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2007年10月29日 (月)

句集「いのちなが」

俳誌「白魚火(しらをび)」の同人会長である鈴木三都夫さんから句集「いのちなが」を頂いた。
『第二の人生を故郷で送るようになってからは大勢の俳句仲間と、すばらしい日本の自然や文化に触れながら、文字通り俳句三昧の日々が送れて今日あることに感謝し、句集名を「いのちなが(寿)」とした。俳句というものの底知れぬ魅力に憑かれながら、一日でも長く、一句でも多く詠み続けたいことを願っての題名でもある。』と、句集の命名経緯をあとがきに記している。

Photo_3 句集は昭和59年から平成19年までの24年間の「白魚火」「若葉」に入選した作品から自選した400句が収録されている。
句集の構成は、曝書(昭和59年~63年)・牡丹(平成元年~5年)・涅槃絵(平成6年~10年)・去年今年(平成11年~15年)・躑躅の賀(平成16年~19年)の各章から成り、円満なお人柄がそのまま句にも反映されていて一読素晴らしい句集である。

私の好きな句を取り上げて見る。
自然に親しむ日常生活を端的に詠まれ、
   躑躅山分け入る径も自づから(氏の句碑)
   櫻散る咲くときよりも美しく
   風紋も浜昼顔も踏むまじく
   山門に縁台を置く牡丹かな
   風鎮を畳へ余す涅槃絵図
   前山に日の移り来し紅葉かな
   有明の月の残れるほととぎす
   沖へ出ていよよ細かき鱗雲
   睡蓮の開ききれざる返り花
   七堂伽藍日当りながら時雨けり
   揚雲雀落つる高さにとどまれる
   けぶらうてどの木ともなき芽吹きかな
   草庵の名もなき草も月のころ
   うたかたの華と褪せゆく曼珠沙華
生活実感や人生への想いも深く、
   一芽づつ摘んで茶籠へ溢れし芽
   茶祖像のみそなはしゐる茶の芽摘む
   去年今年重ねて喜寿も須臾の間に
   初詣わが八十の男坂
   躑躅山句碑十歳のつつじの賀
   やり直しきかぬ一生蝌蚪生るる
母上や人生経験も踏まえて
   ぼろぼろの母の歳時記曝しけり
   独りぼつちの母の句碑へも彼岸供華
   母の日は仏間の母と居ることに
   曝す書に青函連絡船史かな
   アルプスの雪なほ尖る桑解く
   フェリー着く翠巒の島引き寄せて
   地吹雪の稜線乱す薩摩富士
   雪吊の雪の重さをまだ知らず

私たちと同時代を生きてきた人の心情が率直に詠われていて、親近感があり、仄々とした読後感を頂いた。
今後益々ご健康でご活躍されることを願っています。

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2007年10月15日 (月)

窪寺城

私の生家(長野市安茂里)の庭先から見ると、家の西側にこんもりとした丘のような山がある。此処は世間に余り知られていないが、窪寺城址として地元の人には親しまれてきた所でもある。
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安茂里には、(最近のNHK大河ドラマ「風林火山」にも登場する)旭山城や、その旭山城の先城である小柴見城と、この窪寺城を含めて三城址がある。

「長野市、周辺地域の史跡文化財(長野市教育会刊行)」から窪寺城に関する記事の一部を抜粋すると、

『一般には城山の名で親しまれているこの城址は、海抜449mの頂上に構築された山城である。山頂からは善光寺平を一望することができる。
北側は自然の谷を利用して空壕となし、山頂の地形は本丸、二の丸、三の丸より成り、小規模ながら整然として見事である。
通称殿屋敷と呼ばれている所が城主窪寺氏の屋敷跡で、城山の南西麓(西河原)にあって、東西30m、南北44mの長方形をなした畑としてその名残を留めている。附近に馬場・城戸・中道・大門等の地名がある。』と、記されている。

私の幼少時代は、この山やその周辺又は、人家に挟まれた空き地等を利用して農閑期はガキ大将を先頭にして「兵隊ごっこ」や「陣取り合戦」と呼ばれる結構荒っぽい遊びをした。今の親達から見ると随分ハラハラするようなこともしたが、かすり傷位は付いたが、大きな怪我などした記憶が無い。
山頂へ続く山の北側の道は、人一人がやっと通れる程の幅で途中には、径一尺未満の隠し井戸のある事も皆知っていた。道の両側には色々の雑木が生え、時にはうっかり漆の木を掴んで酷くかぶれた事もあった。
そんな遊びの中で、集団行動や連帯感を生み、自然に親しみ、何時の間にやら長幼の序や助け合いの精神も言わず語らずの内に育んでいった。

