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2006年10月24日 (火)

続、大平宿

先に大平宿の事を書いた。
其の後、調べたいことがあってその時に撮ってきた写真を詳しく見ていたら、宿場の旅館の一つである下紙屋の写真の中に「歩髙楼 金子智一」と書かれているのを見つけて吃驚した。
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金子智一氏は、インドネシア独立の功労者でスハルト大統領からインドネシアの最高功労勲章「ナラリア勲章」を授与された。又、日本歩け歩け協会(現日本ウォーキング協会)会長や、日本ユースホステル協会の設立発起人として又その常任顧問を歴任し、更には日本マーチングリーグを創立し会長を務めた。このような偉大な人物が余り知られていないのも実情であろう。

そう言う私も金子智一氏を知ったのは、私の旧友Y君の、大学時代の教え子であるK氏のご父君が智一氏だと、Y君から聞いて始めて知った。併せて紹介された佐藤嘉尚著「歩々清風 金子智一伝」(平凡社)も読んでいたので、この写真から、格別な想いで歩髙楼を現地で見た時の事を思い出した。
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この大平宿の管理人であるH氏に金子智一と宿場の関係を聞いてみた。
H氏ご夫妻は、早くからウォーキング協会の会員で且つ指導員の資格も持っているし、宿場関係者は殆ど会員であり、飯田市には多くの会員がいて活発な活動を展開しているという。宿場はそのウォーキング活動の際の宿泊にも一役果たしている由で、「歩髙楼」は「あるこうろう」と呼ぶのだそうである。
H氏らは金子智一と、この山の中を何回も一緒に歩き回っているし親しくお付き合いをした仲で、時には東京までも出かけていると聞く。
過日再訪した魅惑の大平宿が、かねてから聞き及んでいた金子智一氏と、このような形で結ばれていたとは夢にも思っていなかっただけに不思議な感動に包まれた。

更に別件ながら、大平宿に就いて、もう一つ活字上の出会いがある。
池内 紀(おさむ)著「ひとり旅は楽し」(中公新書)という本を読んでいたらその中に偶然にも「大平宿」のことが書いてあった。
「通りに面して土間があり、奥に大きなイロリが見える。往還に面した家におなじみの「前土間型」というつくり。かつてこの道を往来した人は、あがりがまちで一服し、イロリで湯気を立てている鉄瓶から、白湯をもらったりしたのだろう。云々」とある。
但し、これは氏が旅先候補として切り抜いてファイリングしておいたものの記事の様であるが旅慣れた氏にとっても魅惑の旅先候補地であったことに相違ない。思わぬ活字上の出会いである。

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東山魁夷・心の旅路館

信州善光寺のすぐ傍に「東山魁夷館」がある。群青色の魁夷の絵には人の心を揺さぶるものがある。長野へ行った時に時間に余裕があれば寄りたい場所の一つである。

 一日は僅かなひとときであるにしても、全生涯と見ることも出来ます。また一日一日の生き方の内容と密度が長い人生を決定していると言えないでしょうか。

と、「米寿記念・東山魁夷展」の開催された時の冒頭に魁夷は述べている。
横浜に生まれ、神戸に育った魁夷の絵には、信州の山河を描いたものが圧倒的に多い。かねてからその事が気になっていたが過日、大平宿からの帰途、妻籠に程近い賎母(しずも)に最近出来た「東山魁夷・心の旅路館」を見て納得した。
Kaiikinenkan此処は魁夷の版画作品展示館で、入ると正面の壁に、

 歩み入る者にやすらぎを
 去り行く人にしあわせを
           魁夷

と書かれている。
更に、その横に「木曽へのメッセージ」が書かれていてその中に、信州の山河に傾注してゆく経過が述べられている。

「美術学校に入って最初の夏休みに友人と共に木曽川沿いに八日間のテント旅行をしながら、御嶽に登ったのが、私を山国へ結びつける第一歩でした。この旅の途中、山口村の賎母の山林で大夕立に遇い、麻生の村はずれの農家に駆け込んで、一夜の宿を求めました。そこで私は思いがけないほどの温かいもてなしを受けたのです。
この旅で、それ迄に知らなかった木曽の人達の素朴な生活と、山岳をめぐる雄大な自然に心を打たれ、やがて風景画家への道を歩む決意をしました。……その後は何かに取り憑かれたように信州各地の山野や湖、そして高原へと旅を重ねて、四季折々の風景を描き続けてきました。」

