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2007年9月28日 (金)

故郷の秋祭り

人はみな故郷を持っている。故郷を離れて何十年経っても人は、嬉しいにつけ哀しいにつけ故郷を想う。

私が幼かった時分は、母に手を引かれて産土神社の秋祭りに行った。
長じてからは母の手を引いて秋祭りに行った(故郷を出てからも年に一度は墓参を兼ねて帰郷していて、たまさか帰郷した時、秋祭りに合致した時の話であるが)。
それだけに、故郷を離れてからも、幼い時から親しんできた秋祭りの記憶は鮮明に残っている。神楽囃子、獅子舞、花火等は聞いても見ても未だに心が躍る。

私の故郷の産土神社は長野市安茂里(旧安茂里村)の「犀川神社」。毎年9月21日には、秋祭りが行われる。最近は祭りの日を日曜日や祭日に変更する例が多いが、犀川神社の祭りは伝統を守って9月21日を変えない。

犀川神社の太々神楽は、長野市の無形文化財に指定されている。奉納される神楽獅子舞は、伊勢代神楽獅子舞系に属し、御神楽と獅子舞とによって形成されている。天保14年(1843)の松代藩への届出文書に依ると、宝暦3年(1753)頃には既に実施していたとされているので、250年以上の歴史を持っていることになり(関連資料に依る)、伝統と格式を重んじている神楽である。神楽囃子の笛の調べも、太鼓の打ち方も、間(あい)の歌も全て作法が決まっていて一糸乱れない。それを親から子へ、子から孫へと受け継いでいる。

今年は9月17日に故郷へ帰った。その夜、懐かしい神楽囃子が何処からとなく聞えてきた。祭りの日が近づいているので練習をしているに相違ない。家の兄と一緒に練習風景を見に行った。大日堂と呼ばれる、お堂を兼ねた公会堂へ行って見ると今将に練習の最中だった。練習中の、笛も太鼓も獅子舞も、知らない顔ばかり。しかし兄からあれはAさんの息子さんとか、Bさんのお孫さんとか聞くと途端に身近な人になる。Photo

太鼓は、大太鼓・締め太鼓・小太鼓と三種類があって夫々の笛の音にあわせて打ち分けられる。当日の練習は大太鼓と締め太鼓だった(写真)。

は(写真)、神楽が出発直前の時、神社に向かって進んでいる時、社前で獅子舞を奉納している時、神社から帰る時、帰りついた時の調べと分かれており、聞いただけで神楽の位置が判る。
Photo_2 遠くからだと、笛の音より先に、太鼓の音がまづ聞えてくる。然しその太鼓の打ち方で矢張り神楽が今どんな位置に居るかが判る。笛の音が聞えてくるともっとはっきりする。
又、獅子舞の曲だと今どの辺を舞っているのかも推定出来る。要はそれ程伝統的に一糸乱れず継承されていると言う事であろう。

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9月21日の祭り当日には、小西・大門・差出組の神楽三台が境内に並び、獅子舞は「三番叟」の奉納から始まる。この三番叟は代々小西組が(宮前の地と言うことから)担当する事になっている。
ついで三人立ち(獅子頭に1、母呂に2)の「長母呂」、続いて「曲獅子」が三組揃って演じられる。写真上は長母呂の練習風景。
Photo_5
尚、三番叟は、神楽獅子舞と能楽の「翁(おきな)」の白尉(はくじょう)とが結びついて完成された神楽獅子舞三番叟である。写真は1995年の祭り当日のもの。当然今も全く同じいでたちで同じ舞を奉納している。舞手は一人立ちで長袖朱色の襦袢を着て裾を端折り、浅黄色の股引に白足袋を履き、獅子頭をかぶり右手に鈴、左手には扇を持ち囃子にあわせて重々しく舞い始める。

神楽囃子には、三番叟・長母呂・曲獅子のほか勇(いさむ)・角付け(かどつけ)・寄せ・片拍子・乱れ拍子・丸拍子・かんから獅子・新拍子等々があり、それに合わせた太鼓と独特の間(あい)の歌が入り、獅子舞が奉納される。

練習も終盤になった。名残惜しかったが余韻を胸に帰宅した。

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2007年9月12日 (水)

