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2007年7月12日 (木)

松島や

7月7日始めて松島を訪れた。
松島は誰もが知る日本三景のひとつ。五大堂を載せた島、人家のある島、無人の島等々、島数は200余とも、何れも松を載せ、この一湾全体の景の美しさが三景のひとつと言われる所以であろう。(写真は俯瞰写真)。
Photo_45
司馬遼太郎の「街道をゆく26(朝日新聞社刊)」に松島が紹介されている。それに依ると、芭蕉は曾遊の松島の景観を激賞して冒頭、

『「抑(そもそも)ことふりにたれど」と書き始め、「松嶋は扶桑第一の好風にして凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の湖をたたふ。…造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽む。」』

『塩竈から舟を漕ぎ出したときは、古人を思い、古歌を思い、心のふるえるような気分だったに違いない。そういう芭蕉が、
  「松島や ああ松島や 松島や」
などとノンキなトウサンのような句をつくるだろうか』

『奥のほそ道 のくだりを訳してみる。
「島々の形の妙はすべてここにある。頂を聳かすものは天をゆびさし、伏せたる形のものは波に腹這っているようである。……」。松の姿や、その緑の濃さにも感動する。「松の緑が濃密で、その枝葉は潮風に吹きたわめられて、自然のままなのに人の手でわざと曲げたような姿をとっている。見とれるうちに、美女の顔さえ思ってしまう。」』

『芭蕉はこうも言う。「予は口を閉ぢて眠らんとして寝ねられず。」あまりの心の昂ぶりのために、句も出来ねば、眠られもしなかった、という。』
Photo_47

以上は、司馬遼太郎の「松島」に関する記述からの抜粋であるが、文中にもあるように、芭蕉は松島では遂に一句も作らず、同行の曽良が只一句、
    松島や鶴に身をかれほととぎす
と詠っている。恐らく曾良はその時啼いていたほととぎすより、この美しい景には鶴が相応しいと考えたのであろう。(写真は五大堂)。

司馬遼太郎は、仙台の落着いた陸奥の雄都 ぶりに感動し、更に芭蕉が心を打たれた多賀城址碑(壺の碑)を万感の思いを込めて読んだあと、訪れた松島の方々の看板や説明用の掲示板に
  「松島や ……」
の句を芭蕉の句として書かれているのを見て、当の芭蕉も嘆くであろうと(司馬遼太郎は)嘆息している。ただその記述が有ってか否か、私の今回の訪問時には、そのような看板や掲示板がなかった事は救いだった。
Photo_48

松島湾クルーズは50分の 観光であるが、島巡りと言ってもほんの一部の島の間を通り抜けるだけのことで、説明にある島の名前などは左から右へ通り抜けてしまう(写真は島のうちのひとつ)。
 自然の造った景とは言うものの見事な景であるが、何処が三景の一つかと言われても、全体を見はるかした全景としか言いようがない。

芭蕉や曽良が訪れた時の松島と、更には司馬遼太郎の時とも、今の松島の景そのものも多少変っているだろうし、それ以上に周囲の雰囲気が俗化している事は想像に難くない。しかしこの景を見て、句作するにしても、如何に心を動かされたかがなければ芭蕉や曽良の感動の万分の一にも至らないし、司馬遼太郎の賛嘆や嘆きも判らないのではないか。
     島々を浮かべ一湾明易し   仙花

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