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2007年2月28日 (水)

歳々年々

 年々歳々花相似(年々歳々花相似たり)
又巡って来た春。「白木蓮が咲いたから卒業式だね」と言ったのは数年前までのこと。このごろは少し様子が違ってきた。去年は啓蟄が過ぎた頃一斉に咲いた。今年は2月末に一斉に咲いた。
花はどのように季節を感じ取るかは知らないが、常夏のハワイなどでも花は、ちゃんと季節を感じ取ってその時々の花を咲かせる。
花は毎年同じように咲いて人を楽しませる。或いは人によっては切ない想いを抱く人も居る。それでも花は決まって咲く。
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 歳々年々人不同(歳々年々人同じからず)
毎年同じように咲く花を見る人は、毎年違った感慨を以って花を見上げる。
木蓮に寄せる想いも人夫々。木蓮を詠った俳人の感慨も亦同じ。

浜松に農経高校という名の高校があったが、他の高校と統合して廃校になった。その跡地はあっと言う間に更地となってしまって其処に残ったのは河津桜と呼ばれる桜が今を盛りと咲いている。
    落花霏々更地となりし母校跡
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農経高校出身者や関係者はどんな想いで花を見つめている事だろう。

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2007年2月10日 (土)

羽公・瓜人全句集

百合山羽公(ゆりやま うこう)、相生垣瓜人(あいおいがき かじん)全句集がこの度、角川書店から発行された。両氏は共に俳句界最高の賞である蛇笏賞を受賞した俳人で、協力して俳誌「海坂(うなさか)」を創刊し、今年(2007)2月号で通巻730号を数える。
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因みに藤沢周平の作品に出てくる海坂藩は、周平自身が「海坂」に属し投句していた経緯から、「海坂」と言う名を流用して、架空の藩名に採用して周平小説に登場させたもの。

羽公句集は「春園」「故園」「寒雁(第8回蛇笏賞)」「楽土」「楽土以後」の3319句を収録。
瓜人句集は「微茫集」「明治草(第10回蛇笏賞)」「負喧」の3184句を収録。
これらの句集は今は、文献価値としても貴重な句集と言えよう。

百合山羽公の略歴は、句集の帯文から拾うと、
「明治37年静岡県浜松市生まれ。大正11年高浜虚子門に入り、池内たけしの指導を受ける。昭和4年『ホトトギス』の雑詠巻頭。6年水原秋桜子とともに『ホトトギス』を去る。8年『馬酔木』第1期同人。21年相生垣瓜人と『海坂』を創刊、主宰。49年『寒雁』により蛇笏賞受賞。平成3年葛飾賞(馬酔木)受賞。同年没」とあり、

同じく相生垣瓜人の略歴は、
「明治31年兵庫県生まれ。昭和3年頃より『ホトトギス』投句。6年水原秋桜子とともに『ホトトギス』を去る。8年俳壇で初めて自選同人制が敷かれた『馬酔木』第1期同人。21年百合山羽公と『海坂』を創刊、主宰。俳句とともに瓜人俳画を形成。51年『明治草』により蛇笏賞受賞。60年没。平成3年葛飾賞(馬酔木)追贈。」とある。

珠玉の俳句を収めた大部作が刊行されたことは画期的なことであり、俳句を志す者にとって非常に嬉しい事である。

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句集「初山河」

俳誌「海坂(うなさか)」の重鎮である斉藤和雄さんから句集「初山河」を頂いた。氏の人情味とお人柄がそこはかとなく滲み出て感銘深い句集である。
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句集は、「鱧(はも)の骨」「古文書」「鳥渡る」「母の日」「菖蒲湯」の各章からなり、厳しくご自分を見つめながら詠った句の裏に、氏の顔が浮かんで来る。

