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2007年7月31日 (火)

みなづき賞

俳誌「海坂(うなさか)」の60周年記念出版として『百合山羽公全句集』と『相生垣瓜人全句集』が刊行されたことは既に記した通りである。

因みに今年の海坂8月号は第736号になる。俳誌としては極めて長い歴史を誇っているが、海坂の創刊時の主宰が俳句界最高の蛇笏賞作家である羽公(うこう)・瓜人(かじん)両氏の共宰と言う事を考えればさもありなんと思う。
Photo 写真上は百合山羽公、下は相生垣瓜人両氏である。
羽公全句集には、句集『春園』『故園』『寒雁(第8回蛇笏賞)』『楽土』『楽土以後』が、
瓜人全句集には、『微茫集』『明治草(第10回蛇笏賞)』『負暄』が、収められているのも前記の通りである。

Photo_2

これだけの句集を個人が収集するとしたら至難なことであろうし、それを網羅し整理し編集し特に季語別に整理する作業は大変だった事は容易に推察出来る。

今回、厳しい選考経過を経て「第4回みなづき賞」が贈られたのも当然の結果であろう。

「強靭な詩精神で風雅の道を貫き、また、特異な世界を築きあげた二人の偉業を後世に伝える貴重な書である。一誌共宰という形で郷土の詩人を育て、共に蛇笏賞に輝いた二人の全句集の出版が同時に行われた意義は殊に大きい。ようやく百合山羽公、相生垣瓜人の句業の全貌に触れることができることを喜ぶとともに、二人の作品論、作家論が興ることを期待する」とは、みなづき賞発表の弁である(「(くだん)No.9」より)。

「これからはこの全句集二巻がある。今この二人の俳人の全貌に触れさせていただいたことの重みを痛感している。」
「そしてそれを持続的に支えてこられた監修者の並々ならぬご尽力に心からの敬意を表する。そしてこの全句集が、俳壇という枠を超えて、広い世界で読まれることを願っている。」
とは、一俳人の意見であるが同時に多くの方々の共通した意見であろうと思う。

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2007年7月17日 (火)

土井晩翠像

過日仙台の青葉城址を訪れた。
折りしも良く晴れた土曜の午後とあって、旅行者も含めて訪れる人が多かった。しかしその多くの人は政宗の騎馬像の周辺に群がっていた。矢張り仙台は伊達の城下町だなあとの想いを深くした。
Photo_49  双眼の(隻眼ではない)凛々しい姿の騎馬像は人目をひき、絵にも句にもなり易い要素がある。

しかし其処から少し離れた所に立っている、(騎馬像より)かなり小さな土井晩翠像の周辺は寂として静まり返り人影もなかった。

土井晩翠と言えば、「荒城の月の作詞者として有名なばかりでなく、男性的な漢詩調詩風で多くの読者を惹きつけた。第一詩集『天地有情』が発表されるや、島崎藤村と並び称される代表的詩人となり、作品には「星落秋風五丈原」や、「荒城の月」などのほか、校歌・寮歌にも大きな足績を残した。
詩集には天地有情(1899年4月)、暁鐘(1901年5月)等をはじめ数編があり何れも男性的漢詩的抒情に溢れる。

不朽の名作「荒城の月」を作詞したのは明治31年(1898)。晩翠27歳の頃である。
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「荒城の月」は、作曲者・滝廉太郎が著名になった為、作詞者である土井晩翠の名を知らない人が或いは居るやとも思うが、それにしてもあれだけ大勢の人が政宗像を囲みながら、晩翠像の前に一人も居ないのは、位置的関係もあるかも知れないが少々寂しかった。

