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2006年11月30日 (木)

草笛

随分前の事になるが、小諸の懐古園を数度訪れた事がある。盆に墓参りに行く途中だったと思う。その都度古老が草笛を吹いていたことだけが記憶に残っている。お名前は伺ってはいなかったが懐かしさが込み上げる。

Photo_2 当時の御歳から推測して今、懐古園を訪れても、その草笛を聞く事は出来ないにしても、何かの痕跡が残っていれば嬉しいなとの思いに駆られて過日懐古園を訪れた。
藤村記念館の受付嬢に聞いてみた。「その方なら1980年に亡くなられましたが、昔何時も草笛を吹いていた場所に写真と録音したものがあるので行って御覧下さい」との案内があった。(写真をクリックすると拡大します)。

その場所は直ぐ判った。横山祖道さんと仰る方で、その説明書きによれば、「昭和33年より22年間に渉り雨の日も風の日もこの場所で説教代わりに草笛の優しい音色で旅人を慰めた」と、ある。説教とあるからには僧職でいらっしゃったのだろう。その写真の下にボタンがあって、それを押すと懐かしいあの草笛の音が聞えてくる。藤村の「小諸なる古城のほとり」も老師が歌われたのだろうか、それも聴く事が出来る。私たちも遊子として往時を偲んだ。

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附近は一面の紅葉で美しかった。ふと仰ぐと、大木の梢に珠となった寄生木(やどりぎ)が冬空に輝いていた。
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2006年11月11日 (土)

棟方志功展

過日地元の美術館で開催された「棟方志功展」を見た。

棟方が終生の師と仰いだ柳 宗悦は、
「棟方は周囲への気兼ねや怖れを知らないのだ。こんなにも格破りの自然に出来る人は少ない。型なんかに嵌めようとしても無益なのだ。絵でも字でも捕らわれている所がないのだ。形から入ってゆく絵画の多い今日、棟方の作を見ると何か開放されるような気持がする。」と、述べている。

棟方の作品を見ていると、自由奔放で、この柳の言葉を彷彿とさせる。
同じ松の木の版画を見ても、松の木の全体を描くのではなく、一枝をとって模様化し抽象化して、松を描いていながら松とはかけ離れた松がそこにあるのを見る。松に捕らわれない松がそこにある。

棟方の作品には宗教色が濃く滲んでいる。
女性像を見ても、写生画を見ても、文字を見ても、動物の絵を見ても、勿論羅漢様や経文を見ても其処には何時も仏教の色がそこはかとなく滲んでいる。

「棟方は祖母から 『障子の中には仏様がいて、いつも見守って下さっているのですよ』と、教えられた。難しいことを言えば、、これは 『生死(しょうじ)の中に佛あれば生死なし』という曹洞宗の教えを祖母さんが間違って覚えたということだけのことだが、私達は何時も仏に見守られて暮らしているのだという素朴な宗教世界が棟方芸術のすべての根本である」と、日本民藝館の資料にある。
写生が好きな棟方は描き終わると写したものに手を合わせるという。棟方の作品にはこんな思想が連綿として入り組んでいるのを感じる。

尚童さんからは次のようなアドバイスを頂いた。
長谷部氏という人の書いた棟方の伝記の中の一節に、
棟方志功の言葉として、「自分の板画は、私が彫っているのではない。わたしは仏様の手先になつて、版木の上を転げまわっているだけだ。そこから自然に生まれてくるのだ」「自力の考えにたてば、板画をつくるということになるのですが、他力の考えにたてば、板画はつくらなくても、仏様の力によつて自然に生まれてくるのです。私は彫りも刷りも余り上手ではない。下手な方なのだけれども、その下手なところは、仏様、つまり板画の神様が助けてくれる。上手なひとにはたすけてくれない。私は幸せです」と。

棟方の作品には「」と言う語が使われている。
自在の柵、宰官女の柵、スサノオの柵、風吹きの柵、美誕の柵等々「作」ではなく「柵」が使われている。何故かと疑問に思っていたが、それに就いて、「仙台の華麗なるブログ書きさん」が、次のように書いているのを見て納得した。

「棟方志功の作品には””という題がついています。
たとえば、この作品は、「門世の柵」というように・・・

なぜそのような題をつけているのかを棟方は次のように語っています。・・・

柵というのは、垣根の柵、区切る柵なのですけれども、むかしは城の最初のものを柵といったと聞いています。

 何々の柵、どこどこの柵という城の形にならない、ただクイを打っていく、そんなようなモノでしょうか、「しがらみ」というものでしょうか、そういうことに、この字を使いますが、わたくしの「柵」はそういう意味ではありません。

 字は同じですが、四国の巡礼の方々が寺々を廻られるときに首に下げる、寺々へ納める廻札、あの意味なのです。

 この札は、一ツ一ツ、自分の願いと、信念をその寺へ納めていくという意味で下げるものですが、わたくしの願所に一ツ一ツ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです。ですから、納札、柵を打つ、そういう意味にしたいのです。
 たいていわたくしの仮面の題には「柵」というのがついていますけれども、そういう意味なのです。

 一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一ツずつ、そこへ置いていく。作品に念願をかけておいていく、柵を打っていく。そういうことで「柵」というのを使っているのです。

 この柵はどこまでも、どこまでもつづいて行くことでしょう。
 際々無限に。・・・」


棟方志功の作品を見ていると、何かほっとしたものを覚える。絵によって何かを訴えかけてくる物を感じるからだろうか。

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