親切にもてなしてくれたおばあちゃんの家は今も現存している。確か小西屋と言ったと思う。この時の出会いが魁夷の其の後を決定付けた事を知って感動した。雷雨と一夜の宿り、そして温かいもてなしによって其の後の人生が開けて行くとは、実に「出会い」とは素晴らしいもの、そしてその出会いを「真の出会い」にした画伯の心にも感動し、しばしその場に立ち尽くした。

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2006年10月23日 (月)

栗おこわ

旅へ出かける時、駅弁を食べる機会は割合多い。駅弁には地方色も出ていて味も色々だから、自分の好みに合わせて買えば良いが、食べてみて予想していた味と一致しているときは嬉しいが、そうでないものもあってがっかりする時もある。

私は駅弁は嫌いではないが、時間が許せば、降りてからか、乗車する前に食事を摂る事が多い。
過日長野へ出かけた時、時間的理由で列車内で食事を摂ることになったが、T駅の駅弁を買おうと思っていたらそれがなくて、時間的に1時間も食事刻がずれてS駅で駅弁を買った。釜飯だったが嘗てのような素焼きの釜ではなくプラスチック製の釜で味ももう一つだった。

その帰途も偶々時間的にみて車内で食事する事になって、出発前に長野駅のホームで駅弁を買った。色々あったがその中に「栗おこわ」と言うのがあったのでそれを選んだ。
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ところがこれが旨かった。それに入れ物が気に入ったし値段も手ごろだ。包み紙には、
「特撰餅米に信州小布施栗、奥信濃の山菜を入れて炊き上げた五目味付けの栗おこわです。旅路と共に信州の素朴さ、おふくろの味をごゆっくりとご賞味ください。また、この手編みのかごはおにぎり入れなどいろいろにご利用いただけます。」と、あった。

昔、横川の釜飯の旨かった事を覚えているが、今度の栗おこわも旨かった。
矢張り食べ物は味が勝負だが、こんな入れ物に入っていると尚嬉しい。今度また出かける機会があったらこの駅弁にしたいと思った。

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2006年10月12日 (木)

大平宿

歴史的建造物や家並み等を保存する努力や考え方には、日本と欧米諸国との間にはかなりの隔たりがある。勿論使用している素材や自然環境等もあるだろうが、その保存に対する熱意と努力も違う。

そんな中で、飯田市に「大平宿(おおだいらしゅく)」が今も残されている。江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気を感じる。山中の旅篭町として栄えた家並みが飯田市の維持管理の下に保たれている。しかしその過程には色々の困難があったが今は、往時の旅籠や民家に泊る事も出来る事でも有名な廃村の跡である。
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標高1150mのこの宿場町は、江戸時代中期宝暦4年(1754)飯田藩と地元商人山田新七等の手によって拓かれた。中山道の脇街道である大平街道に面し、当初入植したのは木地師の一統で杣・木挽・旅籠等の併業であった。木曾谷に鉄道が通じ、伊那谷には通じていなかった頃迄は栄えたが、大正中期、伊那谷にも鉄道が通じてからは急速に寂れてしまった。それでも杣・炭焼・畑仕事・旅籠等を生業として経済的には恵まれた村であった。
しかし1960年代の高度成長の余波をまともに受けて、人口の都市集中で村は急速に過疎化し始めた。そして遂に昭和45年11月、村民の総意として集団移住が決定され、一夜にして無住の廃村となった。

これに目をつけた開発業者が入り込み始めた。
しかし、歴史的宿場の跡を守れと言う行動が澎湃として起こり、自然保護などを目的とした市民団体が立ち上がった。「大平宿をのこす会」として積極的に行政へも働きかけて、遂に飯田市もその保存運動に乗り出し、今は飯田市の所管として維持管理されている。