今は、城址の山麓は人家が出来て昔とは変ってしまったが、山頂付近は樹木が大きくなったのを除けば、昔のままの姿を見せている。

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2007年10月 6日 (土)

砥石城

砥石城址に登る。

今、NHKの大河ドラマで「風林火山」が放映されているが、その中に出てくる所謂「砥石崩れ」の名で知られる砥石城である。
この城は長野県上田市近傍の東太郎山の一支脈が、神田川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して砥石城と呼ぶ。今度登ったのはその内の南の砥石城である。
本城の南に連絡しており、北下がりの鞍部に幅9mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平方形郭で、周囲の展望は極めて良好である。
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麓に車を置いて其処から「徒歩25分」との事で、それなら行ってもいいなと思って上り始めた。
然し山路の25分と言うのは若者の足の25分なのか、中年のそれなのか判らないが歩き始めてみて、又途中からの径の険しさから見てどうも中年か、もう少し若い人を基準にしたものではないかなと思い始めた。
上田の街が飛行機から見下ろすように見える。城址への径は曲がりくねっている上に、立ち木で城址が見えないので、やや不安もあったが、もう大分歩いたから城址も近いだろうし、登りきろうと思ってそのまま歩く(写真はクリックで拡大)。
1_3 途中では誰にも遭わない。径は小石交じりの乾いた径で、普段履きの革靴では滑りやすいので慎重に登る。
城址が見え初めて赤い幟が見える。然し径はそれからが大変でロープが張られており、それに掴まって辛うじて滑らずに登りついた。
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城址には 「砥石城跡」と書かれた白杭と、六文銭の旗印に風林火山と書かれた幟が翻っていた。城址には地元の愛好家が一人居て色々と説明してくれた。彼は月に2,3回は登っているとのことで誰にも会えないかと心細かったが会えてほっとした。

城址に説明書があった。『この城は村上・真田氏が戦略上重要視し、又重要な役割を果たした城であって、居館としても用いられた』とあり、攻めるに難い城のようだ。

信州にはこんな山城が非常に多い。鎌倉時代には館の多くは平野部か河川に近い低湿部にあり、城郭を山に構えるようになったのは南北朝時代以降の様である。
それにしても昔はこんな険しい山の頂に、よくもまあ城郭(砦といった方が良い)を築いたものだなと感心する。普段の生活はどのようにしていたのかとも思ったが、説明書に居館とあるからには普段も此処で暮らしていたのであろう。

尚、「砥石崩れ」の詳細に就いて、
ウィキペディア(Wikipedia)より関係部分の記事を抜粋してみる。

砥石崩れといしくずれ戸石崩れ)とは、天文19年(1550年)9月、甲斐の戦国大名・武田晴信と北信濃の戦国大名・村上義清との間に勃発した砥石城(戸石城)の戦いのことである。

1. 背景

天文19年(1550年)9月に北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城攻略に乗り出した晴信は、天文17年(1548年)の上田原の戦いで義清に大敗していたこともあり、その復仇を目指しての戦いでもあった。また、この城を落とせば、村上氏の東信における防衛線が大きく後退するため、重要な戦いでもあった。

2. 砥石城攻め

砥石城は小城ではあったが、その名のとおり、東西は崖に囲まれ、攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城であった。このときの武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。

9月9日、武田軍の武将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、攻め手の大将の横田高松は戦死した。

9月11日、今度は武田軍の武将・小山田信有による城攻めが行なわれたが、これも同じく城兵の果敢な反撃にあって散々に打ち破られ、信有はこの戦いで重傷を負い、後にそれがもとで天文21年(1552年)に死去した。

兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し、晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。

3. 結果

砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。兵力的にも、7000人の武田軍の3分の1程度の2500人の村上軍相手に、しかも村上軍の犠牲が皆無に等しいのに対し、武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松をはじめおよそ1200人もの将兵を失った。

武田信玄の生涯の中で、砥石城の戦いは最大の負け戦といわれている。このため、この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれている。なお、武田晴信の戦績は49勝2敗20分けとされているが、このうちの2敗は、いずれも村上義清がつけたものである。

しかし、天文20年(1551年)武田晴信の部将・信濃先方衆の真田幸隆の調略によって、砥石城は武田軍の手に落ちた。村上義清の勢力はそれを契機として衰退し、天文22年(1553年)義清は長尾景虎を頼り、越後へ落ち延びた。義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼ったことから、史上名高い川中島の合戦へと発展していく。』

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