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2007年5月31日 (木)

醒井宿

5月27日(海軍記念日)に、近江の国は醒井宿(さめがいじゅく)を訪れた。

醒井宿(滋賀県米原市)は、中山道61番目の宿場で、JR醒ケ井駅前の国道21号線とその南側を走る名神高速道に挟まれた地域を通る旧中山道に沿った比較的狭隘な宿場町である。
資料に依ると、「古代からの交通の要衝であり、「日本書記」の日本武尊の伝説に登場する「居醒泉」が醒井の地名の由来であるといわれる。豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いない。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤している。」とある。

此処は京都と江戸をむすぶ中山道の宿場町で、特徴はなんと言っても町並みを流れる清冽な地蔵川の流れである。
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北国街道・海野宿は街道の端を比較的狭い水路が流れているが、ここ醒井宿の水路は、宿場の道の南の縁を、その名の通り川として流れ、中山道を行く旅人の疲れを癒すと共に、川には戸毎に石の橋が架けられ、濯ぎ場が設けられて里人の生活手段の重要な位置を占めていた。「近江名所図会」には、地蔵川べりに床几で一服する旅人が描かれている。
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写真は宿場の町並みの一部を示し、写真の道路の右手に地蔵川が流れている。川をはさんでその右にも家並みが連なっている。この宿場跡には、居醒の清水(日本武尊の像がある)、地蔵川のバイカモ(梅花藻) 、醒井宿資料館 (醒井宿問屋場(旧川口家住宅)、醒井郵便局局舎)等々をはじめ旧宿場の町並みが続き往時の雰囲気を色濃く滲ませている。

川にはハリヨ(トゲウオ科・イトヨ属)という体長4~7cmのトゲのある魚が棲んでいる。里人は目ざとく見つけるが私には遂に見つけることが出来なかった。水温20度以下の清流に生息している。
バイカモ(沈水植物、キンポウゲ科)は、水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年生水草で、掌状の葉が特徴で水面上に梅花様の白い花が咲く。バイカモとハリヨは共存状態にある。
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旧醒井郵便局は1915年、米国出身のウィリアム・メレル・ヴォーリスの設計によって建てられた木造2階建の擬洋風建物で、現在の建物は1934年に改装されたもので基本的な内部構造は創建時の建物を利用している。1998年に国の登録文化財に指定されている。

問屋場は、宿場を通行する大名・役人に人足や馬を提供する事務所で物資運搬と言う見地からすると宿場では最も重要な施設であったことは間違いない。醒井宿ではこうした問屋が7~10ケ所も設けられていた。

土地の人々は親切で、宿場のことや産物、見所等に就いて聞いて見ると、詳しく説明してくれ、わざわざ案内してくれたり、自分では分からないことがあると隣の人や、旧家の長老の所まで聞きに行ってくれる。古き良き時代の名残が色濃く残っている。

醒井宿は又、俳人たちがよく訪れる所と聞く。帰路は、奥の細道むすびの地と呼ばれる大垣で芭蕉時代の俳人を偲んだ。

日本各地には旧宿場町が歴史的建造物群として保存されて居る所が多く見られるが、文化的遺産として大切にしたいものだ。

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2007年5月26日 (土)

古書店

4月1日から浜松市も政令指定都市になった。それに先立って市庁舎も耐震性を加えて新しくなった。市庁舎を囲むように公園があり、浜松城や美術館がある。
その市庁舎の傍に何故か、骨董店、畳店、それに古書店等が並んでいるのも面白い取り合わせだ。
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写真は新市庁舎。美術館ではピカソ展を開催していた。
Img_08442_1(ピカソの絵も想像していたイメージと現物を観た感想とは著しく違うのに驚いた。)

今は昔ほど畳を使わなくなった。だから畳屋も珍しい存在になった。それがこの市庁舎の傍に固まって2軒もある。偶然かどうかは聞いてみた事がないから判らないが、新旧の対象が面白い。