宿場を見学するのは随意だが、宿場に今も残る旅籠や民家を利用するには、飯田市の担当者から、利用する家の鍵を借りる事になっている。
いろりの里 大平宿」として、江戸時代の宿場の遺稿を今に伝え囲炉裏のある広間間口の広い土間せがい造りの軒等往時の家並みがそのまま残され、今は家族旅行、職場の研修会、歩け歩けの宿、クラブ合宿、修学旅行等々に此の旅籠や民家が活用され泊る事が出来ると言う現況は、廃村の活用例として成功した一例と言えよう。
現地研修の小学生の見学風景が毎度見られるのも素晴らしい教材としての機能を果たしている例と言える。

宿場の家々の入口には昔のままに下紙屋・満寿屋・大蔵屋等々の屋号が昔のままに掛けられている。街道面に向かって軒の張り出したせがい造り(出桁造り)は、旅人が休息したり、雨宿りをしたりする為の配慮で、宿場町の特徴の一つである。Ohdaira_4_1
街道の端には小流れがあり、今も清冽な水が流れている。
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各家には囲炉裏が切られており、鍵を借りた人は此処で休息したり宿泊して昔の雰囲気を満喫出来る。

此処で泊れるようになった当初、郷土史研究家で私の友人M氏がその当時泊った時の話は面白い。当時はまだ此処を知る人も少なく勿論泊る人も居ない時で、M氏は一人でこの宿に泊った夜、ふと外に出て闇の中に幾つかの目が光っているのを見た。後ろを見たら矢張り幾つかの目が光っていた。狼だと思った彼は夜中に襲われたら簡単に戸等破られてしまうかも知れないと思い、家の前に停めておいた自分の車に戻りまんじりともせずに一夜を明かしたと言う。翌日、市の担当者に話したら、目の主はハクビシンだったそうである。
今は随時、何人かの団体客が来ては泊るそうであるが、矢張り一人で泊るのには少し勇気が必要だ。

いずれにしても、このような旧宿場が昔のままに保存され、見学出来るのも、保存の為に努力した実践活動家と、行政がその意を汲み取って市の管理下に於いて活用に動いた結果であって、素晴らしい事だと思った。
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写真は過日、同好の士と共に宿場の旧旅籠屋「大蔵屋」を借りて囲炉裏を囲み、燻る煙の中で飯田市内で調達した弁当を食べている所。帰りには火を完全に消し、ごみ一つ残さず持ち帰ったのは当然の事である。市の管理者(土地の出身者で杣の格好をしているので目立たない)が日中は常駐していて、現地をさりげなく管理している。

此処へ行く路は、東からは飯田市から飯田峠(1235m)を越して行く路と、西からは妻籠から蘭(あららぎ)を通って大平峠(1358m)を越して行く路のどちらかで、中型のマイクロバスがせいぜいでそれ以上の車は通れない。現地には野原のままの駐車場がある。

こんな心に残る宿場跡を残してくれた人達の努力を思い、市の取り組み姿勢にも共感する。冬の大平宿は知らないが全く別の厳しい景色を見せてくれると思う。

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2006年10月 9日 (月)

花沢の里

過日、友人ご夫妻と、或るご縁で焼津(やいづ)の知人を訪ねた。

焼津と聞いて先ず思い浮かべるのは遠洋漁業の基地としての焼津であるが、多少歴史に興味のある人は、日本武尊(やまとたけるのみこと)や天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)に思い到る人もいる筈である。