海外詠も多くその足跡を残している、
   初燕ローマは泉辻ごとに
   アイガーの麓に夏野ありにけり
   アルプスの翳りに入りし夏野かな
   ミモザ咲くつめたき日々と巴里だより
   夏を倦むチャモロの女バナナ熟る
大書店の経営者として又人間として、ご自分を厳しく見つめる事多く、
   酔さめてのち凩の音ばかり
   浩瀚(こうかん)を膝に披き(ひらき)て春寒し
   言はでものこと言ひ捨てし梅雨の闇
   こと決めしのちの余寒を怺へゐる
   春泥や懐古はいつもあたたかく
   言ひにくきひと言のあり心太(ところてん)
   冷まじや身の錆落す術もなく
   言ひし悔言はざりし悔秋深き
   湯豆腐や一病あれど息災に
   子の闇も子ゆゑの闇も梅雨の中
   敬老の日ひとりの旅を思ひをり
   手袋をはめて行方の定まらず
   人ごみへ春の愁を捨てに来し
や戦死された兄君を詠って、
   風花のまたひとしきり瓜人(かじん)の忌
   亡兄の履歴短し敗戦忌
生活の中の景を自在に詠って、
   日蝕の野を一群の鳥渡る
       長き夜や音なくつもる砂時計
   青嶺より闇のおりくる薪能
   胡桃手に信濃は夜寒旅の果
   向日葵やうごくともなき沖の船
家族への愛情も滲む、
   肉饅をふたりでひとつ春隣
   老妻のふと母めける母の日ぞ
   初暦まづ書き入れし孫の婚

句集の名前「初山河」は、「菖蒲湯」の章の中の、
   初山河まづ遠富士を確かむる
より取られたものであろう。

経営者として人間として益々円熟味を増した氏の句集から、感銘深い読後感を頂いた。今後益々ご健康でご活躍される事を期待致します。   

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2007年2月 9日 (金)

どんど祭

信州には温泉が多いがその中であまり知られていない、鹿教湯(かけゆ)と言う温泉がある。此処は正月から節分にかけての氷燈籠(写真:クリックで大きくなります)でも知る人ぞ知る温泉で、静かに温泉を楽しむ人には持って来いの所である。
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此処では1月末のある日に地元で「どんど祭」と呼ばれる子供たちの行事がある。
温泉街の宿を廻ってその玄関先で、面をつけた子供たちが、
風邪の神たたき出せ、福の神まつり込め
と太鼓と獅子頭の舞いに合わせ、囃しながら宿に入り込み、再び太鼓・獅子頭に合わせて囃しながら、ロビーに座っている人達の肩を叩いてまわるという極く素朴な行事である。
私達が今年訪れた時に丁度その行事に出くわして可愛いいこぶしで、肩を叩いて貰った。子供たちは小学低学年生を主体にした構成で見るほうも楽しい。終ると予め用意した物を子供たちにお礼としてあげる。この間、子供たちと宿の人達との雰囲気は実に良い。
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写真上は玄関口でのお囃子、下はロビーでの風景である。

素朴な行事で、子供たちが大きくなっても忘れられないものとなるであろうし、地元の人達との一体感にも繋がって、冬の温泉街を明るくさせてくれる。こんな行事は大切に何時までも保存したいものだ。

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2007年2月 5日 (月)

句集「遠望」

最近頂いた句集の中で、青木華都子さんの第二句集である「遠望」は特に感銘深かった。
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俳誌「白魚火(しらをび)」副主宰としての青木さんしか知らなかった私だが、白魚火主宰が同句集に寄せられた序文に依ると、青木さんは、船田中元衆議院議長を祖父に持つ血統で、白魚火副主宰として活躍する一方で、栃木県日韓女性親善協会を設立し会長として現在に到り、年2回以上訪韓される等々の紹介があり、エネルギッシュにアクティブに活動されている姿が目に浮かぶ。
   ハングル語すらすら話し小六月
   膝立つることが正座や凉しかり
   ハングルの分厚き辞書や花疲
女性とは思われない逞しさを感じる。