その傍に又骨董店があるのも面白い。骨董店といえば古書店もある。嘗て浜松の旧市街には私の知っているだけでも10軒以上の古書店があった。しかし今はこの市庁舎の傍に2軒ある以外は知らない。

古書店は懐かしい。それに絶版になった本や、探していても中々手に入らない本が思いがけなく手に入る楽しみもある。手も出なかった全集物なども一括して予想外の安価で手に入る楽しみもある。嘗て神田の古書店街をうろついた記憶も蘇ってくる。
Img_08462_1 写真は市庁舎の傍の古書店だが、狭い入口の割には足を踏み入れてみると中は思っていた以上に広い。
立読みも楽しいし、探していた句集なども手に入れる僥倖に恵まれる機会もあってこのような店を覗いて見るのも古き良き時代を思い出させてくれて有り難い。しかし、なるべく必要最小限にしないとまたぞろ家の中が狭くなってしまうので色々計算をして買う事になる。

1960年頃、ある国家試験を受けた時にY社の図書室から借りた技術的専門書がある。その本は今は恐らくY社でも廃却してしまっているだろうし、今となっては時代も隔たっているし、技術的にも、用途的にも恐らく必要がなくなっているので、古書店を探してもよほどの事が無い限りは見つけることの出来ない書だと思う。それでも見つけたら懐かしくなって買ってしまうかも。古書店は青春懐古の場所も提供してくれる。神田も変っただろうが一度ぶらついて見たい。

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2007年5月21日 (月)

小江戸

信州の鎌倉」とか、各地に点在する「小京都」等は夫々の特色が冠地名との関連で表されているが、「小江戸」と呼ばれる地もある。

小江戸こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、埼玉県川越市があげられる(wikipedia)』。

川越の土蔵造りの店舗は、所謂「蔵造り」として有名で類焼を防ぐ為の巧みな耐火建築で江戸の町屋形式として発達したもの。蔵造りの建物が並ぶ一番街は江戸の面影を色濃く残している。
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Photo_30 今の東京には、江戸の昔の日本橋小伝馬町、室町などにあった蔵造り問屋街の遺構は全く無い。その歴史的面影をここ川越に見ることが出来る。
重量級の黒漆喰の壁、大きな鬼瓦等はその一端で、その情緒は多くの俳人を引き寄せている。
写真上は一番街の風景、左の上は亀屋、下は大澤家住宅を示す。
Photo_31 亀屋は店蔵と隣に袖蔵が並び、巨額の費用を投じて造られたもの。
又、大澤家住宅は国の重要文化財に指定されている。
この町並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、高さ11m以上の建物は制限され、電柱は地下へ移され、今後は街灯を工夫される由である。

一番街の通りから一歩奥に「埼玉リソナ銀行」の瀟洒な建物(国の登録有形文化財)があり又、「残したい日本の音風景百選」に選ばれている「時の鐘」は更に数軒分、通りから奥にある(写真の上と下)。
Photo_34 リソナ銀行は、スマートな白レンガ造りの西洋建築で鉄骨3階建て、青銅ぶきのドーム型の塔屋で国の登録文化財に指定されている。蔵造りの町並みと対照的であるがその町並みになんとなく溶け込んでいるのが面白い。

「時の鐘」は約400年前から川越のシンボルとして今も6,12,15,18時の四回、鳴らしている。櫓の高さは奈良の大仏と同じ高さだそうである。現在のものは4代目と言われ、鐘の鳴る時間にはそれを聞く為に塔の周りには人垣が出来る。
Photo_35 この他に、見落せないものに、川越城本丸御殿と喜多院がある。

川越城本丸御殿は、明治維新以後次第に解体されてしまったが今も本丸御殿の玄関と大広間が残っている。

川越大師として知られる「喜多院」は、徳川家光誕生の間や春日局化粧の間、更に境内には五百羅漢や多くの文化財や史跡がある。
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これらの町並みや史跡を結ぶ観光交通機関としては、「小江戸巡回バス」や「観光用人力車」がある。