晩翠の代表的作品である「星落秋風五丈原」は、諸葛孔明の晩年を描いた詩で良く知られるように、
  祁山(きざん)悲秋の 風更けて 陣雲暗し 五丈原
  零露の文は 繁くして 草枯れ馬は 肥ゆれども
  蜀軍の旗 光無く 鼓角(こかく)の音も 今しづか
  丞相(じょうしょう)病 あつかりき
に始まって延々と続く詩で、晩翠の詩風を端的に表現している。
尚、本詩は或る宗教団体にも取り上げられたと聞くが、それと私とは全く関係ない。私はこの詩が好きなだけである。

私は人影のない晩翠像の前にしばし佇んだ。
憂愁を含んだ晩翠像に魅せられ、若き頃の晩翠に想いを馳せた。

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2007年7月12日 (木)

松島や

7月7日始めて松島を訪れた。
松島は誰もが知る日本三景のひとつ。五大堂を載せた島、人家のある島、無人の島等々、島数は200余とも、何れも松を載せ、この一湾全体の景の美しさが三景のひとつと言われる所以であろう。(写真は俯瞰写真)。
Photo_45
司馬遼太郎の「街道をゆく26(朝日新聞社刊)」に松島が紹介されている。それに依ると、芭蕉は曾遊の松島の景観を激賞して冒頭、

『「抑(そもそも)ことふりにたれど」と書き始め、「松嶋は扶桑第一の好風にして凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の湖をたたふ。…造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽む。」』

『塩竈から舟を漕ぎ出したときは、古人を思い、古歌を思い、心のふるえるような気分だったに違いない。そういう芭蕉が、
  「松島や ああ松島や 松島や」
などとノンキなトウサンのような句をつくるだろうか』

『奥のほそ道 のくだりを訳してみる。
「島々の形の妙はすべてここにある。頂を聳かすものは天をゆびさし、伏せたる形のものは波に腹這っているようである。……」。松の姿や、その緑の濃さにも感動する。「松の緑が濃密で、その枝葉は潮風に吹きたわめられて、自然のままなのに人の手でわざと曲げたような姿をとっている。見とれるうちに、美女の顔さえ思ってしまう。」』

『芭蕉はこうも言う。「予は口を閉ぢて眠らんとして寝ねられず。」あまりの心の昂ぶりのために、句も出来ねば、眠られもしなかった、という。』
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以上は、司馬遼太郎の「松島」に関する記述からの抜粋であるが、文中にもあるように、芭蕉は松島では遂に一句も作らず、同行の曽良が只一句、
    松島や鶴に身をかれほととぎす
と詠っている。恐らく曾良はその時啼いていたほととぎすより、この美しい景には鶴が相応しいと考えたのであろう。(写真は五大堂)。

司馬遼太郎は、仙台の落着いた陸奥の雄都 ぶりに感動し、更に芭蕉が心を打たれた多賀城址碑(壺の碑)を万感の思いを込めて読んだあと、訪れた松島の方々の看板や説明用の掲示板に
  「松島や ……」
の句を芭蕉の句として書かれているのを見て、当の芭蕉も嘆くであろうと(司馬遼太郎は)嘆息している。ただその記述が有ってか否か、私の今回の訪問時には、そのような看板や掲示板がなかった事は救いだった。
Photo_48

松島湾クルーズは50分の 観光であるが、島巡りと言ってもほんの一部の島の間を通り抜けるだけのことで、説明にある島の名前などは左から右へ通り抜けてしまう(写真は島のうちのひとつ)。
 自然の造った景とは言うものの見事な景であるが、何処が三景の一つかと言われても、全体を見はるかした全景としか言いようがない。

芭蕉や曽良が訪れた時の松島と、更には司馬遼太郎の時とも、今の松島の景そのものも多少変っているだろうし、それ以上に周囲の雰囲気が俗化している事は想像に難くない。しかしこの景を見て、句作するにしても、如何に心を動かされたかがなければ芭蕉や曽良の感動の万分の一にも至らないし、司馬遼太郎の賛嘆や嘆きも判らないのではないか。
     島々を浮かべ一湾明易し   仙花

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