句集は青胡桃・酔芙容・山法師・南京櫨の各章からなり、各章は平成10年から17年にかけて殆ど年代順に並べられている。
   目秤で分けて糶らるる初鰹
   サーファーに次来る波も男波
   稲光夜空に罅の入りけり
   下枝は少し遅れて橡の花
   春耕の土裏返すたび匂ふ
等には実感がこもる。
   父のなき父の書斎の梅ひらく
   着膨れてゐても小さくなりし母
には親子の情愛をそこはかとなく感じ取れる。
   磐梯は女体や雪を薄く被て
   男体山襞くっきりと牧開き
   しらしらと明けて男体山に雪
山を見て育った私には山を詠った句が懐かしい。
   十薬や寺に表と裏鬼門
   定刻に届く夕刊酔芙容
   山法師咲くや医学部文学部
   指櫛で梳く山霧に濡れし髪
   もみぢせる南京櫨といふよき名
   結ばずに包む風呂敷さくら餅
等には何でもなく詠んだ句の裏に作者の顔が見えるようだ。
そして締めくくりは、
   味噌樽の箍締め直す十二月
爽やかな読後感を頂いた。

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知多吟行

過日、句友と知多半島へ吟行した。

名鉄、美浜緑苑駅で下車し歩いて10分程の所に杉本健吉美術館がある。Photo_7
同館の紹介記事には概略次のように述べられている。

「両界曼陀羅」、「新・平家絵物語」屏風をはじめ、油彩・水彩・素描着色など、初期から現在までの芸術作品のすべてを収蔵。
当館は二つの常設展示室、企画展示室、和室「杉庵」からなる本館とともに、三つの展示室からなる新館が平成6年4月に完成し胎蔵界・金剛界からなる「両界曼陀羅」、「空海像」を中心に展示をしています。

とあり、丁度訪問した時は「文楽」などの特別展示もなされ、淡路人形の絵なども展示されていた。浄瑠璃三味線の師匠を父に持った画伯にとっては文楽は子供の頃から親しんできた世界であろう。
宗教的な背景を負った絵は見応えがあり、じっくりと時間を掛けて見たいところ。
その館内に志賀直哉が同画伯に贈った言葉が掲げられていて印象的だった。

「杉本健吉君は日展で続けて賞を貰い、急に世間的に認められ、挿絵に装幀に今は流行児になっている。杉本君の家族の多いことを知る私は物質的な意味でそれは大変いいことだと思っているが、画家としての杉本君の為、別に喜ばしい事とは思っていない。何故なら杉本君はいわゆる本流の絵を描く人で、今までの絵は世間的に認められるに丁度いいうまさに達したというに過ぎないからである。杉本君の絵のうまさは分かり易いうまさだ。感じをよく掴んで、それを要領よく画面に現はす技量は却々鮮やかなものである。それ故、杉本君は現在の技量だけでも、日本で才人といふ事が出来るが、然し、私の杉本君に望むところはもっと大きい。今のところで止まってゐては通俗的作家に終る危険がなしとしない。この危険区域を杉本君が早く出抜ける努力をされる事を望んでゐる。」

画伯の才を見抜いた上で、温情溢れる激励をされた志賀直哉の心根にも感動した。

美浜緑苑駅から野間駅までは近い。何れも無人駅で民間企業の経営努力を垣間見る思いもある。
駅から歩いて近くに、源義朝を謀殺した長田忠致・景致父子を後に頼朝が処刑した「はりつけ松」がある。今は朽ちて根元しか残っていない。
其処から田圃中を歩いて野間大坊に行く。その人家の少ない田圃中にイタリア料理レストラン”NAGA”があった。昼食を摂ったが、値段が安い上にスパゲッティを始め美味しかった。
野間大坊は天武天皇の時、役(えん)の行者が草創、聖武天皇の時行基菩薩が再び開基し弥陀三尊を守置し阿弥陀寺ととなえた。この寺領に源義朝の廟がある。入浴中に長田父子に謀殺された時、「せめて我に木太刀一本なりともあれば」と悲痛な一言を残したと伝えられ、慰霊の為に木太刀を献じる慣わしが出来て山のように積まれている。
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木太刀を献じた人は全ての願いが叶うと言われている。
   寒つばき木太刀嵩なす義朝忌
野間大坊を含め、寺領の中にある歴史的遺産などをボランティアガイドしてくれた地元の野間小学校6年生の好意に感謝しつつ帰途につく。
途中、臨時句会を開き感想や意見を交した後、帰宅した。

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