巡回バスはボンネットが大きく張り出したレトロな感じの懐かしいバスで、一日乗り放題で500円というのもよい。
観光用の人力車は、主だったところを説明つきで廻ってくれる。こんな乗り物を利用するのも情緒がある。

此処は絵になる風景であり、俳句になる風景である。
このような町並み保存には、この地を含めて例外なく地元の熱意や努力や忍耐が感じられる。
車社会に合わせて道幅を20mに拡大しようとした都市計を中止させ、建物の高さ制限、電柱の地中化、その他の工夫等がこのような景を確保していることは間違いない。
それでも一番街は通りに面しているので車の往来があって多少気になるところであるが、それを割引しても尚江戸の原風景が楽しめる。
    夕焼くる川越宿や時の鐘
    江戸の世の店蔵今に夏燕

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2007年5月 9日 (水)

真田氏本城址

長野道の上田・菅平ICで降りて菅平方面へ、車で走ると間もなく真田町に出る。
ここは真田氏発祥の地として知られている。町には真田氏歴史館があり真田氏の歴史を物語るものが数多く展示されている。
其処から車で10分も菅平方面に向かって走ると右手に真田氏本城址へ行く道がある。その道を暫く行くと城址の駐車場に出る。其処から歩いて5分くらいで頂上に登る事が出来る。其処から真田町、更にはその前方遥かに上田市街が望見出来る(写真)。A
丁度5月の節句時でもあり、鯉幟が頂上から山麓に掛けて長く連なり風をはらんで見事だ。

城の由緒書に依ると、
「この城址は天白城とともに、馬蹄形につくられ、南西面に広がる緩やかな斜面は、真田氏館跡や原の郷へと続き、さらに指呼の間に砥石城・矢沢城を望むことが出来る。
本郭は、東西9m、南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へニの郭三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。
規模は大きく、水利もあり、周辺城址群の位置的関係等から見て上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。」
と、ある。
A_1 山城と言うより丘城といった方がよいこの砦を築いた頃の真田氏は、恐らく東信濃の一小豪族に過ぎなかったであろう。
真田幸隆時代になって頭角を現し始めた。坂城の豪族村上義清に真田の地を追われていた幸隆は、川中島の合戦で武田方として大活躍し、更に義清の居城である砥石城を攻略して、東信濃一の豪族となった。
幸隆のあと真田家を継いだのは昌幸。二人の兄が長篠合戦(天正3年・1575年)で討死したため家督を継ぐことになった。天正10年武田氏が滅亡後は苦心惨憺して真田家の維持発展に努め、天正12年頃上田城を築いて真田の地位を不動のものとした。以降昌幸、信之、幸村の数奇な運命は世に広く知られている。

今この城址は夏草に覆われ、家族連れで賑わっている。戦国時代の苛酷な真田氏の話は、物語風に伝えられているに過ぎない。
時恰もNHK大河ドラマの影響もあって、六文銭の旗印と共に、風林火山の幟も到る所に翻っている。そんな中でボランティアの人々が城址の手入れをしているのが目に付いた。

   戦なき世をしみじみと菖蒲風呂
   城跡に礎石もあらず若葉風

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2007年5月 6日 (日)

もう一つの祭

五月に入ると、「浜松まつり」が始まる。全国的にも知られた凧合戦である。勇壮な進軍ラッパと激しい凧糸の切りあいは凄まじい迫力がある。嘗ては本当の喧嘩となり、血を見る例が多かったので今は厳しく規制されていて、犯した町は出場出来なくなるので今はその心配はなくなった。夜は豪華な御殿屋台の引き回しが行われ、3日から5日までは祭一色になる。祭の起源には戦国時代背景がある。