幾山河

今、静かに瀬島龍三氏を偲んでいる。
嘗てY社に同氏をお招きしてお話を伺ったことがある。祖国愛を切々と訴えかける姿に感動し今も鮮明にまな裏に焼きついている。

氏は人も知る、旧大本営参謀として、又戦後シベリア抑留から帰国後、伊藤忠商事に入社し会長まで上り詰める一方、土光臨調の徹底した黒子として活躍した記憶は多くの人の知るところである。

今何故、瀬島龍三か
最近の経営者の中には経営理念もなく利益至上主義に走る者、官僚たちの中には国益より省益・省益より私益に走る者、政治家の中には国政より私欲に走り政治と金の問題が後を絶たない。成果は全て自分に属し、都合の良いときは自分を正面に押し出し、都合の悪い時は他人のせいにするか、知らぬ存ぜぬを決め込む輩が目立つ。
そんな流れを苦々しく思っている者にとって、土光臨調時代の黒子役に徹しきった瀬島氏の出処進退の姿は清清しく映る。

しかし何時の世にも必ず中傷する者が現れる。同氏の場合も、「シベリア抑留時代に強制労働に関するソ連軍との秘密協定があったのではないか」等の中傷もあった。
それに就いて、勝海舟が維新後の自分の出所進退に就いて福沢諭吉から批判を受けた時、『行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張』と応えた事を思い出す。
瀬島氏は自分の行蔵に就いても黙し続けた。その瀬島氏が、1995年9月30日発行(初版)の「瀬島龍三回想録 『幾山河』 (産経新聞社)」によって、それらを否定する興味深い論点を全て書いている。中傷と悪口を言われ続けた中での、この書の記述は、改めて読み直してみて、逆説的な意味でそれらに対する彼の男ぶりを明確にしたものとも取れる。Photo_2

序ながら、同書に依ると彼は自分の人生を、①軍人を志した青年時代、②大本営参謀時代、③シベリア抑留時代、④伊藤忠時代、⑤臨調時代の5期に分けて書いている。
その文中又は行動記述中から今も印象の強い事例の2,3を取り上げてみる。

私には大本営時代の瀬島氏の印象は同書の記述に頼る以外にないが、シベリア抑留中の苦悩と苦渋に満ちた生活は同氏の話からも身近に感じられる。
シベリア抑留の原点は、1945年8月23日、スターリンのワシレコフ元帥に対する秘密指令から発している。…その背景にはスターリンが望んだ北海道の北半分の占領をトルーマン大統領から断られたという事情があった』と同書は語る。

『・日ソ中立条約を侵して満州に侵攻・日本軍のみでなく居留民や中国(満州)人に対し暴行、暴虐を行った・日本軍人、一部民間人あわせて約60万人をソ連領内に連行、1200箇所のラーゲリに収容し劣悪な条件下に強制労働に就かせ推定で6~7万人が死亡・ソ連国内法で刑を科し、長期に渉って抑留、かつ強制労働させた・抑留日本人の一部を使って所謂「民主主義」なるものを組織し、その支配下で洗脳、戦犯造成、労働強化など陰湿な政治工作を実施した・北方4島は今も占領を継続中…これらは何れも「犯罪」であり、これは大東亜戦域での他の国の日本人に対する扱い方とは全く異なっている。平成3年4月ゴルバチョフ大統領(当時)がハバロフスクの日本人墓地を訪れ、また抑留者団体の代表と僅か数分会見し、その際「同情」すると述べたが「同情」とは関係の無い第3者の当事者に対する憐れみを言う言葉である。。ソ連は加害者なのに、顧みて他を言うこの言葉には罪の意識などさらさらなく、ソ連という国の本質を見る思いがした』と同書の中で想いを述べている。
同氏自身も何時呼び出されて処刑されるかも分からない状態の中で『私にとって最も辛かったのはまず「孤独」である。対話する相手が居ない面壁の毎日の中で、仏を信じ幼時から覚えていたお(註:聞いた話では観音経の一部と思われる)を口ずさんで漸く心の平衡を保っていた』と言う。

所謂土光臨調では黒子に徹し土光氏を助け、例えば毎年度2兆円近くあった旧国鉄の赤字を救った活躍は特筆すべきものがあった。当事者である国鉄、運輸省は基本的には改革路線には反対で臨調の審議に全面協力には程遠かった中での改革は大変であったであろうと推察する。其処を突破できたのも土光氏の強力なリーダーシップと共に、瀬島氏や加藤氏の活躍を見逃せない。今改めて同書を読み返してみると、同氏が常に表面には土光氏を立て自らは黒子に徹しきった行動は特筆に値する。

