、窪寺城址として地元の人には親しまれてきた所でもある。
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安茂里には、(最近のNHK大河ドラマ「風林火山」にも登場する)旭山城や、その旭山城の先城である小柴見城と、この窪寺城を含めて三城址がある。

「長野市、周辺地域の史跡文化財(長野市教育会刊行)」から窪寺城に関する記事の一部を抜粋すると、

『一般には城山の名で親しまれているこの城址は、海抜449mの頂上に構築された山城である。山頂からは善光寺平を一望することができる。
北側は自然の谷を利用して空壕となし、山頂の地形は本丸、二の丸、三の丸より成り、小規模ながら整然として見事である。
通称殿屋敷と呼ばれている所が城主窪寺氏の屋敷跡で、城山の南西麓(西河原)にあって、東西30m、南北44mの長方形をなした畑としてその名残を留めている。附近に馬場・城戸・中道・大門等の地名がある。』と、記されている。

私の幼少時代は、この山やその周辺又は、人家に挟まれた空き地等を利用して農閑期はガキ大将を先頭にして「兵隊ごっこ」や「陣取り合戦」と呼ばれる結構荒っぽい遊びをした。今の親達から見ると随分ハラハラするようなこともしたが、かすり傷位は付いたが、大きな怪我などした記憶が無い。
山頂へ続く山の北側の道は、人一人がやっと通れる程の幅で途中には、径一尺未満の隠し井戸のある事も皆知っていた。道の両側には色々の雑木が生え、時にはうっかり漆の木を掴んで酷くかぶれた事もあった。
そんな遊びの中で、集団行動や連帯感を生み、自然に親しみ、何時の間にやら長幼の序や助け合いの精神も言わず語らずの内に育んでいった。

今は、城址の山麓は人家が出来て昔とは変ってしまったが、山頂付近は樹木が大きくなったのを除けば、昔のままの姿を見せている。

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コメント

氷鉋に住む叔母が近く100歳になることをいろいろと考えて居る内に栗林中将の話を書くことになりました。 氷鉋と安茂里は余り離れていないので、此処にトラックバックさせて頂きます。
旭山城址などは、子供の頃に父に連れて行ってもらったこともあり、小学校の遠足で行ったこともあり、長野で育った私共には懐かしい所です。
その小学校で同級だった一人が先日亡くなりましたが、須坂の叔母は既に100歳になっているのに元気、氷鉋の叔母も間も無く100歳。 人の寿命など判らぬものです。
そう言えば、その小学校の同級生で特攻隊に行き、8月15日の終戦以後も未だ出撃していた男も元気ですから、本当に寿命は分りません。
この記事を見て、それら小学校の同級生のことを思い出しています。

投稿: 佐久間象川 | 2007年10月29日 (月) 16時50分

子供の頃に旭山城址へ何回か行かれたと聞くと懐かしく当時の事を思い出します。

旭山の裏側(茂菅側)は、岩場になっていて、表側(安茂里側)から行くと、その岩場を鎖に縋って伝い下りてゆくと、やがて巌をくり抜いて作られた洞穴の中に、岩屋観音がありました。母に連れられてその観音様へは何度も行ったものでした。母が何かの願掛けをしていたように思うのですが、何を願って私を連れて行ったのかは聞き漏らしました。

今は、安茂里側に観音様が移されているので、車でも其処まで行くことが出来る様になりました。昔の岩屋観音が今も残されているかどうかは知りません。

投稿: Alps | 2007年11月 6日 (火) 20時48分

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