その焼津の北部に万葉集にも詠まれ、東海道最古の「やきつべの小径」がある。奈良・平安時代に栄えたこの街道筋には、長屋門造りの美しい家並みを今に残している「花沢の里」集落がある。
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傍には小流れがあり、嘗ての水車小屋は今は動いていないが、ぼっとりはそのままの姿で残されている。
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長屋門は美しい均整のとれた風情を醸し出している。燕の去った門の天井には幾つもの巣がそのままの姿で残されている。来年は又今年巣作りをした燕が戻ってくるのであろう。
Yaidu_9家人も来年を楽しみにしているYaidu_8 感がある。
家の入口には魔よけの護符を貼っている家が多い。この風習もこの集落独特のものであろう。
長屋門の脇には、この土地で採れた農産物を無人で売っている。買いたい人は勝手にそこにおいてある箱の中へ決められたお金を放り込んで品物を持っていくという仕組みである。
小径に沿って、一部に建仁寺垣が美しい調和を見せている。
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この小径を上ってゆくと、高草山法華寺がある。その周囲を含めて彼岸花が咲き乱れている。丁度日本武尊が敵の火攻めから草を薙ぎ倒して難を逃れた故事を連想させる。
    やきつべの戎の火とも曼珠沙華  堀井瓜紅
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焼津港では丁度、港祭りで賑わっていた。
Yaidu12
このような農耕作業用道具が無造作に置かれているのもこの地の風物詩だ。
    里人の言葉飾らずこぼれ萩
         花沢の里いづ方も秋のこゑ  

焼津市の一角に、このような美しい家並みが残っている事を俳人たちはよく知っていて、吟行に訪れる人が多いと聞く。
10人来れば10人、100人来れば100人夫々に切り取る景も違うし、同じ景を切り取っても表現や深味も違うし、吟行後の句会は又一つの楽しみでもある。
彼らもまた土地の雰囲気を壊さないように気を使っているのがよく判る。

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2006年10月 3日 (火)

戸隠

毎年、盆月(8月)には墓参に信州へ行く。

今年は、都合で7月から外泊の旅が出来なかったので、彼岸月(9月)の内にはどうしても行きたいと思っていた。丁度9月30日の午後、長野市で会合があり、その前に墓参を済ます事が出来た。翌1日は早めに帰る予定だったが旧友H君からの薦めもあり、久しぶりに戸隠へ行ってきた。戸隠と言っても今は長野駅から車で30分あれば行ける。H君が自分の車で案内してくれた。

H君の奥さんとは6年近く会っていないので、非常に懐かしく嬉しい再会だった。

戸隠の入口に「だいざほうす池」がある。そこは「浮島」が点々としていて日々様相を異にする。
今は車やバスで一気に行ける距離にある池だが、私たちの学生時代は、通称七曲りという坂道をテクテク上り、やっとその池にたどり着き、更にその池から飯綱山の山麓へと狭い道を上り校有林へ辿りつく。終日そこで作業をした後、重い槇を背負子で背負って学校まで帰ってきた。そんな記憶が彷彿として浮かびあがる。
Ukisima
その池を通り過ぎると大久保の茶屋がある。茶屋へは元気だった頃の母を連れて何度か行った事がある。其処を過ぎてから間もなく道の僅か左に入ったところにH君の山荘がある。
山荘を左手に見ながら進むと、戸隠の三社である宝光社、中社、奥社がある。中社と奥社の間で道の左手へ入ったところに「鏡池」がある。
Kagamiike
文字通り湖面は鏡のように周囲の景を映している。実はH君も今度始めて来たと言う。勿論私も始めて。天候は曇りがちで流石に此処へ来るとひんやりとする。もう秋の声が充満している。木々は色づきはじめている。本格的な紅葉は中旬以降だろう。
          戸隠に雲わきつげり蕎麦の花
奥社の入口には、白膠木(ぬるで)が早くも真っ赤に紅葉していた。
Momiji
戻ってH君の山荘で、奥様ご自慢の稲荷鮨を始め手作りの心の籠もったお料理を頂く。山荘の入口には栗も落ちていて帰宅したら栗ご飯にしようとポケットを膨らませた。

30分あればと言うが中々こんな機会がなければ行かれない。1960年代に出張で訪欧した時、山の中まで舗装されているのに一驚したものだが、今では日本も山の中まで舗装され今昔の感がある。
仲秋の戸隠には信州の空気が充満している。曇天とは言いながら爽やかで下界とは全く違う世界がある。戸隠は神話の世界でもあり、伝説も多い。浜松へ帰る時間を数時間遅らせたが、思い出の多い戸隠に懐かしい記憶を蘇らせた。

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