今、瀬島氏を偲び、「幾山河」を読み直し、淡々たる話の中に祖国愛を強調し黒子に徹しきった瀬島氏の生き方を顧み、その残した業績を思う時、今こそこのような人物を国家は欲しているのではないかとしみじみと思う。

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2007年9月 5日 (水)

恋のころ

   恋のころ来し花野にて子を抱けり
   

俳人協会・俳句文学館発行、平成19年9月の俳句カレンダー所載の句である。作者は辻 美奈子氏で、仙田 洋子氏の解説文がある。

『辻美奈子さんの第一句集『魚になる夢』には、〈たやすくは二十歳の水着選ばれず〉〈愛されてゐて薄氷踏む遊び〉など若さや愛を詠った句があった。第二句集『真咲』には、〈春昼を泣く生みたての赤ん坊〉〈竹皮を脱ぐやこどもはいつも旬〉など母として真摯に命と向き合う日々が詠われている。そして、両句集の世界を繋ぐのが『真咲』に収められた掲出句である。
 結婚前にご主人と恋人同士として来た花野。母となり、幼い我が子を腕に抱きながら立つ花野。儚くも美しい二つの花野の景色が重なり、恋から結婚そして出産へと至る時間の流れが大らかに懐かしく描き出され、自分の命が新しい命へと受け継がれていく静かな喜びが感じられる。その上、〈恋〉と〈花野〉とが艶やかに響き合って、ご主人への想いの伝わる句でもある。
 『真咲』という句集名は、「真幸くあれ」との願いを込めて二人のお嬢さんの名前から一字ずつ取られたものだそうだ。まっすぐな思いが眩しく美しい。(仙田洋子)』

眩しいほどの若さと人間愛に満ちた句である。そして命の讃歌の美しい句でもある。

考えて見れば誰にでもこのような時期があった筈である。只、戦中派には「恋のころ」は戦争と向き合って自分の命を見つめていた時でもある。「再度、無言館」の記事にはその想いが滲んでいる。

それを思うとこのような句を何の躊躇いもなく詠める時代が、羨ましくも眩しく感じるのは思い過ごしであろうか。

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2007年9月 4日 (火)

再度、無言館

記録破りの猛暑、かてて加齢効果で夏ばてが酷い八月だった。しかし再度八月中に無言館を訪ねたいとの想いは強く、その根底にあるものは、あたら若い命を戦争のために散らした若者たちへの鎮魂の意味が深かった。

無言館続、無言館再び無言館に就いては既に書き記した通り。
再度無言館を訪れ、一歩館内に歩を踏み入れた時の胸を突き上げてくるような衝動は前回にも増して強かった。
十字形に造られた無言館の建物の壁に掲げられている戦没画学生の遺作の前に立ったまま、何時までも動こ2_3
うとしない人。経歴や、資料ケースの中の軍事郵便や遺影に向かって静かに手を合わせる人。同じ戦争経験を持っていると思われる人も、その人達に連れて来られたと思われる人たちも居る。
それらの人たちの胸にゆっくりと記憶の糸が解け始め、やがてその遠くに60余年前のことが蘇ってくると、館内には声にならない声がうねりのようにわいて来る。
人々は無言で絵を見つめ、無言で資料に眼を通し、潤んだ眼で無言館を出て行く。

今年改めて来て今までに無かった光景に出会った。
2_2
無言館入口にキャンバスを据え、ただ黙々と描いている人達の居ることだった。そして彼等が描いているのは一様に無言館の絵だった。それらは私には恰も写経をしている人達の姿とラップして見えた。

「二人のピアニスト氏」のブロッグ記事で、終戦時における柳沢恭雄氏の事を知った。玉音放送の盤を命がけで守り抜いて、放送実現に努力した人の名前を始めて知って感動した。
それらの事実と今日の訪問の感動が綯い混ぜになってしばし無言館を離れることが出来なかった。

日米戦争のあったことすら知らない人が増えていると聞く。だからこそ戦争の悲惨さを後世に伝えてゆかなくてはならない。記憶とは頼りないもの。時の経過と共に事実を風化させてはならない。そのためにも無言館を訪れ、しみじみと味わって欲しいものと思う。

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