その影に隠れて、それ程は目立たないが、もう一つの祭がある。浜松とは程近い(我が家からは約30Km北)、歴史上でも有名な長篠城の本丸跡を中心に行われる、「長篠合戦のぼりまつり」で、イベントは1,3,5日に行われるが、なんと言ってもハイライトは5日に行われる火縄銃の実演である。
以前、岩村城の火縄銃の実演を見たことを思い出して、急に思い立ってあたふたと一人で出かけた。
実演は、米沢藩稲富流砲術隊、日本前装銃射撃連盟、長篠・設楽原鉄砲隊の3隊により、夫々の流儀で行う。
1_3
写真は長篠・設楽原鉄砲隊の実演風景である。
長篠の合戦に於いて、信長によって考案されたという火縄銃の攻撃方法は武田勢の意表をつき、武田家の滅亡に繋がる事は知られていることであるが、それにしてもこの火縄銃の轟音は凄まじいしその風圧は強烈に感じる。思わず耳を押さえ、急造の耳栓をした。
馬の防護柵の前で立ちすくむ武田騎馬軍団に向かって3段構えの火縄銃が火を噴いた光景は想像できる。実効果もさることながら、その音響は武田軍の戦意までも奪った事は想像に難くない。
Photo_27 前述のように火縄銃の実演では、数年前に見学した、美濃の国・岩村城の火縄銃斉射実演(写真左)も有名である。日本三大山城の一つとして知られ、又女城主の逸話からも語られているこの城での実演は城の石垣をそのまま利用しての射撃で見学者との距離は多少離れるので轟音も風圧もそれなりに薄められる。
しかし今回の長篠城本丸跡で行われたこの実演は、見学者と同じ高さで、比較的距離感も近いのでその轟音と風圧はは予想以上だった。

ハードとソフト。戦略と戦術。そして同時に太平洋戦争等に就いても色々考えさせられた。

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2007年5月 3日 (木)

見えない糸

ふと手にした本は、「ときを刻む『信濃の女』波乱の人生19人」(島 利榮子著:郷土出版社)である。信濃毎日新聞に「ときを刻む女」と題して連載された内の19人に絞って一部加筆訂正してまとめたもの。その中に、同郷の誼で親しくお付き合い頂いているF子さんの記事が載っている。
2_5 F子さんのご夫君のご存命中からのお付き合いながら、その経歴等に就いては細かい所までは知らなかった。この書を読んでF子さんの経歴等に就いて得心した。家事調停委員功績で藍綬褒章も受賞されている。
ご夫君は、医師で清瀬結核病院にも勤務されていたが、請われて浜松の聖隷病院に移られ同病院発展の基礎を築き、以後浜松に定住されるようになった。私とは、「信濃会」という同郷の士の集いでお付き合いするようになってからである。

所で、清瀬病院と言うと忘れられない人がいる。S氏である。彼の青年時代の一時期にその病院で療養生活を送ったことがあり、しかもその時の主治医がF子さんのご夫君と聞いて目に見えない糸が人の世には張り巡らされている感じがする。
(S氏は聖隷病院の事務長をされ発展に貢献された。奉仕精神旺盛な方で今も多くの人から慕われ、私とは句友としてお付き合い頂いている。)

S氏が療養生活をされている一時期に、時と所を同じくしてM子さんも療養されていて、S氏とは俳句を通じて今もお付き合いされていると聞く。M子さんは今は俳句界でも重要な立場におられる。   
   春障子一日逢はねば母老いて
   遺されし肺が重たき朝曇
   枇杷の花休息もまたわがつとめ
   今年また母ありてこそ露けき灯
   不器用に世の隅に生き薺打つ
   生きざまの人それぞれに受難週
以上、1977年から1981年のM子さんの句より。

清瀬を核として、F子さんとそのご夫君、S氏、M子さんが見えない糸で結ばれているように感じる。

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